最終更新日 2025-10-20

真田信之
 ~兄信繁死後、武と治に生きた~

弟・信繁の「武」に対し「治」に生きた真田信之。幕府の猜疑を乗り越え、善政で藩の礎を築き、弟の血脈と真田家を守り抜いた、93年の生涯。

真田信之~兄信繁死後、武と治に生きた~

序章:大坂城落城、二つの道の結末

慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣における最終決戦、天王寺・岡山の戦いは、豊臣家の命運を、そして戦国という時代の終焉を告げようとしていた。敗色が濃厚となる中、真田信繁(幸村)率いる深紅の軍団は、徳川家康ただ一人の首をめがけて最後の突撃を敢行した 1

その猛攻は凄まじく、後世に「真田の赤備え」として恐れられる部隊は、幾重にも連なる徳川方の陣を次々と突破。ついに家康の本陣に肉薄し、その馬印を倒すに至った 3 。本陣は混乱の極みに達し、総大将である家康自身が、もはやこれまでと数度にわたり自害を覚悟したと伝えられるほどの危機的状況であった 1 。これは、信繁が生涯を懸けた「武」が到達した、最も眩い頂点であった。しかし、衆寡敵せず、満身創痍となった信繁は、安居神社の境内で静かにその生涯を閉じたとされている 2

その頃、兄である真田信之は、大坂の陣には参陣していなかった。表向きは病のためとされたが、弟が敵方である豊臣家に与していることから、徳川幕府にその去就を警戒されたためとも言われる 5 。信之は自らの息子である信吉・信政を徳川方として出陣させることで、辛うじてその忠誠を示していた。江戸屋敷か、あるいは上田の居城で弟の壮絶な死の報せを受け取った信之の胸中は、察するに余りある。徳川の家臣として主家の勝利を祝うべき立場と、唯一の弟を失った肉親としての深い悲しみ。その二つの相克する感情が渦巻く中で、信之は、弟が選んだ「武」の道と、自らが歩まざるを得なかった「治」の道の結末を、決定的な現実として受け止めたに違いない。

この兄弟の道の分岐点は、15年前の関ヶ原の戦いに遡る。以下の年表は、その袂を分かった二人の対照的な歩みを明確に示している。

表1:真田信之・信繁 略年譜対照表(関ヶ原以降)

年代(西暦)

出来事

真田信之の動向

真田信繁の動向

慶長5年 (1600)

関ヶ原の戦い

東軍に属し、上田城の父・弟と対峙。戦後、上田領9万5千石を安堵される。

父と共に西軍に属し、徳川秀忠軍を上田城で足止め。戦後、高野山へ配流。

慶長6年 (1601)

初代上田藩主となる。領内の復興と藩政基盤の整備に着手。

九度山へ移される。困窮した生活を送る。

慶長19年 (1614)

大坂冬の陣

参陣せず(病気説、警戒説)。息子たちを徳川方として出陣させる。

九度山を脱出し大坂城へ入城。真田丸を築き、徳川軍に大打撃を与える。

慶長20年 (1615)

大坂夏の陣

天王寺・岡山の戦いで徳川家康本陣に突撃し、討死。

元和8年 (1622)

信濃松代13万石へ加増移封。初代松代藩主となる。

(没後)

万治元年 (1658)

93歳で死去。松代藩真田家250年の礎を築く。

(没後)

信繁の「武」の輝きが強ければ強いほど、それは徳川体制下で生きる兄・信之の政治的立場を、より繊細で危険なものにした。弟の武功は、真田一族に対する幕府の潜在的な警戒心を煽る要因となり得たからである 6 。信之が後に自らの生涯を「治」の道として語ったとされる背景には、単なる述懐を超えた、極めて高度な政治的処世術と思慮があった。それは、弟の武功を真田家の誇りとして讃えつつも、自らは幕府に対して全く無害かつ有益な存在であることを明確に示すための、計算された政治的表明でもあったのである。

第一章:「武」に生きた弟・信繁の遺したもの

「武」の真髄:義に生きた戦略家

弟・信繁の「武」は、単なる個人の武勇や猪突猛進の精神を意味するものではない。その本質は、卓越した知略と戦術眼、そして揺るぎない信念にあった。大坂冬の陣において、大坂城の弱点であった南側に築かれた出城「真田丸」は、その象徴である 1 。信繁はこの堅牢な要塞を拠点に、徳川方の圧倒的な大軍を手玉に取り、甚大な損害を与えた 7

彼の「武」はまた、豊臣家への「義」と分かちがたく結びついていた。徳川方からは、信濃一国を与えるという破格の条件で寝返りの工作があったと伝えられるが、信繁はこれを「日本の半分をくれてものう」と一蹴したという逸話が残る 1 。彼の武は、決して私利私欲のためではなく、守るべき主家への忠義という信念に裏打ちされたものであった。その生き様は、滅びゆく豊臣家と運命を共にし、最後の最後まで勝利を諦めず家康本陣に突撃するという、壮絶な最期となって結実したのである 8

「武」が遺した血脈という責務

しかし、信繁の「武」が遺したものは、後世に語り継がれる武名という「栄誉」だけではなかった。それは同時に、残された子供たちという、兄・信之が背負うべき「責任」でもあった。信繁の死後、その子女は「逆賊の子」として、徳川の世では追われる身となった。彼らの行く末を案じ、その血脈を保護することは、信之にとって喫緊かつ極秘の課題となった。

その具体的な事例が、信繁の娘・阿梅(おうめ)の逸話である。大坂城落城の際、伊達政宗の重臣・片倉重長が阿梅を保護したと伝えられる。『片倉代々記』によれば、当初は素性が分からず侍女として召し使われていたが、後に真田信繁の娘と判明し、重長の継室として正式に迎えられたという 9 。さらに、信繁の次男・守信(大八)や六女・阿菖蒲といった他の子女も、この阿梅を頼って片倉家に身を寄せ、その庇護を受けた 9

徳川家の重臣である信之が、公然と逆賊の子を庇護することは政治的に不可能であった。しかし、伊達家という信頼のおける他家を通じて、水面下で弟の血脈を保護するよう働きかけた可能性は高い。これは単なる肉親の情だけではない。一族の存続を第一義とする当主として、弟の「武」が生み出した現実的な問題を、自らの「治」の能力、すなわち政治力と人脈を駆使して解決しようとする、極めて戦略的な行動であったと解釈できる。弟の「武」の後始末を、兄が「治」の力で成し遂げるという構図が、ここに見出せるのである。

第二章:逸話の源流を探る ― その言葉はいつ、誰に語られたか

真田信之の生涯を象徴する言葉として広く知られる「弟は武に、我は治に生きた」。しかし、この印象的な述懐が、いつ、どこで、誰に対して語られたのかを一次史料に求めると、その源流は意外にも杳として知れない。

史料における記述の不在

真田家の公式記録として江戸時代に編纂された『真田家御代々記』 11 、あるいは幕府が諸大名の事績をまとめた『藩翰譜』 12 、松代藩士であった河原綱徳が編纂した『真田家御事蹟稿』 11 、さらには江戸後期の貴重な随筆である松浦静山の『甲子夜話』 13 といった主要な史料を精査しても、信之がこの言葉を直接発したとする明確な記述は見当たらない。これは、この逸話が信之自身の発言の忠実な記録ではなく、後世に形成されたものである可能性を示唆している。

逸話の形成プロセス

この言葉は、信之個人の発言としてではなく、彼の死後、その生涯を評価し、その本質を要約する過程で生まれた「象徴的な言葉」と考えるのが妥当であろう。江戸時代、泰平の世が定着するにつれて、弟・信繁は「真田幸村」の名で講談や軍記物語の主人公となり、体制に抗した悲劇の英雄として絶大な人気を博すようになる 1 。その一方で、兄・信之は幕藩体制の中で巧みに立ち回り、大名家を明治維新まで存続させた名君として評価された 14

この英雄(武)と名君(治)という、あまりにも対照的な兄弟像が人々の間で定着する過程で、二人の生き方を端的に表現する言葉として、この逸話が自然発生的に形成され、流布していったと推測される。関ヶ原の戦い後、信之が父・昌幸と弟・信繁の助命嘆願に奔走したという有名な逸話でさえ、信之の孝養や功績を称えるために後世に脚色された側面があるという指摘もある 15 。同様の文脈で、「武と治」の述懐もまた、信之の人物像を理想化し、その歴史的役割を明確にするために生み出された物語であった可能性が高い。

しかし、重要なのは、この逸話が「事実として語られたか」という点以上に、「なぜこの言葉が信之を象徴するものとして広く受け入れられたか」という点にある。人々はこの簡潔な対比の中に、戦乱の世(武)から泰平の世(治)へと移行する時代の大きなうねりと、その中で見事に家名を存続させた信之の生涯の要諦を見出したのである。この言葉は、単なる歴史的事実の記録というよりも、歴史的評価が結晶化した「物語」としての強い機能を持っている。それは、信之個人の述懐という枠を超え、江戸時代の武士たちが共有した価値観、すなわち、過ぎ去った武勇の時代への憧憬と、統治者としての現実的な責務の肯定という二つの感情を反映した、集合的な記憶の産物であったと言えるだろう。

第三章:「治」に生きた兄・信之の生涯

「我は治に生きた」という言葉は、決して空虚な自己評価ではない。それは、93年に及ぶ長い生涯を通じて積み上げられた、具体的かつ多大な実績に裏打ちされたものであった。信之の「治」は、領民の生活を豊かにし、250年続く松代真田藩の盤石な礎を築き上げた、実務家としての確かな手腕そのものであった。

領国経営の才覚:荒れ地を穀倉地帯へ

信之の統治者としての才能は、早くから発揮されていた。関ヶ原の戦い後、父と弟が去った上田の領地は戦乱で荒廃していたが、信之はその復興に精力的に取り組んだ 5 。しかし、彼の治績を最も象徴するのは、上野国沼田領で実施した大規模な用水路建設事業である 16

沼田の地は利根川と片品川に挟まれた河岸段丘にあり、豊かな水源が近くを流れながらも、農地はそれより高い位置にあるため、常に水不足に悩まされていた。この状況を憂いた信之は、遠く武尊山の雪解け水を水源とし、台地の上に用水路を引くという壮大な計画を立案、実行した。これは「真田用水」と呼ばれ、大小100本にも及んだとされる。この事業により、かつては粟や稗しか育たなかった不毛の地が、豊かな水田地帯へと生まれ変わり、沼田藩の石高は飛躍的に増大した 16 。これは、領民の生活を直接的に豊かにする「治」の典型例であり、彼の先見性と実行力を如実に示している。

松代藩初代藩主として:250年の礎を築く

元和8年(1622年)、信之は上田から信濃松代へ、4万石の加増を伴う移封を命じられる 17 。これは幕府からの厚い信頼の証であったが、同時に、新たな土地で一から藩政の基盤を構築するという大きな挑戦でもあった。信之は着任後、速やかに検地を行い、城下町を整備し、家臣団を再編するなど、支配体制を確立していった 19

さらに、産業の振興や質素倹約の奨励といった藩政の基本方針を打ち出し、これが後の松代藩の安定支配の基礎となった 20 。信之が築いた礎の上に、松代真田家はその後10代、250年以上にわたって北信濃を治め続けた。現代に至るまで、長野市松代町で「松代藩真田十万石まつり」が開催され、その善政が称えられていることは、彼の功績がいかに偉大であったかを物語っている 21

表2:真田信之による主な藩政事業(治績)一覧

分野

事業内容

目的・効果

関連史料・逸話

農業・治水

真田用水(沼田領)の開削

河岸段丘の不毛地帯を水田化し、石高を大幅に増加させる。

16

新田開発の奨励

領内の食糧生産力を向上させ、藩の財政基盤を安定させる。

20

領内統治

城下町の整備(上田・松代)

商業を活性化させ、藩の中心地としての機能を確立する。

20

検地の実施

領内の石高を正確に把握し、公平な年貢徴収の基礎とする。

19

人心掌握

家臣への恩賞・配慮

忠誠心を引き出し、家臣団の結束を固める。(沼田での形見分け逸話)

24

領民生活への配慮

領民の生活水準を気遣い、善政への信頼を得る。(杉菜の逸話)

25

長期安定

藩政機構の整備

安定した統治機構を構築し、250年続く松代藩の礎を築く。

19

文武の奨励

藩士の能力向上を図り、有能な人材を育成する。(後の佐久間象山など)

20

人心掌握の術:リーダーとしての器量

信之の「治」は、制度や土木事業だけに留まらない。彼が優れたリーダーであったことを示す逸話が数多く残されている。ある日、家臣たちと船に乗っていた信之は、岸辺の杉菜(スギナ)を見て「お前たちは、杉菜を食べたことがあるか」と尋ねた。家臣たちが皆ないと答えると、信之は「それは良かった。昔、武田勝頼が没落した折、食糧が尽き、道端の杉菜を食べたが間もなく滅びたという。杉菜を食べたことがないのは、国がよく治まっている証拠だ」と喜んだという 25 。この言葉は、彼が常に領民や家臣の生活水準に心を配っていたことを示す、象徴的なエピソードである。

また、沼田の地を去る際、後に残す家臣たちの不安を和らげるため、自らの赤備えの甲冑などの家宝を与え、「何かあったら、これを私だと思ってくれ」と語り、息子を支えるよう頼んだという 24 。単なる命令ではなく、信頼と情をもって人を動かす。こうした人心掌握術こそが、彼の藩政を成功に導いた大きな要因であった。

興味深いことに、信之の「治」の能力は、彼が若い頃に培った「武」の経験と無関係ではない。第一次上田合戦では父・昌幸と共に徳川の大軍を翻弄するなど、彼自身も優れた武将であった 5 。戦場で求められる状況分析能力、兵站管理能力、そして部下を率いる統率力は、平和な時代の領国経営においてもそのまま応用できるスキルセットである。信之は、戦場で敵と味方を管理する能力を、藩政において土地と人民を管理する能力へと見事に昇華させたのである。「武」と「治」は彼の中で断絶したものではなく、連続した能力であった。彼が自らの人生を「治」と表現したのは、その生涯の後半で注力した分野が「治」であったという選択の表明に他ならない。

第四章:総合考察 ― 「武」と「治」による真田家存続戦略

「弟は武に、我は治に生きた」という言葉を深く理解するためには、それを個人の述懐としてだけでなく、真田一族が戦国の世を生き抜くために立てた、長期的かつ壮大な存続戦略の総括として捉える必要がある。

「犬伏の別れ」の戦略的意味

その戦略の起点こそ、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直前に下野国犬伏で行われた父子三人の密議、世に言う「犬伏の別れ」である 26 。この密議の結果、父・昌幸と弟・信繁は西軍(石田方)に、そして信之は東軍(徳川方)に、それぞれ分かれて与することを決断した。これは、単なる意見の対立や感情的な決裂ではない。天下の趨勢がどちらに転んでも、真田の家名と血脈が確実に存続するための、冷徹な計算に基づいた保険戦略であった。この瞬間、真田家は一族の未来を賭け、滅びの美学を追求する「武」の道と、新体制の中で生き残りを図る「治」の道に、その役割を意図的に分担したのである。

徳川の世における「信用」の構築

「治」の道を選んだ信之の生涯は、しかし、決して平坦なものではなかった。徳川家康から蛇蝎のごとく嫌われた父・昌幸と、最後まで徳川に牙を剥き続けた弟・信繁。この二人の存在は、信之にとって生涯ついて回る巨大な政治的ハンディキャップであった 6 。徳川幕府から見れば、信之は常に潜在的な危険分子であり、その忠誠心は常に疑いの目で見られていた。

したがって、信之が藩政において示した徹底した「治」の実績は、単に領民のためだけのものではなかった。それは同時に、幕府に対して「真田信之は、父や弟とは違う。徳川にとって有益で忠実な家臣である」という「信用」を、生涯をかけて積み上げるための、不断の努力であった 6 。彼の善政の一つ一つが、幕府に対する無言の忠誠の証だったのである。

93年の長寿が証明したもの

信之は、万治元年(1658年)に93歳でその生涯を閉じた 28 。戦国武将としては驚異的な長寿である。この類稀なる長寿は、彼の戦略に決定的な意味をもたらした。彼は徳川家康、秀忠、家光、家綱という四代の将軍に仕えることとなり、時代の生き証人となった。特に三代将軍・家光は、戦国乱世を生き抜いたこの老将を「天下の飾り」と評して敬意を払い、重用したと伝えられている 5

信之が長きにわたって徳川の世に仕え、大往生を遂げたという事実そのものが、真田家がもはや危険分子ではなく、徳川の泰平の世に完全に根付いた忠実な大名であることを、何よりも雄弁に証明した。彼の長寿は、「治」の道を選んだ自らの選択が、一族の存続という大目的において、長期的に見て正解であったことを、彼自身の人生をもって体現してみせたのである。

この文脈で捉え直すとき、「弟は武に、我は治に生きた」という言葉は、新たな深みを帯びてくる。それは、「犬伏の別れ」で始まった真田家の存続戦略が、数十年の時を経て、兄の「治」の道の勝利という形で完結したことを示す、歴史への「最終報告書」であった。弟の「武」は真田の武名を不滅のものとしたが、家そのものは滅びの道を歩んだ。一方、兄の「治」は、地味で苦難に満ちていたが、家名を未来永劫へと繋ぐことに成功した。この言葉には、華々しく散った弟への哀悼の念と共に、自らが選択し、貫き通した道の正しさに対する、静かな、しかし揺るぎない誇りが内包されているのである。

結論:一つの述懐に込められた、一族の歴史と個人の矜持

本報告で検証してきたように、「弟は武に、我は治に生きた」という真田信之にまつわる逸話は、たとえそれが後世の創作であったとしても、彼の生涯と真田家の歴史の本質を、極めて的確に捉えている。

この言葉は、まず第一に、戦乱の世に咲き、そして散っていった弟・信繁への鎮魂歌である。信之は弟の生き様を「武」の一文字に集約することで、その鮮烈な生涯に最大限の敬意を表した。

同時に、それは苦難の中で家を守り抜いた自らの人生への、力強い肯定でもある。父と弟が残した負の遺産を背負い、徳川幕府の猜疑の目に晒されながらも、ひたすらに善政を敷き、領民の安寧を追求した。「治」の一文字には、その地道で忍耐を要した日々の重みと、それを成し遂げた者だけが持つことのできる静かな自負が込められている。

そして最後に、この言葉は徳川の泰平の世を築き上げた統治者としての一分の矜持を示す。信繁の「武」が、戦国乱世という時代を象徴する最後の閃光であったとすれば、信之の「治」は、その光の後に訪れた長く穏やかな江戸時代そのものを築き上げる、揺るぎない礎石の一つであった。彼は自らの生涯を「治」と定義することで、新たな時代の価値観を体現する為政者としての自己認識を明確にしたのである。

かくして、この短い述懐は、一人の武将の感慨という枠を超え、弟への想い、一族の当主としての責任、そして新時代を生きる統治者としての哲学という、多層的な意味を内包するに至った。それは、日本の歴史が「武」の時代から「治」の時代へと大きく転換する、そのダイナミズムそのものを映し出した、深遠な物語として我々に語りかけてくるのである。

引用文献

  1. 真田幸村は何をした人?「大坂の陣の突撃で日本一の兵と称えられて伝説になった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yukimura-sanada
  2. 「大坂の陣(夏の陣/冬の陣)」豊臣 VS 徳川の大決戦をまとめてみました | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/527
  3. 家康に切腹を覚悟させた真田信繁のツワモノぶり…大坂夏の陣で家康本陣を切り崩したラストサムライの最期 豊臣秀頼が出馬していれば家康を打ち取れたかもしれない (4ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/76259?page=4
  4. 大阪の今を紹介! OSAKA 文化力 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/012.html
  5. 隠れた名将がいた城~松代城 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/sanada-and-matsushirojo-castle/
  6. 家康からの「信用」維持に苦慮した真田信之 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/30405
  7. 真田幸村(真田幸村と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/10/
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  19. 【藩政のしくみ】 - ADEAC https://adeac.jp/nagano-city/text-list/d100030/ht000280
  20. 真田家とは https://www.sanadahoumotsukan.com/sanadake.php
  21. 松代藩 真田十万石まつり - 家畜が係わる伝統行事 https://dento-kachiku.jp/sanada/
  22. 第70回松代藩真田十万石まつり - イベント情報- 【川中島の戦い】総合サイト https://kawanakajima.nagano.jp/events/events-1157/
  23. 第70回松代藩真田十万石祭り|長野市|2025 - 信州Style https://shinshu-style.com/nagano-region/city-nagano/sanadazyumangokufes/
  24. 【真田丸】真田家ゆかりの甲冑を発見!? - 大地を守る会 https://www.daichi-m.co.jp/people/9732/
  25. 家族や部下を大事にして、「家」を守った真田信之|Biz Clip(ビズクリップ) - NTT西日本法人サイト https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-013.html
  26. 「真田信之(信幸)」幸村の兄は松代藩10万石初代藩主となり、家名を明治期まで存続させていた! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/479
  27. 真田信之—父と弟の狭間で家を守った智将|春風 - note https://note.com/awajinokami/n/n42edb89f6af0
  28. 真田信之(真田信幸)|国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=54
  29. 真田信之 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%B9%8B