真田幸村
~家康本陣に突撃前、「我が華」~
真田幸村は家康本陣への決死の突撃前、「これぞ我が華」と呟いた。これは武士の死生観、不遇な生涯の集大成、そして豊臣家への忠義を貫く彼の究極の自己表現だった。
我が華と咲く―真田信繁、最後の突撃に込められた武士の美学
序章:戦国最後の刻
慶長二十年(1615年)五月七日、摂津国天王寺・岡山の地は、夜明け前から異様な熱気に包まれていた。戦国という百数十年続いた乱世の、事実上の終焉を告げる一日が始まろうとしていた。豊臣方、約5万5千。対する徳川方、実に15万を超える大軍 1 。兵力差は歴然であり、客観的に見れば、豊臣方の勝利は万に一つも望めない絶望的な状況であった。
この戦いは、単なる一つの合戦ではない。それは、豊臣という滅びゆくものへの忠義、そして戦国時代を通じて培われてきた「武士としての生き様(死に様)」という価値観が、最後の光芒を放つための壮大な舞台であった。そして、その舞台の中央で最も鮮烈な輝きを放ったのが、真田左衛門佐信繁(さなださえもんのすけのぶしげ)、後世に「幸村」の名で知られる武将である。
本報告書は、この天王寺・岡山の戦いのクライマックスにおいて、信繁が徳川家康本陣への決死の突撃を敢行する直前、静かに笑みを浮かべ「これぞ我が華」と呟いたとされる逸話に焦点を当てる。この一言は、単なる勇壮な武人の気概を示す言葉ではない。それは、信繁の生涯、武士の死生観、そして戦国という時代の精神性が凝縮された、極めて重層的な意味を持つ哲学的な表明であった。
勝敗がほぼ決した戦場において、なぜ彼は笑うことができたのか。彼が咲かせようとした「華」とは、一体何だったのか。本報告書は、この逸話の背景にある状況を時系列で丹念に追い、その言葉に込められた武士の美学と精神の深淵を、徹底的に解き明かすことを目的とする。信繁の行動原理は、合理的な戦術判断を超えた、思想の領域にこそ見出されるのである。
第一部:決戦に至る道―死への助走
第一章:前日の死線、道明寺
「我が華」の逸話が生まれる前日、五月六日。大和路を進軍する徳川方の大軍を各個撃破すべく、豊臣方の主力部隊は道明寺(どうみょうじ)周辺での迎撃作戦を展開していた。しかし、この作戦は初動から齟齬をきたす。深い霧が視界を遮り、諸隊の連携を著しく困難にしたのである 4 。
先鋒として小松山に布陣した後藤基次(又兵衛)の部隊は、予定時刻になっても到着しない後続部隊を待ちきれず、単独で伊達政宗、水野勝成らの大軍と衝突。奮戦空しく壊滅し、基次は壮絶な討死を遂げた 4 。真田信繁、毛利勝永らの後続部隊が戦場に到着したのは、既に勝敗が決した後であった 5 。この「遅参」は、信繁にとって痛恨の極みであったに違いない。歴戦の勇士である後藤基次を見殺しにしてしまったという自責の念と、豊臣方の連携の脆弱さに対する焦燥感が、彼の胸中に渦巻いていたと想像に難くない。
しかし、信繁はただ引き下がることをしなかった。誉田(こんだ)の地で、追撃してきた伊達政宗の軍勢と激しく衝突。銃撃戦の末、伊達勢の先鋒を一時的に後退させるという戦果を挙げる 4 。そして、この撤収の際に、信繁は敵軍に向かってこう言い放ったと伝えられる。
「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(関東武者は百万いようとも、まともな男は一人もいないものだな) 6 。
この言葉は、単なる敵への侮蔑ではない。その裏には、友軍の不手際への苛立ち、遅参の汚名を雪がんとする気概、そして自らの武勇に対する絶対的な自信が複雑に絡み合っていた。この道明寺での苦い経験と局地的な奮戦は、信繁の心に決定的な覚悟を植え付けた可能性がある。すなわち、「もはや他者を頼ることはできぬ。最後の戦は、自らの力のみで戦局を打開し、豊臣家への忠義を尽くすしかない」という決意である。
その夜、大坂城へ帰還した豊臣方の諸将は、最後の作戦会議に臨む。残された道は一つ。翌日の決戦において、全軍で徳川家康の本陣ただ一点を狙い、その首級を挙げること。この乾坤一擲の作戦の主攻を担うことになったのが、真田信繁であった 1 。前日の雪辱を果たすべく、彼は死への助走を開始したのである。
第二章:茶臼山にて刻を待つ
決戦当日、五月七日。豊臣方の布陣は、大坂城の南、天王寺口と岡山口に全軍を集結させる形をとった。真田信繁率いる約3,500の兵は、天王寺口の最前線、茶臼山(ちゃうすやま)に陣を構えた 3 。この茶臼山は、奇しくも大坂冬の陣で徳川家康が本陣を置いた場所であり、眼下には徳川方の大軍が幾重にも連なり、その奥には家康本陣の金扇の馬印が鈍く光っていた 9 。
正午頃、ついに戦端が開かれた。しかし、信繁はすぐには動かなかった。彼は茶臼山の上で戦況を冷静に見極めていた。動いたのは、信繁の左翼に布陣していた毛利勝永の部隊であった。勝永は、徳川方の先鋒である本多忠朝の部隊に猛然と突撃。これを撃ち破り、忠朝を討ち取るという大戦果を挙げる 1 。勢いに乗る毛利勢は、続く小笠原秀政・忠脩の部隊も蹂躙し、徳川方の前線に大きな亀裂を生じさせた 10 。
後世の物語では、この日の戦いは真田信繁一人の独壇場であったかのように語られがちである。しかし、江戸時代中期の文人・神沢杜口がその著書『翁草』で「惜しいかな、後世、真田を言いて、毛利を言わず」と嘆いたように、信繁の伝説的な突撃が可能となった背景には、毛利勝永によるこの獅子奮迅の働きがあったことを見過ごしてはならない 11 。勝永が切り開いた突破口こそ、信繁が待ち望んでいた唯一の勝機であった。
この突撃前の静寂の中、信繁の胸中にはどのような思いが去来していたのだろうか。彼は決戦を前に、義兄である小山田茂誠に宛てて一通の手紙を書き送っている。その中の一節は、彼の心境を雄弁に物語っている。
「定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざることに候。我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候」(このような不安定な世の中ですから、明日のことさえ分かりません。私のことなどは、もはやこの世にいる者とは思わないでください) 13 。
この言葉は、彼が既に自らの死を完全に受容し、生への執着を超越した境地に至っていたことを示している。彼にとって、この戦いは生き残るためのものではなく、武士としていかに死ぬべきかを問う、生涯最後の舞台であった。毛利隊の奮戦によってその舞台の幕が上がった今、信繁は役者が最高の瞬間を待つように、静かにその刻を待っていたのである。
表1:天王寺・岡山の戦い 主要部隊配置と兵力比較表
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陣営 |
主な配置場所 |
主要武将 |
推定兵力 |
徳川方対応部隊 |
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豊臣方 |
天王寺口 |
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茶臼山 |
真田信繁 |
約3,500 |
松平忠直、本多忠朝、小笠原秀政など |
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四天王寺南門前 |
毛利勝永 |
約6,500 |
本多忠朝、小笠原秀政など |
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岡山口 |
大野治房 |
約4,600 |
前田利常、井伊直孝、藤堂高虎など |
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後詰 |
大野治長、七手組 |
約15,000 |
- |
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別働隊 |
明石全登 |
約300 |
水野勝成など |
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合計 |
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約30,000弱 |
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徳川方 |
天王寺口 |
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茶臼山正面 |
本多忠朝、松平忠直など |
約16,200 |
- |
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本陣 |
徳川家康 |
約15,000 |
- |
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岡山口 |
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先鋒 |
前田利常、井伊直孝など |
約27,500 |
- |
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本陣 |
徳川秀忠 |
約23,000 |
- |
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合計 |
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100,000以上 |
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注:兵力は諸説あり、上記は各種資料 1 を基にした概算値である。
第二部:「我が華」の瞬き―発露する魂
第三章:その言葉が発せられるまで
毛利勝永隊の猛攻により、徳川方の先鋒は総崩れとなった 7 。本多忠朝は討死し、小笠原秀政・忠脩父子も深手を負って後に絶命する。堅固であるはずだった徳川方の陣形に、ぽっかりと大きな穴が空いた。その先には、手薄になった徳川家康の本陣が姿を現していた。茶臼山の上からこの千載一遇の好機を見逃さなかった信繁の決断は、電光石火のごとく速かった。
戦場の喧騒は頂点に達していた。味方の鬨の声、敵の悲鳴、鳴り響く鉄砲の轟音、そして人馬が巻き上げる砂塵が視界を白く染める。しかし、その混沌の中心にいる信繁は、不思議なほどの静寂に包まれていた。彼はゆっくりと立ち上がると、近臣に一言、「時、来たれり」と告げたのかもしれない。
兜の緒を締め直し、父・昌幸譲りの知略と武田信玄より受け継いだ赤備えの魂をその身に宿し、朱塗りの十文字槍を手に取る。そして、家康の本陣を真っ直ぐに見据えた信繁の口元に、ふと笑みが浮かんだ。それは絶望的な状況下での自嘲や狂気から来るものではない。生涯を懸けて追い求めた目的を、今まさに達成せんとする瞬間にのみ訪れる、至上の喜悦と自己肯定に満ちた静かな笑みであった。
そして、彼は呟いた。
「これぞ我が華」
その言葉と共に、真田隊の赤備えは一つの巨大な槍と化し、茶臼山を駆け下り、徳川家康の本陣へと突き進んでいった。
表2:慶長二十年五月七日 戦況タイムライン
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時刻(推定) |
出来事 |
概要 |
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未明 |
豊臣方、出陣 |
最後の決戦のため、豊臣方の全軍が大坂城を出発し、天王寺・岡山方面に布陣する 1 。 |
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夜明け頃 |
徳川方、進軍開始 |
徳川家康、秀忠の両軍が天王寺口、岡山口から大坂城へ向け進軍を開始する 1 。 |
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正午頃 |
天王寺・岡山の戦い、開戦 |
両軍が接触し、戦闘が開始される。当初は一進一退の攻防が続く 3 。 |
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午後1時頃 |
毛利勝永隊、突撃 |
天王寺口の毛利勝永隊が徳川方先鋒の本多忠朝隊に突撃。これを撃破し、忠朝を討ち取る 1 。 |
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午後1時半頃 |
徳川方先鋒、崩壊 |
毛利隊は勢いに乗り、小笠原秀政隊なども撃破。徳川方の前線が混乱状態に陥る 7 。 |
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午後2時頃 |
真田信繁、「我が華」と突撃開始 |
毛利隊が作った好機を捉え、真田信繁隊が茶臼山から家康本陣を目指し、決死の突撃を開始する。 |
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午後2時半頃 |
家康本陣、蹂躙 |
真田隊は松平忠直隊などを突破し、家康本陣に到達。本陣は-大混乱に陥り、家康の馬印も倒される 6 。 |
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午後3時頃 |
真田隊、力尽きる |
数に勝る徳川方の反撃を受け、真田隊は壊滅。信繁も深手を負い、戦線を離脱する。 |
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午後4時頃 |
真田信繁、討死 |
安居神社付近で休息していたところを発見され、討ち取られる 11 。 |
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夕刻 |
大坂城、落城 |
豊臣方の組織的抵抗は終わり、大坂城は炎に包まれ落城する。 |
第四章:「華」の多層的解釈
信繁が口にした「華」という一言は、極めて多層的な意味を内包している。それを理解するためには、当時の武士が共有していた死生観、そして真田信繁という一人の人間の生涯を深く掘り下げる必要がある。
第一層:武士道の死生観としての「華」
江戸時代に成立した『葉隠』には、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」という有名な一節がある 16 。これは、単に死を推奨するものではない。常に死を覚悟し、死すべき時に潔く死ぬ覚悟を持つことで、生への執着から解放され、かえって生そのものが純化され輝くという、逆説的な生の哲学である 18 。武士にとって、生の完成は「いかに死ぬか」にかかっていた。
その象徴とされたのが、桜の「華」である。咲き誇る時は見事でありながら、散る時には一切の未練なく潔く散る。この桜の姿に、武士は自らの理想の死に様を重ね合わせた。信繁の言う「我が華」とは、まさにこの武士の美学の究極的な表現であった。天下人である徳川家康の本陣に突撃し、その中で討ち死にすることこそ、武士として最も美しく、栄誉ある「死に場所」であり、自らの生涯を締めくくるにふさわしい「華」であると彼は確信していたのである。この境地は、生への執着を完全に断ち切った者だけが到達できる「死狂い(しにぐるい)」と呼ばれる精神状態にも通じる 19 。分別や計算を超え、ただひたすらに本懐を遂げるという純粋な意志のみが、彼を突き動かしていた。
第二層:真田信繁の生涯の集大成としての「華」
信繁の生涯は、決して華やかなものではなかった。青年期は上杉家、次いで豊臣家への人質として過ごし、関ヶ原の戦いでは父・昌幸と共に西軍に与して奮戦するも、本戦での敗北により紀州九度山へ配流される 20 。そこで十数年にも及ぶ、武士としては屈辱的ともいえる雌伏の時を過ごした 21 。
この鬱積した年月を経て、大坂の陣でようやく彼は、武士としての本懐を遂げる場を得た。豊臣家への「恩義」に報い、父・昌幸の遺志を継いで徳川家康と対峙するという、彼の生涯を貫く主題が、この最後の戦いに集約されていた 13 。大坂冬の陣の後、家康は信濃一国(四十万石)という破格の条件で信繁の寝返りを誘ったが、彼はこれを一顧だにしなかったという逸話は、彼の忠義心の篤さを物語っている 11 。彼にとってこの戦いは、個人的な栄達や利得のためではなく、自らの信じる「義」を貫き通すためのものであった。したがって、家康本陣への突撃は、彼の不遇だった生涯そのものを肯定し、意味づけるための、最高の「晴れ舞台」だったのである。それは運命に翻弄され続けた男が、最後の最後で自らの意志で運命を掴み取り、最高の形で自己実現を果たすという、極めて能動的な行為の宣言であった。それは「死なされる」のではなく、「死ぬことをもって生きる」という、生の肯定に他ならなかった。
第三層:六文銭の旗印との共鳴
真田家の旗印である「六文銭」は、死者が三途の川を渡る際の渡し賃を意味する 11 。これを旗印に掲げることは、「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」、すなわち仏法のために身命を惜しまないという覚悟を示すものであり、戦場においては常に死と共に在るという決意の表明であった 11 。
信繁は、その生涯を通じて六文銭の旗の下で戦ってきた。そして、その最後の戦において、彼は旗印に込めた精神を「我が華」という一言で完璧に体現した。彼の生き様(旗印)と死に様(突撃)が、この瞬間に完全に一致したのである。彼が咲かせた「華」とは、彼自身の魂そのものであった。
第三部:伝説の完成―日本一の兵
第五章:怒濤の突撃
「我が華」の言葉と共に開始された真田隊の突撃は、まさに怒濤の勢いであった。その凄まじさは、敵方であった黒田長政が戦後間もなく描かせたとされる『大坂夏の陣図屏風』に、今も鮮やかに記録されている 23 。屏風の中央には、赤備えの軍勢を率い、鹿角の兜を戴いた真田信繁が、徳川方の陣中を切り裂いて進む勇猛果敢な姿が描かれている 23 。敵将が、自軍の勝利を記念する屏風の中に、敵である信繁の活躍をこれほど大きく描かせたという事実こそ、この突撃がいかに敵方に強烈な衝撃と畏敬の念を与えたかの何よりの証左である。
真田隊は、まず家康の孫である松平忠直の越前勢1万5千に突撃した。大軍であった越前勢もこの猛攻に混乱し、陣を後退させる。勢いを増した真田隊は、ついに徳川家康の本陣にまで到達した。本陣の旗本たちは次々と討ち取られ、大混乱に陥った。家康の馬印さえもが倒され、家康自身、もはやこれまでと二度、三度と自刃を覚悟したと伝えられている 6 。
この時の本陣の混乱ぶりは、薩摩藩主・島津忠恒が国元に送った手紙にも生々しく記されている。「御陣衆、三里ほどずつ逃げ候」(家康公の旗本たちは、三里(約12km)も逃げ出した) 11 。これは誇張を含む可能性はあるものの、天下人である家康の本陣が、一時は完全に崩壊寸前まで追い込まれたことを示している。後世の講談などでは、信繁は家康本陣に「三度の突撃」を敢行したと語られるが 26 、史実としては一度の突撃であった可能性が高い。しかし、その一度の突撃が、後世に何度も語り継がれるほどの破壊力と伝説性を持っていたことは間違いない。
第六章:散り際と残光
しかし、信繁の奮戦も限界に達する。圧倒的な兵力差はいかんともしがたく、周囲から押し寄せる徳川方の軍勢によって、真田隊は次第に消耗し、壊滅状態に陥った。信繁自身も度重なる戦闘で深手を負い、ついに力尽きた。彼は数名の供回りと共に戦場を離脱し、四天王寺の西、安居神社の境内にあった一本の松の木の下で、疲労困憊した身体を休ませていた 11 。
そこに現れたのが、松平忠直の家臣で鉄砲組頭の西尾宗次であった。宗次は、目の前の満身創痍の武者が、あの真田信繁であるとは知らずに声をかけた。信繁はもはや抵抗する力も残っていなかった。彼は静かに、しかし武士としての最後の誇りを込めて、こう告げたという。
「この首を手柄にされよ」 11 。
こうして、真田信繁は討ち取られた。享年49。彼が咲かせた「華」は、その生涯と共に鮮やかに散ったのである。
しかし、その「華」が放った残光は、消えることはなかった。この日の戦いの一部始終を目の当たりにしていた薩摩の島津忠恒は、戦後、その驚嘆と賞賛を隠すことなく、こう記している。
「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由。実に御高名に候」(真田は日本一の兵(つわもの)だ。昔からの物語にも、このような例はない。実に素晴らしい評判である) 11 。
この言葉は、単なる武勇への賛辞ではない。関ヶ原で敵中突破を敢行した勇猛な島津家の当主が、同じ戦国を生き抜いた武士として、信繁が体現した「武士の本懐」そのものに、最大限の共感と敬意を表したものである。徳川による新たな治世が始まろうとする中で、失われゆく戦国の価値観への最後の餞(はなむけ)とも言えるこの敵将からの最高の賛辞こそが、信繁の「華」が本物であったことの最終的な証明であり、彼の伝説を不滅のものとしたのである。
結論:武士として生き、武士として死す
真田信繁の「我が華」という逸話は、単なる戦場での勇ましいエピソードに留まるものではない。それは、自らの死を以て生を完成させようとした、戦国武士の精神性の極致である。彼の生涯を彩った苦難、揺るぐことのなかった豊臣家への忠義、そして死をも超越した武士道精神のすべてが、その一言と最後の突撃に凝縮されている。
彼は、戦いには敗れた。豊臣家を救うこともできなかった。しかし、彼は「武士としていかに生き、いかに死ぬか」という自らに課した命題に対しては、完璧な答えを出した。戦国という時代そのものが終焉を迎え、武士が戦場で華々しく散ることが許されなくなる時代の大きな転換点において、彼は最も鮮烈な「華」として咲き、そして散ることで、武士としての理想を完璧に体現してみせた。
だからこそ、彼は徳川の世にあっても、敵であったにもかかわらず、その忠勇を称えられ、「日本一の兵」として語り継がれる伝説となった。真田信繁が咲かせた「華」は、400年の時を超えて、我々に問いかけ続けている。人が何に価値を置き、何を信じ、如何に生き、そして如何にその生を終えるべきか、という根源的な問いを。
引用文献
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- わかりやすい 大坂(大阪)冬の陣・夏の陣 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/oosaka.html
- 交野歴史健康ウォーク 大坂夏の陣・真田幸村のゆかりのコース https://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/sanada01/index.html
- ⑭ 大坂夏の陣・道明寺合戦 又兵衛、幸村ゆかりの地を歩く 半日コース - 藤井寺市観光協会 https://www.fujiidera-kanko.info/volunteer/modelkosu14.html
- 玉手山と大坂夏の陣 | 大阪府柏原市 https://www.city.kashiwara.lg.jp/docs/2014041800015/
- 日本一の兵・真田幸村特集 | 真田幸村と武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康 - ウエダモヨウ http://shinshu-ueda.info/feature/feature_yukimura-sanada
- 「大坂夏の陣(1615)」豊臣vs徳川が終戦。家康を追い詰めるも一歩及ばず! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/712
- 大坂夏の陣「天王寺口の戦い」!毛利勝永、徳川諸隊を次々と撃破!家康本陣に迫る https://favoriteslibrary-castletour.com/mori-katsunaga-tennoji/
- 400年の時を越えて蘇る大坂の陣と日本一のツワモノ・真田幸村の戦いの舞台を巡る! - るるぶ https://rurubu.jp/andmore/article/11730
- 第5話 小倉城主・毛利勝信と“真田より強い”毛利勝永父子の小倉とのかかわり https://kokuracastle-story.com/2019/12/story5-mouri/
- 真田信繁 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81
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- 大塚城の写真:真田幸村名言「十万石では不忠者にならぬが https://kojodan.jp/castle/801/photo/21038.html
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- 真田幸村、「作られた英雄像」の真相に迫る 人に話すと赤っ恥?「あの活躍」も創作だった https://toyokeizai.net/articles/-/126137?display=b
- 大河ドラマで人気!日本一の兵・真田信繁は何故『真田幸村』になったのか? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/sanadanobushige-yukimura/
- 【六文銭・真田幸村の言葉(1)】大坂夏の陣・最終決戦地【茶臼山(古墳)古戦場跡】 https://www.zero-position.com/entry/2020/05/21/204000
- 大坂夏の陣図屏風 https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/110305.html
- 大坂夏の陣図屏風 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%A4%8F%E3%81%AE%E9%99%A3%E5%9B%B3%E5%B1%8F%E9%A2%A8
- 日本一の兵‐1317‐ | 大阪 設計事務所 建築家 | 守谷昌紀のゲツモク日記 https://atelier-m.com/blog_mm/blog/10996
- 『難波戦記~真田幸村 大坂城入城』 あらすじ - 講談るうむ - FC2 http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/03-33_sanadayukimuraooska.htm
- 真田幸村と大坂の陣コース - OSAKA INFO https://osaka-info.jp/modelcourse/course-sanada-yukimura-walk/
- 「真田幸村(信繁)」”日本一の兵” と評された伝説の将の生涯とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/400