毛利輝元
~関ヶ原後「動かざる智も勇」と語る~
毛利輝元が関ヶ原後「動かざる智も勇」と語った逸話の真偽を検証。大坂城退去交渉と吉川広家の内応、家康の分断統治策を分析し、毛利家存続の真相を解明。
毛利輝元「動かざる智もまた勇」の逸話に関する徹底調査報告 ― 関ヶ原合戦後、大坂城退去に至る『静謀譚』の時系列分析と史料的検証 ―
序章:『静謀譚』の特定と本報告書の射程
毛利輝元に関して語られる『関ヶ原後、「動かざる智もまた勇」と語ったという静謀譚』という逸話は、戦国期最大の大名であった毛利家の存亡の岐路における、当主・輝元の苦渋の決断を象徴するものとして知られる。本報告書は、この特定の逸話(引用句)に焦点を絞り、その出典と史実性を徹底的に調査するものである。
この逸話が示唆する「静謀」とは、西軍総大将として大坂城に入城しながら、関ヶ原の戦場に出陣せず(=動かざる)、敗戦後も大坂城で徹底抗戦という選択をしなかった輝元の行動を、単なる傍観や惰弱、あるいは愚昧な日和見主義としてではなく、毛利家の滅亡を回避するための積極的な「智」であり、玉砕を選ぶ以上の「勇」であったと評価する言説そのものを指す。
本報告書は、まずこの逸話の出典と信憑性を史料批判的に検討する。次に、この「静謀譚」が依拠する史実、すなわち慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦の敗報が大坂城にもたらされた瞬間から、輝元の大坂城退去、そして毛利氏の減封が決定するまでのリアルタイムな政治的・軍事的動向を、時系列に沿って詳細に再構築する。
分析の過程で明らかになるのは、輝元の「不動」の裏には、吉川広家ら家臣団による複雑な内応交渉と、徳川家康による冷徹な政治的駆け引きが存在したという事実である。本報告書は、輝元の「発言」とされる逸話そのものの検証と、その背景にある「史実」の時系列分析とを明確に分離し、両者の間のギャップを解明することによって、この『静謀譚』の真相に迫ることを目的とする。
第一章:逸話の史料的検討 ―「動かざる智もまた勇」はいつ語られたか
逸話のリアルタイム性を検証する上で、まずその出典を特定する必要がある。しかし、「動かざる智もまた勇」という輝元自身の具体的な発言(引用句)は、『毛利家文書』や『吉川家文書』といった毛利氏関係の一次史料や、『当代記』のような同時代の編纂史料において、関ヶ原直後の輝元の言葉として確認することは極めて困難である。
これらの一次史料群に記録されているのは、輝元の哲学的・抽象的な述懐ではなく、むしろ大坂城退去の条件交渉や、その後の減封に対する家臣団(特に吉川広家)の必死の嘆願といった、生々しい政治的交渉の記録である 1 。
この事実は、利用者が提示した「動かざる智もまた勇」という逸話が、輝元によるリアルタイムの発言ではなく、江戸時代以降、特に『陰徳太平記』のような軍記物語や、近現代の歴史小説が形成される過程で、後から付与された「物語(譚)」である可能性が極めて高いことを示唆している。
では、なぜこのような「物語」が必要とされたのか。それは、輝元の「敗北」の持つ意味を再定義する必要があったからに他ならない。輝元は西軍総大将という「最大の反逆者」の立場にありながら、家康の「所領安堵」という約束を信じて大坂城を退去し、その直後に約束を反故にされ、結果的に120万石とも言われた広大な所領から周防・長門二州(約37万石)へと大減封されるという、最大級の屈辱と敗北を喫した 1 。
この一連の経緯は、客観的に見れば「愚昧な日和見」あるいは「交渉の完全な失敗」と評価されても致し方ない。この屈辱的な史実を、後世(あるいは輝元自身)が受け入れ、正当化するためには、輝元の「不動」を「愚昧」から「深遠な静謀(智・勇)」へと格上げするレトリックが必要であった。すなわち、この逸話は、毛利家の滅亡を回避した(=動かなかった)一点をもって、その判断を「英断」として合理化し、顕彰するために形成された「静謀譚」であると推察される。
第二章:時系列分析(1)― 関ヶ原敗報と大坂城内の攻防(慶長5年9月15日~)
「静謀譚」が依拠する史実の時系列を再構築する。慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原での西軍本隊の壊滅的な敗北の報は、同日中、あるいは翌16日には大坂城の輝元のもとへもたらされた。西軍総大将として西の丸にいた輝元は、即座に重大な岐路に立たされる。
この時の大坂城内は、毛利家中の意見対立によって激しく揺れ動いていた。
一方には、安国寺恵瓊(毛利氏の外交僧、西軍の首謀者の一人)らに代表される主戦論が存在した。彼らは、豊臣秀頼公を奉じ、大坂城の堅牢な守りを利して徹底抗戦(籠城戦)に打って出るべきであると主張した。総大将・輝元が「動く勇」を見せるべきであるという論である。
しかし、この主戦論に対し、輝元の従兄弟であり毛利家の重鎮であった吉川広家が真っ向から対立する。広家は、関ヶ原合戦前から徳川家康と極秘裏に内応交渉を進めていた。広家の目的は、豊臣政権内の争い(西軍対東軍)から毛利本家を離脱させ、家名を存続させることにあった。
実際、関ヶ原の戦場において、広家は毛利本隊の前面に布陣し、「宰相殿(輝元)の出馬は無し」という立場を貫き、毛利本隊(輝元の養子・毛利秀元が率いていた)を意図的に動かさなかった。これが「毛利の空弁当(宰相殿の空弁当)」と呼ばれる逸話の背景である。
この広家による関ヶ原での「不動」という既成事実は、大坂城の輝元にとって決定的な意味を持った。輝元は、西軍総大将でありながら、自家の主力部隊が東軍(家康)に味方するでもなく、西軍(石田三成ら)に味方するでもなく、ただ傍観していたという最悪の政治的立場に追い込まれた。
この時点で、輝元が大坂城で「徹底抗戦(=動く)」という選択肢は、事実上、家臣である広家によって奪われていた。輝元の「動かざる」は、積極的な「智」の選択であったというよりも、広家によって作られた「動けない」という受動的な状況認識から始まらざるを得なかった。
もしこの時期に「静謀」があったとすれば、それは輝元本人によるものではなく、輝元を動かさずに家康と内応交渉を進めた吉川広家による「静かなるクーデター(=静謀)」であったと言える。輝元は、この広家の「静謀」に乗るか否かの決断を迫られたのである。
第三章:時系列分析(2)― 大坂城退去交渉の時々刻々
関ヶ原での勝利を確定させた家康は、9月18日頃には大津城に入り、次なる焦点である大坂城の輝元への対処に着手した。家康は武力による制圧ではなく、まず使者を派遣し、輝元に大坂城(西の丸)を退去するよう「勧告」する手段を選んだ 1 。
勧告の使者とその政治的意図
この時、家康が派遣した使者は、池田輝政、福島正則、そして黒田長政であった 1 。この人選は、家康の高度な政治的戦術を示している。彼らはいずれも徳川譜代の家臣ではなく、元は豊臣恩顧の大名であり、輝元とも旧知の間柄であった。
家康自身や徳川譜代の者が直接交渉に当たれば、それは「徳川による豊臣政権の接収」という構図が露わになる。そうではなく、あくまで「豊臣家臣団の内部対立」の戦後処理を、他の豊臣系大名が仲介するという体裁を整えることで、輝元の投降(退去)のハードルを下げ、大坂城の早期無血開城を実現しようとした。これは、後に方広寺鐘銘事件などで見られる、家康の「常套手段」に通じる老獪な手法であった 1 。
交渉の核心:「所領安堵」の誓紙
吉川広家の恭順論に傾いていた輝元は、この使者による退去勧告に対し、即座には応じなかった。ここで毛利側は、「最後の手札」として大坂城の明け渡しを取引材料に使う。
毛利側(輝元および交渉の窓口である広家)が提示した退去の絶対条件、それが「所領安堵」であった 1 。広家が関ヶ原以前に家康と交わしていた内応の約束(毛利本家の安泰)に加え、ここで改めて「大坂城西の丸を退去する」という具体的な行動と引き換えに、家康による「所領安堵」の確約、すなわち「誓紙」の発行を要求したのである。
輝元は「動かざる(=抗戦しない)」ことを最大の取引材料として提示した。もし輝元の行動に「動かざる智」があったとすれば、それはこの土壇場の交渉において、家康が「天下人」として大坂城の早期無血開城を強く望んでいることを見抜き、それを利用して「所領安堵」という明確な言質(誓紙)を引き出した点にある 1 。
家康はこの条件を受け入れ、「所領安堵」を約束する誓紙を発行した 1 。輝元はこの誓紙の受領をもって、大坂城西の丸を退去することに同意したのである 1 。
この敗戦処理の交渉経過を時系列で整理すると、以下のようになる。
表1:関ヶ原敗報から大坂城退去までの時系列交渉表
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日付(推定) |
徳川方の動向(家康・使者) |
大坂城の動向(輝元・広家) |
交渉の焦点と結果 |
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慶長5年9月15日 |
関ヶ原で勝利。 |
敗報に接し、城内評定(主戦論 vs 恭順論)。 |
(毛利家中の内部対立) |
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9月16日~17日 |
家康、大津城へ進軍。 |
広家が恭順論を主導。輝元、籠城か退去かで葛藤。 |
(輝元の「不動」) |
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9月18日頃 |
家康、使者(池田・福島・黒田)を大坂城へ派遣 1 。 |
使者と輝元側(広家)が交渉開始。 |
使者:「退去勧告」 1 |
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9月19日~20日頃 |
(使者経由で家康の裁可) |
輝元側:「所領安堵」を退去の条件として提示 1 。 |
毛利:「所領安堵」の確約要求 |
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9月21日頃 |
家康側、条件を受諾。「所領安堵」の誓紙を発行 1 。 |
輝元、誓紙の受領をもって退去に同意 1 。 |
結果:所領安堵の誓紙の獲得 |
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9月23日~27日頃 |
家康、大坂城に入城 1 。戦後処理に着手 1 。 |
輝元、大坂城西の丸を退去 1 。 |
(交渉完了・城の明け渡し) |
第四章:時系列分析(3)―「動かざる」決断の結末 (約束の反故)
輝元が大坂城を退去し、入れ替わりに家康が入城すると、家康は即座に戦後処理と論功行賞に着手した 1 。ここで、輝元が「動かざる智」の対価として得たはずの「誓紙」の価値が問われることとなる。
家康による「完全なる無視」
家康が発表した処分案において、輝元に対する「所領安堵」の約束は、完全に無視された 1 。西軍総大将であったことを理由に、輝元の所領は「没収」とされた。
「戦前に吉川広家が家康に宛てた書状にも、大坂城退去の際の誓紙にもあった所領安堵の約束が、全く無視されていた」のである 1 。家康にとって、輝元を大坂城から無血で退去させるための方便として「誓紙」は必要であったが、目的(無血開城)を達した瞬間に、その約束は反故にされた。
家康の分断統治策
さらに家康は、毛利家に対して巧妙な「分断統治策」を打ち出した。家康が当初提示した処罰案は、「毛利(輝元)の所領は没収、吉川広家に毛利の所領の一部である周防・長門を与える」というものであった 1 。
これは、輝元(当主)を「没収」という最大限の罰に処し、広家(内通者)に恩賞を与えることで、毛利家臣団の内部に決定的な対立の楔を打ち込み、その結束力を弱体化させる狙いがあった。
吉川広家が進めていた「毛利本家を救うための内応(静謀)」は、この時点で完全に破綻した。家康は広家の「意図」(毛利本家存続)を汲み取らず、広家「個人」への恩賞にすり替えることで、広家を「主家を売って自らの利を得た裏切り者」の立場に追い込もうとしたのである。
吉川広家の「懇願」というリアルタイムな会話
この家康の決定に「驚いたのは吉川広家」であった 1 。利用者が求める「リアルタイムな会話内容」に最も近い状況が、この瞬間に発生する。
広家は「毛利家のことを思えばこその内応」であった 1 。もしこのまま輝元が所領没収となり、自分だけが周防・長門を得れば、自らの内応の意義は失われ、毛利家は滅亡し、自分は末代までの裏切り者となる。
広家は、家康(あるいは本多正信ら側近)に対し、必死の「懇願」を行った 1。その会話は、以下のようなものであったと強く推察される。
「私(広家)が内応したのは、毛利本家を存続させるためであった。自分が領地を得るために輝元公を裏切ったのではない。このままでは私の面目が立たず、毛利家は滅亡する。どうか、私に与えるとおっしゃる周防・長門の二州を、当主である輝元公に与えていただきたい。そうでなければ、私の内応は無意味となる」
最終的な落着
この吉川広家による命懸けの「懇願」の結果、家康は当初の分断策を修正した。「広家に与えられた周防・長門を毛利輝元に与えるということで落着」したのである 1 。
毛利家が120万石から約37万石への大減封処分を受け入れつつも、輝元を当主として「大名」の地位を保ち、家名を存続させることができたのは、輝元の「動かざる智」の結果 ではなく 、家康の「約束反故」という裏切りに対し、内通者であった広家が「自分の内応の意義」そのものを盾に必死で「懇願」した結果であった。
輝元は、自らの家臣の(裏切りとも言える)内応と、その家臣の必死の嘆願によって、かろうじて家の滅亡を免れた。これが、「静謀譚」の背景にある史実の結末であった。
第五章:逸話の再評価 ―「動かざる智」と「静謀譚」の真相
第四章までに分析した史実(時系列)を踏まえる時、「動かざる智もまた勇」という逸話は、新たな意味を帯びてくる。輝元の「不動」は、広家によって選択肢を奪われた「受動的な状況」であり、その後の交渉(誓紙)は家康によって「反故」にされ、最終的には広家の「懇願」によって減封存続という「屈辱的な結果」に至った。
この史実の結末を、輝元自身が「動かざる智もまた勇」と述懐した可能性はあるだろうか。二つの仮説が考えられる。
仮説1(輝元による述懐): もし輝元自身が語ったとすれば、それは全ての戦後処理が確定し、長州藩主として萩に入った後であろう。その言葉の意味は、「あの時、西軍総大将として徹底抗戦(=動く勇)を選んでいれば、家康の圧倒的な武力の前に毛利家は完全に滅亡していただろう。家康に誓紙を反故にされるという屈辱は受けたが、結果として(広家の策に乗り)動かなかったことで、家名存続という最低限の結果は得た。あの屈辱に耐えて動かなかった判断(智)は、ある意味で戦うこと以上の勇気(勇)であった」という、自らの選択を正当化し、諦念を受け入れるための述懐であった可能性である。
仮説2(後世の創作): あるいは、江戸時代を通じて「西軍総大将でありながら何もせず、領地を大幅に減らされた愚将」と評価されがちであった輝元に対し、毛利家(長州藩)内部や後世の軍記物作家が、「いや、あの方の『不動』には、家名存続という深遠な考え(静謀)があったのだ」と、その「敗北」を「英断」として再評価(顕彰)するために創作した「物語(静謀譚)」である可能性である。
いずれにせよ、輝元の「静謀」とは、家康を出し抜くような積極的な策謀ではなかった。それは、吉川広家が仕掛けた「家康への内応」という名の静かな内部工作であり、輝元はその工作に(積極的にか受動的にかは議論が分かれるが)最終的に乗った。そして、その「動かざる」という選択が、家康の裏切り 1 に遭いながらも、広家の必死の懇願 1 によって「滅亡の回避(減封存続)」という結果に辛うじて繋がった。
「動かざる智もまた勇」という逸話は、この**「家臣の内応による、屈辱的ながらも現実的な家名存続」 という複雑な史実を、 「当主の深遠な決断による勝利(あるいは敗北の最小化)」**という、よりシンプルで肯定的な物語に昇華させた、極めて洗練された「静謀譚」であると結論付けられる。
結論:毛利輝元の「静謀譚」が示唆するもの
本報告書で分析した通り、毛利輝元が関ヶ原直後に「動かざる智もまた勇」と語ったとする逸話は、そのリアルタイムな発言として史料的に確認することは困難である。
むしろ、この逸話は、関ヶ原敗戦後の大坂城において、輝元が「所領安堵」の誓紙 1 を得るために行った「動かざる(抗戦しない)」という決断と、その後の家康による「約束反故」、そして吉川広家の「懇願」による「減封存続」 1 という、過酷かつ屈辱的な史実の経緯を、後世になって「当主の英断」として再解釈するために形成された「静謀譚」であると見るべきである。
利用者が求めた「リアルタイムな会話」の核心は、輝元がこの逸話の言葉を発した瞬間ではなく、吉川広家が自らの内応の意義を賭して家康に「懇願」した場面 1 にこそ存在する。
輝元の「不動」は、組織のトップとして、窮地において「動く勇(=抗戦・玉砕)」ではなく「動かない智(=恭順・存続)」を選択した(あるいは選択させられた)姿を示している。この逸話は、歴史における敗者が、自らの「敗北」の持つ意味を、後の世においていかに再定義し、正当化しようと試みたかを示す、日本政治史における一級の事例であると言えよう。
引用文献
- K'sBookshelf 家康の関ケ原 第九章 大坂の陣 https://ksbookshelf.com/SH/IeyasuSekigahara09.html