武田信玄
~死を三年秘せよ遺骸塩漬け隠匿譚~
武田信玄の「死を三年秘せよ」という遺言は、戦略的判断、理想化された君主像、そして後世の想像力が生んだ伝説が複合した物語。彼のカリスマ性を伝える。
武田信玄、死の隠匿譚 ― その真実と伝説の深層
序章:伝説の源泉 ― 『甲陽軍鑑』という鏡
戦国最強と謳われた武将、武田信玄。その最期は、彼の生前の武威にも劣らぬ、深謀遠慮に満ちた一つの壮大な物語として語り継がれている。「わが死を三年、秘せよ」。天下統一を目前に病に倒れた巨星が、後継者と重臣たちに託したとされるこの遺言は、彼の死そのものを国家鎮護の一大戦略へと昇華させた 1 。そして、この隠匿譚には、「遺骸を塩漬けにし、三年後に甲冑を着せて諏訪湖に沈めよ」という、常人の理解を超えた奇怪な指示が伴っていたとされる。この逸話こそ、武田信玄という人物の神格化されたイメージを決定づけた核心部と言えよう。
この劇的な逸話のほぼ唯一の典拠となっているのが、江戸時代初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』である 3 。甲州流軍学の聖典として武士階級に広く読まれた本書は、信玄の言行や戦術、そして武士としての心得を詳細に記しており、後世の信玄像に絶大な影響を与えた 4 。しかし、その史料的価値については、長きにわたり厳しい評価に晒されてきた。
明治時代、西洋から実証主義的な近代歴史学が導入されると、『甲陽軍鑑』は歴史学者・田中義成らによって年紀や合戦の記述に誤りが極めて多いことが指摘され、「史書にあらず」として史料的価値をほぼ完全に否定された 4 。その影響は甚大で、本書にしか登場しない軍師・山本勘助は長らく架空の人物と見なされるほどであった 6 。
だが、この評価は20世紀後半から大きく転換する。国語学者の酒井憲二による厳密なテキストクリティーク(本文批判)や、歴史学者の黒田日出男らによる再検討の結果、『甲陽軍鑑』は単なる創作物や偽書ではなく、武田家臣団の視点から信玄・勝頼の時代を記録し、その栄光と滅亡の教訓を後世に伝えようとした意図を持つ、価値ある史料として再評価されるに至ったのである 4 。
したがって、この逸話の真実に迫るには、二元論的な思考を避けねばならない。『甲陽軍鑑』は、実際に何が起きたかを正確に写す「記録」の装置というよりは、武田家が信玄をどう記憶し、後世にどう伝えようとしたかという「記憶」の装置と捉えるべきである。信玄の死の隠匿譚は、史実という核の周りに、戦略的意図、理想化、そして後世の脚色が幾重にも重なった「歴史的積層体」なのだ。本報告書では、この視点に立ち、『甲陽軍鑑』を批判的に検証しつつも、そこに込められた意図を読み解くことで、この壮大な隠匿譚の深層に迫るものである。
第一章:終焉への序曲 ― 西上作戦と病の影
元亀3年(1572年)10月、武田信玄は生涯最後にして最大の大規模軍事行動、世に言う「西上作戦」を開始した。甲府を発った3万の軍勢は、同年12月22日、遠江国三方ヶ原において徳川家康の軍を完膚なきまでに撃破。戦国最強の名を天下に轟かせた 10 。しかし、この輝かしい勝利が、信玄の武運の頂点であり、同時に終焉への序曲となった。
三方ヶ原の勝利の後、信玄は三河国へ進軍し、野田城を包囲する。だが、この陣中において信玄の持病が急激に悪化し、武田軍の進撃は突如として停滞する 11 。信玄の病については、古くからの労咳(肺結核)、胃癌、あるいは風土病である日本住血吸虫症による肝硬変など、諸説が入り乱れているが 13 、いずれにせよ回復は絶望的な状況であった。侍医が触診した際に信玄の腹が異常に膨れていたとの記録もあり、心身ともに限界に達していたことが窺える 13 。
天正元年(1573年)2月、野田城は陥落したものの、総大将の病状は回復の兆しを見せず、むしろ悪化の一途を辿った 12 。重臣たちの合議の末、同年4月、ついに甲斐への全軍撤退という苦渋の決断が下される。しかし、信玄の命運は尽きようとしていた。甲斐への道半ば、信濃国伊那郡の山中にて、彼はついに帰らぬ人となるのである 13 。
信玄が息を引き取った正確な場所については、史料によって記述が異なり、今なお論争の的となっている。
- 駒場説: 『御宿監物書状』などに記され、現在の長野県阿智村駒場にあたる。この地には信玄を火葬したと伝わる長岳寺が存在する 15 。
- 根羽村説: 『甲陽軍鑑』が記す説で、現在の長野県根羽村。信玄塚が残り、「風林火山」の旗を横に倒したことから「横旗」という地名が生まれたという伝承も色濃い 18 。
- 浪合・平谷説: 『三河物語』や『徳川実紀』が伝える説で、現在の長野県浪合村・平谷村付近 13 。
これらの候補地は、いずれも三河から甲斐へ抜ける三州街道沿いの近接した地域に点在しており、特定を困難にしている 20 。しかし、この歴史的な謎、すなわち終焉の地の曖昧さこそ、実は信玄の死の隠匿計画がその直後から始動していたことの何よりの証左と見ることもできる。通常、大名の死没地は明確に記録される。この情報錯綜は、家臣団が意図的に外部へ正確な情報を与えず、主君の死という国家機密を漏洩させまいとした、統制された情報操作の成果であった可能性が極めて高いのである。
第二章:枕頭の遺命 ― 時系列で再構築する「最後の刻」
天正元年(1573年)4月12日、信濃国伊那郡の陣中。もはや回復の望みが絶たれたことを悟った武田信玄は、枕頭に一族と譜代の重臣たちを呼び寄せた。その場には、武田四天王と謳われた山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、そして信玄が最も信頼した重臣の一人である高坂昌信らが侍していたと伝えられる 21 。天下人の最期を見守る陣営は、厳粛にして張り詰めた空気に包まれていた。
『甲陽軍鑑』によれば、信玄はまず長櫃(ながびつ)を開けさせ、そこに納められていた800枚もの花押(サイン)入りの料紙を示したという 2 。そして、こう命じた。「もし自分が死んだのちに書状が届いたら、この紙を使って返信せよ。そうすれば諸国の者どもは、わしがまだ生きていると思うであろう」と 2 。死の寸前にして、すでに国家を挙げた情報戦の準備は整えられていた。そして、信玄は最後の力を振り絞り、武田家の未来を左右する遺言を口述し始める 3 。
「わが死を三年、秘せ」
遺言の第一は、あまりにも有名な死の隠匿命令であった。「わしが生きている限り、甲斐・信濃に手出しする者はあるまい。それゆえ、わが死を三年の間は固く秘し、決して喪を発してはならぬ。国の守りを固め、将兵を休ませよ」 1 。
なぜ「三年」だったのか。これは、後継者である武田勝頼が名実ともに家督を掌握し、内外の統治体制を盤石にするために最低限必要と信玄が判断した期間であったと考えられる。また、信玄は「織田信長も徳川家康も上杉謙信も北条氏政も、皆わしより年下だ。勝頼は彼らよりさらに若い。いずれ彼らの方が先に死ぬであろう。それまで国を持ちこたえさせよ」とも語ったとされ、ライバルたちの寿命が尽きるのを待つという、壮大な時間軸での戦略的意図も含まれていた 2 。
後継者・勝頼への訓戒
第二に、信玄は後継者である四男・勝頼の行く末を案じ、具体的な指針を与えた。特に強調されたのは、守勢に徹することであった。「三年の間は決して国外へ出兵してはならぬ。ひたすら内治に専念し、国力を蓄えよ」 18 。
さらに、外交については驚くべき指示が与えられた。生涯の宿敵であった越後の上杉謙信との和睦である。「謙信と和議を結び、頼りとせよ。彼は義を重んじる男の中の男だ。頼むと申せば、決して約束を違えることはあるまい」 2 。信玄は、自らの死後、武田家が謙信の武威に抗うことは困難と冷静に分析し、敵対ではなく協調の道を選んだ。これは、私情を超えて国家の安泰を最優先する、為政者としての非情なまでの現実主義の表れであった。
家督相続の形式 ― 勝頼「陣代」という名の軛
第三の遺言は、武田家の家督相続に関する、極めて異例かつ複雑な指示であった。『甲陽軍鑑』によれば、信玄は「家督は(勝頼の子である)孫の信勝に継がせる。勝頼は、信勝が16歳になるまで後見人たる『陣代(じんだい)』として家中を統率せよ」と命じた 24 。
これは、勝頼を正式な当主と認めないことを意味する。この不可解な相続形態の裏には、信玄の深い苦悩が隠されている。勝頼は勇猛果敢な武将であったが、その母は信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘であり、甲斐の譜代家臣団との間には常に微妙な距離があった。信玄は、勝頼の激情的な性格と、家臣団を完全に掌握しきれない可能性を危惧したのではないか。この「陣代」という形式は、勝頼の権威を最初から制限し、譜代重臣たちによる合議制で国家を運営させようという、信玄なりの安全保障策であった。
しかし、この配慮は裏目に出る。父から完全な信頼を得られなかったという事実は、勝頼の心に深い劣等感と、父を超えたいという焦燥感を植え付けた。この心理的な重圧こそが、後に彼が信玄の遺言を破り、長篠の戦いという破滅的な大博打に打って出る遠因となった可能性は否定できない 28 。武田家を守るための遺言が、皮肉にもその崩壊の種を蒔いてしまったのである。
遺骸の処置 ― 龍神への願い
最後の遺言は、最も奇怪で、信玄の精神世界を色濃く反映したものであった。「わが葬儀は無用である。三年後の命日に、遺骸に甲冑を着せ、諏訪湖の底に沈めよ」 2 。
これは単なる奇行ではない。信玄は生涯を通じて諏訪大社を篤く信仰しており、諏訪明神の化身である龍神の存在を信じていた。この遺言は、自らが死して後は諏訪の龍神となり、甲斐の国を永遠に守護し続けんとする、強い意志の表れであったと解釈できる。人間としての死を超え、神となって国を守る。これこそが、信玄が描いた究極の国家鎮護の姿だったのである。
そして、信玄は辞世の句として「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」(万事、天地自然の成り行きに任せるのが良い。飾り立てるのではなく、ありのままの姿こそが美しいのだ)と詠んだと伝えられる 30 。天下を夢見た男は、その最期に全てを自然の摂理に委ね、静かに53年の生涯を閉じた。
表1:武田信玄の終焉と遺言に関する主要史料の記述比較
|
史料名 |
成立年代 |
著者(伝) |
死没年月日 |
終焉の地 |
死因 |
遺言の有無と内容 |
|
『甲陽軍鑑』 |
江戸初期 |
高坂昌信 口述 |
天正元年4月12日 |
信濃国根羽村 |
労咳(肺病)、隔の病(胃癌など) |
有。詳細に記述。「三年秘匿」「勝頼は陣代」「諏訪湖に沈めよ」など [3, 13, 18] |
|
『御宿監物書状』 |
天正3年 |
御宿監物 |
(言及なし) |
信濃国駒場 |
病 |
(言及なし) [13, 17] |
|
『三河物語』 |
江戸初期 |
大久保彦左衛門 |
天正元年4月12日 |
信濃国平谷・浪合 |
病 |
(言及なし) [13, 17] |
|
『武家事紀』 |
江戸中期 |
山鹿素行 |
天正元年4月12日 |
(言及なし) |
労咳(結核) |
有。概要を記述。「三年秘匿」に言及 13 |
|
『信長公記』 |
江戸初期 |
太田牛一 |
(言及なし) |
(言及なし) |
(言及なし) |
(言及なし) [14, 31, 32] |
|
『天正玄公仏事法語』 |
(不明) |
(不明) |
天正元年4月12日 |
(言及なし) |
病 |
(言及なし) [14] |
この表が示すように、信玄の死没日については多くの史料で一致が見られるものの、終焉の地や死因、そして何より遺言の詳細については、ほぼ『甲陽軍鑑』の独壇場であることがわかる。これは、遺言の内容が武田家中枢の極秘事項であったことを物語っている。
第三章:偽りの生存工作 ― 国家を挙げた大芝居の顛末
信玄の死という未曾有の国難に際し、遺された家臣団は主君の遺命を忠実に実行すべく、国家の総力を挙げた一大偽装工作を開始した。その手口は、周到かつ大胆なものであった。
まず、信玄と容姿が酷似していた弟の武田信廉(逍遙軒)が影武者として立てられた 1 。信廉はもともと絵画に長けた文化人であったが、兄の死という非常事態に際し、その生涯で最も重要な役を演じることになった。特に、信玄の死を疑って探りを入れてきた小田原の北条氏政からの使者を、信廉が見事に欺き通した逸話は、隠匿工作の成功を象徴する出来事として語り継がれている 1 。
同時に、信玄が生前に用意していた花押済みの料紙を用い、信玄名義の書状が各地に送られ続けた 2 。これにより、外交的には信玄が依然として采配を振るっているかのように見せかけた。そして公式には、信玄は病のため隠居し、勝頼が家督を相続した、という形で発表された 28 。あくまで信玄の「生存」を前提とした、巧妙な情報操作であった。
しかし、この大芝居の幕は、武田家が思うよりも早く引き裂かれつつあった。戦国の世は、諜報と謀略が渦巻く情報戦の時代である。武田家が「三年は隠し通せる」と信じていた主君の死は、瞬く間に列強の知るところとなっていたのである 1 。
- 織田信長: 信玄を最大の障壁と見なしていた信長は、その死の情報をいち早く掴んでいた。天正元年9月7日付で毛利輝元に送った書状の中で、信玄の死を明確に記し、その喜びを隠そうともしていない 1 。信玄という重石が取れたことで、信長の天下統一事業は一気に加速していく。
- 上杉謙信: 宿敵の訃報は、謙信にも届いていた。食事の最中にその知らせを聞いた謙信は、持っていた箸を投げ捨て、「まことに惜しい男を亡くしたものだ」と呟き、人目もはばからず涙を流したと伝えられている 1 。敵でありながら互いを認め合ったライバルの死を悼む、謙信の義将としての一面を物語る逸話である。
- 徳川家康・北条氏政: 三方ヶ原で煮え湯を飲まされた家康や、同盟者であった氏政もまた、それぞれの情報網を駆使して信玄の死を察知していた 1 。彼らは武田側の動向を注意深く見守りながら、騙されたふりをしつつ、対武田戦略の再構築に即座に着手していた。
結局のところ、騙せていると思い込んでいたのは武田側だけであり、周囲の列強は全てを知った上で、武田の次の一手を見極めていたのである 1 。この状況は、信玄の遺言がもたらした二つの側面を浮き彫りにする。
一つは、隠匿工作が「時間稼ぎ」としては成功したという点である。敵方が信玄の死を「噂」から「確信」へと変え、大規模な軍事侵攻に踏み切るまでには、一定の時間を要した。その間に勝頼は家中の引き締めを図り、当面の危機を回避することができた。
しかしもう一つは、「情報戦」としては完敗であったという点だ。敵方はすでに「信玄不在」を前提とした長期戦略を立てており、武田家は情報において完全に後手に回っていた。この「戦術レベルでの成功」と「戦略レベルでの敗北」という二面性が、この隠匿譚の評価を複雑なものにしている。武田家は一時の安寧を得たが、その代償として、周囲から包囲され、徐々に追い詰められていく運命を辿ることになる。
第四章:遺骸の行方 ― 「塩漬け」と「湖底葬」伝説の検証
武田信玄の死の隠匿譚において、最も人々の興味を掻き立て、かつ謎に満ちているのが、その遺骸の処置を巡る伝説である。「塩漬け」と「湖底葬」―この二つのキーワードは、信玄の死を常人のそれとは一線を画す、神秘的な出来事へと昇華させた。
「塩漬け」説の徹底検証
「信玄の遺骸は、三年後の埋葬に備えて塩漬けにされた」という説は、広く知られている。しかし、その根拠は極めて曖昧である。主要典拠である『甲陽軍鑑』をはじめ、同時代の信頼できる史料の中に、遺骸を「塩漬け」にしたという明確な記述は一切存在しない。
では、なぜこの生々しい伝説が生まれたのか。その成立過程は、以下の三つの要素が後世において結びついた結果と推論できる。
- 長期保存の必要性: 遺言にある「三年後の埋葬」という異常な指示が、必然的に「どうやって遺体を三年間も保存したのか?」という疑問を人々に抱かせた 2 。
- 塩という手段: 当時、遺体の腐敗を防ぐための現実的な手段として、塩や、塩化ナトリウムを含む天然鉱物ナトロンなどが用いられていたことは事実である 34 。
- 信玄と塩の逸話: 信玄には、宿敵・上杉謙信が塩不足に苦しむ甲斐に塩を送ったという「敵に塩を送る」の故事が存在する(これもまた、史実ではない可能性が高いとされるが、非常に有名な逸話である) 34 。
これら「長期保存の必要性」「塩という現実的手段」「信玄と塩を結びつける別の逸話」という要素が、人々の想像力の中で融合し、「信玄の遺骸は塩漬けにされた」という、具体的で記憶に残りやすい物語が創作された可能性が極めて高い。
「湖底葬」伝説の追跡
一方、「諏訪湖への湖底葬」は、『甲陽軍鑑』に明確に記された遺言である 2 。この伝説は、昭和の時代に思わぬ形で再び脚光を浴びることとなった。1987年(昭和62年)、国土地理院が依頼した湖底の地形調査の際、水中ソナーが諏訪湖の湖底から、武田家の家紋である武田菱に酷似した、東西約17m、南北約25mの巨大な菱形の構造物を発見したのである 39 。
「信玄の水中墓発見か」というニュースは世間を大いに賑わせ、大規模な調査が行われた。しかし、残念ながら墓そのものは確認されず、菱形の構造物が人工物か自然物かの結論も出ていない 39 。ただ、この調査では供物として湖に沈められたとみられる木製の椀などが発見されており、諏訪湖が古くから信仰の対象であったことを裏付けている 39 。菱形の謎は未解明のままだが、この出来事は、信玄の伝説が400年の時を超えて現代にまで影響を及ぼしていることを示す象徴的な事例となった。
史実としての処置
では、実際には信玄の遺骸はどうなったのか。『甲陽軍鑑』にも、家臣たちは「さすがに主君の遺体を湖に沈めることはしなかった」と記されている 2 。最も可能性が高いのは、終焉の地とされる駒場の長岳寺などで密かに火葬され 16 、遺骨のみが甲斐に持ち帰られたという説である。
そして、遺言通り死から三年が経過した天正4年(1576年)4月12日、武田家の菩提寺である恵林寺(現在の山梨県甲州市)において、信玄の公式な葬儀が盛大に執り行われた 2 。この日をもって、武田信玄の死は天下に公表され、三年にわたる壮大な隠匿工作は、ついにその幕を下ろしたのである。
「塩漬け」や「湖底葬」といった伝説は、史実とは異なるかもしれない。しかし、これらの伝説がなぜ生まれ、語り継がれてきたのかを考えること自体が重要である。常人とは異なる、超人的な存在であった信玄には、常人と同じ死に方はふさわしくない、という後世の人々の集合的無意識が働いているのだ。「塩漬け」は、死してなおその肉体を現世に留めようとする、信玄の国家への異常なまでの執着を象徴する。そして「湖底葬」は、人間としての死を超越し、諏訪の龍神となって国を守護する存在へと昇華する「神格化」のプロセスを物語っている。これら二つの伝説は、史実を超えて信玄のカリスマ性を後世に伝えるための、強力な神話装置として機能しているのである。
結論:なぜこの逸話は語り継がれるのか
武田信玄の「死を三年秘せよ」という遺言に端を発する一連の隠匿譚は、単一の歴史的事実として語ることはできない。それは、複数の層が織りなす複合的な物語である。
第一の層は、国家存亡の危機に瀕した武田家が下した、冷徹な「戦略的判断」としての史実である。病に倒れた絶対的指導者の死を隠し、後継者体制が固まるまでの時間的猶予を確保しようとしたのは、戦国の世において極めて合理的な選択であった。
第二の層は、『甲陽軍鑑』が描く、理想の君主としての信玄像である。そこでは、信玄の死は単なる病死ではなく、死の寸前に至るまで国家の未来を案じ、神算鬼謀ともいえる遺策を授ける、深謀遠慮の将としての「理想の死」として描かれている。これは、信玄を英雄として記憶し、その教訓を後世に伝えようとした家臣団の思惑が色濃く反映された「記憶」の層と言える。
そして第三の層が、「塩漬け」や「湖底の水中墓」といった、後世の人々の想像力が加わった「伝説」である。これらの劇的な脚色は、信玄を単なる優れた武将から、人間を超えたカリスマ的存在、あるいは神格化された英雄へと昇華させる上で決定的な役割を果たした。
これら「史実」「家臣団の思惑」「後世の創作」という三つの層が複雑に絡み合うことで、信玄の死の隠匿譚は、他に類を見ない深みと魅力を持つ物語となったのである。
この逸話は、新田次郎の歴史小説『武田信玄』や、それを原作としたNHK大河ドラマをはじめ、数多くの創作物の中でクライマックスとして繰り返し描かれてきた 41 。それらの作品を通じて、神算鬼謀の将・武田信玄のイメージは我々の心に深く刻み込まれ、現代に至るまでその影響力は衰えることを知らない。武田信玄の死の隠匿譚は、歴史的事実の探求に留まらず、一人の人間がいかにして伝説となり、時代を超えて人々の心を捉え続けるのかを我々に教えてくれる、稀有な事例なのである。
引用文献
- 自らの死を三年間秘密にした武田信玄。実は三年とかからず大名たちに知れ渡っていた - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/106145
- 「後継選びは難しい」武田信玄の唯一の過ち | PRESIDENT Online ... https://president.jp/articles/-/1730?page=1
- 武田信玄が臨終の時に自分の死を3年間伏せるように言ったという逸話の出典を知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000073055
- 武田信玄と『甲陽軍鑑』 - 印刷博物館 https://www.printing-museum.org/etc/pnews/083_1.php
- 武田信玄と『甲陽軍鑑』 - 印刷博物館 https://www.printing-museum.org/etc/pnews/08301.php
- バカの言語学:「バカ」の語誌(7) 『甲陽軍鑑』| - note https://note.com/foology/n/n25b60e3c0026
- 成立経緯と史料的評価とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%88%90%E7%AB%8B%E7%B5%8C%E7%B7%AF%E3%81%A8%E5%8F%B2%E6%96%99%E7%9A%84%E8%A9%95%E4%BE%A1
- 真偽は?揺れる評価 山本勘助を記録した『甲陽軍鑑』(朝日新聞2007-04-04) http://saint-just.seesaa.net/article/118769428.html
- 甲陽軍鑑 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E9%91%91
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- 武田信玄の西上作戦、目的は信長討伐ではなかった? - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63489
- 武田信玄の本当の終焉地はどこか? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4942
- 名将・武田信玄の最期とは?死因とされる諸説をご紹介 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/782
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