最終更新日 2025-10-28

真田信繁
 ~時来たらば天下騒がせよ復活譚~

真田信繁の「時来たらば天下を騒がせよ」伝説を検証。九度山での蟄居生活の実像と大坂の陣での活躍を分析し、英雄叙事詩の誕生を解き明かす。

真田信繁「時来たらば天下を騒がせよ」― 復活譚の史的再構築と英雄叙事詩の誕生

序章:逸話の源流と史実性の検証 ― 「伝説」の解剖

戦国時代の終焉を彩る最後の英雄、真田信繁(幸村)。その生涯は数多の伝説に包まれているが、中でも我々の心を捉えて離さないのが、紀州九度山での長い蟄居生活の末に発せられたとされる復活の檄であろう。『時来たらば天下を騒がせよ』― この一言は、雌伏の時を経て再び歴史の表舞台に躍り出る英雄の姿を、鮮烈に描き出す。しかし、この象徴的な言葉は、果たして歴史の真実なのだろうか。

結論から述べれば、この発言を直接的に裏付ける同時代の一次史料、すなわち信繁自身や関係者が残した書状、あるいは公的な記録は、今日に至るまで一切発見されていない。この言葉が広く知られるようになった源流を辿ると、江戸時代後期から近代にかけて成立した軍記物や講談、さらには江戸川乱歩の『二銭銅貨』や吉川英治の『新書太閤記』といった近代文学作品に行き着く 1 。これは、我々が知るこの逸話が、史実そのものではなく、後世に創造され、語り継がれる中で磨き上げられた「物語」であることを強く示唆している。

江戸時代に入り泰平の世が訪れると、人々は過ぎ去った戦国の世に思いを馳せ、英雄たちの物語を求めた。『真田三代記』や『難波戦記』といった軍記物語は、そうした需要に応える形で編纂され、講談師たちの口を通して庶民の間に広く浸透していった 3 。これらの物語の中で、真田幸村は徳川家康を最後まで苦しめた不屈の智将として描かれ、その英雄像が確立されていく 5 。特に、父・昌幸や信繁が家康を恐れさせたとする逸話の多くは、絶対的な勝者である徳川家を相対化し、時には貶める意図さえ含んだ創作であったとする見方が有力である 6

では、なぜ史実にないこの言葉が、これほどまでに真実味を帯びて語り継がれるのか。その答えは、信繁の生涯における劇的な二つの局面、すなわち「14年間にわたる沈黙(九度山での蟄居)」と「最後の閃光(大坂の陣での活躍)」との間に横たわる、あまりにも大きな断絶にある。人々は、この断絶を理解し、納得するために、一つの物語を必要とした。すなわち、「彼はただ無為に日々を過ごしていたのではない。来るべき時のために、虎視眈々と牙を研いでいたのだ」という物語である。本レポートは、この「時来たらば天下を騒がせよ」という逸話の不在から出発し、それが生まれる土壌となった信繁の蟄居生活の実像を一次史料から再構築することで、一つの英雄叙事詩が誕生する瞬間を解き明かすことを目的とする。

第一章:九度山における蟄居生活の実像 ― 雌伏の英雄か、困窮する中年か

後世に創られた英雄の仮面を一旦外し、史料に残された痕跡を辿る時、我々の前に現れるのは、不屈の闘志を秘めた策略家とは異なる、より人間的な真田信繁の姿である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与した父・昌幸と信繁は、徳川家康によって死罪を免じられたものの、紀州高野山への配流を命じられた 8 。当初は女人禁制の高野山蓮華定院に入ったが、やがてその麓の九度山村に移り住み、ここから14年間に及ぶ蟄居生活が始まる。

経済的困窮と生活の実態

九度山での生活は、決して穏やかな隠棲ではなかった。信繁に従った家臣は高梨内記ら16名、その妻子や侍女、小者を含めると総勢数十名に及ぶ大所帯であった 9 。彼らの生活を支える収入源は、東軍について真田家の家督を継いだ兄・信之からの仕送りと、監視役であった地元の領主・浅野家から支給される年50石の米に大きく依存していた 9

信繁が残した書状の多くは、この経済的な苦境を切々と訴えるものである。兄・信之の家臣宛の書状では、「此の方堪忍の様子(こちらの辛抱している様子)」「万事御推量の通り(万事ご推察の通りです)」と、困窮した生活を伝え、兄への口添えを依頼している 13 。また、別の書状では具体的に40両の送金を依頼しており、その生活が如何に兄からの援助に頼っていたかが窺える 15 。さらに、不運にも火事で屋敷を焼失した際には、その再建のために信之に100両もの借金を申し込むなど、その苦境は深刻であった 9 。これは、再起を期して潤沢な軍資金を密かに蓄えていたとされる英雄像とは、全く相容れない現実の姿である。

精神的慰めと人間的側面

先の見えない蟄居生活の中で、信繁は心の慰めを求めていた。彼が残した書状には、連歌への強い関心が示されている。前述の書状の追伸には「追って一度面を以て一折興行望み居り候(追って一度お会いして、連歌の会を催したいと望んでおります)」とあり、文化的な交流への渇望が読み取れる 13 。厳しい現実から一時離れ、言葉の世界に遊ぶことで、精神の平衡を保っていたのかもしれない。

また、彼の人間的な側面を伝えるのが、焼酎の差し入れを依頼した手紙である 16 。兄の家臣・河原左京に宛てたこの手紙で、信繁は「壺に焼酎を詰めて下さるようにお願いいたします」「口をよく詰め、その上に(紙を)貼って送ってください」と、漏れないように念入りな梱包を指示している。さらに「壺二つお送りいたします。焼酎のことお頼み申します。他にもあるのなら、(この壺の)他にも頂戴したいと思います」と付け加えており、ささやかな楽しみを心待ちにする彼の姿が目に浮かぶようである 17

しかし、その一方で、心身の衰えに対する不安も隠せない。大坂の陣が勃発する慶長19年(1614年)の2月頃に書かれたとみられる手紙には、「年を取るのは口惜しい。去年から急に老け込み、病気がちになった。歯も抜け、ひげも黒いところはあまりない」と、自身の老いを率直に嘆く言葉が綴られている 19 。これは、超人的な英雄ではなく、先の見えない生活の中で心身をすり減らしていく、生身の四十代半ばの男の偽らざる告白であった。

再起への布石か、生活の糧か ― 「真田紐」の逸話の検証

九度山での信繁を語る上で欠かせないのが、「真田紐」の逸話である。父子が考案したこの丈夫で美しい紐を家臣に行商させ、生活の足しにすると同時に、諸国の情報を密かに収集させていたという物語は、彼の雌伏の時を象徴するエピソードとして広く知られている 21

この逸話は、信繁の困窮した生活と、武将としての情報収集活動を結びつける、非常に巧みな物語である。しかし、「真田紐」の起源については諸説が存在する。真田父子に由来するという説が最も有名だが、古くからあった幅の狭い織物「狭織(さのはた)」が「さなだ」に転訛したという説や、その起源はさらに古い時代に遡るとする説もあり、その歴史的経緯は必ずしも明確ではない 26

信繁たちが生活のために紐作りに関わった可能性は否定できない。しかし、それが後世に語られるような、再起に向けた大掛かりな諜報活動の一環であったと考えるのは、やや飛躍があるだろう。むしろ、日々の糧を得るための地道な内職という現実に、「情報収集」という軍略的な意味合いを付与することで、彼の全ての行動を「再起への布石」という英雄的な物語の中に回収しようとする、後世の人々の願望がこの逸話を生み出したと解釈するのが自然ではないだろうか。信繁の行動は、「再起への準備」と「日々の生存」という二つの側面が不可分に結びついていた。史料が示すのは後者の切実さであり、物語が強調するのは前者なのである。

以下の表は、本章で論じた、後世の創作における英雄像と、史料から浮かび上がる実像とのギャップをまとめたものである。

項目

後世の講談・物語におけるイメージ

史料から読み解く実像

生活水準

再起を期し、虎視眈々と機会を窺う雌伏の英雄

兄からの仕送りに頼り、生活の困窮を具体的に訴える手紙を送る 13

精神状態

不屈の闘志を内に秘め、冷静沈着

老いや病を嘆き、将来への不安を吐露することもある 19

日常の活動

兵法の研究と訓練に明け暮れる

連歌を楽しみ、焼酎の差し入れを頼むなど人間的な側面も持つ 13

家臣との関係

固い結束で結ばれた精鋭家臣団を維持

父の死後、多くの家臣は国元へ帰り、少数の者だけが残る 29

第二章:父・昌幸の死と残された者たち ― 巨星墜つ

九度山での生活が11年目を迎えた慶長16年(1611年)、真田信繁の運命を大きく左右する出来事が起こる。父・真田昌幸の死である 9 。武田信玄に見出され、その智謀で「表裏比興の者」と称された稀代の戦略家であり、徳川家康を二度までも上田城で退けた父の存在は、信繁にとって精神的な支柱であったに違いない。その巨星が、配流の地で静かに墜ちたのである。

昌幸の晩年は、決して安らかなものではなかった。赦免への働きかけも実らず、希望は絶たれ、病と経済的な苦境の中で失意の日々を送っていた 6 。後世の物語では、死の床で信繁を呼び寄せ、「打倒家康」の遺志と秘伝の兵法を託したといった劇的な場面が描かれることがある。しかし、こうした逸話は、失意のうちに亡くなった名将を英雄として描き出すための創作であり、史実とは考え難い 6

昌幸の死は、信繁の精神的な打撃に留まらなかった。それは、九度山における「真田家」という共同体の崩壊の始まりでもあった。これまで昌幸の圧倒的なカリスマ性を慕い、再起の望みを託して九度山に留まっていた家臣の多くが、その死を境に将来に見切りをつけ、国元の上田で藩主となっている信之のもとへと帰還してしまったのである 29

最終的に信繁のもとに残ったのは、高梨内記、青柳清庵、三井豊前といった、ごく少数の腹心たちだけであった 29 。昌幸の死によって、信繁は「偉大な父を持つ息子」という立場から、名実ともに九度山の真田家を率いる当主となった。しかし、彼が継承したのは、権力や財産、そして家臣団といった物理的な力ではない。「真田の武名」という、目に見えない無形の遺産のみであった。

この家臣団の離散という現実は、「時来たらば天下を騒がせよ」と檄を飛ばすべき対象となる「家臣」が、もはや数えるほどしかいなかったという、動かしがたい事実を信繁に突きつける。彼の周りに存在したのは、もはや「組織」や「軍団」と呼べるものではなく、個人的な忠誠心と情で結ばれた、いわば「家族」に近い小集団だったのである。この後の信繁の決断は、大軍を率いる将軍としてではなく、この小さな共同体の運命を一身に背負った、一人の男としての決断として捉え直さねばならない。

第三章:『時』の到来 ― 大坂からの招聘

父・昌幸の死から3年の歳月が流れた。信繁は九度山で、残された僅かな家臣や家族と共に、静かで無為な日々を過ごしていた。もはや歴史の表舞台に返り咲く望みも絶たれ、このまま配流の地で朽ち果てていく運命を、彼自身も受け入れ始めていたかもしれない。しかし、慶長19年(1614年)、彼の意図とは全く無関係に、天下の情勢が大きく動き出す。

きっかけは、豊臣秀頼が再建した京都の方広寺の鐘に刻まれた銘文であった。徳川家康は、その中の「国家安康」「君臣豊楽」の文言を、「家康」の名を分断し、豊臣の繁栄を願う呪詛であると強引に解釈し、豊臣家を追い詰めた 30 。いわゆる「方広寺鐘銘事件」である。これを口実に徳川との決戦を覚悟した豊臣家は、大坂城に籠城し、全国の浪人たちに参集を呼びかけた 30

この豊臣方からの誘いの手は、長らく世間から忘れ去られていた九度山の信繁のもとへも届けられた。当時48歳になろうとしていた信繁にとって、それはまさに青天の霹靂であった。武将として再びその名を歴史に刻む、おそらくは最初で最後の機会の到来であった。

信繁が大坂城への入城を決意した動機は、複合的なものであったと考えられる。豊臣秀吉から厚遇を受けた恩義に報いるという側面は確かにあっただろう 30 。しかし、それ以上に、14年間にわたる蟄居生活で鬱積した思いを晴らし、父・昌幸から受け継いだ「真田の武名」を天下に示すことこそ、武士としての本懐を遂げる道であると考えたに違いない 20 。もはや老いを自覚し、このままでは武勲を立てることもなく空しく朽ち果ててしまうという焦燥感が、彼の背中を押したのである。

その決意が如何に固いものであったかは、大坂の陣の直前、姉の嫁ぎ先に送った手紙の一節からも窺える。「定めのない浮世なので、一日先は知りませぬ。我々のことなどは、浮世にある者と思わないでください」 36 。この言葉には、生きて帰ることを期さない、壮絶な死の覚悟が滲み出ている。

ここで重要なのは、逸話で語られるように、信繁が自ら計画し、待ち望んだ「時」が来たわけではないという点である。彼にとっての「時」とは、彼の意思とは無関係に、外部から偶然与えられた、拒否することも可能な「最後の選択肢」であった。彼の決断は、勝利を緻密に計算する戦略家のそれではなく、自らの人生の終着点、すなわち死に場所と死に様を自ら選ぶ、求道者のそれに近いものであった。後に徳川方からの破格の条件での寝返りの誘いを、「いざとなれば損得を度外視できるその性根、世の中に、それを持つ人間ほど怖い相手はない」という言葉で一蹴したとされる逸話は、まさにこの時の信繁の心性を的確に捉えている 36 。彼は、人生の最後に「損得」という価値基準を超えたもののために、その命を懸けようとしたのである。

第四章:決断の刻 ― 家臣との対話の史的再構築

「時来たらば天下を騒がせよ」― この劇的な言葉が、史実として語られた可能性は低い。しかし、この逸話の核にある感情、すなわち14年の沈黙を破る決断の瞬間の緊張と高揚は、確かに存在したはずである。ここでは、残された史料の断片を繋ぎ合わせ、信繁が大坂行きを決意したその日、彼の屋敷で交わされたであろう対話を、史実に基づいて再構築する。それは、大言壮語の檄ではなく、運命を共にする者たちの、静かで重い覚悟の共有であっただろう。

場所: 紀州九度山の真田屋敷

時: 慶長19年(1614年)秋

参加者:

  • 真田信繁: 当時48歳。長い蟄居生活により、心身ともに衰えを感じている。
  • 高梨内記、青柳清庵、三井豊前ら: 父・昌幸の死後も信繁に付き従った、数少ない腹心の家臣たち 29
  • 真田大助(幸昌): 九度山で生まれ育った信繁の長男。当時13歳 16

大坂からの使者が去った後、屋敷には重い沈黙が流れていた。信繁は、残された数名の家臣と、元服したばかりの息子・大助を前に、静かに口を開いたであろう。

信繁: 「皆も聞いた通りだ。大御所様(家康)は、方広寺の鐘を口実に、大坂を滅ぼすおつもりらしい。そして、右府様(秀頼)は、我らに助力を求めてこられた」

彼はまず、使者がもたらした情報を冷静に共有したはずだ。豊臣方に集うのは、関ヶ原で敗れた浪人たちが中心であること。対する徳川は、天下の諸大名を総動員した20万ともいわれる大軍であること。客観的に見て、勝ち目は万に一つもない。その冷徹な事実を、そこにいる誰もが理解していた。

高梨内記: 「……御屋形様(信繁)は、如何ようにお考えにございますか」

老臣・高梨内記の問いは、皆の思いを代弁していた。信繁は、一同の顔をゆっくりと見渡す。それは命令を下す主君の目ではなく、運命を共にする仲間へ問いかける目であったかもしれない。

信繁: 「二つに一つだ。このまま誘いを断り、九度山で静かに生涯を終えるか。あるいは、大坂へ赴き、武士として最後の花を咲かせるか……。皆の考えを聞かせてほしい」

家臣の一人が、恐る恐る口を開く。

家臣: 「なれど、我らが大坂へ向かえば、ここに残る奥方様やお子たちは……」

それは最も現実的な懸念であった。信繁は頷き、静かに答える。

信繁: 「その儀については、兄・信之を頼るほかない。兄ならば、たとえ立場は違えど、我らの妻子を見捨てるようなことはあるまい」

しばしの沈黙の後、信繁は覚悟を決めたように、再び口を開く。その声は低く、しかし確固たる意志に満ちていた。

信繁: 「このまま何もせず、土に埋もれるは、亡き父上(昌幸)に申し訳が立たぬ。たとえ勝ち戦にはならずとも、父上が守り抜いたこの真田の六文銭の旗を、今一度日の本に示したい。徳川の大軍を震え上がらせることこそ、この信繁に課せられた最後の務めと心得ている。皆には、長きにわたる苦労の上、さらに死地へ赴くという無理を強いることになる。だが、どうかこの信繁の最後の戦に、その命を貸してはくれまいか」

それは「天下を騒がせよ」という抽象的な野心ではなかった。「真田の武名を示し、一矢報いる」という、極めて具体的で、個人的で、そして悲壮な目標であった。

高梨内記ら老臣たちは、深く頭を垂れた。言葉は少なかったであろう。

高梨内記: 「……御屋形様の御覚悟、しかと承りました。我ら一同、御屋形様の行くところ、たとえ黄泉の国であろうとも、お供つかまつる所存にございます」

熱狂的な鬨の声は上がらない。ただ、長年苦楽を共にしてきた主君への、静かで、揺るぎない忠誠の念が、その場の空気を満たしていた。傍らで聞いていた大助も、父の横顔をじっと見つめ、固く拳を握りしめていたに違いない。

この静かな決意の共有こそが、「時来たらば天下を騒がせよ」という逸話の原型であり、その核にある感情の源泉であった。14年の苦難を耐え抜いた男の最後の決断として、それは大言壮語よりも遥かに深く、我々の胸を打つのである。

結論:英雄叙事詩の誕生 ― なぜこの逸話は語り継がれたのか

本レポートで検証してきたように、真田信繁の九度山における14年間は、後世の物語が描くような雌伏の時ではなく、経済的困窮と心身の衰えに苦しむ、先の見えない日々であった。父・昌幸の死は再起への希望を打ち砕き、家臣団の多くも彼の元を去った。そのような状況下で舞い込んだ大坂からの招聘は、勝ち目のない戦への誘いであったが、信繁はそれを武士として死に場所を得る最後の機会と捉え、死を覚悟して馳せ参じた。

しかし、歴史の皮肉というべきか、この絶望的な状況から、信繁は日本戦国史上、最も鮮烈な輝きを放つことになる。大坂冬の陣では、城の弱点であった南側に出城「真田丸」を築き、徳川方の大軍に甚大な損害を与えた 30 。そして夏の陣では、徳川家康の本陣へ三度にわたる決死の突撃を敢行し、家康の馬印をなぎ倒し、一時は切腹を覚悟させるほどに追い詰めた 4 。力及ばず討ち死にしたものの、その鬼神の如き戦いぶりは敵方からも称賛され、島津家は国元への報告で「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と記している 20

信繁の死後、泰平の世となった江戸時代において、人々は彼の劇的な生涯に強い魅力を感じた。絶対的な勝者である徳川に対し、勝ち目のない戦と知りながら義を貫き、華々しく散っていった敗者・信繁の姿は、日本人が古来より好む「判官贔屓」の感情と完璧に重なり合った 5 。講談や軍記物語の作者たちは、この悲劇の英雄を格好の題材とし、その物語をさらにドラマチックなものへと脚色していった。

その過程で生まれたのが、「時来たらば天下を騒がせよ」という言葉である。この一言は、信繁の14年間の苦難に満ちた沈黙と、大坂での爆発的な活躍という二つの事実を、見事な因果関係で結びつけるための、最も簡潔で力強い「物語的解釈」であった。この言葉によって、彼の行動すべてに一貫した目的と計画性が与えられ、単なる悲劇の武将は、遠い未来を見通す偉大な智将へと昇華されたのである。

興味深いことに、徳川幕府自身も、真田の名将ぶりを語る物語の流布を、あえて厳しく禁じることはなかった。そこには、それほどの名将を打ち破った徳川の武威を逆説的に高める効果や、関ヶ原の戦いで失態を演じた二代将軍・秀忠の弁護材料になる(偉大な真田親子に足止めされたのだから仕方がない)といった、政治的な計算があったともいわれている 4

結論として、「蟄居中、家臣に『時来たらば天下を騒がせよ』と言った」という逸話は、文字通りの史実ではない。しかし、それは歴史の空白を埋め、真田信繁という武将の最後の生き様の本質―すなわち、損得を度外視し、自らの死に場所を求めて武士としての誇りを全うした悲劇の英雄―を、見事に凝縮した「文学的真実」であると言える。我々はこの逸話を通じて、史実の断片の奥にある、人々の心を捉えて離さない英雄叙事詩が誕生する、その荘厳な瞬間を目撃するのである。

引用文献

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  2. 吉川英治 新書太閤記 第十一分冊 - 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/56762_59547.html
  3. 『難波戦記~真田幸村 大坂城入城』 あらすじ - 講談るうむ - FC2 http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/03-33_sanadayukimuraooska.htm
  4. 真田信繁 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81
  5. 真田幸村、「作られた英雄像」の真相に迫る 人に話すと赤っ恥?「あの活躍」も創作だった https://toyokeizai.net/articles/-/126137?display=b
  6. 真田信繁は大坂の陣で昌幸の遺言である「秘策」を進言したのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/11316
  7. 家康は本当に真田昌幸・信繁父子を恐れたのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/12420
  8. 大河ドラマで人気!日本一の兵・真田信繁は何故『真田幸村』になったのか? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/sanadanobushige-yukimura/
  9. 真田父子の九度山蟄居生活。そして昌幸の最期とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/466
  10. 真田父子の高野山追放と幸村の九度山脱出 - 松尾倶楽部 - Jimdo https://matsuo-club.jimdofree.com/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%B3/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E7%88%B6%E5%AD%90%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1%E8%BF%BD%E6%94%BE%E3%81%A8%E5%B9%B8%E6%9D%91%E3%81%AE%E4%B9%9D%E5%BA%A6%E5%B1%B1%E8%84%B1%E5%87%BA/
  11. 滋野一党家臣 - 小助官兵衛の戦国史 https://koskan.nobody.jp/kasin.html
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  22. 幸村について|九度山・真田ミュージアム https://www.kudoyama-kanko.jp/sanada/yukimura.html
  23. 真田幸村物語 - 九度山町観光情報 https://www.kudoyama-kanko.jp/sanada/yukimura-monogatari.html
  24. なぜ真田一族は忍者のイメージがあるのか? - : - 「真田丸」を100倍楽しむ小話 - ITmedia https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1605/14/news015_2.html
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  26. 【坂本織物 有限会社】児島の繊維の歴史を紡ぐ真田紐 新たな視点で未来に伝える https://www.jr-furusato.jp/magazine/12825/
  27. 真田紐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E7%B4%90
  28. 真田紐 | 中川政七商店の読みもの https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/120618
  29. 真田家臣団 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_sengoku/06/
  30. 逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 【真田信繁(真田幸村)】父と歩み、豊臣に尽くした「日本一の兵」 https://shirobito.jp/article/1641
  31. 病と貧困に苦しむ晩年の真田昌幸が信之へ送った書状とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/11311
  32. 真田信之、父・昌幸と弟・信繁の助命嘆願に奔走す - PHPオンライン https://shuchi.php.co.jp/article/3240
  33. 真田信繁、「真田の誇り」を胸に大坂冬の陣に起つ! - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2145
  34. 真田幸村と大坂の役 https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/110099.html
  35. お子さまにも知って欲しい真田幸村の魅力 | はぐまつ 子育てコミュニティサイト https://www.hug-matsu.jp/?p=34208
  36. 真田幸村(真田信繁)の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8106/
  37. 真田幸村 名軍師/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90111/