直江兼続
~直江状送り、皮肉交え礼失わぬ文才~
直江兼続の「直江状」文才譚を解剖。家康への詰問に対する皮肉と礼節に満ちた返書の史実性、真贋論争を検証。関ヶ原の引き金となった書状のレトリックと、後世に形成された「文才」の多層的な意味を探る。
『直江状』文才譚の徹底解剖—慶長五年の「皮肉」と「礼節」の時系列分析—
序章:『直江状』逸話の核心—「文才」は史実か、創作か
直江兼続にまつわる逸話の中で、ひときわ異彩を放つのが、慶長五年(1600年)に徳川家康へ送ったとされる『直江状』に関する「文才譚」である。この逸話の通説的な理解は、「天下の実権を掌握しつつあった徳川家康からの詰問に対し、その家臣である直江兼続が、一歩も引かぬどころか、痛烈な皮肉を織り交ぜて反論し、それでいて書状としての表面的な礼儀は失わなかった」というものである。この兼続の「文才」が家康を激怒させ、関ヶ原の戦いの直接的引き金となる会津征伐(上杉征伐)を決意させたとされる 1 。
本報告書の目的は、この『直江状』をめぐる「文才譚」が、慶長五年の緊迫した政治状況下におけるリアルタイムの「史実」なのか、あるいは関ヶ原の戦いという歴史的転換点を引き起こした「名文(あるいは悪文)」として、後世に「創作」された物語なのかを、時系列に沿って徹底的に解剖することにある。
ご要望の核心である「リアルタイムな会話内容」や「その時の状態」の復元は、歴史学的に極めて困難な作業を伴う。なぜなら、同時代に記録された一次史料に近い情報と、江戸時代に入ってから編纂された史料(逸話集や幕府の公式史書)が描く「物語」との間には、しばしば大きな乖離が存在するからである。本報告書では、同時代史料(例えば『鹿苑日録』など)が伝える「事実」の断片 3 と、後世の編纂史料(特に幕府の公式見解を反映した『徳川実紀』 4 や、戦国武勇伝を集めた『常山紀談』 5 )が描く「物語」を明確に区別し、提示する。
この逸話の分析は、単純な文面の解釈にとどまらず、以下の三つの階層的な分析を必要とする。
第一に、詰問状と返書(『直江状』)が交わされるに至った、慶長五年当時の政治的背景と時系列的な緊張関係の解明。
第二に、現存する『直江状』の写本(6 参照)に見られる、「皮肉」と「礼節」の具体的な文言のレトリック分析。
第三に、この逸話の根幹を揺るがす『直江状』そのものの真贋論争(偽書説、後世改竄説)の検証 2である。この学術的議論を避けて、兼続の「文才」を語ることはできない。
第一部:発端—慶長五年・『直江状』前夜の時系列
『直江状』が作成されるに至った背景には、豊臣秀吉の死後に急速に流動化した政治情勢がある。
時系列(慶長4年~5年春):緊迫する政治情勢
慶長三年(1598年)八月の豊臣秀吉の死後、豊臣政権内部の権力均衡は崩壊した。五大老筆頭であった徳川家康は、秀吉の遺命(特に大名間の私的な婚姻の禁止)を破り、伊達政宗や福島正則らと次々に縁組を進め、その影響力を急速に拡大させた。慶長四年(1599年)、五大老の一人であり家康に対抗しうる唯一の実力者であった前田利家が死去すると、家康の権勢を阻む者は事実上いなくなった。家康は「内府(内大臣)」の官職名で呼ばれ、伏見城にあって天下の実権を握り、豊臣家の公儀を代行する存在として振る舞い始める。
一方で、同じく五大老の一人であった上杉景勝は、慶長三年、秀吉の命により越後春日山から会津120万石へ移封されたばかりであった。景勝と家老の直江兼続は、新たな領国である会津において、大規模な検地や城の普請、家臣団の再編といった領国経営を急ピッチで進めていた。
「謀反」の嫌疑:家康の詰問の論拠
この上杉家の領国経営における一連の動きが、家康の疑惑を招くことになる。上杉家は会津において、新たな本城として神指城(こうざしじょう)の大規模な築城を開始し、領内の道や橋を整備し、さらに大量の武具(鉄砲や弓矢)を収集していた。これらの行動は、『直江状』における兼続の反論から逆算して、家康側の詰問内容であったことが推定される 6 。
これらの軍備増強とも取れる動きは、特に上杉家の旧領・越後を治めていた堀秀治や、その家老・堀直政らによって、「景勝に謀反の疑いあり」として、逐一家康へ報告(讒言)された。堀氏にとって、隣国会津での上杉家の武備充実は、直接的な脅威であった。近年の研究では、この上杉家と堀家の領地境界や旧領統治をめぐる対立こそが、問題の根本であったとする見解も有力である 2 。兼続が後に『直江状』において、堀氏を名指しで「讒人(ざんじん)」と激しく罵っていることからも、上杉側の強い認識がうかがえる 2 。
家康の「詰問状」(内府違いの条々)の送付
慶長五年春、家康は、豊臣政権の公儀として、これら一連の「謀反の嫌疑」について釈明を求めるため、上杉景勝に対して上洛を命じた。しかし景勝はこれに応じなかった。
ここに、ご要望の「リアルタイムな会話」の連鎖が始まる。家康は、上杉家との交渉役として、豊臣政権下で外交僧として重用されていた禅僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)を仲介役として選んだ 2 。家康は承兌を通じ、景勝の「不審な点(内府違いの条々)」を箇条書きにした詰問状を会津へ送付させた。
この家康(承兌)からの詰問状の原本も現存していない。しかし、兼続の『直江状』が、この詰問状に対する逐条的な反論という形式をとっているため、その内容はほぼ正確に復元可能である 6 。主な詰問内容は、「景勝がなかなか上洛しないこと」「武具を不法に集めていること」「道や橋を整備していること」などであり、これらが謀反の証拠ではないか、と厳しく問いただすものであった。
第二部:『直江状』の作成—慶長五年四月・会津の「状態」
家康からの詰問状は、会津の上杉家にとって、単なる疑惑の照会ではなく、事実上の最後通牒であった。
時系列(慶長5年4月14日頃):運命の返書
家康からの詰問状が会津に到着したのは、慶長五年四月上旬頃と推定される。『直江状』の日付は四月十四日であり、これが返書として作成された日付と見られる。
ご要望の「その時の状態」として、この時期の会津・上杉家中は極度の緊張状態にあったと推察される。家康の要求は明確で、「釈明のために景勝自らが上洛せよ」というものであった。これに応じれば、事実上、家康の権門に「服従」することになる。最悪の場合、景勝が拘束・詰問され、領地没収などの処分を受ける可能性もあった。
一方、この要求を拒否することは、豊臣家の公儀(を代行する家康)に対する「謀反」と公的に認定されることを意味し、即座に家康による討伐(会津征伐)を招くことになる。上杉家は、服従か、開戦か、という二者択一を迫られた「状態」にあった。
執筆者の「状態」と意図:兼続の選択
ご要望にある、この時点での主君・景勝と兼続の「リアルタイムな会話内容」については、残念ながら史料は完全に沈黙している。どのような議論を経て、あの返書が作成されたのかを直接示すものはない。
しかし、残された『直江状』の文面から、執筆者・兼続の「状態」と意図を多層的に推察することは可能である。
- 推察される意図(第一層:公的な弁明): 家康の詰問に対し、論理的に反論し、上杉家の潔白を証明すること。軍備増強は領国経営の範囲内であり、謀反の意図はない、という建前を主張する 6 。
- 推察される意図(第二層:讒言の糾弾): この問題の本質は、堀秀治らによる「讒言」にあると断じ、家康に対し、讒言者を罰し「公平な裁定」を求めること 2 。
- 推察される意図(第三層:武門の意地と挑発): 家康の要求(上洛)を事実上拒否するにあたり、讒言者の言い分のみを信じ、一方的に疑いをかける家康の姿勢こそが不当であると主張すること。そして、上杉家としての「武門の意地」を示し、家康の真意(天下取りの野心)を逆に問いただすこと。
なぜ「直江兼続」名義か
この返書が、主君である上杉景勝の名義ではなく、家老である直江兼続の名義で出された点も、この逸話の重要な分析対象である。これには二つの相反する解釈が存在する。
一つは、外交的な配慮とする説である。五大老である景勝が、同じ五大老である家康に直接返書を出せば、その内容がどのようなものであれ、両者の関係は決定的となる。あえて家老である兼続が「陪臣」として返書を出すことで、これはあくまで家臣の独断によるものであり、景勝本人にはまだ交渉の余地が残されている、という表向きの体裁を整えた可能性である。
もう一つは、これ自体が意図的な「無礼」あるいは「挑発」であったとする解釈である。事実上の最高権力者である内府・家康公からの公式な詰問に対し、陪臣(家臣の家臣)に過ぎない兼続が返書を出すこと自体が、家康を格下の相手として扱う侮辱的な行為であった、という見方である。
この『直江状』は、西笑承兌の使者を通じて、京都の承兌のもとへ送られ、やがて家康の目に触れることとなる。
第三部:文面の徹底解剖—「皮肉」と「礼節」のレトリック
ご依頼の「皮肉を交えても礼を失わなかった」という文才譚の核心、すなわち『直江状』(現存する写本 6 に基づく)のレトリックを詳細に分析する。この文書は、表面的な「礼節」と、その裏に隠された痛烈な「皮肉」および「挑発」が、精緻に組み合わさって構成されている。
第一の柱:「礼節」の体裁
まず、この文書が「礼を失わなかった」とされる根拠は、その形式的な体裁にある。
- 分析: 文中、徳川家康への呼称は、一貫して「内府様」という敬称で統一されている 2 。また、全体を通して丁寧語や謙譲語が用いられており、あくまで豊臣政権下の最高権力者の一人に対する公式な弁明書、あるいは意見書としての体裁を厳格に守っている。
- 考察: 後世(江戸時代)の文法や敬語の用法から見て「不自然」であるとの指摘(これが偽書説の一因となる 2 )もあるものの、形式上は最大限の敬意を払っているように装われている。この「礼節」の存在こそが、後に続く「皮肉」の鋭さを際立たせるレトリック上の仕掛けとなっている。
第二の柱:「皮肉」と「挑発」のレトリック
『直江状』は、家康の詰問項目(内府違いの条々)に対し、逐条的に反論する中で、日本文学史上にも稀に見る痛烈な皮肉を織り交ぜる。
皮肉(1)対「武具収集」詰問
6
- 家康の詰問(推定): 謀反のために武具(鉄砲や弓矢)を集めているのではないか。
- 兼続の応答(原文抜粋): 「...第二武具集候こと、 上方の武士は今焼・炭取・瓢べ以下人たらし道具 御所持候、 田舎武士は鉄砲弓箭の道具 支度申し候、其国々の風俗と思召し御不審あるまじく候...」
- 分析: これは本状における最も有名な皮肉の一つである。家康を中心とする上方(京・伏見)の武士たちが、茶器(今焼、炭取、瓢べ=ひょうたん、茶器)といった、いわば「人をたらし込むための道具(=政治工作や社交のための道具)」に現を抜かしているが、我々「田舎武士」は、武具を持つのが本来の務めであり、それが「風俗」なのだ、と強弁する。家康の詰問の論点を「風俗の違い」という文化的相対主義にすり替えつつ、上杉の武骨さと上方武士の軟弱さ・政治性を対比させる、極めて高度な文化的皮肉である 2 。
皮肉(2)対「道作り」詰問
6
- 家康の詰問(推定): 謀反のために領内の道や橋を整備しているのではないか。
- 兼続の応答(原文抜粋): 「...讒人の 堀監物 (堀秀治)ばかり道作に畏れ候て、色々申鳴らし候、 よくよく弓箭を知らざる無分別者 と思召さるべく候...(中略)...景勝に天下に対し逆心の企てこれあり候わば、諸境目、堀切、道を塞ぎ、防戦の支度をこそ仕らるべく候へ...」
- 分析: ここでは、讒言者である堀秀治を名指しで「弓矢のことも知らない無分別者」と断じている。さらに、「もし本当に謀反を企てるなら、敵の侵攻を防ぐために国境の道を塞ぎ、堀を切って防備を固めるはずだ。四方八方へ道を作ってどうやって防戦するのか」と、軍事常識の観点から詰問の論理的矛盾を突き、家康に讒言を吹き込んだ堀氏を「愚か者」と徹底的に嘲笑している。
皮肉(3)対「上洛要求」詰問
6
- 家康の詰問(推定): 潔白であるならば、誓詞を出し、即刻上洛して釈明せよ。
- 兼続の応答(原文抜粋): 「...讒人申分有らまし仰せ越され、きっと御糾明候てこそ御懇切の験したるべき処に...『別心なきに於ては上洛候へ』などと、 乳呑子の会釈 、是非に及ばず候...」
- 分析: 「(讒言者の言い分を一方的に信じ)『疑わしいなら上洛せよ』などというのは、まるで**乳飲み子の理屈(会釈)**のようだ。話にならない」と、家康の要求そのものを一蹴している 2 。これは本状の中で最も直接的かつ侮蔑的な表現であり、家康の要求の正当性そのものを、考えうる限りで最も挑発的な言葉(「赤子の言い分」)で否定するものである。
皮肉(44)対「景勝の逆心」詰問
6
- 家康の詰問(推定): 景勝に二心(逆心)があるのではないか。
- 兼続の応答(原文抜粋): 「...讒人御引合せ是非御尋ね然るべく候、左様これなく候 内府様御表裏 と存ずべく候事。」
- 分析: 「(我々が潔白を証明するために)讒言者(堀秀治ら)を呼び寄せて、我々と直接対決させ、是非を尋問なさるべきだ。もしそれ(=公正な裁判)をなさらないのであれば、それは(上杉ではなく) 内府様(家康公)ご自身に表裏(二心)がおありになるからだ 、と存じます」と述べている。これは単なる皮肉を超えた、痛烈な「告発」である。上杉に向けられた疑惑を、そのまま家康の不誠実さ・不公正さの証拠として突き返している。
【挿入表】『直江状』レトリック対照表:家康の詰問と兼続の「文才」
ご要望の「リアルタイムな会話」の緊張感を視覚的に再構成するため、推定される家康の「詰問」と、それに対する兼続の「応答」 6 を、そのレトリック分析と共に以下の表に整理する。
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推定される家康の詰問(内府違いの条々) |
直江兼続の応答(『直江状』より抜粋・) |
レトリック分析(文才譚の構成要素) |
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1. 景勝が上洛しないのは、謀反の証拠ではないか。 |
「当国は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候...」(第二条) |
論理的弁明(礼節) :一見、誰もが納得しうる地理的・気候的理由を提示し、反論の余地を封じる。 |
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2. 謀反のために武具を集めているのではないか。 |
「上方の武士は...人たらし道具...田舎武士は鉄砲弓箭...其国々の風俗...」(第九条) |
文化的皮肉(文才) :詰問の論点を「武具」から「風俗」にすり替え、相手(上方武士)を暗に軟弱・政治的と批判する。 |
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3. 謀反のために道や橋を整備しているのではないか。 |
「堀監物(堀秀治)...よくよく弓箭を知らざる無分別者...」(第十条) |
論理的嘲笑(文才) :讒言者を「軍事常識のない無分別者」と罵倒し、詰問の前提そのものを破壊する。 |
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4. 潔白なら、誓詞を出して上洛せよ。 |
「...『別心なきに於ては上洛候へ』などと、乳呑子の会釈...」(第十一条) |
直接的侮辱(挑発) :家康の要求(=事実上の服従命令)を「赤子の理屈」と断じ、議論のテーブルを覆す。 |
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5. 上杉家は豊臣家に背く(=景勝に逆心がある)気か。 |
「...讒人御引合せ...左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事。」(第五条) |
告発的詰問(挑発) :「疑いを晴らす公正な場を設けないのは、貴方(家康)に裏があるからだ」と、疑惑をそのまま相手に投げ返す。 |
第四部:「激怒」のリアルタイム—書状受領と会津征伐の決定
兼続の「文才」の産物である『直江状』は、会津を発ち、家康の手元へと渡った。この逸話のクライマックスは、書状を受け取った家康の「状態」である。
時系列(慶長5年4月下旬~6月):『直江状』の到達と家康の反応
慶長五年四月十四日に会津で書かれた『直江状』は、仲介役の西笑承兌のもとへ届き、承兌から家康へと内容が言上された。この時期、家康は大坂あるいは伏見におり、諸大名を集めて上杉家の動向を注視していた。
ご要望の「リアルタイムな会話」を追う上で、この「家康の反応」は最も重要な場面であるが、史料の取り扱いには細心の注意を要する。
「激怒」の史料的検証:何が「リアルタイム」か
この逸話を構成する要素を、「事実」と「物語」に弁別する必要がある。
- 事実(同時代史料): 『鹿苑日録』(鹿苑院(西笑承兌)の日記を中心とする記録集)や、当時家康の周辺にいた増田長盛・長束正家らが家康に送った書状など、同時代の記録から、 「西笑承兌が直江兼続の返書を受け取った」という事実、そして「その返書の内容によって家康が激怒した」 (あるいは激怒したという情報が広まった)ことは、歴史的 事実 として確認できる 3 。
- 物語(後世の逸話): 一方、ご要望の「リアルタイムな会話内容」や「その時の状態」の具体的な描写、例えば「家康が書状を読み、顔を真っ赤にして床に叩きつけ、『無礼千万!討伐してくれる!』と叫んだ」といったドラマティックな場面は、 同時代史料には一切見られない 。これらの描写は、江戸時代に入ってから成立した『常山紀談』 5 や、特に幕府の公式史書である『徳川実紀』 4 において、 後世に「物語化」された描写 である可能性が極めて高い。
『徳川実紀』が描く「状態」
江戸幕府によって編纂された公式の歴史書である『徳川実紀』は、この場面の「公式見解」を示している。それによれば、『直江状』は「傲慢無礼の極み」であり 4 、豊臣家の公儀を預かる家康に対する許しがたい挑戦であった、と断じている。そして、 この無礼な書状こそが、家康が上杉討伐を決意した決定的な理由 である、と明確に記述している 4 。
これは、家康の「激怒」が徳川幕府の「正史」において公認されていたことを示す。
会津征伐の決定
家康の「激怒」が、同時代史料に残るほどの「事実」であったとして、それは単なる感情的なものではなく、高度に政治的なものであったと分析される。家康は、この兼続からの返書を、上杉家の「弁明」ではなく「挑戦状」として受け取った。
この『直江状』を、家康は諸大名に回覧した(あるいは、その無礼な内容を吹聴した)とされる。これは、上杉景勝がいかに公儀(=家康)に対して無礼を働いたかを天下に知らしめ、自らがこれから開始する「会津征伐」(上杉討伐) 1 の 大義名分 を確立するための、絶好の政治的プロパガンダとして利用するためであった。
兼続の「文才」は、皮肉にも、家康が待ち望んでいた「戦争の口実」を、この上ない形で与えてしまったのである。慶長五年六月、家康は諸大名を率いて会津征伐へと出陣。これが関ヶ原の戦いの幕開けとなる。
第五部:真贋論争と「文才譚」の再構築
この「文才譚」の根幹をなす『直江状』そのものは、果たして慶長五年に直江兼続が記したリアルタイムの「文才」の産物なのか。この点について、歴史学上、重大な真贋論争が存在する 3 。
学術的検証(1):「偽書説」とその論拠
『直江状』を後世の偽作とする「偽書説」の論拠は、主に以下の二点である。
- 原本の不在: 『直江状』の 原本は未発見 である。現存するものはすべて写本であり、最古とされる「南部本」ですら、書状が書かれた慶長五年(1600年)から約40年が経過した寛永17年(1640年)の成立である 3 。
- 内容の疑問点: 写本の文面には、当時(慶長五年)の武家文書としては 使われない文法 や、 不自然な敬語の使い方 などが含まれているとの指摘がある 2 。これが、後世(特に徳川の世が安定した寛永期以降)に、関ヶ原の戦いの発端をドラマティックに演出するために「創作」されたのではないか、という疑いの強力な根拠となっている。
学術的検証(2):「真書説」と「改竄説」
これに対し、『直江状』の存在を認める立場(真書説)、あるいは原本は実在したが後に改竄されたとする立場からは、以下のように分析される。
- 真書説の論拠: 前述の通り、「兼続が返書を送り、家康が激怒した」という事象そのものは、同時代史料によって裏付けられている 3 。したがって、家康を激怒させるに足る、何らかの挑発的な内容を含んだ文書(『直江状』の原型)は、慶長五年に 実在したはずだ 、とする説である。
- 白峰旬氏の説(後世改竄説): 近年の研究で注目されるのが、この逸話の構造そのものに切り込む白峰旬氏の説である 2 。この説は、家康への「挑戦状」という通説的な見方( 4 の『徳川実紀』の見方)を否定する。
- 本来の『直江状』は、あくまで隣国・堀秀治らによる讒言 2 への反論が主目的であった。
- そのため、家康(内府様)には敬語を使い 3 、公平な裁定を訴えるものであった(これが「礼を失わなかった」部分)。一方で、皮肉や攻撃は、もっぱら讒言者である堀氏(「無分別者」 6 )に向けられていた。
- 我々が現在知るような、家康自身を「乳呑子の会釈」「内府様御表裏」と挑発するような「挑戦状」という側面は、江戸幕府成立後、徳川家と上杉家の対立構造を演出し、家康の 会津征伐(=関ヶ原の戦い)を正当化する目的で、幕府側が意図的に内容を改変・脚色した 2 可能性が高い、と推定している。
「文才譚」の再構築
この学術的議論を踏まえるとき、ご依頼の「皮肉を交えても礼を失わなかった」という『直江状』文才譚は、極めて逆説的かつ重層的な形で、その「真実」の姿を現す。
- 慶長五年の「文才」: もし白峰説 2 に従うならば、兼続のリアルタイムの「文才」とは、家康に「礼」を尽くし(内府様)、讒言者(堀)に「皮肉」を浴びせる(讒人、無分別者)、という、あくまで(家康への)無礼を回避しつつ堀氏を糾弾する、高度な外交文書としてのものだった可能性がある。
- 江戸時代の「文才」: しかし、この返書が結果として家康を「激怒させた」( 4 の「事実」)という結果論が、その後の歴史的評価を決定づける。
- 徳川側(幕府)の評価: 幕府は、この文書を「傲慢無礼の極み」 4 と断罪し、討伐の口実となった「悪文」の烙印を押した。この解釈が『徳川実紀』によって固定化され、会津征伐を正当化するロジックとして機能した 3 。
- 後世(逸話)の評価: 徳川の天下が安定し、太平の世が訪れると、この逸話は逆の評価を獲得する。すなわち、「天下の家康に対し、一陪臣が、一歩も引かずに理を尽くし、皮肉を言いのけた」として、兼続の胆力と知性、そして反骨精神の象徴として称賛される「文才譚」へと昇華されていったのである。
結論:史実の『直江状』と逸話の『直江状』
本調査報告は、直江兼続の「文才譚」という逸話について、時系列分析と史料批判に基づき、以下の結論を導き出した。
- 時系列の復元と事実認定: 慶長五年春、徳川家康の詰問に対し、直江兼続が何らかの返書を送付したこと、そしてその返書が徳川家康の「激怒」 4 を招き、会津征伐 1 の直接的な口実(大義名分)となったことは、同時代史料 3 からも 事実 として認められる。
- 「文才」のレトリック分析: ご依頼の「皮肉を交えても礼を失わなかった」という分析は、現存する『直江状』の写本テキスト 6 に明確に現れている。家康への「内府様」という呼称 3 に代表される表面的な「礼節」と、その裏で展開される「田舎武士は鉄砲弓箭」 6 や「乳呑子の会釈」 2 といった痛烈な「皮肉」の二重構造は、この逸話の核心的なレトリックである。
- 「リアルタイム」の限界: ご要望の「リアルタイムな会話内容」や「その時の状態」については、家康の「激怒」という「状態」は史実 4 であった可能性が高いものの、その具体的な言動(例:「無礼千万」と叫ぶ姿)は、後世の編纂物(『徳川実紀』 4 や『常山紀談』 5 など)による「物語的」な脚色である。史料的に復元可能なリアルタイムの描写は、そこまでである。
- 逸話の本質(二重の文才): 『直江状』の「文才譚」は、二重の構造を持つ。第一に、兼続が(少なくとも表向きは)家康の詰問を論理と皮肉で退けようとした、 「外交文書としての文才」 。第二に、その文書が(兼続の意図はどうであれ)天下を動かす大戦の引き金となり、後に徳川幕府によって「傲慢無礼な悪文」として断罪され 4 、さらに後世には「反骨の象徴」として再評価されたという、**「歴史的逸話としての文才」**である。
結論として、直江兼続の「文才」とは、単に慶長五年に書かれたとされる文書 6 のテキストそのものに留まるのではない。そのテキストが徳川家康という当代最大の権力者を「激怒」させ 4 、歴史を動かす「結果」を生み出したこと、そしてその「結果」をめぐって400年以上にわたり続けられてきた真贋論争 3 と歴史的解釈の論争 2 そのものの中にこそ、この逸話の類稀なる本質が存在すると結論づける。
引用文献
- https://travelyonezawa.com/spot/naoe-kanetsugu/#:~:text=%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E3%81%AB%E3%81%84%E3%82%8B%E6%99%AF%E5%8B%9D%E3%81%AB,%E3%82%82%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
- 直江状 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6
- 直江状 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6#.E7.9C.9F.E8.B4.8B.E8.AB.96.E4.BA.89
- 直江状 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6#.E6.A6.82.E8.A6.81
- 常山紀談 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E5%B1%B1%E7%B4%80%E8%AB%87
- 直江状 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6#.E7.9B.B4.E6.B1.9F.E7.8A.B6.E3.81.AE.E5.86.85.E5.AE.B9