毛利元就
~矢文で敵将の心は風の如し心理戦~
毛利元就の「矢文」伝説の真相を白鹿城の戦いにおける和歌の応酬から解明。史実と創作の狭間で、知略と感情が交錯する心理戦のリアルを描く。
毛利元就、矢文による心理戦の真相 ―「白鹿城の戦い」における和歌の応酬、その全貌―
序章:語り継がれる元就の知略と「矢文伝説」の謎
導入:逸話への言及と問題提起
毛利元就。「謀神」とも称される戦国時代の稀代の智将である。彼の名は数多の逸話と共に語り継がれるが、中でもその卓越した心理操作能力を象徴するのが、「矢文で敵将の心は風の如し」と喝破したとされる心理戦の物語である。この逸話は、人の心の移ろいやすさ、その脆さを見抜き、戦わずして敵を屈服させる元就の戦略思想を、簡潔かつ鮮烈に描き出している 1 。
しかし、この印象的な言葉が記された矢文は、果たして本当に存在したのだろうか。結論から言えば、一次史料はもとより、『陰徳太平記』や『雲陽軍実記』といった信頼性の高い軍記物語を精査しても、「敵将の心は風の如し」という具体的な文言を記した矢文の存在は確認できない。この事実は、我々が知る逸話が、後世の創作であるか、あるいは別の歴史的事実が時を経て変容し、より象徴的な言葉として凝縮されたものである可能性を強く示唆している。
本報告書は、この「伝説」の謎を解き明かすことを目的とする。そして、その探求の過程で、伝説の核となったであろう、史実に記録された壮絶な矢文による心理戦、すなわち永禄6年(1563年)の「白鹿城の戦い」で繰り広げられた、血の通った言葉の応酬を徹底的に解明する。伝説の奥に秘められた、より生々しく、そして残酷ですらある歴史の真実に迫ることこそが、本報告書の使命である。
第二・第三の矢:混同されがちな逸話の整理
毛利元就の逸話を語る上で、避けて通れないのが「三本の矢の教え」である 2 。一本では容易に折れる矢も、三本束ねれば折れぬという教えをもって、息子たちに一族の団結を説いたこの物語は、元就の人物像を形成する上で絶大な影響力を持ってきた 4 。しかし、この教えの原型とされる『三子教訓状』には、実際に矢を折る場面は登場しない 6 。これは、教訓状に記された「三人心を合わせ、毛利の家名を永続させよ」という精神が、後世、より視覚的で分かりやすい説話として昇華されたものであることを示している 8 。
重要なのは、この「三本の矢」が息子たちに向けられた「内向き」の教訓であるのに対し、本稿で扱う矢文の逸話は、敵将に向けられた「外向き」の心理戦術であるという点だ。目的も状況も全く異なる。しかし、「三本の矢」というあまりにも有名な逸話の存在が、元就に関する他の物語、特に「矢」が関わるエピソードの解釈に影響を与え、混同や融合を生む一因となった可能性は否定できない。本報告では、この有名な教訓とは明確に一線を画し、純粋な軍事行動としての心理戦に焦点を絞って論を進める。
本報告書の目的
本報告書は、ユーザーが提示した「敵将の心は風の如し」という伝説の起源を探るべく、その原型となったであろう「白鹿城の戦い」における矢文合戦に全ての光を当てる。戦いがなぜ膠着したのかという戦略的背景、両軍がどのような状況と意図をもって言葉の刃を交わしたのか、そして一首一首の和歌に込められた高度な戦略性と、時に非情なまでの心理的打撃を、時系列に沿って臨場感をもって再現・分析する。伝説が語る以上の、知略と感情が激しく交錯する戦場のリアルをここに描き出す。
第一章:戦場の舞台 ― 尼子氏の喉元、白鹿城
背景:中国地方の覇権を巡る最終決戦
永禄5年(1562年)、安芸の小領主から身を起こし、一代で中国地方の覇者へと駆け上がった毛利元就は、その生涯を懸けた最後の戦いに臨んでいた。宿敵、出雲の尼子氏を完全に滅ぼし、中国地方を統一するための最終決戦、すなわち第二次月山富田城の戦いである 10 。
元就の戦略は、若い頃のような奇襲や力攻めを主体とはしなかった。老練な戦略家である彼は、敵の拠点である月山富田城を直接攻撃するのではなく、その周囲に点在する支城群、通称「尼子十旗(あまごじっき)」を一つずつ、確実に削り落としていく作戦を選択した 11 。これは、敵の兵站線と連携を断ち切り、主城を完全に孤立させた上で、兵糧攻めによって枯渇させるという、極めて合理的かつ冷徹な消耗戦であった 3 。毛利軍は圧倒的な兵力をもって出雲に侵攻し、尼子方の城を次々と降伏させていった。
白鹿城の戦略的重要性
尼子十旗の中でも、白鹿城(はくしかじょう)は、月山富田城にとってまさに喉元に突き付けられた刃のような存在であった。この城は、月山富田城の北西、中海と日本海を結ぶ要衝に位置し、海上からの兵糧や物資を搬入するための最後の、そして最大の生命線だったのである 10 。逆に言えば、毛利方にとって白鹿城を攻略することは、月山富田城の補給路を完全に遮断し、兵糧攻めを完成させるための決定的な一歩を意味した。この城の帰趨が、尼子氏の運命を左右するといっても過言ではなかった。
城主は尼子氏の重臣・松田誠保。尼子本家からも牛尾久清らの援軍が送り込まれ、約2,500の兵が籠城していた 10 。彼らは、ここが最後の砦であると覚悟し、士気は極めて高く、徹底抗戦の構えを見せていた。
戦況の膠着:心理戦が生まれる土壌
永禄6年(1563年)8月13日、元就は満を持して約15,000の大軍に白鹿城への総攻撃を命じた。しかし、尼子方の城兵は地の利を活かし、決死の覚悟でこれを迎え撃つ。毛利軍は多大な損害を出し、この日の攻撃は失敗に終わった 10 。
力攻めが難しいと判断した元就は、次に奇策に打って出る。彼は、自らが支配する石見銀山から数百人の鉱夫を呼び寄せ、城の水源(水の手)を断つために、城内へと続く坑道を掘らせる作戦を開始した。しかし、この動きも尼子方に察知され、城内からも対抗する坑道が掘られるなどして妨害され、成功には至らなかった 10 。
正面からの攻撃も、裏からの奇策も通じない。戦いは、城を包囲する毛利軍と、城に籠もる尼子軍が互いに睨み合う、長期の膠着状態へと移行した。このような状況は、攻撃側の毛利軍にとっては兵糧と時間の浪費であり、焦りを生む。一方、籠城側の尼子軍にとっては、援軍を待つ希望と、日に日に減っていく兵糧への絶望が交錯する、精神的な消耗戦であった。
物理的な力が均衡し、戦況が動かなくなった時、戦いの主戦場は兵士たちの精神へと移る。敵の心を折り、味方の士気を維持することが、勝利への唯一の道となる。この長く息の詰まるような対峙こそが、言葉を武器とする「矢文合戦」という、もう一つの戦いが生まれるための完璧な土壌だったのである。軍事的な手詰まりが、文化的な教養を最も残忍な兵器へと変貌させる引き金となったのだ。
第二章:火蓋を切る矢 ― 緊迫の矢文合戦、その一部始終
プロローグ:静寂を破る一矢
幾日も続いたであろう、白鹿城を巡る静かな、しかし殺意に満ちた対峙。その均衡を破ったのは、一筋の矢であった。永禄6年(1563年)秋、尼子方が守る城内から、包囲する毛利軍の陣、特に勇猛で知られる元就の次男・吉川元春の陣めがけて、一本の矢文が音もなく放たれた。これが、後に軍記物語『雲陽軍実記』にその詳細が記録されることになる、壮絶な心理戦の火蓋であった 10 。
第一局:尼子方からの先制攻撃
元春の家臣が矢に結び付けられた文を解くと、そこには流麗な筆致で一首の和歌がしたためられていた。
尼子方の矢文(一首目):
「元就が 白髪(白鹿)の糸に 繋がれて 引くに引かれず 射るに射られず」
これは、単なる時候の挨拶などではなかった。城の名前である「白鹿(しらが)」と、老将・元就を象徴する「白髪(しらが)」を掛けた、極めて巧妙な言葉遊びである。その意味するところは、「お前たち毛利の大軍は、この白鹿城という蜘蛛の糸に絡めとられ、老いぼれの元就に率いられて、進むことも退くこともできずにいるではないか」という、痛烈な揶揄と挑発であった。攻めあぐねている毛利軍の現状を的確に突き、籠城している自分たちの余裕と士気の高さを見せつける、見事な先制攻撃であった 10 。
第二局:毛利方の冷静な応酬
この挑発に対し、吉川元春の陣、ひいては毛利軍本陣は冷静に対応した。しばらくの後、返歌を記した矢文が、寸分違わず城内へと射返された。
毛利方の返矢(二首目):
「年経れば 白鹿の糸も 破れ果て 毛利(もり)の木陰の 露と朽ちなん」
この歌は、尼子方の挑発を正面から受け止め、さらに大きな視点で切り返している。「なるほど、今は白鹿城という糸に繋がれているように見えるかもしれぬ。だが、時が経てばその細い糸などいずれは破れ果てる。その時、お前たち尼子一族は、我ら毛利という鬱蒼と茂る大樹(森)の木陰で、儚い朝露のように消え去る運命なのだ」と。焦ることなく、時間の経過が自分たちに絶対的に有利に働くことを示唆し、尼子方の滅亡を静かに、しかし確実に予言する。相手の土俵に乗りながらも、その矮小さを笑い飛ばし、逆に精神的優位を確立しようとする、王者の風格すら感じさせる応酬であった 10 。
第三局:尼子方の非情なる一撃
文学的な応酬は、ここで終わらなかった。尼子方は、毛利方の冷静な返歌に対し、さらに追撃の矢を放つ。しかし、その矢に込められていたのは、もはや単なる揶揄や挑発ではなかった。それは、敵将の心臓を直接抉り出す、非情かつ残忍な一撃であった。
尼子方の矢文(三首目):
「安芸の毛利 枝葉も落ちて 木枯らしの 中に松田ぞ 色を増しける」
この一首で、戦場の空気は凍り付いたに違いない。この矢文が放たれるわずか前の永禄6年8月、毛利元就の嫡男であり、家督を継ぐはずであった毛利隆元が、出雲へ向かう陣中で急死するという、毛利家を揺るがす大事件が起きていた。歌の中の「枝葉も落ちて」とは、この隆元の死を直接的に、そして無慈悲に指しているのである 14 。
その意味は、「おたくの毛利家は、跡継ぎという最も重要な枝葉が落ちて、今や冬枯れの木同然ではないか。それに引き換え、こちらの城主である松田氏は、木枯らしの中でも決して色褪せることのない松のように、ますます勢いを増しているぞ」というものであった。これは、敵将の個人的な、そして最大の悲劇を武器として利用し、その心の傷口に塩を塗り込むような、極めて残忍な心理攻撃であった。一人の人間の死を嘲笑し、毛利家の未来そのものを呪うこの歌は、文化的な遊戯の仮面を剥ぎ取り、言葉が持つ最も brutal な側面を露わにした 10 。
第四局:元就の鉄の意志
最愛の息子の死を、そして一族の未来を担うべき者の死を嘲笑された元就、あるいはその意を受けた毛利軍の怒りと覚悟は、この一首で頂点に達した。毛利方から最後に放たれた返矢は、もはや文学的な体裁を取り繕うことすらない、剥き出しの敵意と決意表明であった。
毛利方の返矢(四首目):
「尼の子の 命と頼む 白髪糸 いまぞ引き切る 安芸の元就」
掛詞や比喩は、もはやここにはない。「尼の子(尼子)どもが、命綱だと頼りにしているその白鹿(白髪)の糸など、このわし、安芸の元就が、今この手で引き切ってくれるわ」という、凄まじいまでの怒気と、尼子氏殲滅への断固たる決意が込められている。個人的な悲しみを乗り越え、それを尼子一族への憎悪と、必ず滅ぼすという強烈なエネルギーに転換する。この返歌は、老将・元就の鉄の意志を戦場に轟かせ、尼子方の非情な心理攻撃を完全に粉砕し、自軍の士気を極限まで高める最後の一撃となったのである 10 。
この四首の応酬を最後に、言葉による戦いは終わりを告げた。残されたのは、もはや武力による決着のみであった。
表1:白鹿城の戦いにおける矢文の応酬
|
応酬 |
原文(『雲陽軍実記』より) |
現代語訳と意味 |
心理的意図と背景 |
|
第一局(尼子方) |
元就が 白髪の糸に 繋がれて 引くに引かれず 射るに射られず |
(毛利軍は)老将元就に率いられ、白鹿(白髪)城という糸に絡めとられて、進むことも退くこともできずにいるではないか。 |
城名「白鹿」と元就の老齢を示す「白髪」を掛け、毛利軍の膠着状態を揶揄し挑発。籠城側の余裕と士気の高さを見せつける先制攻撃。 |
|
第二局(毛利方) |
年経れば 白鹿の糸も 破れ果て 毛利の木陰の 露と朽ちなん |
時が経てば、その白鹿城という糸も破れ果てる。そうなればお前たちは、我ら毛利という大樹の木陰で、儚い露のように消え去る運命だ。 |
相手の挑発を受け流し、時間はこちらの味方であると宣言。毛利(森)という言葉を使い、自軍の盤石さと尼子方の滅亡を予言することで、精神的優位に立つ。 |
|
第三局(尼子方) |
安芸の毛利 枝葉も落ちて 木枯らしの 中に松田ぞ 色を増しける |
安芸の毛利家は跡継ぎ(枝葉)が死んで冬枯れのようだ。それに比べ、こちらの城主・松田氏は、木枯らしの中の松のように勢いを増している。 |
直前に起きた毛利家嫡男・毛利隆元の急死を「枝葉も落ちて」と表現し、元就の個人的悲劇と毛利家の弱点を無慈悲に抉る。最も効果的で残忍な心理攻撃。 |
|
第四局(毛利方) |
尼の子の 命と頼む 白髪糸 いまぞ引き切る 安芸の元就 |
尼子どもが命綱と頼るその白鹿(白髪)の糸など、この安芸の元就が今すぐ断ち切ってくれるわ。 |
文学的な比喩を排し、剥き出しの敵意と尼子氏殲滅の決意を表明。悲劇を怒りのエネルギーに転化し、総大将の揺るぎない意志を示すことで、敵の心理攻撃を粉砕する。 |
第三章:言葉という刃 ― 和歌に込められた心理戦の応酬
士気という名の戦場
白鹿城で交わされた和歌の応酬は、単なる風流な遊戯ではない。それは、兵糧や兵力と同じくらい、あるいはそれ以上に重要な「士気」という名の戦場で行われた、極めて高度な戦闘行為であった。
長期にわたる包囲戦において、兵士たちの精神状態は勝敗に直結する。尼子方が最初に放った矢文は、毛利軍の兵士たちに「我々の大将は老いぼれ、この小さな城一つ落とせずにいる」という疑念と焦りを植え付けようとするものであった。それに対し、毛利方の返矢は「我々には時間という絶対的な味方がおり、勝利は確実だ」という自信と落ち着きを全軍に共有させるためのものであった。言葉は、前線で睨み合う兵士たちの心に直接届く、見えざる武器なのである。
特に、尼子方の三首目は、毛利軍全体を根底から揺るがしかねない、極めて危険な一手であった。総大将が後継者を失ったという事実は、兵士たちに「毛利家の未来は大丈夫なのか」「この戦の先に何があるのか」という深刻な不安を抱かせる。総大将の精神的安定は、全軍の統率力の源泉であり、そこを突くことは、軍の根幹を破壊しようとする試みに他ならなかった。
元就のリーダーシップ
この絶体絶命の心理的危機に対し、元就(あるいは毛利軍首脳部)が見せた対応は、彼の卓越したリーダーシップを物語っている。彼は、息子の死という個人的な悲劇を、敵に利用される弱みとして隠蔽したり、動揺を見せたりすることはなかった。むしろ、最後の返歌で「安芸の元就」と自ら名乗りを上げることで、その悲劇を尼子打倒の「大義」であり、個人的な「復讐」でもあると宣言し、全軍の憎悪と士気を一つの方向へと収斂させたのである 10 。
このやり取りは、敵である尼子方に対して「お前たちの卑劣な攻撃は、我が心を折るどころか、むしろ決意を固くさせただけだ」と宣告する効果があった。それと同時に、味方の諸将や兵士たちに対しては、「総大将・元就は、これほどの悲劇に見舞われても全く揺るがない。我々も迷うことなく、大将と共に戦うのだ」という、何よりも強力なメッセージを発信する効果があった 3 。悲しみを乗り越え、それを強さに変える姿を示すことこそ、戦国乱世における指導者の最も重要な資質の一つであった。
和歌というメディアの特性
では、なぜ彼らは直接的な罵詈雑言ではなく、「和歌」という形式を選んだのか。それは、当時の武士階級にとって、和歌が単なる趣味や教養ではなく、コミュニケーションと思想伝達のための洗練された「メディア」であったからに他ならない。
短い三十一文字の中には、掛詞、縁語、本歌取りといった多様な技法を駆使して、表層的な意味の裏に幾重もの含意を込めることができた。白鹿城の例で言えば、「白鹿」と「白髪」、「毛利」と「森」といった掛詞は、単なる言葉遊びではなく、相手への侮辱や自軍の正当性を、より効果的かつ知的に伝えるための高度な技術であった。
直接的な罵声は、相手を怒らせることはできても、精神的に屈服させることは難しい。しかし、洗練された和歌の形を取ることで、相手の武力だけでなく、知性や教養にも挑戦状を叩きつけることができる。そして、その挑戦に見事な歌で応酬し、論破することは、知力においても相手を凌駕したことを意味し、味方の兵士たちに「我らの大将は、武勇だけでなく知恵も敵に勝っている」という絶大な信頼感と誇りを与えたのである。言葉の戦いにおける勝利は、物理的な戦闘における勝利と同等、あるいはそれ以上の価値を持つことがあったのだ。
第四章:史実と創作の狭間 ― 軍記物語が描く毛利元就像
主要典拠『雲陽軍実記』の性格
この白鹿城における壮絶な矢文合戦の逸話を、今日我々が知ることができるのは、主として『雲陽軍実記』という一冊の軍記物語のおかげである 10 。この書物は、尼子氏の家臣であった河本隆政という人物が、主家が滅亡した後の天正8年(1580年)頃に、その約60年間にわたる興亡を記したものである 15 。
成立年代が戦国時代末期と比較的古く、著者が尼子氏の内部事情に詳しい元家臣であることから、山陰地方の戦国史を知る上で極めて貴重な史料とされている 17 。しかし、その記述を鵜呑みにすることはできない。なぜなら、『雲陽軍実記』は、滅び去った旧主・尼子氏への強い同情と共感を基調として書かれているからである 18 。尼子氏に最後まで忠節を尽くした武将は称賛され、逆に尼子氏を裏切った者や、敵である毛利氏に対しては、厳しい評価が下される傾向がある 17 。白鹿城の矢文合戦の記述も、絶望的な籠城戦の中で、最後まで気骨と教養を示した尼子方の武将たちの姿を後世に伝えたい、という著者の強い意図が働いている可能性を考慮する必要がある。
対照的な史書『陰徳太平記』
一方、この時代を毛利方の視点から描いた代表的な軍記物語が、江戸時代中期の正徳2年(1712年)に刊行された『陰徳太平記』である 19 。この書物は、毛利家の一門であり岩国藩主であった吉川家の家臣、香川正矩・景継親子によって編纂された 21 。
『陰徳太平記』は、毛利元就を「陰徳(人知れず善行を積む者は、必ず天の助けを得る)」という思想を体現した理想的な武将として描く傾向が強い 22 。そのため、毛利氏の勝利や戦略は、元就の徳の高さの現れとして、しばしば称揚される。当然、尼子氏との戦いに関する記述も、毛利・吉川家の武功を称え、その正当性を主張する視点から描かれている 23 。この矢文合戦のような、敵方の機知や気骨が光るエピソードは、仮に事実であったとしても、毛利方の物語の中では省略されたり、異なるニュアンスで語られたりする可能性がある。一つの歴史的事件が、勝者と敗者の異なる立場から、いかに多様に語られるか。両書を比較検討することで、そのダイナミズムが見えてくる。
軍記物語における「事実」とは
ここで理解すべきは、これらの軍記物語が、現代の我々が考える実証主義的な「歴史書」とは根本的に性格を異にするということである。これらは、歴史的な事実を核としながらも、物語としての面白さや、後世への教訓、そして特定の家の正当性を主張するための文学的な脚色や創作が色濃く含まれている 22 。
したがって、白鹿城で交わされた和歌が、一言一句この通りであったかを厳密に証明することは、極めて困難である。もしかしたら、和歌の応酬という形式自体が、実際の出来事をより劇的に見せるための脚色であった可能性もゼロではない。しかし、第二次月山富田城の戦いという大きな歴史の流れの中で、白鹿城の攻防が長期にわたって膠着したこと、そしてその中で、兵士たちの士気を巡る何らかの心理的な応酬(その最もあり得べき形が矢文のやり取り)があったという出来事の「核」は、歴史的事実であった可能性が極めて高いと言える。軍記物語は、事実そのものの記録ではなく、人々がその事実をどのように記憶し、解釈し、語り継ごうとしたかの記録なのである。
結論:矢文伝説の真実と「敵将の心は風の如し」の行方
伝説の原型
本報告書で詳述してきた「白鹿城の戦いにおける和歌の応酬」。これこそが、ユーザーが探求された「毛利元就の矢文による心理戦」という逸話の原型であり、動かしがたい歴史的核であると結論付けることができる。その実態は、単に「敵将の心は風の如し」という警句を記した手紙を送りつけるといった、単純なものではなかった。それは、互いの教養、精神力、そして人間性の全てを賭けて、リアルタイムで繰り広げられた、極めて高度で、時に残酷な心理戦であった。
言葉遊びに始まった応酬は、やがて敵将の最も深い悲しみを抉る非情な刃と化し、最後はそれを乗り越えた鉄の意志による殲滅宣言で幕を閉じる。この一連のドラマこそが、毛利元就の謀略家として、そして指導者としての凄みを、何よりも雄弁に物語っている。
「敵将の心は風の如し」はどこから来たのか
では、史実には記録されていない「敵将の心は風の如し」という、あまりにも有名なフレーズは、一体どこから来たのだろうか。その起源として、以下の三つの可能性が考えられる。
- 物語的要約(Folkloric Distillation): 白鹿城で繰り広げられた、和歌という複雑で文化的な背景を必要とする心理戦の本質、すなわち「敵の心理を読み、その脆さを突いて揺さぶりをかける」という戦略思想が、時代を経て語り継がれる中で、より大衆に分かりやすく、記憶に残りやすい「敵将の心は風の如し」というキャッチーな言葉に集約・結晶化された可能性。複雑な史実が、民衆の間で語り継がれるうちに、その核心だけを抽出したシンプルで力強い伝説へと昇華されていく過程である。
- 講談や創作物による脚色: 江戸時代以降、庶民の間で人気を博した講談や軍記物の読み聞かせ、あるいは近代以降の歴史小説や映像作品の中で、元就の「謀将」としてのイメージをより効果的に演出するために、劇的なセリフとして創作された可能性。元就のキャラクターを象徴する言葉として、後から付与されたものである。
- 他の逸話との混同: 元就は生涯にわたって、息子たちや家臣に数多くの教訓や名言を残している 1 。それらの言葉の中にあった、人の心の不確かさや、時勢を読むことの重要性を説いた部分が、白鹿城での矢文の逸話と融合し、いつしか「敵将の心は風の如し」という新たな言葉として定着した可能性。
総括
毛利元就の矢文伝説は、白鹿城の戦いという確固たる史実を核としながら、後世の人々が彼に求めた「理想の知将」「百戦錬磨の謀略家」というイメージを色濃く反映して形作られてきた、歴史と創作の結晶である。
その真相は、伝説が語る以上に生々しく、人間の知略と教養、そして悲しみや怒りといった根源的な感情が激しくぶつかり合う、戦国時代のリアルな姿を我々に伝えてくれる。「敵将の心は風の如し」という言葉は、文字通りの史実ではないかもしれない。しかし、それは、その奥に横たわる複雑で深遠な歴史の真実へと我々を導くための、一つの象徴的な道標と言えるだろう。伝説の向こう側に見えるのは、風のように移ろう敵の心を見抜き、言葉という刃でそれを制した、一人の老将の恐るべき姿なのである。
引用文献
- 毛利元就 三本の矢とは|名言・逸話・エピソード ・戦術・教育方針・ことわざ・教訓 https://gogatuningyou.net/blogs/q-a/mouri-teaching
- 毛利元就の逸話「三矢の訓え」 - 萩市観光協会 https://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100100
- 天下を競望せずーー大大名・毛利元就の歩みとは - ダイヤモンド・ビジョナリー https://www.diamondv.jp/article/gQLfQDMV1bfu2xjiNUHqiA
- 毛利元就 「三矢の教え」 | コクヨのMANA-Biz https://www.kokuyo-furniture.co.jp/solution/mana-biz/2016/11/post-164.php
- 【毛利元就解説】三矢の訓と三子教訓状 【豪族達と往く毛利元就の軌跡・補遺01】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=NYBQHrq68yM
- 中国地方の覇者 毛利元就。あの“三本の矢”の真実とは?! - 山口県魅力発信サイト「ふくの国 山口」 https://happiness-yamaguchi.pref.yamaguchi.lg.jp/kiralink/202108/yamaguchigaku/index.html
- 「毛利元就」の三本の矢…実は、死ぬ14年前に書かれた手紙の一節だった?! <武将最期の言葉「桜の花」篇> | お知らせ・コラム | 葬式・葬儀の雅セレモニー https://www.miyabi-sougi.com/topics/0b24b6ed34283a506ead8e38eac4b14a843fd9e7
- 毛利元就の三子教訓状(三本の矢の教え) - 合同会社ワライト https://www.walight.jp/2016/07/04/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%AD%90%E6%95%99%E8%A8%93%E7%8A%B6-%E4%B8%89%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%9F%A2%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88/
- 三子教訓状 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AD%90%E6%95%99%E8%A8%93%E7%8A%B6
- 月山富田城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%B1%B1%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 尼子十旗 - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/izumo/amago-jikki/
- 白鹿城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B9%BF%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 「第二次月山富田城の戦い(1565~66年)」毛利元就、中国8か国 ... https://sengoku-his.com/81
- 歌に見る戦国期/狂歌・落首編その1 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/uta/uta01.html
- kotobank.jp https://kotobank.jp/word/%E9%9B%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E5%AE%9F%E8%A8%98-3087364#:~:text=%E9%9B%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E5%AE%9F%E8%A8%98%E3%81%86%E3%82%93%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%90%E3%82%93%E3%81%98%E3%81%A4%E3%81%8D&text=%E8%A7%A3%E8%AA%AC%20%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%9C%9F%E3%81%AE%E5%87%BA%E9%9B%B2,%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A7%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
- 雲陽軍実記(うんようぐんじつき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%9B%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E5%AE%9F%E8%A8%98-3087364
- 雲陽軍実記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E5%AE%9F%E8%A8%98
- 尼子毛利合戦雲陽軍実記 – 知識の泉 https://www.free-style.biz/book/?p=721
- 陰徳太平記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98
- 陰徳太平記(いんとくたいへいき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%99%B0%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98-33077
- 陰徳太平記(部分) - | 貴重資料画像データベース | 龍谷大学図書館 https://da.library.ryukoku.ac.jp/page/220824
- イマドキ『陰徳太平記』 - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/sue-castle/intoku-taiheiki/
- 陰徳太平記』曰く「尼子経久の陰謀 - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/flower-palace/intoku-taiheiki-chapter-02-9/
- 陰徳太平記 (香川宣阿) http://www.e-furuhon.com/~matuno/bookimages/7642.htm