最終更新日 2025-10-22

真田大助
 ~父信繁倣い赤備え奮戦散華~

真田大助が父信繁に倣い赤備えで奮戦し、大坂の陣で散華した逸話。史実と創作が混在する彼の最期を、父子の絆と忠義の物語として深く掘り下げて解説。

報告書:『真田幸昌(大助)、最後の二日間 ― 逸話「父信繁倣い赤備え奮戦散華」の史実と虚構 ―』

序章:若武者の散華譚 ― 逸話の輪郭と本報告書の目的

「父信繁の采配に倣い赤備えの旗を掲げて奮戦、天守に殉じ散った若武者の散華譚」― 真田大助、本名を幸昌として知られる若武者の最期は、このような簡潔かつ英雄的な物語として語り継がれてきた。この逸話には、悲劇性、主君への忠義、そして父子の絆という、日本人の心性に深く響く要素が凝縮されており、父・真田信繁(幸村)の伝説を補完する感動的なエピソードとして、広く受け入れられている。

しかし、この美しくも悲しい散華譚は、単一の歴史的事実を記録したものではない。本報告書は、この逸話を構成する要素を丹念に分解し、その成り立ちを明らかにすることを目的とする。具体的には、大坂夏の陣の最終局面である慶長二十年(1615年)五月七日から八日にかけての二日間に焦点を当て、信頼性の高い史料から軍記物語、後代の講談に至るまでを横断的に分析し、真田幸昌の最期を以下の三層構造で再構築する。

  1. 史実の核 (The Historical Core): 確度の高い史料から追跡可能な、幸昌の最後の行動。
  2. 伝承の肉付け (The Traditional Narrative): 『武林雑話』などに記された、史実とは断定できないものの、当時から語られていた可能性のある逸話。
  3. 創作による昇華 (The Literary Embellishment): 『難波戦記』や『真田三代記』といった後代の講談や読み物によって付与された、英雄譚としての劇的な脚色。

本報告書は、幸昌個人の物語を詳述するに留まらない。なぜ江戸時代の人々が、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と謳われた真田信繁の子の最期をこのように描き、語り継ぐ必要があったのか。その時代的背景と文化的意義にまで踏み込み、「真田大助~父信繁倣い赤備え奮戦散華~」という逸話が持つ、歴史的真実と物語的真実の双方を明らかにすることを目指すものである。

第一部:運命の前日 ― 慶長二十年五月七日、天王寺・岡山の決戦

この章では、逸話の「奮戦」部分に焦点を当てる。幸昌が戦国の世の最後を飾る大決戦においてどのような役割を果たしたのか、そして逸話の象徴ともいえる「赤備え」の真偽を、史料に基づき徹底的に検証する。

1-1. 茶臼山への布陣:父子の配置と若武者の初陣

慶長二十年五月七日、豊臣方と徳川方の雌雄を決する天王寺・岡山の戦いが始まろうとしていた。豊臣方の兵力約5万に対し、徳川方は15万という圧倒的な兵力差であった 1 。この絶望的な状況下で、豊臣方の作戦の要を担ったのが真田信繁であった。

信繁率いる真田隊約3,500の兵は、天王寺口の南東に位置する茶臼山に布陣した 3 。ここは徳川家康の本陣を真正面に捉えることができる、極めて重要な戦略拠点であった。そして、この決死の部隊の中に、信繁の嫡男・真田幸昌もいた 3

幸昌は慶長七年(1602年)、父・信繁が関ヶ原の戦いの後に配流された紀州九度山で生まれた 5 。父と共に文武に励みながら育った十代半ばの若者にとって、この大坂の陣が初陣であったとされる 6 。父が築き上げた武名、そして豊臣家の命運、その全てを背負い、天下分け目の決戦に臨む幸昌の胸中には、極度の緊張感と武家の嫡子としての高揚感が渦巻いていたことであろう。

1-2. 誉田の戦功と負傷:記録に見る「奮戦」の実態

幸昌が単に父の傍らに控えていただけの若武者ではなかったことを示唆する記録が存在する。軍記物である『武林雑話』によれば、幸昌は天王寺・岡山の決戦の前々日にあたる五月五日、道明寺・誉田の戦いにおいてすでに出陣し、戦功を挙げていたという。しかし、その奮戦の代償として股に槍による傷を負っていたと記されている 7

この記述は、幸昌の「奮戦」という逸話の核を裏付ける数少ない根拠の一つであり、非常に重要である。彼は父の部隊の一員として、実際に敵兵と刃を交え、武功を立てるだけの働きを見せていた可能性が高い。ただし、この五日の戦功の記憶が、後世の物語の中で七日の天王寺口での奮戦と混同、あるいは融合され、より英雄的な「奮戦譚」へと昇華していった可能性も考慮する必要がある。いずれにせよ、幸昌が実戦を経験し、負傷までしていたという事実は、彼の最期の覚悟を理解する上で欠かせない背景となる。

1-3. 論考:「赤備え」の真実 ― 父の象徴は息子に受け継がれたか

真田幸昌の逸話において、最も象徴的なイメージが「父信繁倣い赤備え」であろう。しかし、この鮮烈なイメージは史実なのだろうか。

「赤備え」とは、兜や鎧、旗指物に至るまで、あらゆる武具を朱色で統一した部隊のことであり、戦場で際立って目立つことから、部隊の精強さを示す証とされた 8 。その起源は甲斐武田氏にあり、飯富虎昌が創設し、その弟(または甥)である山県昌景が継承したことで、「武田の赤備え」は最強部隊の代名詞となった 8 。真田家は祖父・幸隆の代から武田家に仕えており、信繁もその伝統を深く理解していた 10 。大坂の陣において、信繁が自身の部隊を赤備えで統一したことは広く知られており、これは浪人衆が中心の部隊の士気を高め、かつて家康を苦しめた武田軍の武威を再現する狙いがあった 10

しかし、問題は息子の幸昌である。彼自身が、あるいは彼が一部隊を率いて「赤備え」であったとする直接的な一次史料は、現在のところ確認されていない 10 。兄の真田信之が豊臣秀吉の命令で赤備えを準備させたという記録は存在するが、これは閲兵のためのものであり、実戦での使用を意味するものではない 12

ここから導き出されるのは、幸昌の「赤備え」は史実ではなく、後世の創作物における「物語的要請」によって付与された象徴的な記号であるという可能性である。その背景には、以下のような創作の力学が働いていたと考えられる。

  1. まず、父・信繁の戦場における視覚的イメージは、「赤備え」「六文銭の旗」「鹿角の兜」によって強烈に固定化されている 1
  2. 物語において、息子が父の遺志や魂を継承したことを示す最も直接的で効果的な表現は、父と同じ「姿」、すなわち同じ象徴を身にまとわせることである。
  3. 幸昌自身の具体的な戦功に関する記録が乏しい中で、彼を単なる「父の部隊の一員」から、「父に倣う若き英雄」へと昇華させるためには、父の最大のアイコンである「赤備え」を彼に着せることが、最も効果的な創作手法であった。

この創作により、史実上の「父と共に戦った若者」は、物語の中で「父の武威と魂を受け継ぎ、真紅の鎧を纏って奮戦する若き英雄」へと生まれ変わった。これは、歴史の空白を物語の力で埋め、より感動的なドラマを構築しようとする、歴史物語の創造における典型的なプロセスと言えるだろう。

1-4. 父の死と大坂城への帰還命令

五月七日の正午過ぎ、本多忠朝隊の突出をきっかけに天王寺口の戦端は開かれた 13 。毛利勝永隊が本多隊、小笠原隊を次々と撃破する猛攻を見せる中、真田信繁隊もまた行動を開始した 1

真田隊は徳川方の越前松平忠直隊1万5千と激突。毛利隊の奮戦による敵陣の混乱に乗じ、信繁はこれを突破 1 。真紅の赤備えは怒濤と化し、徳川家康の本陣へと殺到した。この猛攻は凄まじく、家康の旗本は崩れ、三方ヶ原の戦い以来倒れたことのない家康の金扇の馬印さえもが倒れたと伝わる 1 。家康自身も数度にわたり切腹を口走るほど追い詰められたが、三度にわたる猛攻もあと一歩及ばず、信繁は満身創痍となり、四天王寺近くの安居神社(安居天神)の境内で討ち取られた 1

この激戦の最中、幸昌はどうしていたのか。複数の記録では、彼は戦の最中に負傷し、戦場を離脱して大坂城へと引き返したとされている 6 。さらに、江戸時代中期の軍記物語『増補難波戦記』などでは、この帰還に劇的な逸話が付与されている。それは、豊臣秀頼が徳川方と和睦してしまうことを恐れた信繁が、それを断固として阻止するよう幸昌に密命を与え、城へ帰したというものである 6

父が死地へと向かう中、息子に城内の主君を守るという別の重要な使命を託すというこの逸話は、父子の深い絆と豊臣家への二代にわたる忠義を同時に描くための、優れた物語的演出である。しかし、史実として考えた場合、戦闘の混乱の中で負傷した幸昌が後退した、あるいは父の部隊が壊滅状態に陥る中で戦線を離脱したと見るのがより自然であろう。この父子の別れの場面は、史実の可能性と物語上の演出が交錯する、逸話の核心部の一つである。

第二部:落城の刻 ― 慶長二十年五月八日、大坂城最後の刻

父を失った幸昌が、自らの死を決意し、主君に殉じるまでの約24時間を、史料と伝承を基にリアルタイムで再構築する。戦場の喧騒から落城の静寂へと移りゆく中で、若武者がどのような思いで最期の時を迎えたのかを追う。

表1:真田幸昌、最後の二日間(慶長二十年五月七日~八日)の行動時系列

日時

推定時刻

幸昌の行動・状況

関連する出来事

主な典拠

五月七日

正午頃

父・信繁と共に茶臼山より出陣。天王寺口にて奮戦。

天王寺・岡山の戦い開戦。毛利勝永隊が徳川方先鋒を撃破。

3

午後

激戦の中で負傷し、大坂城へ退却。

真田信繁隊、家康本陣へ三度の突撃。家康を追い詰めるも及ばず。

1

夕刻

城内にて、父・信繁の討死の報に接し、慟哭。母の形見の数珠を手に死を覚悟する。

信繁、安居神社にて討死。毛利勝永、敗残兵をまとめ城内へ退却。

1

五月八日

早朝~午前

周囲からの脱出の勧めを、「父も豊臣家のために死んだ」として毅然と拒否。

徳川方の総攻撃開始。大坂城天守閣が炎上。

6

午前~午後

炎上する城内を、主君・秀頼、淀殿らと共に終焉の地、山里丸へ移動。

秀頼一行、山里丸の籾蔵(糒蔵)に立て籠もる。

14

午後二時頃

主君・豊臣秀頼の自刃を見届けた後、その場で静かに自刃。

豊臣秀頼、毛利勝永の介錯で自害。淀殿も後を追う。毛利勝永も自刃。豊臣家滅亡。

5

2-1. 父の訃報:母の数珠と若武者の涙

大坂城へ戻った幸昌の心を占めていたのは、父の安否であった。彼は城内へと逃げ込んでくる敗残兵たちに必死に尋ねて回った。そして、非情な現実を知ることになる。父・信繁は天王寺の地で奮戦の末、敵に討たれた、と 7

『武林雑話』は、この時の幸昌の様子を感動的に描いている。父の死を知った幸昌は、その場で涙を流した。しかし、ただ悲嘆に暮れるだけではなかった。彼は懐から一つの数珠を取り出した。それは、九度山を発つ際に母・竹林院から渡され、肌身離さず持ち続けていた真珠の数珠であったという 7 。母は出陣する息子に「父上と生死を共にしなさい」と、武将の妻として、そして母として、覚悟の言葉を贈っていた 18 。幸昌はその母の形見を手に、静かに念仏を唱え始めた。それは、父の冥福を祈ると同時に、自らの死を覚悟した瞬間の、静謐な儀式であったのかもしれない。この逸話は、幸昌の最期を単なる戦闘の結末ではなく、家族の愛と武家の覚悟に裏打ちされた、人間的な物語として描き出している。

2-2. 決意の選択:脱出の勧めと忠義の拒絶

豊臣方の敗色は誰の目にも明らかであった。城内では、生き延びる道を探す者も少なくなかった。そうした中、周囲の豊臣家臣たちは、若き幸昌の身を案じた。彼はまだ十代半ばであり、父・信繁とは異なり、豊臣秀吉から直接的な恩顧を受けたわけではない。加えて、兄の信之は徳川方で大名として家名を保っている。彼らが幸昌に城からの脱出を勧めたのは、ごく自然な人情であった 6

「御辺はまだ若年であり、太閤殿下の御恩も直接受けたわけではあるまい。兄君は徳川方におわすのだから、落ち延びて真田の家名を保たれよ」― このような趣旨の説得があったと想像される。しかし、幸昌の決意は揺るがなかった。伝承によれば、彼は毅然としてこう答えたという。「父も豊臣家のために討死した。今ここで自分一人が生き長らえて何の面目があろうか。秀頼公の最期を見届けるのが我が役目である」と 6

この逸話は、幸昌の死が敗戦による不可避の結果ではなく、彼自身の強固な意志によって選び取られた「忠義の死」であったことを強調するために、極めて重要な役割を果たしている。彼の行動原理が、亡き父への思慕と、主君への純粋な忠誠心にあったことを、この言葉は明確に示している。

2-3. 終焉の地、山里丸へ:炎上する天守と最後の道行

五月八日、徳川方の総攻撃が開始され、大坂城は紅蓮の炎に包まれた 14 。もはやこれまでと悟った豊臣秀頼、母・淀殿、側近の大野治長ら一行は、炎上する天守閣を脱出する。彼らが最後の場所に選んだのは、本丸の北側に位置する山里丸であった 15

山里丸は、かつて豊臣秀吉が茶会を催すなど、風雅な趣を持つ一角であった 15 。その思い出の地が、豊臣家の終焉の舞台となる。炎と黒煙が渦巻く地獄と化した城内を、主君を守りながら最後の場所へと向かう道行は、絶望的なものであったに違いない。幸昌もまた、この一行に付き従い、主君と共に最後の刻を迎えるべく、静かに歩を進めていた。

一行は山里丸にあった籾蔵(あるいは糒蔵)に身を潜めたが、徳川兵の銃弾が蔵に撃ち込まれ、もはや猶予はなかった 14

2-4. 散華:秀頼に殉じ、静かに自刃す

蔵の中で、豊臣秀頼は自害を決意する。その介錯は、天王寺口で信繁に劣らぬ奮戦を見せ、見事な退却戦の後に城へ戻っていた猛将・毛利勝永が務めたという説が有力である 14

主君がその生涯を閉じるのを静かに見届けた後、真田幸昌もまた、その場で自刃して果てた 5 。享年は13歳から16歳であったと推定されている 6 。父の死からわずか一日後、若武者はその短い生涯を、主君への忠義と共に終えたのである。

幸昌の最期は、同じ場で自刃したもう一人の名将・毛利勝永の存在と対比することで、その物語的な意味合いがより鮮明になる。勝永は、夏の陣での奮戦ぶりから「惜しいかな後世、真田を云いて、毛利を云わず」と評されるほどの武将であった 17 。彼は戦場を最後まで指揮し、主君の介錯という大役を果たし、武将としての生涯を全うして自刃した。彼の最期は、いわば「武将としての完成形」であった。

一方、幸昌の最期は、武功や采配によって飾られるものではない。彼の死は、「主君の傍らで殉じる」という、純粋な忠義の形を取る。彼は何かを成し遂げて死ぬのではなく、その存在自体を忠義の証として捧げた。後世の物語作家や講談師たちは、勝永のような「完成された武将」の物語よりも、信繁という悲劇の英雄の血を継ぎ、若くして散った幸昌の「未完の物語」にこそ、より強い創作意欲を掻き立てられた。勝永が「惜しいかな、語られず」となった一方で、幸昌の物語が美化され、語り継がれた背景には、この「未完の悲劇性」が持つ、人の心を強く惹きつける力があったのである。

第三部:歴史から伝説へ ― 「散華譚」はいかにして生まれたか

これまで見てきた逸話の各要素が、どの書物によって形成され、どのようにして一つの英雄的な「物語」として定着していったのか。その変遷の過程を分析する。

3-1. 史料の系譜:逸話の断片を拾い上げる

真田幸昌の散華譚は、複数の書物が時間をかけて積み重なることで形成された。その主要な源流は以下の通りである。

  • 『武林雑話』(18世紀中頃成立か): 父の死を知り、母から託された真珠の数珠を手に涙するという、幸昌の人間的な側面に焦点を当てた逸話の出典である 7 。比較的、個人的・情緒的な描写が特徴であり、後の英雄譚の核となる感動的なエピソードを提供した。
  • 『難波戦記』(1672年刊行): 「幸村」という呼称を世に広めたことで知られる軍記物語 3 。この書物によって、大坂の陣の物語はより大衆的なエンターテインメントへと姿を変えた。幸昌が脱出を拒否する場面など、彼の英雄的な行動を描く傾向が強く 6 、講談の重要なネタ本となり、物語性を飛躍的に高める役割を果たした 22
  • 『真田三代記』(江戸時代中期~幕末成立): 真田幸隆・昌幸・信繁(幸村)の三代にわたる活躍に特化した実録体小説 24 。特に信繁と幸昌(大助)の英雄譚が中心に据えられ、地雷火の計略や、親子が秀頼を奉じて薩摩へ落ち延びるという、史実から大きく離れた大胆な創作も含まれている 24 。幸昌の「父に倣う」というイメージを決定づけ、彼を父と並ぶ英雄として描く流れを確立した作品群である。

これらの書物は、成立年代が下るにつれて、幸昌の逸話をより劇的で、より英雄的なものへと「成長」させていった。個人の悲しみを語る断片的な伝承が、やがて忠義の武将の物語となり、最終的には父と並び立つ悲劇の英雄譚へと昇華されていく過程が、ここにはっきりと見て取れる。

3-2. 物語の創造:なぜ「赤備えの若武者」は必要とされたのか

では、なぜ江戸時代の人々は、史実の断片を基に、これほどまでに英雄的な「赤備えの若武者」の物語を創造し、求めたのだろうか。

その背景には、徳川幕府による治世が安定し、「泰平の世」が続く中で、人々が過ぎ去った戦国の世に一種のロマンを求めたという社会状況がある。特に、天下人である徳川家康を最後まで苦しめ、その本陣を蹂躙した真田信繁は、体制への反骨精神と、敗者への同情(判官贔屓)も相まって、絶大な人気を博す英雄となった 26

信繁という完璧な悲劇の英雄の物語を完結させるためには、その血を継ぐ息子の「美しい死」が、物語の構成上、不可欠であった。幸昌の殉死は、真田家の豊臣家への忠義が二代にわたる揺るぎないものであったことを証明し、信繁の物語に感動的な締めくくりを与える重要な役割を担った。父が戦場で壮絶な死を遂げ、息子が城内で主君に静かに殉じる。この対照的な最期は、物語に深みと奥行きを与え、聴衆や読者の涙を誘ったのである。

結論として、「父信繁倣い赤備え奮戦散華」という逸話は、史実の断片を核としながらも、その大部分は江戸時代の人々の英雄待望論と、物語をより面白く、より感動的にしようとする講談師や作者たちの創作意欲によって作り上げられた「歴史的創作物」であると言える。

結論:真田幸昌という「物語」

本報告書で明らかにしてきたように、真田幸昌の最期は、史実と物語という二つの側面から捉える必要がある。

史実としての真田幸昌は、「大坂夏の陣において父・信繁と共に豊臣方として戦い、落城の際に主君・豊臣秀頼に殉じた若者」である。誉田の戦いで槍傷を負い、父の死後に脱出を拒み、山里丸で自刃したという伝承は、史実の可能性を秘めているものの、確証はない。

一方、我々が広く知る「父に倣い赤備えで奮戦し、潔く散った若武者・真田大助」の姿は、江戸時代を通じて人々の願望と創作によって育まれた「物語」である。父と同じ赤備えを纏うという象徴的な姿も、父から城内の主君を守るよう密命を受けるという劇的な場面も、すべてはこの物語をより輝かせるための装置であった。

しかし、この逸話の価値は、その史実的正確性にあるのではない。父の生き様に倣おうとする子の純粋さ、若くして忠義に殉じる潔さ、そして悲劇の英雄の血脈が絶えることへの哀れさ。これらの日本人の琴線に触れる要素が凝縮された「散華譚」は、史実を超えた力を持っている。真田幸昌の物語は、歴史的事実そのものではなく、人々が歴史の中に何を求め、どのように英雄を語り継いできたかを示す、貴重な文化的遺産なのである。この物語が現代に至るまで語り継がれる理由も、まさにそこにあると言えよう。

引用文献

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  2. わかりやすい 大坂(大阪)冬の陣・夏の陣 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/oosaka.html
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  5. 真田三代について - 九度山町観光情報 https://www.kudoyama-kanko.jp/sanada/sanadasandai.html
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