浅野長政
~秀吉の病知り涙見せず職務果たす~
浅野長政の「涙見せず職務果たす」逸話を分析。秀吉の朝鮮親征への諫言と臨終期の職務遂行が融合し、私情より国家安定を優先する賢臣としての忠義を象徴する歴史的創作。
浅野長政の忠勤:涙なき職務の真相 ― 命を賭した諫言から秀吉臨終の刻まで
序章:逸話の核心を探る
浅野長政という武将を語る上で、しばしば引用される一つの逸話が存在します。それは、「主君・豊臣秀吉の病を知り、その寝所にあっても涙一つ見せず、淡々と職務を全うした」という、彼の冷静さと忠誠心を象徴する忠勤譚です。この物語は、感情に流されることなく公務に徹する、理想的な家臣の姿を我々に示唆します。
しかしながら、この感動的な逸話は、同時代の一次史料や、後世に編纂された信頼性の高い史書において、具体的な場面として明確に記述されたものを見出すことは困難です。では、この逸話は単なる創作なのでしょうか。あるいは、その根底には、形を変えて語り継がれるべき、より劇的で本質的な「真実」が隠されているのでしょうか。
本報告書は、この問いから出発します。調査を深める中で浮かび上がってきたのは、この「涙なき職務」という逸話の精神的な核を形成したと考えられる、より具体的で史料的裏付けも豊富な、もう一つの物語でした。それが、文禄の役の最中、肥前名護屋城において、秀吉が断行しようとした朝鮮半島への親征を、浅野長政が命を賭して諫めたという「諫言譚」です 1 。
この諫言譚にこそ、長政の忠義の本質、すなわち私情を越えて国家と政権の安寧を最優先する姿勢が、最も鮮烈な形で表れています。本報告書では、この「諫言譚」こそが「涙を見せぬ忠勤」の原型であり、その精神が、史実における秀吉臨終期の長政の行動へと直結しているという仮説に基づき、その真相に迫ります。まず、歴史の記録に残る諫言の場面を徹底的に再現・分析し、次に、史実における秀吉臨終期の彼の役割と職務を解明することで、浅野長政という稀代の「賢臣」が示した忠義の真の姿を明らかにしていきます。歴史的逸話は、時にその細部を変えながらも、その核心にある精神を後世に伝えようとします。劇的な諫言という行動が、より静的で普遍的な「病床での忠勤」という物語へと昇華されていった過程を追うことは、歴史上の人物像がどのように形成され、我々の記憶に刻まれていくのかを探る旅でもあるのです。
第一章:舞台設定 ― 緊迫する肥前名護屋城
浅野長政の諫言譚を理解するためには、まずその舞台となった時代の空気と、登場人物たちが置かれた状況を正確に把握する必要があります。
時代背景:文禄・慶長の役
諫言の舞台となったのは、文禄年間(1592-1596年)の肥前名護屋城。ここは、豊臣秀吉が大陸侵攻の拠点として築いた巨大な城塞であり、日本全国から大名たちが動員され、朝鮮半島へと送られる兵士たちの中継地となっていました。しかし、当初の破竹の勢いは失われ、戦況は膠着状態に陥っていました。明国の援軍の前に日本軍は苦戦を強いられ、補給線は伸びきり、前線の兵士だけでなく、名護屋に詰める諸大名の間にも、先の見えない戦に対する疲弊感と厭戦気分が静かに広がり始めていました 1 。この泥沼化した戦況こそが、天下人・豊臣秀吉の心を焦りと苛立ちで満たしていくことになります。
天下人・豊臣秀吉の晩年
この時期の秀吉は、かつての怜悧明晰な覇王の姿に、時として翳りが見え始めていました。最愛の嫡男・鶴松を亡くした深い悲しみと、忍び寄る老いは、彼の精神に深刻な影響を与えていました。天下統一という大事業を成し遂げた後の、新たな目標として掲げた大陸侵攻が思うように進まない現実は、彼の自尊心を傷つけ、焦燥感を募らせるには十分でした。
このような精神状態の中で発せられたのが、「この秀吉自らが海を渡り、全軍の先頭に立って明国を切り従える」という親征宣言でした 1 。これは単なる気まぐれや誇示欲から出た言葉ではありません。停滞した戦況を自らのカリスマ性で一気に打破しようとする焦り、そして、揺らぎ始めたかもしれない自身の絶対的な権威を、命懸けの行動によって再確認したいという、老いたる天下人の渇望の表れだったのです。しかし、その決意は、国家の最高指導者としてあまりにも現実を無視した、危険なものでした 2 。
浅野長政の立場と役割
この天下人の暴走に、敢然と立ち向かったのが浅野長政でした。彼の立場は、豊臣政権において極めて特殊かつ重要でした。
まず、彼は秀吉の正室・北政所(ねね)の実妹・ややを妻としており、秀吉とは「相婿(あいむこ)」、すなわち義理の兄弟という極めて近しい姻戚関係にありました 2 。この個人的な繋がりは、他の家臣が決して持ち得ない、ある種の「遠慮のなさ」を許容する素地となっていました。
そして、政権内における彼の役割は、五奉行の筆頭格という重責を担うものでした 2 。特に司法や行政に辣腕を振るい、太閤検地の実行責任者の一人としても活躍するなど、豊臣政権の屋台骨を支える実務能力は高く評価されていました 7 。彼の仕事は、加藤清正や福島正則のような華々しい武功ではなく、兵站の管理、検地による国力調査、東国大名との取次といった、国家運営の根幹を支える地道で不可欠なものでした 10 。
この職務こそが、彼の諫言の背景を理解する上で決定的に重要です。名護屋城にあって、彼は前線への兵糧・武器・兵員の輸送と管理という、戦争の生命線を握る立場にありました 10 。日々の報告を通じて、彼は消費される米の量、失われる人命、そして疲弊していく国力の実態を、誰よりも具体的な数字として把握していたはずです。秀吉の親征計画が、精神論としてはともかく、兵站という現実的な観点から見ればいかに破綻しているかを、痛いほど理解していたのです。したがって、彼の諫言は、単なる勇気や感情の発露ではなく、政権の最高執行責任者の一人として、非現実的な計画を却下するという、極めて合理的で冷静な「職務遂行」の一環であったと解釈することができます。
第二章:運命の一刻 ― 時系列で再構成する諫言の場面
複数の史料 1 に断片的に残された記録を統合し、肥前名護屋城で繰り広げられた緊迫の場面を、時系列に沿って再構成します。それは、一人の家臣が、己の首を賭して天下の軌道を修正しようとした、歴史的な瞬間でした。
発端:秀吉の渡海宣言
場所は、肥前名護屋城内の広間。徳川家康、前田利家をはじめとする五大老、五奉行、そして諸国の有力大名たちが居並ぶ、重々しい評定の席でした。戦況報告が一段落し、広間に張り詰めた空気が漂う中、上座に座る豊臣秀吉が静かに、しかし有無を言わせぬ口調で宣言します。
「これ以上、戦を長引かせるわけにはいかぬ。この秀吉が自ら海を渡り、明国を切り従えん。諸将はその覚悟をせよ」
その言葉には、老いと焦りからくる苛立ちが隠しようもなく滲み出ていました。一座は水を打ったように静まり返ります。諸将は驚き、互いに顔を見合わせるものの、天下人の絶対的な権威の前では、誰一人として異を唱えることはできません。秀吉の親征がどれほど無謀な計画であるかは、ここにいる誰もが理解していました。総大将が前線に出ることは、国内の統治を空洞化させ、万一のことがあれば豊臣政権そのものが瓦解しかねない危険な賭けです。しかし、その正論を口にすれば、秀吉の逆鱗に触れることは必定。広間は、恐怖と困惑が入り混じった重苦しい沈黙に支配されました 1 。
対峙:長政、沈黙を破る
五大老筆頭であり、次期天下人の最有力候補と目される徳川家康でさえ、表情を固くしたまま押し黙っています。秀吉とは織田信長時代からの盟友であり、誰よりも気心の知れた前田利家もまた、苦渋の表情でうつむくだけでした 1 。
その凍りついた沈黙を破ったのは、末席近くに静かに座っていた浅野長政でした。彼はやおら立ち上がると、秀吉を直接見るのではなく、狼狽する家康と利家に向かって、冷静な、しかし芯の通った声でこう言い放ちました。
「徳川殿、前田殿、お気になさるな。今の太閤殿下には古狐が憑いておられる。さもなくば、かかる馬鹿げた戦をなさるものか」 2
それは驚くべき発言でした。主君の判断を「馬鹿げた戦」と断じ、その原因を「狐憑き」という正気の沙汰ではないものに帰したのです。しかも、秀吉本人に直接ではなく、一座の重鎮たちに語りかけるという形を取ることで、この問題が単なる家臣の反抗ではなく、主君の異常事態に対する家臣団全体の共通認識であるべきだと、暗に示したのです。これは、単なる激情に駆られた発言ではなく、高度に計算された政治的な一手でした。
激昂:天下人の怒りと長政の覚悟
「狐憑き」という、自らを狂人扱いするに等しい言葉は、秀吉の最後の理性を吹き飛ばしました。彼の顔は怒りでみるみるうちに赤黒く染まり、玉座から身を乗り出すようにして叫びます。
「長政、その言葉、断じて許さぬぞ!そこに直れ!」 1
秀吉は傍らに置かれた己の刀に手をかけ、その切っ先が長政に向けられんとした、まさにその瞬間でした。死を覚悟した長政は、しかし、臆することも、うろたえることもありませんでした。彼は静かに秀吉を直視し、さらに言葉を続けたのです。
「私のこの白髪首など、いくらでも差し上げます。ですが、私の首一つで天下がどうなりましょうか。殿下が企図されたこの度の戦によって、日ノ本だけでなく、罪なき朝鮮の民も困窮し、嘆き悲しんでおります。ここで殿下までもが御渡海なされば、世はこれ以上ないほどの混乱に陥りましょう。天下の安寧のため、何卒、お思い留まりくだされ」 1
彼の論理は、もはや個人的な忠誠や恐怖の次元を超えていました。その訴えは、秀吉自身が天下統一の過程で掲げた大義名分である「天下の安寧」「万民の泰平」という、より高次の価値観に根差していました。主君個人の功名心よりも、国家全体の利益を優先すべきであるという、家臣から主君への、命を賭した政策提言でした。
収拾:家康・利家の仲裁と結末
一座が息を呑んで見守る中、事態の深刻さを誰よりも早く悟った家康と利家が、弾かれたように二人の間に割って入りました。「長政の忠義の心ゆえの発言、何卒ご寛恕を」「長年の忠勤に免じ、お鎮まりくだされ」と、必死に秀吉をなだめます。同時に、家康は目配せで近習に命じ、長政を腕ずくで次の間に連れ出させました。こうして、物理的に両者を引き離すことで、その場は何とか収拾されたのです 2 。
しばらく怒りの収まらなかった秀吉ですが、重臣たちの必死の説得と、何よりも長政の捨て身の覚悟に、次第に冷静さを取り戻していきました。そして、この日を境に、秀吉が自らの渡海を口にすることは二度となかったと伝えられています 2 。浅野長政の命を賭した諫言は、天下人の暴走を食い止め、国家の危機を未然に防ぐという目的を、完全に達成したのです。
第三章:諫言に込められた「職務」と「忠義」の形
肥前名護屋城での一世一代の諫言は、浅野長政という人物の特異性を浮き彫りにします。なぜ、徳川家康や前田利家ですら口をつぐんだ状況で、彼だけが天下人に「否」を突きつけることができたのでしょうか。その背景には、彼の立場、人物像、そして彼が抱いていた新しい時代の「忠義」の形がありました。
なぜ長政だけが言えたのか
長政の行動を可能にした要因は、複合的に絡み合っています。第一に、前述の通り、秀吉との「相婿」という特別な個人的関係が挙げられます 4 。長年の付き合いの中で培われた信頼関係が、他の家臣には許されない踏み込んだ発言を可能にする土壌となっていました。
第二に、彼の人物像そのものです。長政は、主君に媚びへつらうイエスマンではなく、筋が通らないことであれば、相手が誰であろうと直言を厭わない「硬骨漢」として知られていました 4 。その性格は、秀吉も熟知していたはずです。
そして第三に、最も重要なのが、彼の職務上の視点です。行政と兵站の最高責任者の一人として、彼は秀吉の親征計画が戦術的・戦略的にいかに無謀であるかを、データに基づいて理解していました 9 。彼の諫言は、感情的な反発ではなく、国家財政と兵員の損耗という客観的な事実に基づいた、極めて合理的な政策提言だったのです。それは、主君への個人的な忠誠心の発露であると同時に、豊臣政権という組織の幹部としての責任を全うする「職務遂行」でもありました。
新しい忠義の形
この長政の行動は、旧来の封建的な主従関係における「忠義」とは一線を画すものでした。従来の武士道において、忠義とは主君の命令に絶対服従し、そのために命を投げ出すことでした。しかし、長政が示したのは、主君個人の感情や願望よりも、主君が築き上げた「政権」と「天下の安寧」という、より公的な利益を優先する姿勢です。そして、その公的な利益を守るためであれば、主君の誤りを正すことこそが、家臣の果たすべき真の忠義である、という新しい価値観でした。
これは、戦国の世が終わり、統治と経営の時代へと移行する過渡期において、武士に求められる役割が変化しつつあったことを象徴しています。単なる戦闘員ではなく、国家を運営する行政官僚としての側面が重要視される中で、長政は理想的な「賢臣」像を体現したのです 10 。
この視点は、豊臣政権が内包していた構造的な対立軸を乗り越える可能性をも示唆します。当時の豊臣家臣団は、加藤清正や福島正則に代表される、戦場での武功によって出世した「武断派」と、石田三成に代表される、算術や法規に明るい行政能力で台頭した「文治派」との間に対立を深めていました 12 。秀吉の親征計画は、武断派にとっては新たな武功を立てる好機であり、文治派にとっては国力を無駄に消耗させる愚策と映ったでしょう。
長政は五奉行として文治派に属しますが、彼の諫言は単なる吏僚的な正論の主張とは異なります。彼は、秀吉との個人的な信頼関係と、死をも恐れぬ武士的な覚悟という「武断派的」な価値観を土台としながら、兵站と国益を重んじる「文治派的」な合理性を主張したのです。つまり、彼の行動は、両派の価値観を統合・昇華させたものであり、単なる派閥争いを超えた、豊臣政権全体への奉仕でした。もし、長政のような人物が秀吉亡き後の政権運営の主軸を担うことができていれば、その後の家臣団の分裂と、それに乗じた徳川家康の台頭は、また違った様相を呈していたかもしれません。彼の諫言は、単なる一回限りの事件ではなく、豊臣政権が抱える構造的欠陥に対する、一つの処方箋であった可能性を秘めていたのです。
第四章:本当の臨終期 ― 慶長三年、伏見城にて
肥前名護屋城での命懸けの諫言から数年後、物語の舞台は、利用者様の知る逸話の核心である「秀吉の病床」、すなわち慶長三年(1598年)夏の伏見城へと移ります。ここで我々は、浅野長政が直面した現実の職務と、彼が示した「涙なき忠勤」の真の意味を目の当たりにすることになります。
秀吉の死と豊臣政権の危機
慶長三年8月18日、太閤豊臣秀吉は、自らが築いた壮麗な伏見城の一室で、63年の波乱に満ちた生涯を閉じました 15 。彼の死は、一個人の死に留まらず、豊臣政権という巨大な統治機構の存亡を揺るがす、国家的な危機でした。後継者である豊臣秀頼は、まだわずか6歳の幼児。政務を執れるはずもありません。秀吉は死の床で、徳川家康を筆頭とする五大老と、浅野長政を筆頭とする五奉行による集団指導体制に、幼い秀頼の後見と政権の運営を託しました 15 。しかし、この体制は、有力大名たちの利害と思惑が複雑に絡み合う、極めて脆弱で不安定なものでした。天下の舵取りを誤れば、日本は再び戦乱の世に逆戻りしかねない、まさに風前の灯火といえる状況だったのです。
五奉行筆頭としての膨大な職務
この国家存亡の危機において、五奉行の筆頭格であった浅野長政の双肩には、筆舌に尽くしがたいほどの重圧がかかっていました。彼が直面していた職務は、多岐にわたり、そのどれもが一刻の猶予も許されない緊急案件でした。
第一に、最大の懸案事項は、朝鮮半島に展開する十数万の大軍の撤退でした 18 。秀吉の死を悟られれば、敵軍の猛烈な追撃を受けることは必至です。いかにして太閤の死を秘匿し、海を隔てた大軍を、一人でも多く無事に日本へ帰還させるか。これは、膨大な数の船舶の手配、兵糧の確保、諸大名との緻密な連携を必要とする、極めて複雑で困難なロジスティクス(兵站)の大事業でした。名護屋城で兵站の重要性を痛感していた長政にとって、これは最優先で完遂すべき国家的な責務でした。
第二に、国内の政務の維持です。秀吉の死という衝撃的な事実が国内に伝われば、各地で動揺が広がり、反乱が起きる可能性も否定できません。長政ら五奉行は、秀吉の死を隠しながら、日常の司法、財政、行政といった政務を滞りなく執行し、社会の安定を維持する必要がありました 8 。
第三に、そして最も困難だったのが、政権内部の権力闘争の調停でした。秀吉という絶対的な権威者がいなくなったことで、五大老筆頭の徳川家康が急速にその影響力を強め始めます。これを豊臣家への脅威と捉える石田三成らと、家康に接近することで生き残りを図ろうとする武断派大名との対立は、日増しに激化していました。長政は、姻戚として豊臣家への忠誠を誓う一方で、家康とも囲碁仲間として個人的な親交を結ぶなど、両派の間に立つ調整役としての役割を期待されていました 4 。
「涙を見せぬ職務」の真相
このような状況下で、浅野長政が、敬愛する主君の死を嘆き悲しむ感傷に浸る時間的・精神的な余裕は、全くと言っていいほど存在しませんでした。彼の目に映っていたのは、亡き主君の顔ではなく、主君が遺したこの国と政権の、あまりにも不確かな未来でした。
彼にとっての「職務」とは、秀吉個人の死を悼むことではなく、秀吉が一代で築き上げた豊臣政権と天下の平和を、いかにして次代の秀頼へと引き継ぐかという、巨大で具体的な責任を果たすことでした。彼の「涙を見せぬ」姿は、冷徹さや薄情さの表れでは断じてありません。それは、国家の危機を前にした最高責任者の一人としての、極度の緊張感と責任感の現れだったのです。
肥前名護屋城の諫言で示した「私情よりも公的な利益を優先する」という彼の忠義の形は、この秀吉臨終期において、感傷を排し、膨大な実務を黙々と遂行するという形で、最も誠実に実践されたのです 7 。
結論:二つの逸話が示す浅野長政の真像
本報告書は、「秀吉の病を知り、涙を見せず職務を果たした」という浅野長政の逸話の真相を探る旅でした。その過程で明らかになったのは、この逸話が、より具体的で史実に基づいた二つの出来事、すなわち「肥前名護屋城での諫言譚」と「秀吉臨終期の職務遂行」の精神的エッセンスが融合し、後世に語り継がれる中で結晶化したものである、という事実です。
「肥前名護屋城での諫言譚」は、浅野長政の忠義が、主君の命令に盲従するのではなく、国家の破滅を防ぐためであれば、己の命を賭してでも主君の過ちを正すという、極めて理性的かつ勇敢な行動で示されることを劇的に描き出しています。
一方、「秀吉臨終期の史実」は、その忠義が、主君亡き後、遺された政権と天下の安寧を守り抜くという、地道で膨大な実務の遂行によって、静かに、しかし着実に実践されたことを示しています。
利用者様がご存知の「涙を見せず職務を果たす」という逸話は、これら二つの要素が見事に融合した、長政の人物像の象徴といえるでしょう。諫言譚が示した「感情よりも理性を優先する」という彼の核となる姿勢が、臨終期という具体的な状況において「涙を見せず職務を果たす」という、より分かりやすく、人々の共感を呼ぶイメージとして語り継がれていったのです。
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表1:浅野長政の忠義の二側面 ― 逸話と史実の比較 |
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項目 |
肥前名護屋城の諫言譚(逸話の原型) |
慶長三年の臨終期(史実の職務) |
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時期 |
文禄2年(1593年)頃 |
慶長3年(1598年)夏 |
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場所 |
肥前名護屋城の陣中 |
伏見城 |
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秀吉の状態 |
老いと焦りから、時に常軌を逸した言動を見せる |
死の床にあり、意識も混濁 |
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長政の行動 |
命を賭して秀吉の無謀な渡海計画を諫言 |
秀吉の死を秘匿し、朝鮮からの撤兵と政権移行という膨大な実務を指揮 |
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示された忠義の本質 |
主君の過ちを正し、国家の破滅を防ぐ「諫言の忠義」 |
遺された政権と天下の安寧を守り抜く「実行の忠義」 |
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逸話への影響 |
「感情より理性を優先する」という人物像の核を形成 |
「涙を見せず職務を果たす」という具体的なイメージを提供 |
結論として、浅野長政は、感情の発露や盲目的な追従ではなく、冷静な現状分析と合理的な判断に基づき、国家全体の利益のために行動することこそを真の「忠義」と捉えた、新しい時代の「賢臣」でした 10 。彼の姿は、戦乱の世が終わりを告げ、統治と行政の能力が武士に求められるようになった時代の変化を、誰よりも早く体現していたといえます。彼の「涙なき忠勤」とは、決して冷酷さの証ではありません。それは、個人的な感傷を排し、未来に対する重い責任をただ一人で背負い、全うしようとした、極めて理性的で誠実な、新しい奉公の形だったのです。
引用文献
- 浅野長政の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38337/
- 浅野長政~豊臣政権の五奉行筆頭 | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4994
- 豊臣秀吉の朝鮮行きを止めた男・浅野長政。命懸けで伝えたかったメッセージとは? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/167422/
- 浅野長政とはどんな人?家康暗殺計画に関与した男が家を残せた理由は? - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/toyotomi-sengoku/asano-nagamasa/
- 家康暗殺計画」で表舞台から姿を消した、浅野長政の生涯|豊臣政権下で頭角を現した“五奉行”の一人【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1158217
- 五大老と五奉行とは?役割の違いとメンバーの序列、なにが目的? - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/5elders5magistrate
- 「浅野長政」秀吉と兄弟の契りを交わした豊臣政権の五奉行筆頭 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/564
- 五奉行 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A5%89%E8%A1%8C
- (浅野長政と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/28/
- 浅野長政(あさの ながまさ) 拙者の履歴書 Vol.94~豊臣と徳川、二代に仕えし奉行 - note https://note.com/digitaljokers/n/nff8ad438bb74
- 歴史の目的をめぐって 浅野長政 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-01-asano-nagamasa.html
- 五奉行・五大老は関ヶ原でどうしたか http://chushingura.biz/aioi&ako/aioi_gakko/08/old_htm/002.htm
- 「どうする家康」第38回「唐入り」 秀吉にとり憑く狐は何匹いる? ~秀吉の老境の姿が家康の晩年を占う - note https://note.com/tender_bee49/n/nb92f83938510
- 徳川家康 秀吉の死と家康の権力増大 - 歴史うぉ~く https://rekisi-walk.com/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%80%80%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%AE%E6%AD%BB%E3%81%A8%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%8A%9B%E5%A2%97%E5%A4%A7/
- 関ヶ原の戦い|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents3_01/
- 伏見区の歴史 : 安土桃山時代 秀吉が開いた城下町 - 京都市 https://www.city.kyoto.lg.jp/fushimi/page/0000013318.html
- 五大老(ゴタイロウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E8%80%81-65088
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