最終更新日 2025-10-25

直江兼続
 ~直江状で皮肉を交え知略の象徴に~

直江兼続が徳川家康に送った「直江状」を分析。その皮肉と論理で家康を挑発し、関ヶ原の戦いの引き金となった経緯と、書状の史料的価値を考察する。

直江状の深層:徳川家康を挑発した一通の書状、その知略と関ヶ原への序曲

序章:天下分け目の前夜 – 慶長五年の政治情勢

慶長三年(1598年)八月、天下人・豊臣秀吉の死は、日本全土を覆う巨大な権力の真空を生み出した。秀吉が遺した統治機構、すなわち五大老・五奉行による集団指導体制は、幼い嫡子・秀頼を頂点に戴くことで辛うじてその体裁を保っていたが、その内実は各有力大名の思惑が渦巻く、極めて脆弱で流動的なものであった 1 。この一触即発の政治的舞台において、後に天下分け目の戦いの引き金となる一通の書状が投じられることになる。それが、上杉家家老・直江兼続によってしたためられた「直江状」である。

豊臣秀吉の死と権力の真空

秀吉の死は、彼一人のカリスマと武力によって抑えられていた諸大名間の対立を一気に表面化させた。特に、武断派と吏僚派の確執は深刻であり、豊臣政権の根幹を揺るがす時限爆弾となっていた。この権力の空白を埋めるべく、最も迅速かつ巧緻に行動を開始したのが、五大老筆頭の徳川家康であった。

徳川家康の台頭と「天下人」への布石

家康は、秀吉が禁じた大名間の私的な婚姻を伊達政宗や福島正則らと結ぶなど、秀吉の遺命を巧みに解釈、あるいは公然と無視することで、自らの政治的影響力を急速に拡大させていった 3 。これは、豊臣政権の忠実な後見人という立場を逸脱し、次なる「天下人」としての地位を確立するための周到な布石であった。当然、こうした家康の専横は、豊臣家の安泰を第一と考える石田三成ら五奉行を中心とする吏僚派の強い反発を招き、両者の対立はもはや修復不可能な段階に達していた 1

会津120万石・上杉家の立場

この緊迫した情勢の中、極めて重要な位置を占めていたのが、会津120万石を領する五大老の一人、上杉景勝であった。家康に次ぐ広大な領地と強大な軍事力を有する景勝は、多くの大名から家康の独走を抑止する最後の砦として期待されていた 5 。しかし、その立場は複雑であった。慶長三年、長年本拠地としてきた越後から会津へ移封されたばかりであり、領内の統治基盤は未だ盤石とは言えなかった 6 。物理的にも、政治の中心である上方とは大きな隔たりがあり、家康の動向を直接牽制するには難しい状況にあったのである 5

この上杉家の会津移封は、元来、秀吉が生前に家康を牽制するために配置した「家康包囲網」の一環であった。関東に封じ込めた家康の背後を脅かす重石として、上杉家は破格の待遇で会津に置かれたのである。しかし、秀吉という絶対的な権力者が世を去ったことで、この地政学的な意味合いは180度反転する。かつて家康を牽制するための拠点であった会津は、逆に家康の本拠地である関東から直接的な軍事圧力を受ける、孤立した最前線へと変貌してしまった。家康にとって、自らの天下獲りの障害となる勢力を排除する上で、上杉家は真っ先に叩くべき対象となっていた。慶長五年の対立は、この地政学的な立場の逆転という、構造的な要因を根底に抱えていたのである。

第一章:疑惑の狼煙 – 家康の詰問状に至る背景

慶長五年(1600年)に入ると、徳川家康と上杉景勝の間の緊張は急速に高まっていく。家康は、上杉家に「謀叛の疑い」という大義名分を掲げるための口実を執拗に探し求めていた。その過程は、周到に仕組まれた政治的圧力と、それに乗じた周辺大名の思惑が複雑に絡み合ったものであった。

1. 上杉家の軍備増強の実態

家康が問題視したのは、上杉家が会津において進めていた一連の行動であった。具体的には、新たな居城として計画された神指城の築城、浪人の積極的な雇用、鉄砲や弓矢といった武具の大量収集、そして領内の街道や橋の整備などが挙げられる 7

上杉家側の論理からすれば、これらは移封されたばかりの新領地における当然の領国経営の一環であった。旧領主・蒲生氏が築いた黒川城は手狭であり、120万石の規模にふさわしい新たな政治・軍事拠点の建設は急務であった 6 。また、街道整備は領内の経済を活性化させ、統治を円滑にするために不可欠なインフラ投資である。しかし、これらの行動は、疑いの目をもって見れば、すべてが大規模な戦争準備と解釈することも可能であった。特に、全国から名のある浪人を召し抱えるという動きは、明らかに軍事力の増強を意図したものと見なされた 8

2. 隣国大名による讒言とその動機

上杉家のこうした動きを、「謀叛の兆候」として徳川家康に再三にわたって報告したのが、隣接する大名たちであった。特に、越後領主の堀秀治と出羽の最上義光は、執拗に上杉家の危険性を訴え続けた 2

彼らの報告には、純粋な情報提供というよりも、自らの利害に基づいた政治的な動機が色濃く反映されていた。堀秀治は、上杉家が越後から会津へ移る際に多くの百姓や技術者を連れて行ったため、深刻な人手不足と財政難に陥っていた 8 。領民が旧領主である景勝を慕い、一揆の気配すらあったことから、秀治は上杉家に対して強い敵愾心を抱いていたのである 10 。一方、最上義光は、長年にわたり上杉家と領地を巡って争ってきた宿敵であり、この機に中央の権力(家康)を利用して上杉家を弱体化させようと目論んでいた。彼らの讒言は、客観的な事実報告というより、ライバルを陥れるための絶好の機会を捉えた政治工作であった。

3. 家康の政治的決断

家康は、これらの報告を単なる情報としてではなく、上杉家を討伐するための「好機」と捉えた。豊臣政権の内部で、同じ五大老である上杉景勝を攻撃するには、誰もが納得する「大義名分」が必要不可欠であった 4 。堀氏や最上氏からの讒言は、その格好の材料となった。

慶長五年四月一日、家康は伊奈昭綱と増田長盛の家臣である河村長門を問罪使として会津へ派遣する 2 。同時に、腹心の政僧である西笑承兌に命じ、上杉家の罪状を問う詰問状を起草させた 3 。その内容は、①軍備増強の真意を問う、②もし謀叛の心がないのであれば、その旨を誓書として提出し、速やかに上洛して弁明せよ、という二点を骨子とする、極めて高圧的なものであった 9

この詰問状は、真相究明を目的としたものではなかった。むしろ、上杉家を政治的に「詰み」の状態に追い込むための、巧妙に仕掛けられた罠であった。もし上杉家が要求に応じて上洛すれば、それは家康の権威に屈服し、恭順の意を示すことに他ならない。一方で、上洛を拒否すれば、それを「謀叛の証拠」として討伐の大義名分が成立する。家康は、上杉家が国替え直後で多忙であることや、会津が雪国であるため冬から春にかけての移動が困難であることを熟知していたはずである 9 。つまり、家康は上杉家が要求に応じられないことを見越した上で、あえてこの詰問状を送った可能性が極めて高い。これは外交交渉の形をとりながらも、実質的には開戦に向けた最後通牒に他ならなかったのである。

第二章:会津の応酬 – 詰問状と「直江状」のリアルタイム再現

徳川家康によって放たれた詰問状という名の矢は、上杉家の心臓部である会津へと突き刺さった。これに対する上杉家の応答が、歴史を大きく動かすことになる。その応酬は、緊迫した雰囲気の中で、わずか二日間のうちに繰り広げられた。

慶長5年4月13日・会津

家康の問罪使、伊奈昭綱と河村長門の一行が会津に到着したのは、慶長五年四月十三日のことであった 9 。彼らは直ちに上杉景勝、そして家老の直江兼続ら重臣たちと対面した。城内の広間には、張り詰めた空気が漂っていたであろう。

使者はおもむろに、家康の意を受け西笑承兌が筆を執った詰問状を取り出し、その内容を読み上げた。その声は、儀礼的ながらも威圧的な響きを帯びていたと想像される。「内府様(家康)におかせられましては、景勝卿が領内にて武具を揃え、新たに城を築き、道を通すなど、豊臣家に対し奉り、謀叛の準備を進めているとの報に深くご懸念であられる。もし逆心なきこと真(まこと)ならば、その証として誓書を差し出し、速やかに上洛して直接弁明されよ。さもなくば、天下に対する反逆と見なさざるを得ぬであろう…」。この言葉は、弁明の機会を与えるという体裁をとりながらも、実質的には服従か、さもなくば戦争かの選択を迫るものであった。

慶長5年4月13日夜~14日未明・会津城内

詰問状を受け取った上杉家中は、深夜まで激しい議論を戦わせた。全面的な恭順を主張する者、あくまで武士の意地を貫き、徹底抗戦を唱える者。意見は二分したであろう。この重大な局面で、議論の主導権を握ったのが直江兼続であった。

兼続は、家康の要求が単なる詰問ではないこと、そして戦の口実を探すための巧妙な罠であることを見抜いていた。ここで中途半端な弁明をしたり、安易に誓紙を提出したりしても、いずれ別の難癖をつけられて滅ぼされるだけだと判断した。家康の狙いが上杉家の屈服あるいは殲滅にある以上、相手の土俵に乗って交渉する道はすでに閉ざされている。ならば、もはや下手に出る必要はない。むしろ、論理と正義はこちらにあることを天下に堂々と示し、家康の不当性を満天下に知らしめるべきである。兼続はそう決意した。主君・景勝もまた、この兼続の意見を全面的に支持したと推察される。上杉家としての返答は、単なる弁明書ではなく、家康に対する「反論書」となることが決定した瞬間であった。

慶長5年4月14日・会津

兼続は、一晩のうちに返書を書き上げた。これが、後世に「直江状」として知られることになる書状である。その宛先は、詰問状の差出人である家康本人ではなく、その筆者である西笑承兌とされた 9 。これは、五大老である家康と直接やり取りするのではなく、あくまで家臣である兼続が、家康の使僧である承兌に返答するという形式をとることで、儀礼を保ちつつも、その内容の辛辣さを際立たせる効果を狙ったものであろう。

翌四月十四日、完成した書状は家康の使者に手渡された 9 。兼続は、伊奈昭綱と河村長門に対し、あくまで丁重だが、しかし揺るぎない毅然とした態度で書状を差し出したと伝えられる。「こちらが、当家からの返答にござる。内府様のご懸念に対し、我らが偽らざる真意を書き記した。詳しくは、承兌様にお目通しいただきたく存ずる」。この時点では、兼続はその書状に込められた恐るべき挑発の内容を微塵も感じさせなかったであろう。使者たちは、こうして天下分け目の戦いの導火線とも言うべき一通の書状を、その内容を知らぬまま、家康のもとへと持ち帰ることになったのである。

第三章:「直江状」の徹底解剖 – 皮肉と論理の多層構造

「直江状」は、単なる感情的な反発や開き直りの文書ではない。それは、徳川家康の詰問を一つひとつ丁寧に取り上げ、論理と皮肉、そして法的な正当性を織り交ぜながら完璧に論破し、逆に家康自身の矛盾と不当性を天下に問う、極めて高度な知略の産物であった。その多層的な構造を解剖することで、兼続の非凡な知性が浮かび上がってくる。

まず、家康方の詰問とそれに対する兼続の反論の骨子を対照表で示すことで、その論理構造の全体像を明確にしたい。

家康方の詰問要点

「直江状」における反論・皮肉

分析・考察

1. 謀叛の疑いがある

「讒言(ざんげん)する者を調べもせず、一方的に疑うのは、家康公にこそ裏表があるのではないかと世間は見るでしょう」 5

相手の非難をそのまま相手に跳ね返す「カウンター」論法。公平な調査を要求することで自らの正当性を主張し、家康の裁定の不当性を暗に批判している。

2. 速やかに上洛せよ

「昨年九月に国に帰ったばかり。しかも当国は十月から三月まで雪で何もできぬ。いつ政務を行えと?若輩者ゆえ噂が立つのは仕方ないが、それを問題視するのはおかしい」 9

「雪国」という物理的に反論不可能な理由を提示し、上洛要求が非現実的であることを論証。さらに「若輩者」と謙遜しつつ、遠国の事情を無視した中央の傲慢さを皮肉っている。

3. 武具を収集している

「上方の武士は茶器などを集めるが、我々田舎武士は鉄砲や弓矢を集めるのが趣味です」 5

最も有名な皮肉。軍備増強という深刻な嫌疑を「田舎者の趣味」と矮小化することで、相手の告発を一笑に付す、極めて高度なレトリック。相手を侮辱しつつも、直接的な罵倒を避ける巧妙さが見られる。

4. 道や橋を整備している

「越後は元々上杉の国。堀秀治ごときを潰すのに道を造る必要などない。謀叛を企てるなら道を塞ぐはず。道を造って攻めやすくする馬鹿がどこにいるか。戦を知らぬ無分別者だ」 7

軍事上の常識(攻めるなら道を造り、守るなら道を塞ぐ)を持ち出し、讒言の内容がいかに非論理的であるかを徹底的に論破。「うつけ者」という痛烈な言葉で讒言者(堀氏)を罵倒し、それを信じる家康をも暗に批判している。

5. 誓紙を提出せよ

「去年から何通も誓紙が反故にされている。もはや約束も誓いも意味がない」 9

家康自身が他の大名との誓いを破っている事実(伊達政宗との婚姻など)を暗に突きつけ、「約束を守らないあなたに誓いを立てても無意味だ」と、家康の信頼性の欠如を痛烈に批判している。

この書状の真骨頂は、個々の反論の巧みさにある。例えば、武具収集に関する詰問に対し、「上方の武士は茶器などを集めるが、我々田舎武士は鉄砲や弓矢を集めるのが趣味です」と返した一節は、その代表例である 5 。これは、深刻な軍事疑惑を「田舎者の素朴な趣味」という次元にまで引き下げて矮小化する、見事なレトリックである。相手の告発の深刻さを無効化し、一笑に付すことで、詰問そのものの権威を失墜させている。

また、街道整備に関する反論は、兼続の論理的思考の鋭さを示している。「謀叛を企てるのであれば、むしろ道を塞ぎ、防御を固めるのが軍事の常識であろう。わざわざ敵が攻めやすいように道を整備する馬鹿がどこにいるか」と、讒言の内容がいかに非論理的で、軍事的常識に欠けているかを徹底的に論破する 9 。そして、讒言者である堀秀治を「戦を知らぬ無分別者」「とんでもないうつけ者」と痛烈に罵倒することで、そのような愚かな讒言を鵜呑みにする家康の判断力をも暗に貶めているのである。

さらに、誓紙の提出要求に対しては、「去年から数通の起請文が反故にされている」と述べ、誓いそのものが意味をなさない状況になっていると指摘する 9 。これは、家康自身が秀吉の遺命に背き、大名間の婚姻禁止などの誓いを破っている事実を突きつけた、極めて痛烈な皮肉である。「約束を守らないあなたに、今さら誓いを立てて何の意味があるのか」という強烈なメッセージは、家康の行動の正当性を根底から揺るがすものであった。

このように、「直江状」は単なる反論書ではなく、家康の詰問を逆手に取り、その論理的矛盾、不当性、そして信頼性の欠如を暴き出すための、計算され尽くした「告発状」でもあった。兼続は、この一通の書状によって、上杉家の立場を防御するだけでなく、家康を道義的に攻撃する側に回ることに成功したのである。

第四章:激震と波紋 – 「直江状」がもたらした直接的影響

直江兼続によって放たれた一通の書状は、瞬く間に日本の中枢を揺るがし、天下の形勢を不可逆的に動かしていく。それは、計算された挑発であり、壮大な戦略の幕開けでもあった。この書状がもたらした政治的・軍事的な連鎖反応は、やがて関ヶ原の戦いへと直結していくことになる。

家康の激怒と会津征伐の決定

会津から戻った使者より「直江状」を受け取った徳川家康は、その「傲慢無礼」な内容に激怒したと、『徳川実紀』をはじめとする多くの史料は伝えている 9 。この「激怒」は、家康個人の感情の発露であったと同時に、諸大名に対して上杉討伐の正当性をアピールするための、極めて効果的な政治的パフォーマンスでもあった。上杉家が弁明を拒否し、あまつさえ天下の徳川家康を侮辱したという事実は、家康が待ち望んでいた完璧な「大義名分」となったのである。兼続の書状は、皮肉にも家康に最高の攻撃材料を提供してしまった。

これを受け、慶長五年六月二日、家康はついに関東の諸大名に対して会津征伐の陣触れを発令する 2 。そして六月十六日には、豊臣秀頼からの激励と軍資金を受け、自ら総大将として大軍を率いて大坂城を出陣した 2 。豊臣恩顧の大名を多数含むこの遠征軍は、「豊臣家への謀叛人・上杉景勝を討つ」という、豊臣政権としての公式な戦いであった 4

石田三成の挙兵 – 兼続の計算

家康が主力を率いて東国へ向かい、政治の中心である畿内が手薄になることは、反家康派の筆頭である石田三成らにとって、千載一遇の好機であった 1 。兼続は、この状況を意図的に作り出すために「直江状」を利用したのではないか、という説は古くから根強く存在する。すなわち、家康を会津におびき寄せ、その隙に三成が畿内で挙兵し、東の上杉軍と西の三成軍が家康軍を挟み撃ちにするという、壮大な「東西挟撃策」である 7

この密約の存在を直接証明する一次史料は発見されていないが、状況証拠は兼続の計算の存在を強く示唆している。もし上杉家が家康に対して曖昧な態度をとり続ければ、家康は自らにとって最も有利なタイミングと口実を見つけて攻撃を仕掛けてきたであろう。その場合、上杉家は孤立無援のまま各個撃破される危険性が高かった。しかし、「直江状」によって家康を即座に行動させることで、①家康の主力を会津に引きつけ、②畿内を空にさせ、③三成の挙兵を促す、という一連の連鎖反応を引き起こすことが可能となる。これは、徳川家康という巨大な敵に対し、受動的に戦うのではなく、自らが望むタイミングと地政学的状況(東西挟撃)を創り出すための、極めて能動的でリスクの高い戦略であったと言える。

関ヶ原への道

家康の思惑通り、そしておそらくは兼続の計算通りに、事態は進行した。家康率いる会津征伐軍が七月二十四日、下野国小山(現在の栃木県小山市)に到着した際、石田三成らが畿内で挙兵したという報せが届く 2 。ここで歴史的に有名な「小山評定」が開かれ、家康は諸将の意見をまとめた上で、会津征伐を中止し、全軍を西に返して三成を討つことを決定した 13

これにより、「直江状」に端を発した上杉家と徳川家の二者間の対立は、徳川家康を盟主とする東軍と、石田三成を主導者とする西軍が日本の覇権を賭けて激突する、全国規模の大戦へと発展した。直江兼続の一通の書状は、まさしく天下分け目の戦いである「関ヶ原の戦い」の幕を開ける号砲となったのである 1 。結果的に西軍は敗北し、東西挟撃策は失敗に終わるが、その構想の壮大さと、一通の書状で天下の形勢を操ろうとした兼続の知略の深さは、特筆に値する。

結論:知略の象徴か、後世の創作か – 「直江状」の歴史的評価

直江兼続が送ったとされる「直江状」は、その劇的な内容と歴史に与えた甚大な影響から、戦国時代の逸話の中でも特に強い輝きを放っている。しかし、その史料的価値については、現代の歴史学においてなお議論が続いている。この逸話の歴史的評価を、後世への影響と史料批判的視点の両面から総括する。

知将・直江兼続像の形成

江戸時代を通じて、「直江状」の逸話は講談や軍記物語の格好の題材として繰り返し語られた。その中で、直江兼続は、天下人・徳川家康を相手に一歩も引かず、理路整然と、そして時には痛烈な皮肉を交えて反論した「知略と義の武将」として理想化され、そのイメージが民衆の間に定着していった 15 。特に、主君・上杉景勝への忠誠を貫き、巨大な権力に屈しない反骨の精神は、多くの人々の共感を呼び、兼続を戦国時代を代表する「知将」の一人として象徴する上で、この逸話は決定的な役割を果たした。

歴史学における真贋論争

一方で、学術的な観点からは、「直江状」はその存在自体にいくつかの疑問符が付けられている。最大の理由は、この書状の原本が発見されておらず、現存するのは後世に書写された複数の写本のみであるという点である 9 。そのため、研究者の間では長年にわたり真贋論争が繰り広げられてきた 11

  • 偽作説(否定派): 桑田忠親氏や中村孝也氏に代表されるこの説は、書状の内容があまりに挑発的で、当時の外交儀礼を著しく逸脱している点を指摘する。また、文体や語彙に後世の創作物に見られる特徴があることなどを根拠に、「後世の好事家の創作」であると結論付けている 11
  • 肯定説: 渡辺三省氏や笠谷和比古氏らは、書状の内容が当時の政治情勢や上杉家の置かれた立場とよく合致しており、矛盾がない点を評価する。家康と景勝が同じ五大老という対等の立場にあったことを考えれば、その家臣である兼続が強気な態度に出ることは不自然ではないとし、内容の大部分は信頼できると主張している 11
  • 近年の見解: 近年では、白峰旬氏のように、これを「家康への挑戦状」と捉える従来の解釈自体を見直す動きもある。「直江状」の主眼は家康への挑発ではなく、上杉家と堀家の領地紛争に関して、家康に公正な裁定を求めたものであったという新説である 11 。この説によれば、書状はより現実的な外交文書として理解されることになる。

歴史的意義の再評価

たとえ現在我々が目にする「直江状」の文面が、後世の講談師などによって面白おかしく潤色された部分を含むものであったとしても、この逸話の歴史的核となる部分まで否定することはできない。幕府の公式史書である『徳川実紀』にも、家康が上杉方からの返書を見て激怒し、会津討伐を決意したという趣旨の記述が存在する 9 。これは、慶長五年四月に、上杉方が家康を挑発し、その逆鱗に触れるような何らかの文書を送ったこと自体は、歴史的な事実であった可能性が極めて高いことを示している。

最終的に、「直江状」はその真贋を巡る学術的な論争を超えて、日本史上極めて重要な意味を持つ。それは、豊臣政権末期の、大名間の権力闘争が頂点に達した一触即発の緊張状態を象徴する出来事であった。そして、その一通の書状が、結果として天下分け目の関ヶ原の戦いの直接的な引き金となったことは紛れもない事実である。知略の象徴として、また歴史の転換点として、「直江状」の逸話は今後も長く語り継がれていくであろう。

引用文献

  1. 関ヶ原の戦いへ 石田三成と上杉景勝の罠?徳川家康が激怒した直江状とは「早わかり歴史授業70 ... - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=fK1n7n22eM0
  2. 会津征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E5%BE%81%E4%BC%90
  3. 慶長出羽合戦~回想~ - やまがた愛の武将隊【公式Webサイト】 https://ainobushoutai.jp/free/recollection
  4. なぜ徳川家康は関ヶ原の戦いで圧勝できたのか…「会議の空気を読む」が最重要のスキルと言えるワケ 「やりたくない」とは言い出せない空気をつくりあげた (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/61356?page=2
  5. 直江兼続の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34217/
  6. file-17 直江兼続の謎 その2~上杉家の関ヶ原~ - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/17/
  7. 「直江状」を超訳してみました。|北条高時 - note https://note.com/takatoki_hojo/n/ne377f24672aa
  8. 裏切りと讒言 上杉景勝の運命を変えた関ヶ原合戦前夜 | 戦国 ... https://sengoku-his.com/2322
  9. 直江状 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6
  10. 会津征伐〜関ヶ原のきっかけとなった幻の戦いをわかりやすく解説 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/1041/
  11. 上杉景勝が家康に送った「直江状」は偽文書か? “否定派vs.肯定派 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10228
  12. 直江兼続は何をした人?「家康を煽る直江状を送りつけて関ヶ原の戦いを起こした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/kanetsugu-naoe
  13. www.synchronous.jp https://www.synchronous.jp/articles/-/1224#:~:text=%E6%85%B6%E9%95%B75%E5%B9%B4%EF%BC%881600%EF%BC%897,%E5%87%BA%E9%99%A3%E3%81%AF%E9%A0%86%E8%AA%BF%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
  14. 直江兼続 - BS-TBS THEナンバー2 ~歴史を動かした影の主役たち~ https://bs.tbs.co.jp/no2/14.html
  15. 名補佐役、直江兼続が何より大切にした"人の和"|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-025.html