最終更新日 2025-10-30

毛利輝元
 ~戦わずして生を繋ぐも智消極譚~

毛利輝元の「戦わずして生を繋ぐも智」は、史実ではなく、家中の分裂と家康の策略による「不戦敗」であり、毛利家存続の代償は大きかった。

毛利輝元「消極譚」の真相――『戦わずして生を繋ぐも智』という逸話の徹底解剖

1. 序章:伝説の消極譚――「戦わずして生を繋ぐも智」の謎

日本の戦国史において、毛利輝元の名はしばしば一つの逸話と共に語られる。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い。豊臣政権五大老の一人として、徳川家康に対抗する西軍の総大将という最高位にありながら、彼は本拠地とした大坂城から一歩も動かなかった。そして戦後、この不可解な行動を自ら「戦わずして生を繋ぐも智」と語ったとされ、その言葉は輝元の優柔不断さや消極性の象徴として、今日まで広く知れ渡っている。

しかし、この通説は果たして事の真相を正確に捉えているのであろうか。祖父・元就、叔父の吉川元春・小早川隆景という偉大な先達から、中国地方120万石の広大な版図を受け継いだ西国最大の雄が、天下分け目の決戦をただ傍観していた理由が、単なる「消極性」という一言で片付けられるものだろうか。

本報告書は、この「不出陣」という逸話が内包する複雑な真実を徹底的に解剖するものである。輝元は自らの深慮遠謀によって「戦わない」ことを主体的に選んだのか、それとも家中に渦巻く対立と敵の策略によって「戦えなかった」のか。そして、結果として毛利家の存続、すなわち「生を繋ぐ」という選択が、果たして彼の言う「智」であったのか、あるいは未来に禍根を残す大きな「失策」であったのか。史料を丹念に読み解き、決戦前夜から終戦処理に至るまでの時系列を克明に追うことで、伝説の消極譚の背後に隠された、権力、野心、裏切りが交錯する人間ドラマの深層に迫る。

2. 発端:西軍総大将への道――輝元の野心と安国寺恵瓊の策謀(慶長5年7月上旬~中旬)

背景:家康への警戒感

豊臣秀吉の死後、豊臣政権の内部では権力闘争が急速に表面化していた。その中心にいたのが、五大老筆頭の徳川家康である。家康は秀吉の遺命を次々と破り、諸大名との私的な婚姻政策などを通じてその影響力を急激に拡大させていた。この状況に対し、同じく五大老の一人であった毛利輝元や、石田三成ら五奉行は、豊臣家の将来、ひいては自らの存続に対する強い危機感を共有していた 1 。特に毛利家にとって、家康の権力がこれ以上拡大することは、西国における自らの覇権を脅かすものであり、座視することは到底できなかった 3

主体的な決断者としての輝元

従来、毛利輝元は「石田三成や安国寺恵瓊らに祭り上げられた、無気力で優柔不断な総大将」というイメージで語られることが多かった 2 。しかし、近年の研究ではこの見方が大きく修正されている 1 。輝元は、かつて秀吉から「西国はそなたに任せる」と託されたという自負を持ち、この天下の動乱に乗じて毛利家の勢力をさらに拡大しようという、明確な野心を抱いていたのである 4 。彼の西軍総大将就任は、単に周囲に流された結果ではなく、自らの利害と野心に基づいた、極めて主体的な政治的決断であった。

リアルタイム再現:決起へのカウントダウン

慶長五年(1600年)7月、事態は一気に動き出す。

  • 7月12日頃: 家康が会津の上杉景勝討伐のため大坂を発った隙を突き、石田三成、大谷吉継らが家康打倒の計画を具体化させる。彼らは、この反家康連合軍の総大将として、豊臣家との縁が深く、家康に次ぐ120万石の実力を持つ毛利輝元に白羽の矢を立てた。
  • 7月中旬: 輝元説得の使者として、毛利家の外交僧であり、秀吉政権との強力なパイプ役でもあった安国寺恵瓊が広島へ向かう 3 。恵瓊は輝元に対し、情理を尽くして決起を促したと推察される。その口上は、おおよそ次のようなものであっただろう。「今、内府様(家康)の専横を止めなければ、豊臣家の天下、そして毛利家の将来もありませぬ。輝元様こそが、幼き秀頼公をお守りし、天下の安寧を取り戻すにふさわしい御器量をお持ちです。毛利の120万石を動かせば、諸大名は必ずや我らに従いましょう。これは豊臣家への忠義であると同時に、毛利家が再び天下に号令する絶好の機会にございます」 3 。この説得は、輝元の抱く危機感と野心を的確に刺激した。
  • 7月17日: 恵瓊の説得に応じた輝元は、驚くべき速さで居城の広島城を出立。大坂城に入ると、西の丸にいた家康派の留守居役を力ずくで追い出し、豊臣家の象徴である秀頼をその手に確保した 1 。この迅速かつ大胆な行動は、彼が事前に状況を完全に理解し、決起に主体的に同意していたことの何よりの証拠である。

輝元が単に周囲に流されただけの人物であったならば、豊臣家の本拠地であり、日本の政治の中枢である大坂城を、事実上の武力で占拠するという極めてリスクの高い行動は到底取れなかったであろう 1 。彼の行動原理は、このままでは家康に権力を完全に掌握され、毛利家も安泰ではないという「危機感」と、この一大決戦に勝利すれば、秀吉政権下で失った影響力を取り戻し、さらなる領土拡大も望めるという「野心」の二つが複雑に絡み合ったものであった 3 。輝元の総大将就任は、後世に語られる「消極譚」とは全く逆の、自らの家運と人生のすべてを賭けた、極めて積極的な政治的賭けだったのである。

3. 水面下の攻防:吉川広家の内通――もう一つの毛利家戦略(慶長5年7月下旬~9月上旬)

輝元が西軍総大将として華々しく大坂城に入城したその裏で、毛利家存亡の鍵を握るもう一つの戦略が、水面下で静かに、しかし着実に進行していた。その中心人物こそ、輝元の従兄弟であり、毛利家を支える「毛利両川」の一翼、吉川家の当主・吉川広家であった 10

現実主義者・吉川広家

広家は、輝元や安国寺恵瓊らが唱える主戦論とは一線を画す、冷徹な現実主義者であった。彼は家康が率いる東軍の圧倒的な戦力と、その政治的影響力を冷静に分析し、この戦で西軍に勝ち目はないと早くから判断していた 9 。彼にとって最優先すべきは、豊臣家への忠義や毛利家の栄達ではなく、いかにして毛利家そのものを滅亡の危機から救うか、という一点にあった 7 。そのために、彼は輝元らとは全く異なる独自の行動を開始する。

密約の締結

広家は、かねてより親交のあった東軍の武将・黒田長政を仲介役として、徳川家康との極秘交渉に乗り出した 9

  • 7月下旬: 広家は信頼する家臣の服部治兵衛と藤岡市蔵を密使として派遣。「輝元様の大坂城入りは本意ではなく、すべては安国寺恵瓊の姦計によるものです。毛利に家康様への敵意は毛頭ございません」という趣旨の書状を、黒田長政に届けさせた 14 。これは、輝元の行動を恵瓊一人の責任に帰し、毛利家全体の保身を図るための巧妙な布石であった。
  • 8月8日: 広家の申し出に対し、家康は「輝元が西軍に関与していないと聞き、満足した」との返書を出す 17 。これは、家康が広家の内通を事実上受け入れたことを意味する重要な一歩であった。
  • 交渉の進展: 広家はさらに交渉を推し進め、最終的に「毛利全軍が関ヶ原の戦場で戦闘に参加しない」ことを絶対的な条件として、「毛利家の本領安堵(120万石の領地をそのまま保証すること)」という密約を家康側と取り付けるに至る 13 。これは、毛利家の運命を左右する、極めて重大な裏取引であった。

輝元の「黙認」

ここで最大の謎となるのが、西軍総大将である輝元が、この広家の内通工作をどこまで認識していたか、という点である。近年の研究では、輝元も広家の動きをある程度は把握しており、万が一西軍が敗北した場合の「保険」として、これを黙認していた可能性が高いと指摘されている 17

この状況は、毛利家という巨大組織が、存亡を賭けた二正面作戦という致命的な矛盾を抱え込んでいたことを示している。輝元が総大将として西軍の勝利を目指す(表の戦略)一方で、重臣の広家が東軍と内通して家の保全を図る(裏の戦略)。一見すると、これは巧妙なリスクヘッジのようにも見える。しかし、この二つの戦略は完全に相反しており、組織内の指揮系統を麻痺させ、情報共有を著しく阻害するものであった。輝元が広家の内通を黙認していたとすれば、それは最高指導者としてのリーダーシップの決定的な欠如を意味し、最終的に家康にその矛盾を巧みに突かれて敗北する最大の原因となった。これは、巨大組織が時代の大きな転換期において、一貫したビジョンを失った時に陥る、典型的な機能不全の悲劇であったと言えよう。

表1:関ヶ原前夜における毛利家主要人物の二重戦略

人物

表向きの立場・行動(西軍として)

水面下の思惑・行動(和平・内通派として)

毛利輝元

西軍総大将として大坂城に入城。諸大名に檄文を発し、西軍を指揮 1

領土拡大の野心 4 。広家の内通を家の「保険」として黙認していた可能性 19

安国寺恵瓊

輝元を総大将に担ぎ、西軍決起を主導。毛利家の地位向上を目指す主戦派の筆頭 3

なし(一貫して西軍の勝利を信じ、行動)。

吉川広家

表向きは毛利軍の一員として西軍に参加。決戦地・関ヶ原の南宮山に布陣 9

家康の勝利を確信。黒田長政経由で内通し、「不戦」と引き換えに「本領安堵」の密約を結ぶ 14

毛利秀元

輝元の養子。毛利本隊の現場指揮官として南宮山に布陣 22

輝元の命令に従う立場。広家の妨害により、戦闘参加の意思を阻まれる 23

4. 慶長五年九月十五日、その刻一刻:大坂城、南宮山、関ヶ原――三つの視点で描く運命の一日

慶長五年九月十五日。この日、日本の運命を決する戦いの火蓋が切られた。しかし、西軍最大の兵力を擁する毛利家は、三つの異なる場所で、それぞれが全く異なる時間を過ごしていた。輝元の「不出陣」の真相は、この三つの視点を重ね合わせることで初めて明らかになる。

詳細解説:「宰相殿の空弁当」のリアルタイム再現

関ヶ原の南、南宮山に布陣した毛利秀元(輝元の養子で現場指揮官。官職が参議、その唐名が宰相であった)と安国寺恵瓊の軍勢は、約1万5000。彼らは家康の本陣の背後を突くことができる、戦略的に極めて重要な位置を占めていた。

  • 午前8時頃: 主戦場から石田三成が上げた開戦の狼煙が南宮山からも確認される。血気にはやる秀元は、すぐさま全軍に出陣を命じた 23
  • しかし、毛利本隊の進軍路の前面、山麓の最も重要な位置に陣取る吉川広家隊3000が、道を完全に塞ぐように微動だにしない。
  • 秀元や、同じく南宮山に布陣していた長束正家から、広家の陣へ度重なる催促の使者が送られる。「なぜ進軍されぬのか!速やかに道をあけられよ!」という、怒声にも近い詰問が何度も繰り返された 25
  • これに対し、広家は「霧が深く、敵味方の識別がつかぬ」「まだ動くべき時ではない。軽挙は慎むべきだ」などと、様々な理由をつけて巧みに時間稼ぎを図る 25 。彼の目的はただ一つ、家康との密約通り、毛利軍を決して戦わせないことであった。
  • 業を煮やした秀元や長束からの使者に対し、広家はついに「 今、兵たちに兵糧(弁当)を食わせている最中である。それが済むまで、しばし待たれよ 」と返答した。これが、戦意のない毛利軍を後世揶揄することになる「宰相殿の空弁当」の逸話の起源である 13 。実際には弁当を食べていたわけではなく、これは戦闘を回避するための究極の口実であった。
  • この無意味で屈辱的なやり取りが続く間にも、主戦場では正午過ぎ、松尾山の小早川秀秋の裏切りが起こり、西軍は総崩れとなる。秀元と恵瓊は、ついに一兵も動かすことができないまま、味方の壊滅をただ見守り、屈辱的な退却を余儀なくされたのである 23

大坂城の輝元

その頃、総大将である輝元は、大坂城で刻一刻と変わる戦況報告を待っていた 26 。当初は西軍優勢の報も届き、勝利への期待に胸を膨らませていたかもしれない。しかし、昼過ぎには戦況の急変、そして最終的には西軍の完全な敗北という、信じがたい凶報に接することになる。彼が「不出陣」であったのは、彼自身の意思というよりも、最前線における家臣・吉川広家の物理的な「サボタージュ」によって、総大将としての指揮権が完全に無力化されていたからに他ならない。

この逸話の核心は、輝元個人の心理状態だけでは説明できない。大坂城の輝元が仮に「全軍、家康本陣へ突撃せよ」という厳命を下していたとしても、現場の指揮系統が広家によって完全に破壊されていたため、その命令は南宮山の麓で握り潰され、実行は不可能であった。輝元の「不出陣」は、彼自身の決断力の欠如という側面と、家臣による現場レベルでの意図的な裏切りという二つの要因が複合した、必然的な結果であった。この逸話の真の主役は輝元一人ではなく、輝元、秀元、そして広家の三者間に生じた、埋めがたい「断絶」そのものであったと言える。

表2:慶長五年九月十五日 運命のタイムライン

時刻

関ヶ原主戦場

南宮山(毛利勢)

大坂城(輝元)

午前8時頃

濃霧の中、戦闘開始。東軍・西軍一進一退の攻防 10

石田三成からの開戦の狼煙を確認。毛利秀元は出陣準備を命じる 23

九州・四国方面の戦況報告を受けつつ、関ヶ原からの第一報を固唾をのんで待つ 1

午前10時頃

西軍優勢の報。宇喜多・石田勢が東軍本陣近くまで押し込む。

秀元が出陣を試みるも、吉川広家が道を塞ぎ動かない。「なぜ動かぬ」と矢の催促 25

主戦場での優勢の報が断片的に届き、勝利への期待が高まる。

正午頃

家康が小早川秀秋へ威嚇射撃。秀秋が西軍を裏切り、大谷吉継隊へ攻撃開始 15

広家は再三の催促に対し「今、兵に弁当を食わせておる」と返答(宰相殿の空弁当)。ついに動かず 13

戦況の急変を知らせる凶報が届き始める。城内は混乱と猜疑心に包まれる。

午後2時頃

西軍総崩れ。石田三成らは戦場から敗走 27

主戦場の敗北が伝わり、毛利勢は一戦も交えぬまま退却を開始 27

西軍の完全な敗北が確定。輝元は絶望の中、戦後処理という次なる難局に直面する。

5. 戦後処理:反故にされた安堵状と毛利家の屈辱(慶長5年9月下旬~10月)

関ヶ原での西軍の敗北は、わずか半日で決した。しかし、総大将・毛利輝元にとっての本当の戦いは、ここから始まった。彼の手には、吉川広家が徳川家康から取り付けた「本領安堵」という一枚の切り札が残されているはずだった。

偽りの和睦

関ヶ原での敗戦後も、輝元は大坂城に留まり続けた。家康は、広家との密約を盾に、輝元に対して穏便に城から退去するよう促す。家康側からは「輝元殿に落ち度はない」という甘言も伝えられ、輝元はこの言葉と広家の密約を信じ、9月27日、豊臣家の本拠地である大坂城を家康に明け渡した 18 。彼はこの時点で、毛利家120万石は安泰だと信じていた。

約束の反故

しかし、これは家康が周到に仕掛けた罠であった。大坂城を完全に接収した家康は、城内に残されていた膨大な書類を徹底的に調査する。そして、輝元が西軍総大将として諸大名に蜂起を促した檄文や、各地の西軍部隊に軍事行動を指示した書状など、輝元自身が謀反の首謀者であることを示す動かぬ証拠を多数押収したのである 21

絶体絶命の危機

10月2日、仲介役であった黒田長政から吉川広家のもとへ、絶望的な通告がもたらされる。「輝元様が積極的に謀反に加担した動かぬ証拠が多数見つかった。こうなっては、本領安堵の件、我々ではもはやどうすることもできない」 27 。家康は、「輝元自身が紛れもない首謀者である」として、広家との密約を一方的に破棄。毛利家は領地をすべて没収される「改易」という、大名にとって死刑宣告に等しい最大の危機に瀕した 4

広家の嘆願と結末

広家は自らの命と、家康から与えられるはずだった領地をすべて差し出す覚悟で、必死の嘆願を行った。「輝元の一連の行動は、すべて安国寺恵瓊に唆されたものであり、本意ではございません。どうか毛利の家名だけは存続させてくださいますよう」 24 。この捨て身の嘆願が、最終的に家康に受け入れられる形となった。

結果、毛利家は改易こそ免れたものの、安芸広島を中心とした120万石から、周防・長門の二カ国、わずか36万石余りへという、屈辱的な大減封処分を受けることとなった 28 。安国寺恵瓊は首謀者の一人として捕らえられ、京の六条河原で斬首された 27

天下統一を目指す家康にとって、西国最大の大名である毛利家を120万石のまま温存することは、将来の大きな禍根となり得た。彼は最初から毛利家を大幅に減封するつもりであり、その目的を達成するために、広家との「本領安堵」の密約を巧みに利用したのである。それは、第一に関ヶ原で毛利軍という最大の脅威を無力化するための時間稼ぎであり、第二に戦後の交渉を圧倒的有利に進めるための罠であった。家康は、輝元が総大将として行動した「証拠」を必ず押さえられると読んでいた。これは、家康の冷徹極まりない政治手腕と、広家の見通しの甘さ、そして輝元の総大将としての軽率さが招いた、必然的な結末であった。家康こそが、毛利家の内部分裂を巧みに利用し、「戦わずして勝つ」を実践した真の戦略家だったのである。

6. 結論:消極譚の再検証――毛利輝元の「戦わず」は智か、失策か

「戦わずして生を繋ぐも智」という言葉の真偽

毛利輝元の「不出陣」を象徴する言葉として伝えられる「戦わずして生を繋ぐも智」。しかし、本報告書で検証した数々の史料の中に、輝元自身がこの言葉を発したという直接的かつ信頼に足る記録は存在しない。この言葉は、120万石から36万石へという屈辱的な結果を受け入れざるを得なかった輝元自身や、その後の毛利家が、自らの行動を後世に向けて正当化するため、あるいはその悲劇的な運命に同情した人々が後から生み出した、「美談化されたレトリック」である可能性が極めて高い。

「戦わず」の実態の再定義

輝元の関ヶ原における「不出陣」は、熟慮の末に選択された戦略的な「不戦」では断じてない。それは、西軍勝利を信じる主戦派と、東軍勝利を確信し家の存続を願う和平派という、家中の深刻な分裂と、吉川広家による最前線での意図的なサボタージュ、そして敵将・徳川家康の巧みな策略によって、行動の自由を完全に奪われた結果としての「不戦敗」であった。彼は自らの意思で「戦わない」ことを選んだのではなく、結果として「戦えなかった」のである。

智か、失策か

この一連の出来事を、果たして「智」と評価できるだろうか。

結果論として、毛利家は改易を免れ、その「家名」は江戸時代を通じて存続した。その一点において、「生を繋いだ」という最低限の目的は達成されたかもしれない。

しかし、そのために支払った代償はあまりにも大きかった。120万石から36万石への大減封は、毛利家にとって単なる領地の喪失以上の、西国の雄としてのプライドと政治的影響力の致命的な失墜を意味した。この関ヶ原での屈辱は、その後260年以上にわたる長州藩の徳川幕府への複雑な感情――怨念ともいえる――の源流となり、幕末、徳川幕府を打倒する原動力へと繋がっていく遠因となる。

輝元の総大将としての決断(あるいは決断の欠如)と、それを許した毛利家中の分裂は、疑いようもなく歴史的な「失策」であった。もし毛利家が一丸となって西軍として戦っていれば、あるいは早い段階で完全に東軍に味方していれば、関ヶ原の戦いの勝敗そのものも、その後の毛利家の運命も大きく変わっていた可能性は否定できない。

毛利輝元の「消極譚」は、単なる戦国武将一個人の物語ではない。それは、巨大組織が時代の大きな変革期に直面した際の意思決定の困難さ、内部対立がもたらす致命的な機能不全、そして最高指導者のリーダーシップの不在が招く悲劇を凝縮した、普遍的なケーススタディとして、今なお我々に多くの教訓を投げかけている。

引用文献

  1. 毛利輝元は何をした人?「存在感がなかったけど関ヶ原でじつは西軍総大将だった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/terumoto-mouri
  2. 毛利輝元とは?秀吉の敵から味方へ、そして関ヶ原の総大将の生涯 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/moriterumoto/
  3. 安国寺恵瓊~毛利は動かず…それでも外交僧が胸に抱き続けたもの https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5626
  4. なぜ毛利輝元は敗北してしまったのか - BS11+トピックス https://bs11plus-topics.jp/ijin-haiboku-kyoukun_25/
  5. 小早川の裏切り、毛利輝元の本心…本当の関ヶ原合戦はまったく違っていたんだっ! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/32499/
  6. そこで間違えなければ、徳川家康を討てたかもしれない…関ヶ原の戦いで惨敗した石田三成の「歴史的な判断ミス」 西軍総大将・毛利輝元はなぜ動かなかったのか (3ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/92247?page=3
  7. 安国寺恵瓊 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/ankokuji-ekei/
  8. 秀吉と隆景から評価された安国寺恵瓊の「洞察力」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/39675
  9. 関ヶ原合戦の前日、すでに毛利輝元は徳川家康と和睦していた!? | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/6828
  10. 西軍総大将 毛利輝元/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41115/
  11. 吉川広家、朽木元綱、赤座直保~関ヶ原「裏切り者」たちの思惑(2) | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7309?p=1
  12. どうする家康43話 狸だらけの関ヶ原/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/112938/
  13. 裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った戦国武将たちのその後【西軍編】:3ページ目 https://mag.japaaan.com/archives/255588/3
  14. 「徳川家康書状」(慶長5年8月8日・国指定重要文化財)。 | SEABORN資料館 https://waga727nagi.jugem.jp/?eid=550
  15. 関ケ原不戦の真意は? - 岩国吉川会 - Jimdo https://iwakunikikkawa.jimdofree.com/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E5%90%89%E5%B7%9D%E4%BC%9A%EF%BD%88%EF%BD%90/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E3%81%A8%E9%96%A2%E3%82%B1%E5%8E%9F/
  16. 東軍に内応した吉川広家、不本意な論功行賞に驚く(「どうする家康」184) https://wheatbaku.exblog.jp/33153844/
  17. 吉川広家が家康方と和議を結んだことを毛利輝元は黙認していたのか、輝元は知らず広家が独断でしたことなのか? 光成準治氏と水野伍貴氏の見解の違い4 吉川家家臣の隠密行動 - 関ヶ原の残党、石田世一(久富利行)の文学館 https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/505485353.html
  18. 岩国市史 - 錦帯橋を世界遺産に推す会 http://www.kintaikyo-sekaiisan.jp/work3/left/featherlight/images11/6.html
  19. 輝元は知らず広家が独断でしたことなのか? 光成準治氏と水野伍貴氏の見解の違い5 毛利秀元勢の実態 - 関ヶ原の残党、石田世一(久富利行)の文学館 https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/505498789.html
  20. 毛利一族と関ヶ原合戦) 二日目八正 https://ryugen3.sakura.ne.jp/toukou3/mitunari0707.pdf
  21. www.touken-world.jp https://www.touken-world.jp/search-calligraphy/art0006250/#:~:text=%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%BC%9D%E5%85%83%E3%81%8C%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%9F%8E,%E3%81%93%E3%81%A8%EF%BC%89%E3%82%92%E8%BF%AB%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
  22. 「関ヶ原の戦い」西軍総大将・毛利輝元が辿った生涯|家名存続を一身に背負った名門の将【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1156401/2
  23. 宰相殿の空弁当 ~午前十時の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/seki04.html
  24. 宰相殿の空弁当 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B0%E7%9B%B8%E6%AE%BF%E3%81%AE%E7%A9%BA%E5%BC%81%E5%BD%93
  25. 毛利秀元 空弁当でだまされ、シャケ弁当をたかられた男 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=F_5cc-VLedk
  26. 【関ヶ原の舞台をゆく②】関ヶ原の戦い・決戦~徳川と豊臣の運命を賭けた戦い - 城びと https://shirobito.jp/article/486
  27. 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
  28. 関ヶ原の戦いで西軍についた武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/osaka-history/sekigahara-west/