最終更新日 2025-10-28

真田昌幸
 ~籠城中兵糧見せかけ敵欺く策略譚~

真田昌幸の兵糧欺瞞策と白米城伝説の真相を解明。第一次上田合戦での緻密な知略を分析し、伝説を超越した真の策略家としての実像に深く迫る。

真田昌幸と「兵糧欺瞞」の策略譚 ― 伝説の帰属と史実の天才的戦術の徹底分析

序章:策略譚の探求 ― 問いの再定義

日本の戦国時代において、真田昌幸の名は「表裏比興の者」という異名と共に、類稀なる知略と謀略の象徴として語り継がれている。その数多ある逸話の中でも、「籠城中に兵糧を豊富に見せかけ、敵を欺いた」という策略譚は、彼の神算鬼謀を端的に示すものとして、多くの人々の興味を惹きつけてきた。窮地に陥ってもなお、敵の心理を逆手に取り、物理的な劣勢を覆す――この物語は、戦国の世を生き抜いた知将の姿を鮮やかに描き出す。

しかし、この魅力的な逸話の詳細を徹底的に調査する過程で、一つの重大な事実に突き当たる。物語の核心をなす「白米で馬を洗い、水が豊富にあるように見せかけた」という具体的な行為は、歴史的伝承において、真田昌幸ではなく、彼がかつて仕えた武田信玄の宿敵であった北信濃の豪族・村上義清の逸話として語り継がれているのである 1 。その舞台は、昌幸が活躍した上田城ではなく、天文19年(1550年)の「砥石城の戦い」であったとされる 4

したがって、本報告書は、単に当初の問いに答えるだけでなく、その問い自体を再定義し、より深く、多角的な歴史の真実に迫ることを目的とする。まず第一部では、ユーザーが求める「リアルタイムな会話内容」や「その時の状態」を再現する形で、本来の主役である村上義清と砥石城を舞台にした伝説の劇場を詳述する。次に第二部では、この逸話が日本全国に存在する「白米城伝説」という一つの folkloric な類型であることを解き明かし、その起源と伝播の謎を探る。そして最後に、第三部において、真田昌幸の真骨頂たる神算鬼謀を、史実として記録される「第一次上田合戦」における具体的戦術の徹底分析を通じて明らかにする。

この三部構成を通じて、我々は一つの策略譚の真相を探る旅から、伝説が生まれ語り継がれるメカニズム、そして伝説を超えた真の天才策略家・真田昌幸の実像へと至る、より豊かな知的探求を行うものである。

第一部:伝説の劇場 ― 村上義清、砥石城に舞う白米の幻

第一章:戦雲、信濃に渦巻く ― 砥石城の攻防

物語の幕は、天文19年(1550年)の信濃国に開かれる。甲斐の「虎」武田信玄(当時は晴信)は、信濃全土の掌握を目指し、破竹の勢いでその版図を広げていた 5 。連戦連勝を重ねる若き信玄にとって、その野望の前に立ちはだかる最大の障壁が、北信濃に君臨する猛将・村上義清であった 6 。義清は、それより以前の「上田原の戦い」において、信玄に生涯初ともいわれる大敗を喫させた宿敵であり、信玄にとって彼の存在は、戦略的な障害であると同時に、雪辱を果たすべき個人的な執念の対象でもあった。

その義清の勢力圏の最前線に位置するのが、砥石城である。この城は、上田盆地の北東、千曲川の支流である神川を見下ろす尾根上に築かれ、東西を険しい断崖に守られた天然の要害であった 6 。攻め口は限られ、まさに難攻不落を体現したかのような山城。信玄はこの城を落とすことで、村上氏の防衛線を突き崩し、北信濃攻略の足がかりを得ようと目論んだ。

同年9月、信玄は7,000と号する大軍を率いて砥石城に迫った。対する城兵は、わずか500余り 8 。兵力差は実に10倍以上。城は完全に包囲され、武田軍は力攻めを開始した。しかし、城兵は士気高く、崖をよじ登ってくる武田兵に巨石や煮え湯を浴びせかけ、頑強に抵抗した 6 。攻防は20日以上に及び、武田軍は多くの死傷者を出しながらも、城を陥落させることができない。業を煮やした信玄は、力攻めから兵糧攻めへと戦術を転換。城の生命線である水の手を断つことに成功する。物理的な攻撃よりも静かで、しかし確実に城兵の心身を蝕む、絶望的な時間が始まった。

第二章:窮余の一策 ― 白米、馬体に流る

城内では、日に日に絶望の色が濃くなっていた。水瓶はことごとく干上がり、兵士たちの唇は乾ききって裂け、うめき声だけが澱んだ空気に響く。士気は地に落ち、もはや落城は時間の問題かと思われた。

緊迫した軍議の席で、ある将が力なく呟いた。

「殿、もはやこれまでかと存じます。水なくしては、兵は戦う気力さえ失いましょう」

沈黙が場を支配する。誰もが敗北を覚悟したその時、玉座に座る村上義清が、静かだが揺るぎない声で言った。

「水がないのではない。水が尽きぬと敵に思わせるのだ」

一同が顔を上げる。義清は続けた。

「城内の米蔵を開け。備蓄している白米をすべて、大手門の脇櫓へ運べ!」

将たちは我が耳を疑った。水がない今、最後の生命線であるはずの兵糧をどうするというのか。戸惑う家臣たちを前に、義清は前代未聞の策を命じた。

「敵の陣からよく見えるあの場所で、馬を洗うのだ。水ではない、その白米でな」

義清の命令は直ちに実行された。武田軍が固唾をのんで見守る城壁の上で、にわかに人影が動き始める。やがて、一頭の馬が引き出され、兵たちが大きな桶から何か白い液体状のものを汲み上げ、勢いよくその馬の背に流しかけ始めた 1 。陽光を浴びてきらきらと輝くその光景は、遠目には、尽きることのない豊かな水で馬体を清めているようにしか見えなかった 8 。兵士たちは、あたかもそれが日常の風景であるかのように、淡々と、そして堂々と「馬洗い」を繰り返した。城内には一滴の水もない。だが、城外の敵の目には、水が有り余っているという信じがたい幻影が焼き付けられたのである。

この策略の真髄は、敵の合理的な思考を逆手に取った点にある。籠城戦において最も貴重な資源は水と兵糧である。水が尽きれば降伏する、というのが戦の常識だ。しかし義清は、もう一つの貴重な資源である米を、水があるように見せかけるために「浪費」してみせた。この非合理的な行動が、敵の合理的な推測を根底から覆し、心理的な動揺を引き起こす。それは、窮地に立たされた人間が生み出した、大胆不敵な逆転の発想であった。

第三章:幻惑される敵 ― 伝説と史実の「砥石崩れ」

義清の奇策は、武田の陣中に即座に波紋を広げた。

「見ろ!敵は馬を洗うほど水が有り余っているぞ!」

「これでは水の手を断った意味がない。いつまで経っても落城はすまい」

兵士たちの間に動揺が走り、将たちの間にも焦りの色が浮かんだ 2。信玄自身も、この予期せぬ光景に判断を狂わされた。攻略の長期化は、他の勢力の介入を招く危険性をはらんでいる。信玄は苦渋の決断を下し、砥石城からの撤退を命じた。

伝説によれば、この心理戦の勝利が武田軍撤退の直接的な原因とされる。しかし、史実はさらに劇的な展開を用意していた。信玄が撤退を開始したまさにその時、別の戦線で高梨政頼と和睦を結んだ村上義清の本隊が、2,000の兵を率いて戦場に帰還したのである 6

義清は好機を逃さなかった。撤退のために隊列を乱していた武田軍の背後を猛然と急襲。同時に、城内に籠っていた兵たちも城門を開いて打って出た。武田軍は完全に不意を突かれ、挟み撃ちの形となり大混乱に陥った 7 。指揮系統は崩壊し、兵たちは我先に逃げ惑う。この大敗走は後に「砥石崩れ」と呼ばれ、武田軍は横田高松をはじめとする多くの有力武将と1,000人もの兵を失ったと伝えられる 5 。信玄生涯唯一の作戦ミスによる敗戦ともいわれる、歴史的な大敗であった 5

結果として、「白米で馬を洗う」という伝説は、この「砥石崩れ」という衝撃的な史実と分かちがたく結びつくことになった。圧倒的優位にあったはずの信玄がなぜ大敗したのか。その問いに対し、人々は「義清の神がかり的な知略があったからだ」という物語を求めた。史実としての大敗北という結果が、その理由を説明するための英雄譚として、この「白米の計」という伝説を生み出し、後世に語り継がせる土壌となったのである。

第二部:伝説の正体 ― 全国に広がる「白米城」の謎

第一章:「白米城伝説」の類型学

村上義清が砥石城で見せたとされる奇策は、実は信濃国固有の物語ではない。これは、北は青森県から南は熊本県に至るまで、日本全国に100か所以上も存在する「白米城(はくまいじょう)伝説」として知られる、広範な伝承の一類型なのである 4

これらの伝説は、細部に違いはあれど、驚くほど共通した構造を持っている。

  1. 舞台設定 : 攻めにくく守りやすい山城での籠城戦が舞台となる。
  2. 窮地の発生 : 敵軍に包囲され、城の生命線である水源を断たれる。
  3. 欺瞞の実行 : 水が豊富にあると敵に誤認させるため、兵糧である白米を水に見立てて使う。具体的には、「白米で馬を洗う」「崖の上から白米を流し、滝に見せかける」といった方法がとられる 8
  4. 結末 : 結末には大きく二つのパターンが存在する。一つは、村上義清の伝説のように欺瞞が成功し、敵が攻略を諦めて撤退する「成功譚」。もう一つは、鳥がその米をついばむのを見られたり、城内からの内通者が密告したりして策略が露見し、かえって落城を早めてしまう「失敗譚」である 10

例えば、石見国(現在の島根県)では、毛利元就に攻められた青屋友梅が同様の策を用いたが、元就に見破られたという伝説が残っている 10 。これらの類似性は、この物語が特定の歴史的事実から生まれたものではなく、ある種の普遍的な物語の「型」として、各地の城や武将に当てはめられていった可能性を強く示唆している。

第二章:史実か、創作か ― 伝説の起源と伝播

では、この「白米城伝説」はどこで生まれ、どのようにして全国へ広まっていったのだろうか。民俗学者の柳田國男は、こうした物語が特定の史実に基づくものではなく、中世から近世にかけて活動した口寄せ巫女や琵琶法師といった語り部たちによって創作され、彼らが諸国を巡る中で伝播していったと推測している 4

さらにその起源を遡ると、古代中国にまで行き着くという説も存在する。呉の武将・伍子胥が、土を高く盛った上に薄く米を敷き、あたかも兵糧の山があるかのように見せかけたという「兵糧塚伝説」がその原型とされる 10 。この物語が朝鮮半島に伝わり、文禄の役の際に権慄という将軍が加藤清正の軍を欺くために用いたとされる「洗馬台伝説」へと形を変え、やがて日本に伝来したというのである 10 。この説が正しければ、「白米城伝説」は東アジアにおける文化交流の産物ということになる。

伝説が残る城跡からは、しばしば「焼き米」が出土することがあり、これが伝説の信憑性を高める証拠として語られることもある 1 。しかし、焼き米は籠城戦における非常食(炒り米)であったり、落城の際に米蔵が焼失した痕跡であったりする可能性も高く、必ずしも伝説を直接裏付けるものとは断定できない。

結局のところ、「白米城伝説」がこれほどまでに広く、永く語り継がれてきた理由は、その物語が持つ普遍的な魅力にあると考えられる。それは、戦乱の世に翻弄される弱い立場の人々が抱いた、「知恵は力に勝る」という願望の投影である。物理的な資源(水)が枯渇しても、人間の機知(米を使う発想)という目に見えない力で窮地を脱することができるという希望の物語。だからこそ、この伝説は特定の武将や城に限定されることなく、日本各地の英雄譚として受容され、人々の心に深く刻み込まれていったのであろう。

第三部:真田昌幸の真骨頂 ― 第一次上田合戦における神算鬼謀

第一章:徳川との決別 ― 上田城、誕生す

「白米城伝説」が知恵の勝利を象徴する物語であるとすれば、真田昌幸が史実の戦いで見せた知略は、それを遥かに凌駕する、計算され尽くした戦術体系であった。その真骨頂が発揮されたのが、天正13年(1585年)の第一次上田合戦である。

武田家が滅亡した後、真田昌幸は織田信長、北条氏直、上杉景勝、そして徳川家康と、目まぐるしく主君を変えながら、激動の時代を巧みに泳ぎ渡っていた 12 。一時は徳川家康に臣従するも、両者の関係は上野国「沼田領」の帰属問題を巡って決定的に破綻する。家康が北条氏との和睦の条件として、真田が自力で手に入れた沼田領を北条へ引き渡すよう命じたのである 13

昌幸は一族家臣を集めた評議の席で、断固としてこれを拒否した。

「沼田は中納言(家康)から拝領したものではない。真田家が武略をもって切り取った地だ。唯々諾々と引き渡すことはできぬ」 16

徳川との手切れは、すなわち全面戦争を意味する。しかし昌幸に迷いはなかった。彼は兵たちの士気を鼓舞するため、こう言い放ったと伝えられる。

「徳川勢など何万騎押し寄せようと恐れるに足りず。家康は三方ヶ原で大屋形様(信玄)に散々に打ち破られ、恐ろしさの余り、逃げ帰る馬上で糞を垂らした男ぞ」 16

この不敵な言葉は、兵たちの心を掴み、決死の覚悟を固めさせた。

この決戦に備え、昌幸は周到な準備を進めていた。その核心が、徳川との対立が決定的になる以前、皮肉にも家康からの資金援助をも利用して築城した上田城である 17 。千曲川とその支流である神川が合流する地点の段丘上に築かれたこの城は、単なる防御拠点ではなかった。城そのものが、敵を誘い込み、包囲し、殲滅するための巨大な罠として、昌幸の戦術思想を具現化したものだったのである 18

第二章:寡兵よく大軍を破る ― 策略の三重奏

天正13年(1585年)閏8月、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉といった徳川の宿将たちに率いられた7,000の軍勢が、上田城へと殺到した 14 。対する真田軍は、援軍を含めてもわずか2,000 14 。誰もが徳川方の圧勝を信じて疑わなかったこの戦いで、昌幸の神算鬼謀が炸裂する。

第一の計「誘引」

徳川軍が神川を渡り、上田城下に迫ると、昌幸はまず数百の兵を城外へ出し、徳川軍の先鋒に奇襲を仕掛けさせた 17。しかし、これは本格的な攻撃ではない。真田軍はしばらく戦うと、たちまち敗れたふりをして城内へと退却を始める 14。

「好機ぞ、追え!真田は臆したわ!」

歴戦の徳川勢は、敵の敗走を見て勝ちに乗じ、何の疑いもなく追撃を開始した。兵力の差を考えれば当然の判断であったが、それこそが昌幸の罠の第一段階であった。徳川軍は真田兵を追って、計画通りに上田城の大手門を通り、二の丸まで深々と誘い込まれていった。

第二の計「閉塞」

徳川軍の主力が城内に雪崩れ込んだ、まさにその瞬間。状況は一変する。大手門が固く閉ざされ、退路が断たれた。さらに、城内の各所には、予め逆茂木や「千鳥掛け」と呼ばれる、交互に杭を打ち込んだ柵などの障害物が巧みに配置されていた 17 。進もうにも柵に阻まれ、退こうにも後続の味方に押される。徳川軍は狭い城内で身動きが取れなくなり、押し合いへし合いの大混乱に陥った。敵を物理的に無力化する、完璧な閉塞空間が作り出されたのである。

第三の計「殲滅」

罠は完成した。ここから昌幸による冷徹な殲滅戦が開始される。

  1. 集中砲火 : 密集し、団子状態となった徳川兵に対し、城壁の物陰や櫓に潜んでいた鉄砲隊が一斉に火を噴いた。四方から降り注ぐ銃弾と矢の雨に、徳川兵は為す術もなく次々と斃れていく 21
  2. 側面攻撃 : 徳川軍が城内で混乱の極みに達した頃合いを見計らい、支城である砥石城に控えていた昌幸の長男・真田信幸が率いる別働隊が、城外から徳川軍の後詰部隊の側面に襲いかかった 14 。これにより、徳川軍は内外から挟撃される形となり、指揮系統は完全に麻痺した。
  3. 水攻め : 九死に一生を得て城から敗走し、神川を渡って撤退しようとする徳川兵に、最後の罠が待ち受けていた。『真武内伝』などの記録によれば、昌幸は事前に神川の上流を堰き止めており、このタイミングで一気に堰を切らせたという 20 。川はたちまち濁流と化し、多くの徳川兵が鎧の重みでなすすべもなく溺れ死んだ 17

この一連の戦いで、徳川軍は1,300人以上の死者を出したとされ、真田方の損害は数十人程度であったと伝えられる 14 。昌幸の知略は、圧倒的な兵力差を覆し、戦国最強と謳われた徳川軍に完膚なきまでの大打撃を与えたのである。

第三章:知略の本質 ― なぜ伝説は昌幸に結びつくのか

第一次上田合戦で昌幸が見せた戦術は、「白米城伝説」のような一点突破の奇策とは、その本質において全く次元が異なる。それは、①徹底した事前準備(城の構造、障害物の設置、川の堰き止め)、②敵の心理(驕り、追撃欲)の巧みな掌握、そして③複数の戦術を連動させる体系性、という三つの要素が完璧に融合した、動的な戦闘システムであった。

村上義清の「白米城伝説」が、一つの光景を見せることで敵の戦意を削ぐ「静的」な心理戦であるのに対し、昌幸の戦術は、戦況の推移に合わせて次々と罠を発動させ、敵を物理的に殲滅していく「動的」な殲滅戦である。この違いは、両者の戦略思想の質の差を明確に示している。

比較項目

白米城伝説(村上義清)

第一次上田合戦(真田昌幸)

主役

村上義清

真田昌幸

敵役

武田信玄

徳川家康(軍勢)

舞台

砥石城

上田城

核となる策略

兵糧(白米)を水に見せかける

計画的敗走による敵の誘引

欺瞞の性質

静的・心理的 : 一つの光景を見せ、敵の戦意を削ぐ

動的・体系的 : 複数の罠を連動させ、敵を物理的に殲滅する

戦術の構成

単一の奇策

誘引・閉塞・殲滅の三段階からなる複合戦術

利用した要素

兵糧、人間の視覚的錯覚

地形、城の構造、兵士心理、火器、別働隊、河川

史実性

民間伝承・伝説(史実としての確証はない)

複数の軍記物に記録された歴史的合戦

では、なぜ本来は村上義清のものとされる伝説が、時に真田昌幸の逸話として語られることがあるのだろうか。その理由は、昌幸が第一次・第二次の上田合戦で見せた神がかり的な知略と、豊臣秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめた彼の生き様が、昌幸を「戦国時代を代表するトリックスター(策略家)」として、後世の人々の記憶に強烈に刻み込んだからに他ならない。彼の名は、あらゆる智謀・謀略の象徴となり、その結果、他の武将にまつわる様々な策略譚までもが、その強烈なイメージに引き寄せられ、吸収されていったと考えられる。人々は、昌幸ならばそれくらいのことはやってのけるだろう、と自然に信じたのである。

結論:伝説を超えた策略家、真田昌幸

本報告書は、「真田昌幸の兵糧欺瞞の策略譚」という一つの問いを起点として、その探求の旅を進めてきた。その結果、我々は当初の問いの枠組みを超え、より深く、豊かな歴史の側面に触れることとなった。

第一に、問題の逸話が、本来は村上義清と「砥石崩れ」にまつわる「白米城伝説」であることを明らかにした。この伝説は、知恵が力を打ち破るという、時代や場所を超えて人々の心を捉える普遍的な物語として、民俗学的な価値を持っている。

第二に、この伝説が日本各地に存在する類型的な物語であり、史実というよりも、戦乱の世に生きた人々の願望が投影された創作物である可能性が高いことを論じた。歴史の空白は、しばしば人々の想像力によって、かくも魅力的な物語で埋められていく。

そして第三に、真田昌幸の真の恐るべき知略を、史実である「第一次上田合戦」の分析を通じて詳述した。彼の戦術は、伝説のような単発の奇策ではなく、地形、兵士心理、兵器、自然現象までをも組み込んだ、緻密で体系的な罠であった。これは、戦術史上特筆すべき、計算され尽くした寡兵勝利の実例として、極めて高い歴史的価値を持つ。

最終的に、真田昌幸という武将の評価は、史実としての彼の卓越した行動と、後世の人々が彼に投影した「理想の策略家」としての願望が融合して形成されたものである、と結論付けられる。彼は、単なる伝説上の英雄ではない。その知略は伝説を遥かに超え、現実の戦場において、不可能を可能にした真の天才であった。我々が彼の逸話を探求する行為は、単に過去の出来事を知るだけでなく、歴史と伝説がいかにして織りなされ、一人の人間の評価を形作っていくのかという、壮大な物語生成のプロセスを追体験することに他ならないのである。

引用文献

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  2. 砥石・米山城登山会 https://ueda-kanko.or.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/3ef842adcaeaa3c4f13b401dbd41009c.pdf
  3. の里 金剛寺 - 上田市ホームページ https://www.city.ueda.nagano.jp/uploaded/attachment/12744.pdf
  4. 白米城とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%99%BD%E7%B1%B3%E5%9F%8E
  5. 武田信玄の名言・逸話49選 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/247
  6. 「砥石崩れ(1550年)」舞台は信濃の砥石城!信玄の生涯で唯一の失策だった? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/772
  7. 村上義清は何をした人?「信玄に二度も勝ったけど信濃を追われて謙信を頼った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikiyo-murakami
  8. 砥石城の戦い古戦場:長野県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/toishijo/
  9. 五 激突! 川中島の決戦 https://ktymtskz.my.coocan.jp/D/singen5.htm
  10. 白米城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%B1%B3%E5%9F%8E
  11. 【二 城中の馬を白米で洗う】 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht032330
  12. 真田昌幸の名言・逸話20選 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/531
  13. 第一次上田合戦 http://ogis.d.dooo.jp/sanada2.html
  14. 家康を苦しめた戦国屈指の食わせ者・真田昌幸 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12008/
  15. 第一次上田合戦 https://takato.stars.ne.jp/kiji/meigen.html
  16. 徳川勢を震え上がらせた真田昌幸・上田合戦の策略 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2818
  17. 真田昌幸の知略が炸裂! 第1次上田合戦 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=q9Xc6S9--xY
  18. 上田城 - 真田昌幸の難攻不落の名城と徳川軍撃退の歴史 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/building/uedajoh/
  19. 第一次上田合戦と真田昌幸の戦術 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2925
  20. 「第一次上田城の戦い(1585年)」真田勢は寡兵ながら、なぜ徳川勢を撃退できたのか https://sengoku-his.com/458
  21. 真田昌幸は何をした人?「表裏比興にあっちこっち寝返って真田を生き残らせた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/masayuki-sanada
  22. 上田合戦とは/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16980_tour_061/
  23. 真田昌幸・幸村父子の人柄がわかる!?LINEトーク風に逸話をご紹介 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/256