最終更新日 2025-10-30

真田信繁
 ~戦後討たれし首が笑った怪譚~

大坂夏の陣で討たれた真田信繁の首が「笑った」という怪譚を、史実と伝承の狭間から解明。武士の死生観、家康の恐怖、英雄像の形成を考察。

真田信繁の首級、その微笑の怪譚 ―史実と伝承の狭間にある英雄の最期―

序章:大坂夏の陣、終焉の日に生まれた怪譚

慶長二十年(1615年)五月七日、大坂城は紅蓮の炎に包まれ、豊臣家の栄華は灰燼に帰した。徳川家康による天下統一が、まさに完成せんとするその日、勝利に沸く徳川方の喧騒の裏で、一つの首級をめぐる異様で不吉な噂が生まれようとしていた。その首の主は、二度にわたり家康を自害寸前にまで追い詰めた「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」、真田左衛門佐信繁。その壮絶な死から間もなくして、信繁の首が討たれた後に「笑った」とされる怪譚が、人々の間で囁かれ始めたのである。

本報告書は、この一つの怪異譚に焦点を絞り、その源流、背景、そして文化的意味合いを徹底的に解明するものである。この逸話は、単なる戦場の怪談として片付けられるべきものではない。むしろ、時代の精神、武士の死生観、そして勝者であるはずの家康の深層心理までもが複雑に投影された、歴史の深淵を覗き込むための鏡であると言えよう。我々はこの謎を解き明かすべく、まず信繁最期の瞬間から、その物語を時系列に沿って紐解いていく。

第一部:英雄の最期 ― 首級、徳川の手に渡る

第一章:茶臼山での死闘と安居神社の静寂

大坂夏の陣の最終局面、信繁率いる真紅の赤備え部隊は、徳川本陣めがけて鬼神の如き最後の突撃を敢行した 1 。その凄まじい勢いは、徳川方の旗本勢を突き崩し、家康の居場所を示す馬印が倒されるほどであったという 2 。徳川本陣は大混乱に陥り、家康自身も二度、切腹を覚悟したと伝えられるほど、信繁の武威は天下人の心胆を寒からしめた 1

しかし、衆寡敵せず、徳川方の圧倒的な兵力の前に、信繁の手勢は次々と討ち減らされていった。信繁自身も度重なる戦闘で深手を負い、その心身は疲労困憊の極みに達していた 4 。もはやこれまでと悟った信繁は、天王寺方面へと静かに退却し、安居神社の境内にある松の木の下で、甲冑を脱ぎ、しばしの休息をとっていたとされる 5

英雄の最期は、驚くほど静かに訪れた。そこへ現れたのが、越前松平忠直の鉄砲頭、西尾久作(仁左衛門、宗次とも記される)であった 4 。この最後の場面に関する記述は、史料によってその色合いを異にする。『綿考輯録』によれば、信繁はすでに負傷して抵抗できる状態ではなく、久作は休んでいるところを討ち取ったため、「大した手柄にもならない」と比較的冷静に評価されている 4 。一方で、より劇的な伝承では、信繁が自らの素性を明かし、「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して潔く首を差し出した、とされている 5 。この描写の差異は、史実としての「力尽きた武将の死」と、後世の人々が求めた「英雄的な最期」との間に存在する乖離から生じたものであり、後の英雄化伝説が生まれる萌芽をここに見ることができる。

第二章:戦功の証 ― 首実検の場へ

戦国時代において、敵の首を獲るという行為は、自らの武功を証明する唯一無二の手段であった 8 。口頭での申告がいかに雄弁であろうとも、物的な証拠である首級がなければ恩賞には繋がらない。特に、兜を被ったままの大将クラスの首は「兜首」と称され、最高の栄誉とされた 9

その中でも、真田信繁の首は別格の価値を持っていた。家康はかねてより、信繁を討ち取った者には五万石、あるいは十万石という、一武士を大名へと引き上げるに等しい破格の懸賞金をかけていたのである 10 。この首は、単なる一個人の戦功の証を超え、徳川の天下を最終的に盤石にするための、極めて象徴的な意味を帯びていた。

しかし、この世紀の首級を挙げた西尾久作は、当初自分が討ち取った相手が、あの真田信繁本人であるとは気づいていなかったと複数の記録は伝えている 5 。この事実は、信繁の最期が、後世に語られる伝説的なイメージとはかけ離れた、誰にも気づかれぬほどの静かなものであった可能性を強く示唆している。久作は、名も知らぬ疲弊しきった一人の武将を討ち取った、という認識であったのかもしれない。この英雄のイメージと現実の最期とのギャップこそが、後に超常的な逸話が付与される創作の余地を生み出すことになる。

第二部:天下人の前での首実検 ― 恐怖と確認の儀式

第一章:真偽の確認 ― 物的証拠の検証

戦場から持ち帰られた首は、「首実検」と呼ばれる厳粛な儀式にかけられる。これは、戦功を認定するための行政手続きであると同時に、死者への敬意と、その怨念に対する畏怖が入り混じった、多分に呪術的な意味合いを持つ儀式でもあった 9 。首は血や泥を洗い清められ、髪を結い直し、時には死に化粧まで施されて大将の前に差し出される 9

信繁の首が届けられると、家康はその真偽を確かめるべく、執拗なまでの確認作業を開始した。まず召喚されたのは、徳川方に仕えていた信繁の叔父・真田信尹であった 10 。身内であれば、甥の顔を見間違えることはないだろうという家康の判断である。しかし、『慶長見聞記』によれば、信尹は「夜も更けて暗く、信繁が奥に座っていたため、顔を十分に見ることができなかった」などと曖昧な返答に終始し、業を煮やした家康から「昨年面会したのに忘れたのか」と厳しく叱責されたという 10 。これが、身内として甥の首を検分することへの苦痛から出た言葉なのか、あるいは何らかの政治的配慮があったのかは定かではないが、この時点で確認は難航した。

最終的に、その首が信繁本人であることを確定させたのは、動かぬ物的証拠であった。一つは、真田家に代々伝来するとされる鹿の角をあしらった特徴的な兜。そしてもう一つは、首の口を開かせると確認できた、「欠けた二本の前歯」であった 11 。信繁は前歯が欠けていたという特徴が知られており、この二つの証拠によって、首は紛れもなく真田信繁本人のものであると断定されたのである。

第二章:家康の尋問 ― 疑念の対話

物的証拠によって首が本物であると確定した後も、家康の疑念は晴れなかった。その疑念は、首の真偽から、それが「いかにして討ち取られたか」という状況そのものへと移っていった。家康は、西尾久作が信繁を討ち取ったという事実を、どうしても鵜呑みにできなかったのである。「信繁がそう易々と首を獲られるはずがない」「信繁ほどの男が、久作ごときに討ち取られるはずはない」と、家康は強い不信感を抱いていた 11

複数の史料に残る記述を統合し、家康と久作の緊迫した対話の場面を時系列で再現すると、以下のようになる。

  1. 家康、労いの言葉をかける:
    「大儀であった。して、信繁を討ち取った際の様子、詳しく申してみよ」11。
  2. 久作、手柄を誇張して報告する:
    (自らの手柄を少しでも大きく見せようとした久作は、こう答えた)
    「はっ。信繁はなおも激しく抵抗いたしました故、某も深手を負いながら、死力を尽くしてようやく討ち取り申した」11。
  3. 家康、不機嫌になる:
    (早朝からの信繁の獅子奮迅の戦いぶりを知る家康は、その報告を聞いて、信繁にそれほどの余力が残っていたはずはないと察し、急に不機嫌になったという)
    「……そうか」11。
  4. 家康、別の角度から尋問する(『落穂集』の逸話):
    「その首、前歯は欠けておるか」11。
  5. 久作、事実を答える:
    「はっ、確かに欠けておりまする」11。
  6. 久作、沈黙する:
    (家康が再び戦いの様子を問うと、久作は家康の不興と深い疑念を敏感に察知し、もはや言葉を発することができず、ただ平伏して黙り込んでしまった)11。
  7. 家康、内心の疑念を隠し、場を収める:
    (家康は内心の疑念を押し殺し、表向きは労いの言葉をかけた)
    「……良い首を獲った」。
    しかし、その場が収まった後、家康は側近の者たちにこう漏らしたと伝えられる。「久作は信繁とまともに戦ってはおらぬであろう。力尽きたところを、偶然見つけたに過ぎぬわ」11。

この一連のやり取りは、家康の信繁に対する評価がいかに高いものであったか、そしてそれ故に、そのあっけない最期が家康にとっていかに信じがたいものであったかを物語っている。家康の執拗なまでの確認作業と不信感は、単なる慎重さを超え、信繁という存在が家康にとって物理的な脅威であると同時に、自らの天下の正当性さえ揺るがしかねない「カリスマ」に対する、深い恐怖の表れであった。この首実検は、信繁の「死」を物理的に確認するだけでなく、その死後もなお衰えぬ「威光」を無効化するための、呪術的な儀式としての側面を帯びていたのである。


【表1:主要史料における真田信繁の首実検に関する記述比較】

史料名

確認者

確認方法・根拠

家康の反応

西尾久作の言動

『武辺咄聞書』

真田信尹、徳川家康

鹿角の兜、欠けた前歯二本

当初は久作の報告に不信感・不機嫌になる

激しく抵抗されたと手柄を誇張して報告する

『落穂集』

徳川家康

欠けた前歯、戦況の質問

労いの言葉をかけるが、内心では疑っている

家康の不興を察し、平伏して黙り込む

『慶長見聞記』

真田信尹

顔の確認を試みる

信尹の曖昧な返答に業を煮やし、厳しく叱責する

-

この表が示すように、細部の描写は史料によって異なるものの、いずれの伝承においても「家康が信繁の死に強い疑念を抱いていた」という点が共通の核となっている。この天下人が抱いた拭い去れない恐怖と疑念こそが、信繁の死は尋常ならざるものであり、その魂は死してなおこの世に留まっているという物語を生み出す、最も強力な触媒となったのである。


第三部:怪譚の誕生 ― なぜ首は「笑った」のか

第一章:「笑う首」の類型 ― 上泉康綱と平将門の影

まず明確にすべきは、真田信繁の首が笑った、と直接的に記した同時代の一次史料は、現時点では確認されていないという事実である。この逸話は、後世の創作、あるいは日本に古くから存在する類似の怪異譚の類型が、信繁という当代随一の英雄の死に結びつけられた結果、生まれたものである可能性が極めて高い。

その最も顕著な先行事例が、『羽陽軍記』に記された最上義光と上泉康綱の首にまつわる逸話である 14 。慶長五年(1600年)の長谷堂城の戦いで討ち取られた上杉方の猛将・上泉康綱の首は、首実検の際にいつまでも萎びず、時折目を開き、口を動かすように見えたという。報告を受けた最上義光はこれを「遺恨の首」と断じ、大釜で煮るように命じた。しかし、煮てもなお首は萎まず、怪異は収まらなかった。そこで義光は修験者に命じて七日間の護摩を焚かせたところ、満願の七日目、康綱の首はついに「にっこりと笑った表情」となり、安らかに目を閉じ、ようやく成仏したと記されている 14

さらに時代を遡れば、非業の死を遂げた強者の首が超常的な力を発揮するという信仰の原型は、平安時代の平将門の伝説に見出すことができる 17 。朝敵として討たれ、京の都で晒された将門の首は、数ヶ月経っても腐らず、夜な夜な「斬られし我が五体、何処にかあるらん。此処に来たれ、頭繋いで今一戦せん」と叫び続けたという 18 。そしてついには、故郷の関東を目指して夜空を飛翔したと伝えられる 18 。これらの伝説は、人の魂は首に宿り、とりわけ強い意志や無念を持つ者の魂は、死してなおその意志を貫こうとするという、日本古来の御霊信仰を色濃く反映している 20

第二章:死顔に込められた意味 ― 武士の死生観と魂の行方

戦国時代の首実検には、討ち取られた首の表情によって自軍の吉凶を占うという風習が存在した 9 。両目を閉じ、安らかで落ち着いた表情の首は「仏眼」と呼ばれて吉相とされた。一方で、歯を食いしばる「歯噛み」の首は、強い遺恨が残っている証として凶相とされ、祟りを払うための特別な儀式が行われることもあった 23

この文脈において、信繁の首が見せたという「笑い」の表情は、極めて多義的な解釈を許す。

第一に、**「満足の笑み」**である。これは、己の生涯を武士として全うし、本懐を遂げたことへの満足感の現れと解釈できる。『葉隠』の有名な一節「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」 24 に象徴されるように、主君のために命を懸け、潔く散ることは武士の美学の極致であった 25 。信繁は豊臣家への忠義を貫き、天下人・家康を最後まで苦しめた。その死は、武士としての誉れを最大限に体現したものであり、その達成感が死後の笑みとして現れた、という物語である。

第二に、**「勝者への嘲笑」**である。これは、物理的には敗れたものの、精神的には勝利したという、勝者に対する最後の侮蔑と嘲りである。自らの命と引き換えに、天下人を恐怖のどん底に突き落としたことへの自負。そして、自らの首を前にしてなお疑心暗鬼に陥る家康の狼狽ぶりを、泉下から見ての冷笑と捉えることができる。

第三に、**「成仏の相」**である。これは、上泉康綱の事例に見られるように、この世に残した深い遺恨が浄化され、安寧の境地へと至った証としての穏やかな微笑みである。

これらの解釈を可能にする根底には、首は単なる死体の一部ではなく、その人物の魂が宿る器であるという、当時の人々の強い観念があった 8 。だからこそ、人々は首の表情に深い意味を読み取り、その魂の行方に思いを馳せ、祟りを恐れ、あるいは手厚く祀ったのである。「信繁の首が笑った」という逸話は、史実ではなく、先行する「上泉康綱の笑う首」という物語の「型」を、当代随一の「遺恨を残して死んだ強者」である信繁に当てはめた文化的創作であった可能性が高い。信繁の死がもたらした社会的な衝撃と、家康の恐怖という特異な文脈に、既存の怪異譚が完璧に適合した結果、このハイブリッドな伝説が誕生したと言えよう。

第四部:伝説の完成 ― 英雄「幸村」と物語の力

第一章:講談、草双紙が育てた英雄像

江戸時代に入り世の中が泰平になると、真田信繁の物語は新たな段階へと移行する。軍記物語や、庶民の娯楽であった講談、草双紙といったメディアを通じて、史実の人物「信繁」は、不世出の英雄「幸村」として神格化されていくのである 28 。徳川幕府の治世が安定するにつれ、その幕府を創設した家康を最後まで苦しめた幸村の存在は、体制に対する一種の反骨精神の象徴として、民衆から絶大な人気を博すようになった 30

『難波戦記』に代表される講談の世界では、幸村は智謀の限りを尽くし、時には忍術をも操る超人的な軍師として描かれた 31 。さらに明治から大正期にかけて出版された『立川文庫』に至っては、猿飛佐助や霧隠才蔵を筆頭とする「真田十勇士」という架空の家臣団が登場し、幸村の英雄像を決定的なものにした 28

この熱狂的な幸村人気の背景には、日本人特有の「判官贔屓(ほうがんびいき)」、すなわち、弱い立場や敗れた者に同情し、肩入れする心情が強く作用している 29 。強大な徳川に単身で立ち向かい、豊臣家への義理を通して華々しく散っていった悲劇の英雄という彼の生き様は、まさに判官贔屓の対象として理想的な姿であった。

第二章:「笑う首」の象徴性

こうして形成された英雄・真田幸村の物語において、「笑う首」の怪譚は、その最後を締めくくる上で極めて効果的な、象徴的エピソードとして機能する。それは、物理的な死では決して終わることのない、信繁の精神的な勝利を宣言するものであった。

生きては家康を恐怖の淵に立たせ、死してはその首が天下人を嘲笑う。この鮮烈な構図は、絶対的な権力者である徳川家康に対する、民衆のささやかではあるが、しかし痛烈な精神的抵抗の物語として受容された。徳川幕府の言論統制下で、直接的に幕府を批判することができない民衆が、物語という安全な領域において、「徳川家康が最も恐れた男」を神格化し、その男が死してなお幕府の創始者を嘲笑うというカタルシスを共有するための、優れた文化的装置として機能したのである。

さらに、「笑う首」は、信繁の魂がまだこの世に留まっていることを強く示唆する。それは、「討ち取られたのは影武者で、本人は生き延び、豊臣秀頼を連れて薩摩へ落ち延びた」といった、数々の生存説が生まれる豊かな土壌ともなった 42 。死体が笑うほどの強靭な生命力と意志があれば、戦場から脱出し、生き延びていても不思議ではない、という物語的な論理が、ここから生まれてくるのである。

結論:史実と創作の狭間で微笑むもの

真田信繁の首が討たれた後に笑ったという逸話は、歴史的事実である可能性は限りなく低い。それは、天下人・徳川家康が抱いた信繁個人への異常なまでの恐怖心、武将の首にまつわる日本の伝統的な怪異譚の類型、そして江戸時代以降の民衆が抱いた判官贔屓と英雄待望論という、三つの強固な要素が複雑に絡み合って生まれた、精緻な文化的結晶であると結論づけられる。

この怪譚は、史実の真偽という次元を超えて、真田信繁という一人の武将が、同時代および後世の人々に与えた衝撃の大きさを何よりも雄弁に物語っている。物理的には滅ぼされ、その首は敵の手に渡ったとしても、その魂と威名は勝者を永遠に脅かし続ける。その不屈の精神の象徴として、信繁の首は、人々の記憶と物語の中で、今なお静かに、そして確かに微笑み続けているのである。

引用文献

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  2. 真田親子に学ぶ危機突破力 - TKCグループ https://www.tkc.jp/cc/senkei/201608_special02
  3. 家康に切腹を覚悟させた真田信繁のツワモノぶり…大坂夏の陣で家康本陣を切り崩したラストサムライの最期 豊臣秀頼が出馬していれば家康を打ち取れたかもしれない - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/76259?page=1
  4. 大坂の陣での真田信繁の最期を巡る謎 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/14118
  5. 第25回・最終回【安居神社】信繁最期の地 - 文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/190?page=1
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  8. 戦国武将の生首「首級」は取り扱い注意!ランク低ければ捨てられ、死に際の形相は化粧でごまかされていた - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/237095
  9. こんなに細かかった! 戦国時代の首取り、首実検の作法とは - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/429
  10. 鉄砲頭・西尾久作は本当に真田信繫の首を討ち取ったのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/14120
  11. 真田信繁の首実験にまつわる謎 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/14122
  12. 戦国時代、敵将などを討ち取った際に、自分の手柄の証としてその首を持ち帰ることがあったらしいが、これが... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000200803&page=ref_view
  13. 首実検儀礼についてのまとめ - karakuri_sense's blog https://karakuri-sense.hatenablog.com/entry/2021/09/29/232323
  14. 首を煮る・ムチで打つ…。戦国武将の「恐怖の首実検」エピソードを紹介 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/79531/
  15. 戦国時代の家臣はどのように評価された?首実検の作法や「ズル」も紹介 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/60647/
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  43. 豊臣秀頼は生きていた⁉︎薩摩でピタリと符合する生存説。大坂城からの脱出方法は? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/109014/
  44. まだまだいる「実はその時は影武者が死んだだけ系武将」~真田幸村編~(人・∀・) - studio poppo https://studiopoppo.jp/poppoblog/chat/30715/
  45. 実は薩摩に逃げていた!?戦国武将・真田幸村(信繁)は生きていた説 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/113574
  46. 武将ブログ 「真田幸村」の墓の謎/ホームメイト - 刀剣広場 https://www.touken-hiroba.jp/blog/11071472-2/