直江兼続
~義のための戦は義を失うな教訓~
直江兼続の「義のための戦は義を失うな」は、慶長出羽合戦での上杉軍の撤退戦で具現化。敗北の中でも規律と誇りを貫き、敵将からも称賛された。
直江兼続と「義」の戦い:慶長出羽合戦にみる教訓譚の精神的真実
序章:『義のための戦は義を失うな』― 逸話の探求
日本の戦国時代、数多の武将が覇を競う中で、ひときわ異彩を放つ理念を掲げた人物がいる。上杉家の家宰、直江兼続である。彼にまつわる逸話として、後世に語り継がれる一つの教訓譚が存在する。『戦支度の前に「義のための戦は義を失うな」と兵に説いた』という物語である。この言葉は、単なる武勇や戦略を超えた、戦いにおける倫理的な規範を問うものであり、その高潔な響きは時代を超えて人々の心を捉えてきた。それは、力こそが正義であった時代において、行動の根源に「義」という不変の価値を置こうとする、稀有な精神性の発露として理解されている。
しかしながら、この印象的な言葉が、歴史の一次史料や、江戸時代に編纂された主要な武将逸話集である『常山紀談』や『名将言行録』などに、直接的な記述として見出されることはない 1 。この事実は、我々を一つの根源的な問いへと導く。この逸話は、単なる後世の創作に過ぎないのだろうか。あるいは、文字通りの記録ではないとしても、直江兼続という人物、そして彼が率いた上杉家の精神性を的確に捉えた「精神的真実」を内包しているのだろうか。
本報告書は、後者の立場に立ち、「兼続がその言葉をいつ、どこで発したか」という文字通りの問いを追うのではなく、「この言葉が象徴する精神性が、兼続の生涯において最も鮮烈に現れたのはどの局面か」という、より本質的な問いを探求するものである。その最適な舞台として、本報告書は関ヶ原の戦いと連動して勃発した「慶長出羽合戦」、特にその発端から壮絶な撤退戦に至るまでの一連の出来事に焦点を当てる。この歴史的事件を時系列に沿って詳細に再構築し、戦闘の推移、兼続の決断、そして上杉軍の行動を丹念に追うことで、逸話として語り継がれる言葉の背後にある、生きた哲学と行動原理を立体的に浮かび上がらせることを目的とする。
第一章:戦の大義名分 ― 上杉の「義」と直江状
逸話の核心をなす「義」という概念は、直江兼続一人の思想ではなく、上杉家に深く根差した伝統的な行動原理であった。その源流は、軍神と称された上杉謙信に遡る。謙信は、主君である上杉景勝と兼続に対し、儒教の教えである「五常の徳」(仁・義・礼・智・信)を規範とし、慈愛をもって民を大切にすることを説いたと伝えられている 6 。特に「第一義」を掲げ、私利私欲ではなく、道理と信義に基づいて軍を動かすという謙信の姿勢は、上杉家のアイデンティティそのものを形成した 7 。この精神は、景勝と兼続へと確実に継承され、彼らの政治的・軍事的判断の根幹を成すことになる。
この上杉家の「義」が、天下の情勢と正面から衝突する事態が訪れる。慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死である。秀吉は生前、五大老制度を設け、幼い秀頼の後見を託したが、その筆頭であった徳川家康は、秀吉の遺命に反するかのように、諸大名との私的な婚姻政策を進めるなど、徐々にその影響力を拡大し始めた 6 。この動きは、豊臣家への忠誠を誓う上杉家にとって、看過しがたい「不義」として映った。上杉家は会津120万石への国替え後、新たな領国経営に着手していたが、家康の覇権掌握に向けた動きは、豊臣政権の根幹を揺るがす行為であり、上杉家の掲げる「義」の理念とは到底相容れないものであった。
この緊張関係が沸点に達したのが、慶長5年(1600年)春、家康が上杉景勝にかけた謀反の嫌疑と、それに対する上洛要求であった。これに対し、上杉家の外交・内政を一手に行っていた直江兼続が返書として送ったとされるのが、世に名高い「直江状」である 6 。この書状は、単なる弁明や反論に留まるものではなかった。家康の言いがかりに対して理路整然と反駁しつつ、その字句の端々には、家康自身の「不義」を鋭く突き、挑発する意図が込められていた 10 。例えば、「讒言をする者をろくに調べもせずに信用し、こちらばかりを疑うのはいかがなものか」「武具を集めるのは田舎武士として当然のこと」といった内容は、家康の疑義を子供じみたものと一蹴し、天下を預かる者としての器量を問うものであった 10 。
この直江状は、後世の創作や改竄が加えられた可能性も指摘されており、その真贋については議論が続いている 7 。しかし、その内容が上杉家の当時の意志を反映していることは疑いようがない。そして、その戦略的意図は、単に家康を怒らせることだけにあったのではない。それは、来るべき戦いを「豊臣家を守るための義戦」として天下に宣言し、自軍の行動を正当化するための、極めて高度な政治的・軍事的な布告であった。石田三成らとの連携による、家康を東西から挟撃する壮大な作戦構想が背景にあったとも言われる 9 。この計画を成功させるためには、兵士一人ひとりが「我々は何のために戦うのか」という大義名分を共有し、高い士気を維持することが不可欠であった。直江状は、そのための強力な内政ツールでもあったのだ。家康の「不義」を断罪し、自らを「正義の軍勢」と位置づけることで、上杉家は内部の結束を固め、過酷な戦局に臨むための精神的な基盤を築き上げた。これこそが、まさしく「義のための戦」の出発点だったのである。
第二章:出陣の刻 ― 訓示の蓋然性と戦場の空気
慶長5年(1600年)9月、秋の気配が深まる米沢城は、戦支度の喧騒と熱気に包まれていた。直江状によって徳川家康との対決が不可避となった上杉家は、その矛先を、家康に与する北の隣国・最上義光へと向けた。9月8日頃、直江兼続を総大将とする2万5千にも及ぶ大軍勢が、最上領侵攻のために米沢の地を発つ 13 。会津120万石の威信をかけたこの戦いは、兵士たちにとって、豊臣家への忠義を示す「義戦」であり、その士気は極めて高かったであろう。
この出陣に際し、総大将である兼続が全軍の前に立ち、訓示を行う光景は想像に難くない。そして、もし件の逸話、『義のための戦は義を失うな』という言葉が発せられたとすれば、それはまさにこの瞬間であった可能性が最も高い。この言葉は、単なる精神論や抽象的なスローガンとして語られたのではない。それは、これから敵地へと踏み込む兵士たちに向けた、極めて実践的かつ具体的な軍令の核心であったと考えられる。
その真意は、勝利に驕り、軍規を乱し、敵領で非道な行いに走ることを厳しく戒めることにあった。戦国時代の合戦において、敵地での略奪や無用な殺戮は日常茶飯事であった。しかし、上杉軍は自らを「義軍」と称している。もし彼らがそのような「不義」に走れば、掲げた大義名分は即座に地に堕ち、兵士たちの士気も内側から崩壊する。兼続にとって「義」とは、単なる倫理観ではなく、軍隊の規律を維持し、戦略目標を達成するための統率の根幹であった。規律を失った軍隊は統制が取れなくなり、結果として敗北に直結する。つまり、「義を失う」ことは、軍事的な敗北そのものを意味したのである。
兼続の「義」が、理想論だけでなく、時に非情なまでの合理性に基づいていたことを示す逸話が残されている。慶長2年(1597年)、ある家臣が下人を斬り殺す事件が起きた。遺族は「生きて返せ」と道理の通じない要求を繰り返し、兼続は示談金での解決を試みるも、彼らは頑として受け入れない。再三の説得にも応じず、「生きて返せ」の一点張りであった遺族に対し、兼続はついに冷徹な決断を下す。「冥途まで迎えに行かせよう」と述べ、要求を繰り返した遺族3名の首を刎ね、閻魔大王宛に「手違いで死んだ者を返すよう、この三人を迎えに遣わす」という趣旨の高札を立てたとされる 3 。この逸話は、彼の統治者としての苛烈な一面を示すが、同時に、彼の判断基準が常に「道理」と「筋目」にあったことを物語っている。道理の通じない要求は、たとえ同情の余地があったとしても、組織の秩序を乱す「不義」として断固として排斥される。
この視点から出陣の訓示を再考すると、その意味はより一層明確になる。「義を失うな」という言葉は、兵士たちの「内なる敵」、すなわち勝利による驕り、油断、そして戦場が生み出す残虐性といった感情との戦いを促すものであった。外敵である最上軍と刃を交える前に、まず自らの内にある「不義」の芽を摘み、厳格な規律を保つこと。それこそが「義軍」たる上杉軍が勝利を掴むための絶対条件であると、兼続は説いたのである。それは、兵士一人ひとりに対する、精神的な武装の要求に他ならなかった。
第三章:激戦と苦境 ― 長谷堂城攻防戦における「義」の試練
出陣の際に掲げられた「義」の理念は、現実の過酷な戦場で容赦のない試練に晒されることとなる。以下に、慶長出羽合戦の主要な局面である長谷堂城攻防戦の推移を時系列で示し、上杉軍が直面した状況を詳述する。
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日付(慶長5年/1600年) |
出来事 |
関連する状況・心理 |
参照史料 |
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9月8日頃 |
直江兼続、2万5千の軍を率いて米沢を出陣。最上領へ侵攻開始。 |
高揚する士気。「義戦」であることの再確認。 |
13 |
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9月12日~13日 |
畑谷城を攻略。城主・江口光清らは玉砕。 |
初戦の勝利による自信と、同時に生じる驕りへの警戒。 |
14 |
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9月15日 |
長谷堂城の包囲を開始。(同日、美濃関ヶ原で東西両軍の本戦が開始される) |
堅城を前にした緊張感。短期決戦から長期戦への移行。 |
13 |
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9月15日~28日 |
長谷堂城への総攻撃を繰り返すも、志村光安らの奮戦により膠着状態に陥る。 |
攻めあぐねる焦燥感。兵士たちの疲労と士気の停滞。 |
18 |
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9月29日 |
関ヶ原における西軍敗北の報が兼続のもとに届く。兼続は自害を覚悟する。 |
大義名分の喪失による絶望と混乱。指揮官の決断が試される最大の危機。 |
13 |
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10月1日~4日 |
長谷堂城の包囲を解き、米沢への撤退戦を開始。最上・伊達連合軍の猛追を振り切る。 |
崩壊の危機の中での規律維持。指揮官の責務としての「義」の実践。敵将からも称賛される。 |
17 |
緒戦の勝利と驕りの兆し
9月12日、上杉軍は最初の関門である畑谷城を包囲した。城主・江口光清は奮戦するも、衆寡敵せず、翌13日に城は陥落、城兵は玉砕した 14 。この緒戦の勝利は、上杉軍の士気を大いに高揚させたに違いない。しかし、兼続が最も警戒したであろう「驕り」や「油断」が、この勝利の影で芽生え始めていた可能性も否定できない。
長谷堂城の堅壁
勢いに乗る上杉軍は、最上義光の本拠・山形城の最終防衛拠点である長谷堂城へと進軍し、9月15日にその包囲を完了した 13 。しかし、この城は上杉軍の前に堅く立ちはだかった。城主・志村光安はわずか1,000余りの寡兵で、2万を超える上杉の大軍を相手に一歩も引かず、巧みな防戦を展開した 19 。上杉軍は連日猛攻を仕掛けるが、城を落とすことはできず、戦況は完全に膠着状態に陥った。短期決戦を目論んでいたであろう上杉軍には、次第に焦りの色が広がり、兵士たちの間にも疲労と士気の停滞が見え始めた。掲げた「義」の輝きも、泥沼の攻城戦の中で試されることとなる。
天命の暗転
そして、9月29日、長谷堂城を見下ろす菅沢山の上杉本陣に、天命を覆す報せが届く。奇しくも上杉軍が長谷堂城を包囲した9月15日、美濃関ヶ原で行われた本戦において、石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に、わずか一日で壊滅的な敗北を喫したというのである 13 。
この一報は、上杉軍の存在意義そのものを根底から覆すものであった。彼らが信じた「豊臣家への忠義」という公的な大義名分は、西軍の敗北によって完全に消滅した。もはや彼らは「義軍」ではなく、敵地深くに孤立した、ただの侵攻軍に過ぎない。この絶望的な状況に、総大将である兼続は、責任を取って自害することを覚悟したと伝えられている。しかし、その傍らには、年来の友であり、当代きっての傾奇者として知られる前田慶次がいた。慶次は、死を選ぼうとする兼続を「生き恥を晒してでも、部下を生きて帰らせるのが大将の務めであろう」と一喝し、思いとどまらせたという 9 。
この瞬間こそ、兼続と上杉軍の「義」が、その意味合いを劇的に変えた時であった。天下国家を論じる公的な「義」は失われた。しかし、それに代わって、より根源的で、より重い「義」が立ち現れた。それは、指揮官として、預かった兵士たちの生命を守り、一人でも多く故郷の土を踏ませるという、責務としての「義」であった。物語はここから、「義のための戦い」から「義のための撤退」へと、その焦点を移すことになる。
第四章:撤退戦の美学 ― 敗れてなお「義」を貫く
大義名分を失い、敵地で孤立するという絶望的な状況は、通常、軍隊の規律を崩壊させ、統制の取れない敗走へとつながる。しかし、直江兼続が率いた上杉軍は、ここから日本戦史史上でも稀に見る、見事な撤退戦を演じることになる。それは、言葉ではなく、極限状況下での具体的な行動によって、『義のための戦は義を失うな』という精神を証明する壮絶な戦いであった。
決断と実行
10月1日、兼続は長谷堂城の包囲を解き、全軍に米沢への撤退を命じた 16 。関ヶ原の勝利に勢いづく最上義光は、これを好機と捉え、自ら陣頭に立って全軍を挙げた猛烈な追撃を開始する。攻守は完全に逆転し、退く上杉軍と追う最上・伊達連合軍との間で、凄惨な死闘の幕が上がった。
秩序という名の「義」― 兼続の戦術
総崩れになってもおかしくない状況下で、兼続の指揮は冴え渡っていた。彼は冷静沈着に殿(しんがり)部隊を編成し、巧みな遅滞戦術を展開して、追撃軍の勢いを削いでいった。この撤退戦において、特に目覚ましい働きを見せたのが、水原親憲(すいばら ちかのり)が率いる鉄砲隊であった。親憲は、上杉家の鉄砲隊を組織し、育て上げた猛将であり 29 、彼の指揮のもと、鉄砲隊は的確な一斉射撃を繰り返して追撃軍の足を止め、何度も窮地を救った 22 。これは、兼続が平時から白布温泉などで鉄砲の製造と訓練に力を注ぎ、先進的な軍備を整えていた成果が、この土壇場で最大限に発揮されたことを示している 30 。
また、兼続の友、前田慶次もこの殿軍に加わり、朱槍を振るって獅子奮迅の働きを見せた 24 。彼の常軌を逸した勇猛さは、絶望的な状況にある兵士たちの士気を大いに鼓舞したことであろう 21 。兼続の卓越した指揮、水原親憲の精密な射撃統制、そして前田慶次の超人的な武勇。これらが一体となり、上杉軍の撤退は、単なる逃走ではなく、統率された軍事行動として遂行された。
敵将からの讃辞
追撃戦は熾烈を極め、最上義光自身も兜に銃弾を受けるほどの激戦となった 17 。しかし、彼が目の当たりにした上杉軍の姿は、驚嘆すべきものであった。敗走する軍にありがちな混乱や離散は一切なく、その隊列は見事なまでに秩序が保たれ、一糸乱れぬ動きで反撃を加えてくる。崩れる気配は微塵も感じられなかった。
この見事な撤退戦は、敵将である最上義光をして「さすがは直江、見事なり。謙信以来の武勇の伝統が今も残っている」と称賛せしめた 15 。さらに、この報告を後に受けた徳川家康も、敵対した兼続の指揮能力を高く評価したと伝えられている 23 。敵からの称賛は、武士にとって最高の栄誉である。それは、上杉軍が敗北の淵にありながら、決して「武士としての義」―すなわち、規律、誇り、そして仲間を守るという責務―を失わなかったことの、何より雄弁な証拠であった。
この歴史的な撤退劇こそが、『義のための戦は義を失うな』という言葉の、生きた実践そのものであったと言える。出陣の際に言葉で語られた理想が、敗北という最も過酷な試練の中で、統率、規律、戦術という具体的な行動として結実した瞬間である。この撤退戦を目撃した人々、あるいは後世の歴史家が、その見事な様を凝縮して表現した言葉が、件の逸話として結晶化した可能性は極めて高い。
結論:逸話の真実性と歴史的価値
本報告書における調査と分析を総括すると、直江兼続の『義のための戦は義を失うな』という言葉は、特定の瞬間に発せられた歴史的な発言の記録として捉えるよりも、慶長出羽合戦という一連の出来事、とりわけその壮絶かつ見事な撤退戦において示された 上杉軍の行動哲学そのものを象徴する言葉 として、後世に結晶化したものと結論付けるのが最も妥当である。それは、文字通りの史実を超えた、より深い「精神的真実」を我々に伝えている。
この「義」の精神は、戦場でのみ発揮されたものではなかった。関ヶ原の戦いの後、上杉家は徳川家康に降伏し、会津120万石から米沢30万石へと、その所領を4分の1にまで減らされるという厳しい処分を受けた 17 。通常であれば、大規模な家臣のリストラ(人員削減)は避けられない状況であった。しかし、兼続は「このような大変な時期だからこそ人が大切である」とし、旧来の家臣を一人も召し放つことなく、全員を米沢へと伴った 10 。そして、自らの禄高を大幅に削り、家臣たちに分け与えた上で、荒れ果てた米沢の地で、治水事業や新田開発、産業振興にその情熱を注いだ 26 。戦場で示した「兵士の命を守る」という責務としての義が、平時においては「領民の生活を守る」という仁政としての義へと昇華されたのである。この一貫した姿勢こそが、直江兼続という人物の思想の核心を物語っている。
では、なぜこの逸話は、文字通りの真偽を超えて、現代人の心を打つのだろうか。それは、この物語が、成功の時だけでなく、絶望的な失敗の淵に立たされた時にこそ、組織や個人の真価、すなわち「義」が問われるという、普遍的な教訓を含んでいるからに他ならない。勝利に向かって理想を語ることは容易である。しかし、敗北が確定し、全てを失いかけた状況下で、なおも規律と誇りを失わず、責務を全うすることの困難さと尊さを、兼続と上杉軍の姿は我々に示している。
敗北の中にあっても秩序を保ち、敵将からも称賛されるほどの美学を貫いた彼らの行動は、現代社会を生きる我々にとっても、困難な状況にどう向き合うべきか、そして逆境において何を失ってはならないのかを教える、力強い指針となるであろう。直江兼続の教訓譚は、単なる戦国時代の逸話に留まらず、時代を超えて価値を持つ、人間と組織のあり方を問う物語なのである。
引用文献
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- 第22回 知勇兼備の将 - HRプロ https://www.hrpro.co.jp/series_detail.php?t_no=932
- 「拝啓、閻魔大王様。死者を返してくだされ」直江兼続が出した手紙、その恐るべき結末とは? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/104285/
- 伊達政宗vs直江兼続、なぜふたりは犬猿の仲なのか?勝手に戦国時代人物相関図! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/106351/
- 戦国逸話 - 奥会津戦国風土記 https://aizufudoki.sakura.ne.jp/zakki/zakki14.htm
- 直江兼続の愛ってなんだ!?/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/17566/
- 慶長出羽合戦~回想~ - やまがた愛の武将隊【公式Webサイト】 https://ainobushoutai.jp/free/recollection
- 【戦国武将に学ぶ】直江兼続~謙信の「義」を守り、天下狙う家康と対峙~ | オトナンサー https://otonanswer.jp/post/56663/
- 直江兼続は何をした人?「家康を煽る直江状を送りつけて関ヶ原の戦いを起こした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/kanetsugu-naoe
- 直江兼続「愛」を掲げた戦国武将の真意と生涯 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/naoekanetsugu-generaloflove/
- 上杉景勝が家康に送った「直江状」は偽文書か? “否定派vs.肯定派”専門家の見解 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10228?p=1
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- 北の関ヶ原、長谷堂合戦 家康に天下を取らせた戦い | My favorite things about Yamagata https://my-favorite-things-about-yamagata.com/togo/%E5%8C%97%E3%81%AE%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%80%80%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%A0%82%E5%90%88%E6%88%A6/
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- 古城の歴史 長谷堂城 http://takayama.tonosama.jp/html/hasedo.html
- 愛・正義・硬派、上杉家に尽くした忠義の武将「直江兼続」の生涯とは?(後編) | 歴史ハック https://rekishi-hack.com/bushou_naoe/
- 【漫画】直江兼続の生涯を簡単解説!【日本史マンガ動画】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=wHhI_WGCOPw
- 直江兼続の一生 - 米沢・戦国 武士[もののふ]の時代 http://www.yonezawa-naoe.com/life.html
- 直江兼続(なおえかねつぐ) - 米沢観光ナビ https://travelyonezawa.com/spot/naoe-kanetsugu/
- 「直江兼続」文武に長け、主君景勝を支えて苦境を乗り越えた宰相 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/579