直江兼続
~直江状で家康痛罵文言術~
直江兼続が徳川家康に送った「直江状」を徹底解説。家康の詰問に対し、論理と挑発で反論し、関ヶ原の戦いの引き金となった文言術の深層と、その真贋論争を探る。
直江兼続と直江状 ― 家康を痛罵した文言術の深層
第一章:天下分け目の序章 ― 秀吉死後の政治情勢と上杉家の動向
慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉がその生涯を終えた。この死は、日本の政治情勢に巨大な権力の真空を生み出した。秀吉は自身の死期を悟り、幼い嫡子・秀頼の将来を案じて、徳川家康を筆頭とする五大老と石田三成ら五奉行による合議制を敷いていた。しかし、この制度は秀吉という絶対的な権力者の不在によって、その脆弱性を即座に露呈する。五大老筆頭の家康は、秀吉の遺命を次々と破り、諸大名との私的な婚姻政策などを通じてその影響力を急速に拡大し始めた 1 。豊臣政権の屋台骨は、内側から静かに、しかし確実に蝕まれ始めていたのである。
この緊迫した情勢の渦中にあったのが、会津120万石の大名、上杉景勝とその家老・直江兼続であった。上杉家は秀吉の命により、慶長3年に長年の本拠地であった越後から会津へと移封されていた 2 。この国替えは、単なる領地の移動ではなかった。会津という地は、北に独眼竜・伊達政宗を睨み、南に関東の徳川家康を牽制する、極めて重要な戦略的拠点であった 4 。秀吉は、生前から家康の強大化を警戒しており、信頼の厚い上杉家をこの地に配置することで、対家康包囲網の要としようとしたのである。この秀吉の深謀遠慮は、彼の死後、皮肉にも上杉家と徳川家の直接対決を不可避にする地政学的な時限爆弾として機能することになる。
会津に入部した景勝と兼続は、新たな領国の経営に精力的に着手した。領内の街道を整備し、橋を架け、豊臣恩顧の浪人たちを積極的に召し抱えた 5 。さらに慶長5年(1600年)に入ると、新たな拠点として神指城の築城を開始する 5 。これらは、新たな領地を安定させ、統治を盤石にするための当然の施策であった。しかし、天下の覇権を狙う家康の目には、これらの動きは明らかに軍備増強であり、豊臣家への「謀反の兆候」と映った。秀吉が仕掛けた牽制策は、その「蓋」が外れた瞬間、「抑え」から「脅威」へとその意味を変質させたのである。
両者の不信感を決定的にしたのは、兼続と五奉行の一人、石田三成との親密な関係であった 5 。三成は、家康の専横を豊臣家への裏切りとみなし、激しく対立していた。その三成と懇意である兼続、そして彼が仕える上杉家は、家康派から見れば反徳川勢力の中核と見なされるのは当然の帰結であった。上杉家からすれば、家康の動きは亡き太閤の遺志に背く「義」に反する行為であり 9 、それに対する自衛策として軍備を整えるのは理の当然であった。しかし、その自衛策こそが、家康に「上杉家に謀反の意あり」という討伐の口実を与えることになった。両者の行動は、互いの不信感を増幅させる負のスパイラルに陥り、もはや対話による解決が困難な状況へと突き進んでいったのである。
第二章:弾劾の使者 ― 家康の詰問状、その内容と狙い
慶長5年(1600年)の春、会津を巡る空気は一層険悪なものとなっていた。上杉家の東隣、越後の領主・堀秀治や、北の出羽を治める最上義光といった近隣大名から、上杉家の不穏な動向が逐一、伏見の家康のもとへ報告されていた 6 。特に堀秀治は、上杉家が国境の道を整備していることを謀反の準備であると執拗に訴え立てた 10 。さらに3月には、上杉家の重臣であった藤田信吉が出奔し、家康に景勝の叛意を訴えるという事件も発生する 6 。
これらの報告を受け、家康は上杉家を公的に問罪する好機と判断した。これは単なる疑惑の追及ではない。豊臣政権内における最大の抵抗勢力となりうる上杉家を屈服させるか、あるいは討伐するかの二択を迫る、高度な政治的策略であった。慶長5年4月1日、家康は伊奈昭綱と河村長門(増田長盛の家臣)を問罪使として会津へ派遣する 6 。
この時、家康が上杉家に突きつけた詰問状は、家康自身の名義ではなかった。家康の政治的ブレーンであり、当代随一の学僧として知られた臨済宗相国寺の西笑承兌に起草させたのである 6 。これは、家康個人の詰問ではなく、豊臣家の公儀としての手続きであるという体裁を整え、その正当性を高めるための巧妙な演出であった。承兌の名で発せられた詰問状は、表向きは穏やかながら、その内容は極めて厳しく、上杉家を追い詰めるための周到な罠が張り巡らされていた。その要点は以下の通りである。
- 軍備増強の真意の追及: 神指城の新規築城や、越後口への架橋など、一連の武備増強は豊臣家への謀反の準備ではないのか、その真意を問う 6 。
- 即時上洛の要求: もし謀反の心がないのであれば、弁明のために主君・景勝が速やかに上洛すべきである 5 。
- 誓紙の提出: 豊臣家への忠誠を改めて示すため、神仏に誓った起請文を提出すること 6 。
- 前田利長の前例という圧力: つい先頃、同様に謀反の嫌疑をかけられた加賀の前田利長が、母を人質として江戸に送ることで潔白を証明し、家康の「道理が通った思し召し」によって許された一件に言及。上杉家も利長のように賢明な判断を下すべきだ、という無言の圧力をかける 10 。
家康の真の狙いは、上杉家の弁明を聞くことではなかった。その目的は、景勝を上洛させることで事実上の人質とし、上杉家の武力を骨抜きにすることにあった。もし上杉家が上洛を拒否すれば、それを「謀反の証」として「逆賊」の烙印を押し、諸大名を動員して討伐するための公的な大義名分を得ることができる 5 。応じても地獄、拒んでも地獄。これは、前田家に対して成功した手法の再現であり、上杉家を完全に「詰み」の状況に追い込むための、計算され尽くした政治的罠だったのである。
第三章:「直江状」の誕生 ― 慶長五年四月十四日、兼続の返書
家康からの問罪使と西笑承兌による詰問状は、会津の上杉家にとって、ある程度予測されたものではあった。しかし、その詰問状に込められた巧妙かつ悪意に満ちた罠を前に、会津城内には激しい緊張が走った。特に景勝の上洛要求は、主君を謀殺、あるいは拘束するための策略であると即座に見抜かれた 5 。家康の要求に唯々諾々と従えば、上杉家は牙を抜かれ、いずれ取り潰されることは必定であった。かといって、これを単純に拒否すれば、家康の思う壺であり、即座に「謀反人」として討伐軍を差し向けられることになる。
この絶体絶命の窮地において、上杉家の対応を一身に背負ったのが、家老・直江兼続であった。寡黙な主君・景勝との綿密な協議の上、兼続が返書を執筆することが決まった。これは、上杉家の総意を、家中の実務と軍事の最高責任者である兼続の名で回答するという形式を取ることで、景勝自身の直接的な言質を避け、かつ上杉家中の固い結束を内外に示すという狙いがあった。
ここで兼続が下した極めて重要な戦略的判断が、返書の宛先であった。兼続は、詰問の黒幕である家康本人にではなく、あくまで詰問状の起草者である西笑承兌に返信する、という形式を選んだのである 12 。これは、後世に「直江状」として知られることになる文書の性格を決定づける、天才的な着想であった。
もし家康に直接返書を送れば、その文面は陪臣である兼続から、主君(景勝)の主君筋にあたる家康への言葉となり、礼節の範囲を逸脱することは絶対に許されない。反論はできても、それは極めて抑制的で形式的なものにならざるを得ない。しかし、返書の宛先を「仲介者である高名な僧侶」とすることで、状況は一変する。形式上は承兌への私信に近い形を取りながら、その内容は確実に家康の目に触れる。この構造を利用することで、兼続は形式的な礼節を保ちつつも、実質的な内容においては家康の詰問を木っ端微塵に粉砕し、痛烈な皮肉と反論、そして恫喝に近い挑発を盛り込むことが可能となった。
「直江状」は、単なる感情的な反論の書ではない。家康が仕掛けた政治的罠に対し、文書という土俵で真正面から反撃し、論理で相手を打ち破り、挑発によって相手をこちらの土俵(=戦場)に引きずり出すという、周到に設計されたコミュニケーション戦略の産物であった。それは、兼続の類稀なる知性と、主家と領民を守るという固い決意、そして天下人にも臆することのない剛胆さの結晶だったのである。
第四章:痛罵の文言術 ― 「直江状」全文の時系列的・逐条的解説
慶長5年4月14日付で記された「直江状」は、家康(西笑承兌)からの詰問に対し、理路整然と、しかし極めて挑発的に反論する、兼続の「文言術」の集大成であった。その内容は、丁寧な言葉遣いの裏に鋭い刃を隠し、相手の論理の矛盾を突き、讒言者をこき下ろし、最後には家康の権謀術数そのものを痛烈に皮肉るという、比類なき名文である。以下に、家康側の詰問と兼続の反論を対比させ、その卓越した論法を解剖する。
家康の詰問と兼続の反論 ― 「痛罵文言術」の解剖
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家康による詰問の要点(西笑承兌状より) |
直江兼続による反論の要旨と「文言術」の解説(直江状より) |
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1. 謀反の噂が立っている。 |
反論要旨: 「当方について色々な噂が流れて内府様(家康)がご不審に思われているとのこと、残念なことです。しかし、都(京都・伏見)においてすら様々な問題が起こるのですから、やむを得ないことです。特に当方は遠国であり、主君景勝は若輩者ですから、噂が流れるのは当然のことであり、全く問題にしておりません」 10。 文言術: 噂の存在をあっさりと認めた上で、それを「都ですらあること」「遠国・若輩ゆえの当然のこと」と位置づけ、全く意に介していないと一蹴する。家康がそのような些事を真に受けていること自体が、天下を預かる者として器が小さいと暗に非難する高等戦術である。 |
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2. 上洛が遅れているのはなぜか。 |
反論要旨: 「景勝の上洛が遅れているとのことですが、一昨年に国替えがあったばかりで上洛し、去年の九月に帰国したばかりです。今年の正月にまた上洛したのでは、一体いつ国の政務を執ればよいのでしょうか。その上、当国は雪国ですから、十月から三月までは何もできません。この事情をご考慮いただきたい」 9。 文言術: 「雪国」という、誰も反論できない地理的・物理的な制約を盾にする。性急な上洛要求がいかに会津の実情を無視した非現実的なものであるかを突きつけ、家康の要求が理不尽極まりないものであると、相手の無理解を強調する。 |
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3. 神指城築城や武備増強は謀反の準備ではないか。 |
反論要旨: 「武具を整えるのは武士の嗜みです。謀反を企むのであれば、むしろ道を塞ぎ、防御を固めるのが常道でしょう。わざわざ道を整備して敵を招き入れやすくする馬鹿がどこにいるでしょうか。このようなことで騒ぎ立てているのは、越後の堀監物(秀治)くらいなものです。彼は戦を知らない無分別者とお考えください。とんでもないうつけ者です」 10。 文言術: 軍事の初歩的な論理を持ち出して、家康の疑惑を「無知」と一刀両断にする。さらに、讒言者である堀秀治を名指しで「うつけ者(愚か者)」と罵倒することで、家康がそのような人物の言説を鵜呑みにしている事実を痛烈に皮肉っている。 |
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4. 異心がないなら誓紙を出すべきだ。 |
反論要旨: 「亡き太閤様(秀吉)の御代から、景勝が律儀者であることは内府様もよくご存じのはずです。それを今になって疑うというのは、どういうことでしょうか。世の中の変化が激しいことは承知しておりますが。景勝に逆心など全くありません。しかし、讒言をする者を調べもせず、一方的に逆心ありと決めつけられては、もはや是非もありません」 10。 文言術: 家康自身が過去に景勝を「律儀者」と評価していた事実を引き合いに出し、現在の家康の言動が自己矛盾していると指摘する。「讒言の真偽を究明しない」という手続き上の不公正さに論点をすり替え、誓紙を出す出さないという土俵から、家康の裁定の正当性を問う土俵へと議論の主導権を握る。 |
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5. (前例として)前田利長は潔白を示した。 |
反論要旨: 「北国の肥前殿(前田利長)の一件も、内府様のお考え通りに決着したとのこと。御威光、浅からざる事と存じます」 10。 文言術: これが「直江状」における最も高度で痛烈な皮肉である。表面的には家康の威光を褒め称える形を取りながら、その実、「前田家を讒言によって脅し、母親を人質に出させて屈服させた」という家康の非道な権謀術数を満天下に暴露している。「あなたのやり方はお見通しですが、我々上杉家はそのような手には乗りませんよ」という、強烈な牽制と宣戦布告に等しい一文である。 |
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6. 弁明が認められれば問題ない。 |
反論要旨: 「讒言をする者を吟味もせずに、釈明のしようがありません。我々には他意などありませんので、そちらでしっかりと事実をお調べになれば、我々もそれに従います」 10。 文言術: 「弁明」や「上洛」の前提条件として、家康側に「讒言者に対する公正な調査」を要求する。これにより、ボールを完全に家康の側に投げ返し、上杉家が上洛しないことの正当性を確保するという、完璧な論理的防御を構築している。 |
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結び |
反論要旨: 「はしたないことも少なからず申し上げましたが、こちらの愚意を申し上げてご諒解をいただくため、憚ることなくお伝えいたしました。恐惶敬白」 10。 文言術: 散々相手を論破し、挑発し尽くした上で、最後は形式的に「愚意」「はしたないこと」と低頭な姿勢を見せる。これにより、この書状が、あくまで「誠意を尽くした返答」であるという体裁を整え、家康がこの書状の無礼さだけを理由に上杉家を罰することの正当性を削ぐという、最後まで計算され尽くした締め方である。 |
この書状は、単なる反論に留まらず、家康の行動の不当性を暴き、上杉家の正義を主張し、そして何よりも、武力衝突も辞さないという上杉家の固い覚悟を示すものであった。兼続のペンは、まさに剣よりも鋭く家康の心胆を突き刺したのである。
第五章:激怒と出陣 ― 直江状が引き起こした波紋と会津征伐
直江兼続によってしたためられた返書は、会津を発ち、伏見城の徳川家康のもとへと届けられた。後世に伝わる通説によれば、この「直江状」を一読した家康は、そのあまりに無礼で挑発的な内容に激怒し、居並ぶ諸大名の前で「もはや景勝の逆心疑いなし。断じて誅伐を加える」と、上杉討伐を宣言したとされる 12 。この家康の「激怒」が、心からの感情の発露であったのか、それとも諸大名を味方に引き入れ、討伐の機運を盛り上げるための計算された政治的パフォーマンスであったのかは議論が分かれるところだが、いずれにせよ、この瞬間、両者の対話の道は完全に閉ざされた。
慶長5年6月、家康は豊臣秀頼の名のもとに、上杉討伐(会津征伐)を正式に布告。諸大名を率いて大坂城を出陣し、東国へと軍を進めた 1 。この家康の東上こそ、佐和山城に蟄居していた石田三成が待ち望んでいた千載一遇の好機であった。家康が政治・軍事の中枢である畿内を留守にした隙を突き、三成は毛利輝元を総大将に担ぎ上げ、反徳川の大名を糾合して挙兵する 1 。天下分け目の関ヶ原の戦いの火蓋が、ここに切って落とされたのである。
この一連の流れを俯瞰すると、「直江状」が果たした役割について、新たな視点が浮かび上がってくる。それは、この書状が、家康を東方に引きつけ、その隙に三成が西で挙兵するという、壮大な「東西挟撃作戦」の引き金を引くために、意図的に書かれたのではないかという見方である 12 。兼続と三成がどの時点から、どの程度具体的な密約を結んでいたかについては、明確な一次史料が乏しく、今なお議論が続いている 17 。しかし、家康の天下掌握を阻止するという共通の目的を持っていた両者が、何らかの連携を取っていた可能性は極めて高い。
この視点に立つならば、「直江状」の真の目的は、家康を説得することでは全くなかったということになる。むしろ、交渉を意図的に決裂させ、家康に武力行使以外の選択肢をなくさせること、つまり家康を挑発し、会津の地に引きずり出すこと自体が、上杉家と三成にとっての戦略目標だったのである。一般的には「直江状が原因で会津征伐が起きた」と理解されているが、因果関係を逆転させ、「会津征伐(家康の東上)を引き起こすために直江状が書かれた」と捉えることも可能なのである。この解釈は、上杉家を単に家康の謀略の被害者としてではなく、天下の情勢を自らの手で動かそうとした、能動的なプレイヤーとして再評価することを可能にする。家康のプライドを完膚なきまでに傷つけ、討伐の大義名分を(逆説的に)与えてしまうほどの挑発的な書状こそが、巨大な敵を本拠地から引き離すための、最も効果的な「餌」だったのかもしれない。
第六章:真贋論争の深層 ― 「直江状」は後世の創作か
「直江状」が関ヶ原の戦いの導火線となったという逸話は、戦国史における最も劇的な場面の一つとして広く知られている。しかし、この著名な文書には、その信憑性を巡る長年の学術論争が存在する。すなわち、「直江状」は本当に兼続が書いたものなのか、それとも後世に創作された偽書ではないのか、という問題である。
この論争の根本的な原因は、兼続が書いたとされる「直江状」の原本が、今日に至るまで発見されていないという事実にある 16 。現在我々が目にすることができるのは、すべて江戸時代以降に作成された写本であり、しかも写本ごとに細かな文言の違いが見られる 16 。この原本の不在と写本の異同が、真贋論争の火種となっている。
偽書説、あるいは後世に大幅に改竄されたとする説の論拠は、主に文献史学的な見地から提示されている。昭和期の歴史家、桑田忠親氏はこれを「後世の好事家の創作」と断じた 10 。近年では、歴史研究者の宮本義己氏が、より具体的な根拠を挙げて改竄説を主張している。その主な論点は以下の通りである。
- 敬語・文言の不自然さ: 当時の武家社会における書状の様式(書札礼)にそぐわない表現が散見される。例えば、「可被尊意安候」は「可被御心安候」とあるべきであり、「多幸々々」のような体言止めも同格以上の相手には用いないなど、文言の細部に不自然な点が多いと指摘する 10 。
- 使者の移動日数の矛盾: 宮本氏の指摘で最も強力な論拠とされるのが、移動日数の問題である。家康の使者(伊奈・河村)は慶長5年4月10日に伏見を出発したと記録されている。一方、「直江状」の写本には、使者が前日の4月13日に会津に到着したと読み取れる記述がある。当時の交通事情を考えれば、伏見から会津までわずか3日間で移動することは物理的に不可能であり、この矛盾は文書が後世に作られた証拠であるとする 10 。
- 人名表記の問題: 書状の中で、豊臣政権の重鎮である増田長盛や大谷吉継を「増右」「大形少」と、敬称を付けずに呼び捨てに近い形で記している。陪臣である兼続が、彼らのような大名をこのように記すのは、身分制社会の礼儀として極めて不自然であると指摘する 10 。
これに対し、直江状は基本的に本物であるとする実在説も根強く主張されている。歴史研究者の桐野作人氏は、偽書説の論拠は決定的なものではなく、書状の内容が当時の緊迫した政治状況と見事に合致していることから、兼続が書いた書状そのものは実在したと論じている 18 。また、歴史家の小和田哲男氏は、書状の骨子は本物であるが、写し伝えられる過程で、講談などでの面白さを追求するあまり、より過激で劇的な表現に改竄されていった可能性を指摘している 17 。実在説の有力な傍証として、上杉家の公式文書集である『歴代古案』に「直江状」の写しが収録されている事実も挙げられる 16 。
この真贋論争は、単に一つの文書の真偽を決めるだけには留まらない。それは、我々に当時の交通事情や通信速度の限界、武家社会の複雑な書札礼、そして何より登場人物たちの心理や政治的意図を、より深く再検証する機会を与えてくれる。たとえ「直江状」が後世に加筆されたものであったとしても、それが江戸時代を通じて広く受け入れられ、一つの「歴史的真実」として定着していったという事実そのものが、この逸話の持つ物語性の強さを証明している。この論争自体が、「直江状」という逸話をより多角的かつ深く理解するための、貴重な材料となっているのである。
第七章:歴史的評価と逸話の変遷 ― 「直江状」が語り継がれる意味
「直江状」の真贋を巡る学術的な論争は今なお続いているが、その歴史的意義は、文書の信憑性とは別の次元で確立されている。真作であれ、改竄作であれ、あるいは完全な創作であったとしても、「直江状」に象徴される上杉家の徳川家康に対する強硬な態度が、家康に会津征伐を決意させ、結果として天下分け目の関ヶ原の戦いを引き起こす直接的なきっかけとなったことは、揺るがしがたい歴史の流れである。この書状は、日本の運命を決定づけた一大決戦の、まさに導火線としての役割を果たしたのである。
この劇的な逸話は、時代を経るにつれて様々な伝説に彩られていった。その代表的なものが、依頼者も言及している「紙幅の裏に暗号が潜ませてあった」という作り話である。このような伝説は、史実としては完全に否定されるものの、逸話が持つ魅力と、それをより面白く、より神秘的に解釈したいという人々の願望から生まれたものである。特に「直江状」が、江戸時代に「往来物」と呼ばれる習字や読書の手本として版本の形で広く流布したこと 20 も、こうした伝説が大衆化する一因となったと考えられる。
そして何よりも、「直江状」は直江兼続という武将のパブリックイメージを決定づけた。この書状は、兼続を単なる有能な行政官僚や武将としてではなく、主君・上杉景勝のため、そして上杉家が掲げる「義」のために、天下人たる徳川家康にさえ一歩も引かずに理と筆で立ち向かった、知勇兼備の「義臣」として描き出した 9 。有名な「愛」の一字を掲げた兜の前立と共に、「直江状」の逸話は、兼続の人物像を形成する中核となり、後世の人々に強い感銘を与え続けてきた。
現代の視点から見ても、「直江状」の逸話が持つ魅力は色褪せない。組織のトップに代わって交渉の矢面に立ち、形式上の礼を尽くしながらも、論理と気迫で自らの主張を断固として貫く兼続の姿は、現代における交渉術や危機管理、そしてリーダーシップ論にも通じる普遍的な示唆に富んでいる。理不尽な圧力に対して、知性と覚悟をもって立ち向かうその姿勢こそが、「直江状」という逸話を単なる過去の物語ではなく、時代を超えて人々の心を惹きつける生きた教訓たらしめているのである。
引用文献
- 関ヶ原の戦いへ 石田三成と上杉景勝の罠?徳川家康が激怒した直江状とは「早わかり歴史授業70 ... - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=fK1n7n22eM0
- 直江兼続の生涯 - 長岡市 https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/ijin/kanetsugu/syougai.html
- 直江兼続ゆかりの長岡・上越を訪ねる - 株式会社ヤマト https://www.yamato-se.co.jp/wasyamato/wisebook09smr/data/372/src/372.pdf
- 上杉景勝は何をした人?「家康を倒す絶好の機会だったのに痛恨の判断ミスをした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/kagekatsu-uesugi
- 上杉景勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
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- file-17 直江兼続の謎 その2~上杉家の関ヶ原~ - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/17/
- www.touken-world.jp https://www.touken-world.jp/tips/38295/#:~:text=1598%E5%B9%B4%EF%BC%88%E6%85%B6%E9%95%B73%E5%B9%B4,%E3%80%8C%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%80%8D%E3%81%A8%E5%AF%BE%E7%AB%8B%E3%80%82
- 直江兼続の甲冑/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/40313/
- 直江状 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6
- 「直江状」を超訳してみました。|北条高時 - note https://note.com/takatoki_hojo/n/ne377f24672aa
- 直江兼続は何をした人?「家康を煽る直江状を送りつけて関ヶ原の戦いを起こした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/kanetsugu-naoe
- 西笑承兌 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/110011/
- 上杉景勝の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38295/
- 徳川家康を挑発!?「関ヶ原の戦い」を引き起こした、あの天才軍師のカリスマエピソード紹介 https://mag.japaaan.com/archives/213443
- 上杉景勝が家康に送った「直江状」は偽文書か? “否定派vs.肯定派”専門家の見解 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10228
- 石田三成の実像564 小和田哲男氏「戦国武将の手紙を読む」の「直江兼続自筆書状」1 https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/201012article_18.html
- 石田三成の実像298 「直江兼続と三成」40 桐野作人氏「直江状の真偽」 https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/200905article_21.html?from_sp
- 「直江状」を特別公開します(9月7日まで) | 新潟県立歴史博物館公式サイト https://nbz.or.jp/?p=7441
- 直江状 · 資料の解説 · 東京大学学術資産等アーカイブズ共用サーバ https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/naoe/page/about