真田信繁
~戦中家康にこの首取られよと挑む~
信繁が家康に「この首取られよ」と挑んだ逸話は後世の創作。史実では突撃で家康を追い詰めた後、自らの首を手柄にせよと告げ、武士の誇りを示した。
真田信繁「家康への挑戦」の逸話に関する総合的考察 ― 伝説の形成と歴史的実像の探求
序章:逸話への誘い
日本の戦国時代、その終焉を告げる大坂の陣において、一人の武将が放ったとされる言葉が、時代を超えて人々の心を捉えて離さない。「戦中、徳川家康に『この首取られよ』と叫び挑んだ」という真田信繁(通称:幸村)の逸話である。この鮮烈な挑発譚は、圧倒的な劣勢の中で敵の総大将に肉薄し、その矜持を示した英雄の姿を我々の脳裏に焼き付ける。しかし、このドラマティックな逸話は、歴史の真実をどの程度反映しているのだろうか。
本報告書は、この特定の逸話に焦点を絞り、その背景、リアルタイムに近い状況、そして結末までを、時系列に沿って徹底的に解明することを目的とする。探求の核心は、「この言葉は、いつ、どこで、どのような状況で、そして本当に発せられたのか?」という根源的な問いにある。
調査を進めるにつれて、この逸話が持つ二つの異なる側面が浮かび上がってくる。一つは、本陣突撃の最中に発せられたとされる「戦闘中の挑発」としての言葉。もう一つは、死を目前にした際に語られたとされる「最期の覚悟」としての言葉である。本報告書では、これらの言説を複数の史料に基づいて比較検討し、歴史的事実と後世に形成された英雄伝説がいかにして交差し、現代に伝わる逸話が形成されたのか、その過程を丹念に読み解いていく。
第一部:運命の刻 ― 慶長二十年五月七日、天王寺・岡山決戦の舞台
真田信繁が歴史にその名を刻む乾坤一擲の突撃を敢行するに至った背景には、絶望的な戦況と、その中で練られた一縷の望みを託す作戦、そして味方の奮戦によって生まれた千載一遇の好機が存在した。信繁個人の英雄的行為を理解するためには、まず彼が置かれた戦場全体の状況を時系列で再構築する必要がある。
1-1. 最後の布陣:絶望的な兵力差と豊臣方の戦略
慶長20年(1615年)5月7日未明、豊臣方の軍勢は大坂城を出立し、最後の決戦の地として天王寺・岡山(現在の大阪市阿倍野区から天王寺区一帯)に防衛線を構築した 1 。大坂冬の陣の後の和睦条件により、大坂城は外堀と内堀を埋め立てられ、もはや籠城戦は不可能な状態となっていた 2 。豊臣方にとって、城外での野戦こそが唯一の活路であった。
両軍の布陣は、豊臣方の苦境を如実に物語っていた。豊臣軍は約5万の兵力で、茶臼山に真田信繁隊、天王寺口に毛利勝永隊、岡山口に大野治房隊などを配置した 4 。これに対し、徳川方は約15万という三倍の兵力でこれを包囲。家康の本陣は天王寺口の後方、茶臼山を見据える位置に置かれ、徳川秀忠の本陣は岡山口の後方に布陣していた 1 。
この圧倒的な兵力差を覆すため、豊臣方が立てた作戦は極めて audacious なものであった。すなわち、徳川方の分厚い陣形を一点突破し、混乱に乗じて総大将である徳川家康の首級ただ一つを挙げることである 1 。敵を四天王寺周辺の狭隘な丘陵地に引きずり込み、陣形が伸びきって手薄になった本陣を奇襲するという、一点集中型の作戦であった 1 。この作戦の成否が、豊臣家の命運を握っていた。
1-2. 開戦と毛利勝永の奮戦:好機の到来
決戦の火蓋は、正午頃に切られた。天王寺口に布陣していた毛利勝永隊が、徳川方の先鋒である本多忠朝隊に対して猛烈な銃撃を加えたのがその始まりであった 4 。
毛利勝永の戦いぶりは、鬼神の如きものであった。彼は徳川四天王の一人、本多忠勝の息子である忠朝を瞬く間に討ち取り、本多隊を壊滅させる 4 。勢いに乗る毛利隊は、本多隊の敗走で混乱に陥った二番手の榊原康勝隊、三番手の酒井家次隊をも次々と撃破。さらには小笠原秀政・忠脩父子も討ち取るという大戦果を挙げた 4 。
この毛利隊の予想を遥かに超える快進撃は、戦局に決定的な変化をもたらした。徳川方の天王寺口方面の戦線は事実上崩壊し、これまで幾重にも守られていた徳川家康の本陣が、前衛部隊を失い剥き出しの状態で戦場に晒されることになったのである 4 。それは、豊臣方にとって、そして茶臼山で機を窺っていた真田信繁にとって、まさに千載一遇の好機であった。
信繁の伝説的な突撃は、しばしば彼一人の超人的な武勇の産物として語られる。しかし、戦況を詳細に追うと、その成功は毛利勝永というもう一人の将の奮戦によって大きく切り開かれたことがわかる。勝永が徳川方の分厚い先鋒・二番手・三番手を打ち破り、家康本陣を「裸」にするという地ならしを行ったからこそ、信繁の刃が家康に届き得たのである。この戦況の連鎖を理解することなく、信繁の突撃の真価を語ることはできない。
第二部:真紅の突撃 ― 家康本陣蹂躙のクロニクル
毛利勝永がこじ開けた好機を、真田信繁が見逃すはずはなかった。彼の生涯最後の戦いは、戦国時代の終焉を飾るにふさわしい、壮絶な突撃となって歴史に刻まれることになる。複数の史料が伝えるその様相は、徳川家康が生涯で感じた最大の恐怖の一つであったことを物語っている。
2-1. 茶臼山からの進撃:死地への吶喊
毛利隊の奮戦に呼応し、茶臼山に布陣していた真田信繁は、好機至れりと判断。配下約3,000の、赤一色で染め上げられた「赤備え」の軍勢を率いて、正面に立ちはだかる松平忠直(越前宰相)率いる15,000の大軍へと突撃を開始した 3 。
信繁の狙いは、眼前の松平隊を殲滅することではなかった。彼の目標はただ一つ、その奥にいる徳川家康の首である 2 。真田隊は死兵と化し、凄まじい勢いで数に勝る敵陣を切り裂き、突き崩していく。その進撃路は、ただひたすらに家康本陣へと向かっていた 5 。
2-2. 阿鼻叫喚の家康本陣:三度の猛攻
ついに家康本陣に到達した真田隊の猛攻は、凄絶を極めた。特に、大坂の陣に参加していた薩摩藩島津家の史料『薩藩旧記雑録』は、その様子を生々しく伝えている。これによれば、真田隊は家康の本陣に対し、実に 三度にわたって 波状攻撃を仕掛けたと記録されている 3 。これは、一度きりの捨て身の突撃ではなく、崩れた敵の態勢の立て直しを許さず、繰り返し打撃を与えるという、信繁の卓越した戦闘指揮能力を示すものであった。
徳川本陣の混乱ぶりは、敵味方の諸史料が一致して伝えるところである。徳川家康の権威の象徴である馬印(金扇の馬標)が倒され 9 、旗本たちは恐怖に駆られて算を乱して逃走した 4 。『薩藩旧記雑録』は、中には3里(約12km)も逃げ延びた者がいたと記しており、本陣が完全に統制を失っていたことを示唆している 8 。
この混乱の渦中、総大将である家康自身も絶体絶命の危機に瀕した。彼は死を覚悟し、一時は切腹しようとしたと、複数の記録が伝えている 2 。徳川譜代の家臣である大久保彦左衛門が記した『三河物語』でさえ、家康の周囲にはごく僅かな供回りしかおらず、自身の旗奉行の所在さえ見失うほどの危機的状況であったと、自軍の不名誉を隠すことなく記している 8 。敵方である豊臣方の記録だけでなく、徳川方自身の史料が本陣の醜態と家康の危機を記録しているという事実は、真田信繁の突撃が与えた衝撃がいかに甚大であったかを客観的に証明している。それは、徳川方にとって隠し通すことのできない、紛れもない事実だったのである。
第三部:言説の検証 ―「この首取られよ」という言葉の真実
真田信繁の家康本陣への突撃という「行動」が歴史的事実であることは、数々の史料が証明している。では、逸話の核心である「この首取られよ」という「言葉」そのものは、どのように検証されるべきであろうか。ここで、我々が知る逸話と、史料が示す事実との間に、決定的な乖離が浮かび上がってくる。
3-1. 戦闘中の「挑発」としての発言は存在したか?
結論から先に述べれば、真田信繁が家康本陣への突撃の最中に、 徳川家康本人に向かって「この首取られよ」あるいはそれに類する言葉を直接叫んだ、とする一次史料や信頼性の高い二次史料は、現在のところ確認されていない。
この種の英雄的な挑発の逸話は、江戸時代に入ってから成立した軍記物語、特に寛文年間に書かれた『難波戦記』などに描かれた「真田幸村」像の影響が極めて強いと考えられる 10 。これらの物語は、史実を骨格としながらも、講談としての面白さを追求するために、読者を沸かせるための劇的な脚色や創作をふんだんに加えている。信繁の得意戦法の一つに、敵を挑発しておびき寄せるというものがあったことは事実であるが 12 、大坂夏の陣のこの決戦の場面で、家康に対して特定の台詞を発したという具体的な記録はない。したがって、戦闘中の挑発という形での「この首取られよ」は、信繁の比類なき武勇を象徴する場面として後世に創作された、伝説上の言葉である可能性が極めて高い。
3-2. 最期の「覚悟」としての発言:史料に見るもう一つの言葉
一方で、信繁がその生涯を閉じる最期の場面において、類似した、しかし文脈とニュアンスが全く異なる言葉を発したとする記録は、複数の史料にわたって確認することができる。
数度にわたる壮絶な突撃で心身ともに疲労困憊し、ついに徳川方の物量の前に撤退を余儀なくされた信繁は、四天王寺近くの安居神社の境内で、松の木に寄りかかり傷ついた身体を休めていた 5 。
そこに、松平忠直隊の鉄砲組頭であった西尾宗次(仁左衛門、あるいは久作とも呼ばれる)が通りかかる。信繁を発見した西尾に対し、信繁はもはや抵抗する力も気力も残っていなかった。そして、静かにこう告げたと伝えられている。**「我が首を手柄にせよ(この首を手柄にされよ)」**と 5 。
3-3. 「挑発」と「覚悟」の比較分析:言葉に込められた武士の矜持
この二つの「言葉」は、似ているようでいて、その意味するところは天と地ほども異なる。
- 「戦中の挑発」(伝説) : これは、天下人である徳川家康という対等もしくはそれ以上の相手に対し、自らの武勇への絶対的な自信と気概に満ちた、挑戦者の言葉である。物語の英雄「幸村」の、不敵で豪胆なイメージを完璧に体現している。
- 「最期の覚悟」(史料) : これは、自らの死を悟った一人の武士が、名も知らぬ一兵卒(西尾宗次)に対して発した、潔さと誇りの言葉である。敗者としての運命を受け入れつつも、最後まで武士としての尊厳を失わない「信繁」の実像を映し出している。自らの首が誰かの武功となることを許容することで、己の価値を最後の瞬間に示そうとする、戦国武士の美学がそこに凝縮されている。
ここに、逸話が形成される上での極めて重要な現象が見て取れる。後世の人々は、第二部で詳述した**「家康を恐怖のどん底に突き落とした壮絶な突撃という【行動】」 と、第三部で明らかになった 「最期の場面での武士としての誇りに満ちた【言葉】」**という、時間も場所も文脈も全く異なる二つの歴史的要素を、無意識のうちに融合させたのである。そして、よりドラマティックで英雄的な一つの物語―すなわち、「突撃の最中に家康を挑発した」という逸話―を創り上げた。これは、歴史上の出来事が人々の記憶の中で語り継がれるうちに、より分かりやすく、より感動的な「伝説」へと昇華していく典型的なプロセスを示している。
第四部:ある英雄の最期 ― 諸説に見る死の様相
信繁が「我が首を手柄にせよ」と告げたとされる最期の場面。その詳細についても、史料によって描写は一様ではない。これらの差異を比較検討することは、信繁の死が当時どのように受け止められ、語られていったのか、その多面性を探る上で不可欠である。
4-1. 壮絶な死闘の果てか、静かなる終焉か
信繁の最期については、大きく分けて二つの説が存在する。
一つは、多くの史料が採用する**「疲労困憊説」**である。細川家の記録をまとめた『綿考輯録』や『慶長見聞記』などによれば、信繁は度重なる激しい戦闘で深手を負い、疲労しきって安居神社で休息、あるいは従者に薬を与えているところを一方的に討たれたと記されている 3 。これは、圧倒的な物量の前に、いかなる英雄も力尽きるという、戦の非情さと悲劇的な側面を強調する描写である。
もう一つは、真田家の伝承を記したとされる『真武内伝』に見られる**「一騎打ち説」**である。これによれば、西尾宗次が信繁の乗る馬の尾を掴んで進軍を阻み、信繁が「吾と勝負せよ」と応じると、両者は馬を降りて槍や刀で一対一の勝負に及んだ。そして激しい白兵戦の末、ついに信繁が討ち取られたとされている 3 。この説は、信繁が最後まで武人として戦い抜いたという勇壮なイメージを後世に伝えようとする意図が感じられる。
また、討ち取られた場所についても、安居神社説が広く知られているが、近年発見された史料では、生玉(生國魂神社)と勝鬘院の間であったとする説も提示されており 17 、その最期の詳細はいまだ謎に包まれた部分が多い。
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表1:真田信繁の最期に関する主要史料の記述比較 |
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史料名 |
討ち取った人物 |
討たれた場所(伝) |
信繁の状態 |
最期の状況 |
手柄に対する評価 |
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『綿考輯録』 |
西尾久作(宗次) |
合戦場(安居神社が通説) |
負傷し、疲労困憊で休息中 |
抵抗なく討たれる |
徳川方にとって大手柄だが、西尾個人の武功としては「大した手柄にもならない」と低い評価 16 |
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『慶長見聞記』 |
西尾久作(宗次) |
不明 |
負傷し、従者に薬を与えていた |
抵抗なく討たれる |
西尾の評価は著しく下がったとされる 3 |
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『真武内伝』 |
西尾久作(宗次) |
生玉と勝鬘の間 |
負傷していたが、戦闘の意志あり |
馬を降りての一騎打ちの末に討たれる |
勇壮な死闘として描かれる 3 |
4-2. 首級を挙げた西尾宗次の評価
真田信繁の首級を挙げたことは、徳川方にとって「これまでにない大手柄」として賞賛された 16 。信繁の武勇は敵方にも広く知れ渡っており、その首は戦の趨勢を決する象徴的な意味を持っていたからである。
しかし、その討ち取り方が「疲労して休んでいる相手」であったため、実行者である西尾宗次個人の武功としての評価は、驚くほど低かった。『綿考輯録』が「大した手柄にもならない」と断じているように 16 、当時の武士社会では、単に敵将の首を挙げるという「結果」だけでなく、いかにして討ち取ったかという「プロセス」が極めて重要視されていたことが窺える。激しく組み合っての死闘の末に得た首こそが真の武功であり、抵抗できない相手を討つことは、武士の名誉とは見なされなかったのである。この評価の低さもまた、信繁が最期には戦う力を失っていたという状況を間接的に裏付けていると言えよう。
結論:歴史的実像と英雄伝説の交差点
本報告書の調査結果を総括すると、以下の点が明らかになる。
第一に、真田信繁が慶長二十年五月七日の天王寺・岡山決戦において、徳川家康本陣に対し複数回にわたる壮絶な突撃を敢行し、家康本人に死を覚悟させるほどの恐怖を与えたことは、敵方の史料をも含む複数の記録によって裏付けられる、揺るぎない 歴史的事実 である。その戦いぶりは、島津家が「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称賛した通り、戦国最後の合戦において最も鮮烈な輝きを放ったものであった 3 。
第二に、その突撃の最中に「この首取られよ」と家康を 挑発したという逸話は、後世の創作、すなわち英雄伝説の産物 である可能性が極めて高い。これは、信繁の武勇をより劇的に、より英雄的に語り継ごうとした人々の願望が、物語の中で結晶化したものと結論付けられる。
第三に、史料において確認されるのは、全ての力を使い果たした最期の場面で、自らを討ち取る相手に対し**「我が首を手柄にせよ」と、武士としての誇りを込めて静かに告げた姿**である。これは、敗北を潔く受け入れつつも、最後まで己の価値と尊厳を失わなかった「真田信繁」という武将の実像を色濃く反映している。
最終的に、我々が今日知る「戦中家康にこの首取られよと挑む」という鮮烈な逸話は、歴史上の人物「真田信繁」が示した驚異的な【行動】と、物語の英雄「真田幸村」の象徴的な【言葉】が、長い年月をかけて融合した結果、形成されたものである。この逸話は、史実そのものではないかもしれない。しかしそれは、信繁が示した比類なき武勇と、彼に寄せられた後世の人々の尽きることのない賞賛と憧憬が一つになった、歴史の記憶そのものと言えるだろう。
引用文献
- 天王寺・岡山の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E3%83%BB%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 真田幸村はやっぱりかっこいいという話|らいの日常 - note https://note.com/kind_toucan5889/n/nf5c92529419b
- 大坂夏の陣での真田信繁の最後の戦いぶりと、諸説ある信繁の無念 ... https://sengoku-his.com/2514
- 大坂夏の陣「天王寺口の戦い」!毛利勝永、徳川諸隊を次々と撃破 ... https://favoriteslibrary-castletour.com/mori-katsunaga-tennoji/
- 真田幸村、家康本陣に突撃を敢行!"日本一の兵(つわもの)"真田 ... https://favoriteslibrary-castletour.com/sanada-yukimura-chausuyama-yasuijinja/
- 毛利勝永、大坂夏の陣で奮戦~惜しいかな後世、真田を云いて、毛利を云わず https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5097
- 大阪の今を紹介! OSAKA 文化力 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/012.html
- 徳川家康は大坂の陣で討ち死にしていた!?~堺・南宗寺にある墓 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4820
- 家康に切腹を覚悟させた真田信繁のツワモノぶり…大坂夏の陣で ... https://president.jp/articles/-/76259?page=4
- 真田幸村は何をした人?「大坂の陣の突撃で日本一の兵と称えられ ... https://busho.fun/person/yukimura-sanada
- 真田信繁は、以前は真田幸村と言っていたと思うが、どちらが正しい名前なのか。(2016年) - 江戸東京博物館 https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/purpose/library/reference/alphabet/13263/%EF%BB%BF%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81%E3%81%AF%E3%80%81%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AF%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E6%9D%91%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%A8%E6%80%9D
- 14 「徳川家康 VS 真田幸村」 - 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を動かした!~|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/rival/bknm/14.html
- 大塚城の写真:真田幸村名言「十万石では不忠者にならぬが https://kojodan.jp/castle/801/photo/21038.html
- 大坂夏の陣 天王寺・岡山の戦い「真田信繁終焉の地」 | 大河ドラマに恋して http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-4663.html
- 第25回・最終回【安居神社】信繁最期の地 - 文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/190?page=1
- 大坂の陣での真田信繁の最期を巡る謎 | 歴史人 https://www.rekishijin.com/14118
- 真田信繁 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81