最終更新日 2025-10-21

片桐且元
 ~和議の使者として奔走、孤立~

片桐且元は豊臣・徳川間の和議に奔走するも、家康の謀略と城内の対立で孤立。豊臣家存続を願う忠義が裏切りと断じられ、大坂城追放が大坂の陣の引き金となった。

片桐且元 和議交渉の悲劇 ―孤立に至る三十日の記録―

序章:嵐の前の静けさ ―方広寺大仏殿完成と二つの権威―

慶長19年(1614年)春、京の都では一つの巨大な建造物が完成の時を迎え、天下泰平の象徴としてその威容を誇っていた。豊臣秀吉の悲願を受け継ぎ、豊臣秀頼が莫大な財を投じて再建した方広寺の大仏殿である 1 。関ヶ原の合戦を経て、かつて天下を差配した豊臣家は摂津・河内・和泉約65万石を領する一大名の地位にまで縮小されていた 3 。この大事業は、失われた権威を天下に再び示し、豊臣家がいまだ健在であることを誇示するための、まさに起死回生の一手であった。

しかし、この壮大な事業の裏には、もう一つの巨大な権威の影が色濃く差していた。駿府の大御所、徳川家康である。通説では、この大仏殿再建そのものが、豊臣家の莫大な財力を削ぐために家康が巧妙に勧めた策であったとされる 4 。事実、再建工事には家康お抱えの大工頭・中井正清が派遣され、工事全体を実質的に主導していたことが記録に残っている 3 。豊臣家にとっては「権威の再確認」の場であったが、徳川家にとっては豊臣家を「公儀の管理下に置く一大名」として最終的に位置づけるための、いわば踏み絵であった。この根本的な認識の齟齬が、後に起こる悲劇の温床となる。

この二つの権威の狭間で、危うい綱渡りを強いられていたのが、豊臣家筆頭家老、片桐且元その人であった。彼は賤ケ岳の七本槍に数えられる武勇の士であると同時に、太閤検地などで辣腕を振るった優れた行政官でもあった 5 。秀吉の死後は秀頼の傅役として、徳川家との交渉役を一手に引き受け、慶長16年(1611年)の二条城会見を実現させるなど、家康からも一定の信頼を得ていたとされる 5 。その立場ゆえに、且元は誰よりも痛切に時代の空気を読んでいた。天下の実権はもはや完全に徳川のものであり、豊臣家が存続するためには、かつての栄光に固執するのではなく、徳川との協調路線を歩む以外に道はない、と 8

しかし、大坂城内には未だ「豊臣の天下」という意識が根強く残り、徳川幕府の体制が年々強固になるにつれ、焦燥感が募っていた 8 。且元は、この豊臣家のプライドと、徳川が支配する冷徹な現実との間に横たわる深い溝を、一身で埋めなければならないという極めて困難な使命を背負っていたのである。方広寺の鐘が完成したその時、彼はまだ、その鐘の音が自らの、そして豊臣家の命運を狂わせる序曲となるとは知る由もなかった。

第一章:鐘に刻まれた亀裂 ―「国家安康」の波紋―

慶長19年7月、完成した方広寺の梵鐘に刻まれた銘文が駿府の家康の元へ届けられた。そして7月21日、事態は急変する。家康は腹心の金地院崇伝と京都所司代の板倉勝重を呼びつけると、烈火のごとく怒りを露わにした。「鐘銘に徳川方にとって不吉な語句がある。断じて許しがたい」 10 。この一言が、全ての発端であった。8月3日には、二代将軍・徳川秀忠の名で大仏殿供養の延期が正式に命令され、天下に衝撃が走った 10

徳川方が問題としたのは、長大な銘文の中にあったわずか八文字、「国家安康」「君臣豊楽」であった 11 。家康の政治参謀である本多正信の入れ知恵とも、あるいは崇伝や儒学者の林羅山らが理論武装したとも言われるその解釈は、豊臣方に弁明の余地を与えない、恐ろしく巧妙なものであった。

  • 「国家安康」 : 家康の諱(いみな)である「家」と「康」の字を、「安」の字によって分断している。これは家康の身体を切断し、その死を願う呪詛に他ならない 4
  • 「君臣豊楽」 : 「豊臣を君主として、臣下はそれを楽しむ」と読むことができる。これは徳川への反意の表明であり、豊臣家の天下再興を祈願するものである 12

これは、豊臣家を討つための口実として仕組まれた「文字獄」であったことは、後世の視点から見れば明らかである 12 。しかし、この非難が単なる言いがかりでは片付けられない側面を持っていたことが、事態をより深刻にした。当時の武家社会の常識として、主君や貴人の諱を許可なく文章に用いること自体が、極めて非礼な行為(避諱)とされていたのである 4 。銘文を撰した南禅寺の碩学・文英清韓は、後に「家康公への祝意を込めた『かくし題』であった」と弁明したが 4 、学識ある僧がこの文化的タブーを知らなかったとは考えにくい。諮問を受けた五山の僧らも、呪詛とまでは断定しなかったものの、多くが「諱を犯したことは手落ちである」との見解を示した 4

徳川方の戦略は、ゼロから嘘を捏造するのではなく、実際に存在する「非礼」という事実を核として利用し、それを「呪詛」という極論にまで拡大・増幅させることにあった。これにより、徳川の非難は単なる難癖ではなく、「礼を失した豊臣家を、天下の公儀が糺す」という大義名分を帯びることになった。豊臣方は「そのような意図はなかった」と弁明するしかなく、交渉の初手から完全に防戦一方の不利な立場に立たされたのである。片桐且元は、この絶望的な状況を打開すべく、弁明の使者として駿府へ向かうこととなる。

第二章:駿府への道 ―一身に負う豊臣の命運―

大坂城内は騒然となった。家康の激怒と供養延期の報は、豊臣家の者たちにとって青天の霹靂であった。城内では、「徳川方の言いがかりに過ぎぬ」という強硬論が渦巻く一方で、事態の深刻さを憂う声も上がっていた。この混乱を収拾し、徳川との関係を修復する重責は、これまで対徳川交渉を一手に担ってきた筆頭家老、片桐且元に託された。彼がこの役目に選ばれたのは、家康からも一定の評価を得ているという実績と、何よりも彼自身が豊臣家の存続には徳川との融和が不可欠であると信じる、穏健派の筆頭であったからに他ならない 7

慶長19年8月、且元は大坂城を出立した。その胸中には、豊臣家の命運が自らの双肩にかかっているという重圧と、一縷の望みが交錯していた。彼が描いていた交渉の青写真は、まず銘文に悪意がなかったことを誠心誠意伝え、家康の怒りを解くこと。そして、この問題を穏便に解決し、両家の間に生じた亀裂を修復することであった。彼は、長年の交渉役としての経験から、家康が現実主義者であることを知っていた。たとえ今回の件が豊臣家を追い詰めるための口実であったとしても、全面的な軍事衝突は徳川方にとっても大きな負担となるはずであり、交渉の余地は残されていると信じていた。

しかし、彼が京を発ち、東海道を駿府へと向かう道中で、状況は且元の想像を超えて悪化の一途をたどっていた。徳川方は、この問題を単なる外交問題ではなく、豊臣家が徳川の権威に挑戦した「反逆の証」として喧伝し始めていた。且元が一身に背負った豊臣の命運は、彼が駿府に到着する前に、既に大きく傾き始めていたのである。

第三章:開かれざる門 ―駿府での詰問と絶望的な選択肢―

慶長19年8月17日、片桐且元は駿府に到着した。しかし、彼を待っていたのは、交渉の席ではなく、冷酷な拒絶であった。家康の意向により、且元は駿府の城下町に入ることすら許されず、郊外での待機を命じられたのである 16 。豊臣家筆頭家老という彼の身分を考えれば、これは意図的な侮辱であり、徳川方が交渉のテーブルに着く意志がないことを示す、明確な意思表示であった。

数日後の8月20日、且元はようやく駿府入りを許された。だが、彼が通されたのは家康の御前ではなく、一室であった。そこで彼を待ち受けていたのは、家康の側近である本多正純と金地院崇伝。家康との直接面会は、最後まで叶わなかった 16

交渉の場は、もはや弁明の機会ではなく、一方的な詰問の場と化した。『駿府記』には、その時の緊迫したやり取りが記録されている。

「鐘の銘文は誰が考えたのか。その真意は何だ」

「大坂城に多数の浪人を召し抱えていると聞くが、それは戦の準備ではないのか」

正純と崇伝は、矢継ぎ早に厳しい言葉を投げかける。且元は必死に、銘文に呪詛の意図はなく、浪人を集めているのも城の警備のためであり、徳川家に弓を引く考えは毛頭ないと弁明した。しかし、彼の言葉は虚しく響くだけであった。

そして、この詰問の最後に、豊臣家にとって絶望的とも言える三つの選択肢が突きつけられたとされる 3

  1. 豊臣秀頼が江戸に参勤すること。
  2. 淀殿が人質として江戸に移り住むこと。
  3. 秀頼が大坂城を退去し、他の領地へ国替えとなること。

いずれも、豊臣家が徳川家の完全な支配下に入ることを意味する、事実上の降伏勧告であった。言葉での弁明はもはや通用しない。徳川方の意思は、豊臣家の完全な臣従か、さもなくば滅亡か、その二択であることを、且元は痛感させられた。

しかし、ここで一つの重要な点が指摘されている。徳川方の公式な史料には、この三条件を提示したという記録が見当たらないのである 3 。歴史学者の中には、これは徳川方の公式な要求ではなく、事態の深刻さを大坂城の首脳陣に理解させるため、且元自身が徳川方の意向をあえて「最悪の形」で解釈し、持ち帰った「私案」であった可能性を指摘する者もいる 3 。言葉の通じない相手を説得するための、苦渋に満ちたショック療法。もしそうだとすれば、豊臣家を救おうとした彼の現実主義的な判断が、皮肉にも彼自身を裏切り者の烙印へと導く、最大の要因となったことになる。

第四章:二つの報告書 ―大蔵卿局の楽観論が且元を追い詰める―

且元が駿府の郊外で屈辱的な足止めを食らい、本多正純らによる厳しい詰問に耐えていた頃、もう一人の使者が大坂から駿府を訪れていた。大野治長の母、大蔵卿局である。そして、家康はこの二人の使者に対し、全く異なる顔を見せた。これこそが、豊臣家を内部から崩壊させるための、家康の恐るべき情報戦・心理戦の始まりであった。

家康は、且元との面会を頑なに拒絶する一方で、大蔵卿局は自ら引見し、歓待した 12 。そして、彼女にこう囁いたとされる。「今回の鐘銘の件は、周囲が騒ぎ立てているに過ぎぬ。秀頼殿や淀殿へのわしの気持ちに変わりはない。万事、よしなに取り計らうゆえ、心配には及ばぬ」と 13 。これは、強硬派の中心人物である大野治長の母を通じて、大坂城内の主戦派に都合の良い、楽観的な情報を意図的に流し込むための高度な策略であった。

結果として、大坂城には全く正反対の二つの報告書がもたらされることになった。

  • 片桐且元の報告 : 「大御所様のご機嫌は極めて悪く、弁明は一切聞き入れられませんでした。このままでは豊臣家は滅亡の危機にあります。それを回避するには、秀頼様の国替えといった、極めて厳しい条件を呑むしか道はありません」という、絶望的で悲観的な内容。
  • 大蔵卿局の報告 : 「大御所様は終始お優しく、此度の件は心配するには及ばないとのことでした。市正(且元)殿が事を大袈裟に捉え、我らを脅しているだけではないでしょうか」という、希望に満ちた楽観的な内容。

この二つの報告は、大坂城内に深刻な亀裂を生んだ。「どちらの報告が真実なのか」。淀殿や大野治長ら主戦派は、当然、自分たちに都合の良い大蔵卿局の報告を信じた。そして、且元が持ち帰った厳しい現実を、「徳川に内通した且元が、主家を売り渡すためにでっち上げた嘘」と断じるに至る 13

家康の狙いは完璧に当たった。彼は、豊臣家で唯一、徳川との現実的な交渉が可能なパイプ役であった且元の信頼を、豊臣家自身の手で失墜させることに成功したのである。和平交渉の担い手は、こうしてその居場所を失い、急速に孤立していくことになった。


表1:駿府からの二つの報告内容の比較

項目

片桐且元

大蔵卿局(大野治長の母)

報告者

豊臣家筆頭家老(穏健派)

主戦派の中心人物の母

徳川方の対応

家康との面会拒絶。本多正純らによる詰問。

家康自らが面会し、歓待。

持ち帰った内容

絶望的な三条件(国替え等)。徳川の強硬姿勢。

「心配無用」との家康の言葉。楽観的な見通し。

大坂城内での解釈

「徳川に内通し、主家を売ろうとしている」との疑念。

「やはり大御所様は豊臣家を大事に思っている」との安心感。


第五章:城内の激震 ―「且元、徳川に内通す」―

慶長19年9月18日、片桐且元は大坂城へ戻った 17 。彼を待っていたのは、労いの言葉ではなく、疑惑と敵意に満ちた視線であった。評定の席で、且元は駿府で突きつけられた厳しい現実をありのままに報告し、豊臣家の存続のためには、提示された三条件のいずれかを受け入れる以外に道はないと、苦渋の表情で進言した。

その瞬間、城内の空気は凍りついた。淀殿は顔を紅潮させて激怒し、大野治長ら主戦派は待っていたかのように且元への非難の声を上げた 8。

「市正殿、それは断じて大御所様の本心ではあるまい! 徳川に脅され、臆病風に吹かれた貴殿の私見であろう!」

「我ら豊臣家が、太閤殿下の御威光を辱めるような、そのような屈辱を受けねばならぬ理由がどこにあるのか!」

城内には、既に大蔵卿局がもたらした楽観的な情報が隅々まで浸透していた。且元の悲痛な訴えは、彼らの耳にはもはや届かなかった。豊臣家の安泰を願う忠臣の言葉は、徳川と内通し、主家を売り渡そうとする裏切り者の戯言として一蹴されたのである 19。

かつては且元と共に穏健派として行動していた織田有楽斎(長益)らも、この殺気立った城内の雰囲気に圧倒され、沈黙を守るしかなかった。且元は、評定の場で完全に孤立した。彼の現実主義は、豊臣家のプライドの前ではあまりにも無力であった。彼は、忠義を尽くせば尽くすほど、裏切り者として深く断罪されるという、絶望的な矛盾の中に突き落とされたのである。

第六章:刃 ―暗殺計画と身の危険―

且元への不信感は、やがて殺意へと変貌した。大野治長の弟である治房ら血気にはやる強硬派の間で、且元を「国賊」として誅殺すべしという暗殺計画が、公然と囁かれるようになったのである 20 。もはや豊臣家中の統制は崩壊し、穏健派の重臣の命が、同じ豊臣家の家臣によって狙われるという異常事態に陥っていた。

且元も、自らの身に迫る危険を敏感に察知していた。彼は9月25日付の書状で、駿府の家康に対し「淀殿の御怒りを買い、討たれるやも知れませぬ」と、切迫した状況を伝えている 16 。この情報は、京都所司代・板倉勝重からも家康の元へ届けられており、徳川方は大坂城内の内紛を正確に把握していた 16

身の危険を感じた且元は、大坂城内にある自らの屋敷に一族郎党と共に立てこもり、不測の事態に備えた 10。屋敷の周囲には大野方の兵が集結し、城内は一触即発の緊張に包まれた。しかし、この極限状況にあって、且元は部下たちに信じがたい命令を下す。

「たとえ大野勢が攻め寄せてきたとしても、こちらから矢一本放ってはならぬ」 10。

これは、彼の悲劇性を象徴する、最後の忠義の表明であった。たとえ自分を殺そうとする相手であっても、同じ豊臣家の家臣であることに変わりはない。もしここで反撃すれば、それは片桐家と大野家の私闘となり、豊臣家臣団の完全な内部分裂を招いてしまう。それは、徳川にさらなる攻撃の口実を与えるだけである。彼は、自らの命が尽きようとも、豊臣家臣として主家に弓を引くという一線だけは、断固として越えようとしなかった。彼の忠誠心は、自分を排除しようとする主君や同僚にさえも、最後まで向けられていたのである。

終章:大坂城退去 ―開戦への引き金―

城内での睨み合いは、豊臣家の分裂を天下に晒す醜態であった。この事態を収拾するため、淀殿は且元に対し、隠居と大坂城からの即刻の退去を命じた 8 。これは、長年豊臣家に尽くしてきた筆頭家老に対する、事実上の追放宣告であった。

慶長19年10月1日、片桐且元は弟の貞隆ら一族四千の兵を率いて、静かに大坂城を去った。そして、自らの居城である摂津・茨木城へと入った 8 。彼が大坂城の城門をくぐったその瞬間、徳川と豊臣を繋ぐ最後の細い糸は、完全に断ち切られた。

この報せは、駿府の家康が待ち望んでいたものであった。彼は直ちに諸大名に対し、大坂への出兵を命令する。その大義名分は、「豊臣家は、和議のために奔走した徳川方との交渉役を、理由なく追い払った。もはや話し合いの余地はない」というものであった 13

結末はあまりにも皮肉であった。豊臣家の存続を願い、滅亡の淵から救い出すために和平交渉に全てを捧げた忠臣は、その忠誠心ゆえに主家から裏切り者の烙印を押され、追放された。そして、その追放劇そのものが、彼が命を懸けて避けようとした大坂の陣の、直接の引き金となってしまったのである。

その後、且元は不本意ながら徳川方の陣に加わり、主家が滅びゆく様をその目で見届けることとなる 8 。大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してから、わずか20日後の元和元年(1615年)5月28日、片桐且元は京の屋敷で静かに息を引き取った 8 。その死は、時代の大きなうねりの中で、忠誠と現実の間で引き裂かれ、最後まで報われることのなかった一人の男の、苦悩に満ちた生涯の幕引きであった。

引用文献

  1. 京都方広寺の鐘銘事件 - 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/2022/06/17/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA%E3%81%AE%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6/
  2. 大坂冬の陣のきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」とは?|豊臣と徳川の決裂を決定づけた出来事【日本史事件録】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1162823
  3. 方広寺鐘銘事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
  4. 方広寺鐘銘事件/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97921/
  5. 行政官で才能発揮!板挟みに耐えた片桐且元は忠義の人物だったのか? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ajk9ojrIE8U
  6. 片桐且元編 - 不易流行 https://fuekiryuko.net/articles/-/1125
  7. 家康と淀殿から「信任」を得て豊臣家のために奔走した片桐且元 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/33086
  8. 片桐且元は何をした人?「家康の罠で裏切り者に仕立てられ豊臣家を追い出された」ハナシ https://busho.fun/person/katsumoto-katagiri
  9. わかりやすい 大坂(大阪)冬の陣・夏の陣 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/oosaka.html
  10. 家康激怒「豊臣ゆかりの寺」に刻まれた侮辱の言葉 梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」が騒動に https://toyokeizai.net/articles/-/718346?display=b
  11. 方広寺鐘銘事件|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents5_03/
  12. 方廣寺鐘銘事件- 維基百科,自由的百科全書 - Wikipedia https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%96%B9%E5%BB%A3%E5%AF%BA%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
  13. 方広寺鐘銘事件「国家安康」なにが問題?わかりやすくしたまとめ ... https://busho.fun/column/hoko-ji-jiken
  14. 方广寺钟铭事件 - 维基百科 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E6%96%B9%E5%BB%A3%E5%AF%BA%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
  15. 大坂の陣のきっかけ・方広寺鐘銘事件は家康の言いがかりだったのか - note https://note.com/toubunren/n/n2cb11cc94483
  16. 家康に大坂城「総攻撃」を進言していた秀忠 | 歴史人 https://www.rekishijin.com/33450/2
  17. 大坂の役Ⅰ(大坂冬の陣)ーエピソード高校日本史(110-05) http://chushingura.biz/p_nihonsi/episodo/101_150/110_05.htm
  18. 家康との決戦を招いた大野治長の「妥協」 | 歴史人 https://www.rekishijin.com/29937/2
  19. 大坂の陣とは/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16981_tour_062/
  20. 家康と淀殿から「信任」を得て豊臣家のために奔走した片桐且元 ... https://www.rekishijin.com/33086/2