最終更新日 2025-10-23

真田昌幸
 ~道を開けて逃げよと叫び追撃~

真田昌幸の「道を開けて逃げよ」逸話は、第一次上田合戦での巧みな心理戦と多重罠による徳川軍殲滅戦術を象徴。彼の智謀と「表裏比興の者」たる所以が光る。

真田昌幸の逆計譚『道を開けて逃げよ』に関する戦術分析報告書

序章:逸話の提起と歴史的検証の視点

戦国武将、真田昌幸の智謀を象徴する逸話として、『籠城中、敵兵に「道を開けて逃げよ」と叫び、返す刀で追撃した』という逆計譚が広く知られている。この物語は、敵を手玉に取る大胆不敵さと、冷徹な計算高さを併せ持つ昌幸の人物像を鮮やかに描き出している。しかし、この劇的な逸話は、歴史的事実そのものを正確に記述したものというよりは、ある特定の合戦における一連の戦術的行動が、後世に語り継がれる中で凝縮され、象徴化されたものである可能性が高い。

本報告書は、この逸話の核となった天正13年(1585年)の「第一次上田合戦」に着目し、その具体的な戦闘経過を史料に基づき時系列で再構築することを目的とする。そして、「道を開けて逃げよ」という言葉の裏に隠された、より複雑で冷徹な戦術的本質を解明する。

この逸話の形成過程を分析すると、史実の「結果」が、昌幸の「意図」として再構成された、一種の「神話化」のプロセスが見て取れる。史料によれば、昌幸は混乱する敵軍に対し「門を開け!」と叫び、自ら追撃の先頭に立ったとされる 1 。これは敵を逃がすための「道を開ける」行為ではなく、敵を殲滅するための「突撃路を開く」行為であった。しかし、結果として混乱した徳川軍はこの開かれた門から潰走し、さらなる罠にはまることとなる。後世の人々がこの劇的な結果を目の当たりにし、「昌幸はわざと逃げ道を作ってやったように見せかけ、敵を油断させて討ち取ったに違いない」と解釈した。その結果、より皮肉に満ち、智謀を際立たせる「道を開けて逃げよ」という言葉へと昇華されたと推察される。本報告書は、この逸話が単なる創作ではなく、史実の多面的な解釈から生まれた文化的産物であることを論証していく。

第一章:欺瞞の舞台 ― 第一次上田合戦の戦略的背景

合戦の導火線 ― 沼田領問題

逸話の舞台となった第一次上田合戦は、真田氏がその存亡を賭けて徳川家康という巨大勢力に挑んだ戦いであった。天正10年(1582年)の武田家滅亡後、信濃の小領主に過ぎなかった真田昌幸は、織田、北条、上杉、そして徳川という大勢力の間を巧みに渡り歩き、自家の独立を模索していた 2

当初、昌幸は徳川家康に臣従し、その支援を受けて上田城を築城するなど、良好な関係を築いていた 4 。しかし、この関係は家康が北条氏政と和睦したことで破綻する。和睦の条件として、昌幸が武田家臣時代に自力で攻略した上州の要衝「沼田領」を北条氏に引き渡すことが決められたのである 5 。家康からの度重なる割譲要求に対し、昌幸は「沼田は徳川や北条からいただいた領地ではない。自分の武功によって得たものを、北条に渡せるものか」と断固として拒否 7 。この対立は決定的となり、昌幸はそれまで敵対していた越後の上杉景勝に次男・信繁(後の幸村)を人質として送り、同盟を結ぶという大胆な外交転換を敢行した 6

この一連の動きは、単なる領地への執着と見るべきではない。家康による昌幸暗殺計画を察知し、逆に刺客を返り討ちにする事件も起きており 7 、両者の信頼関係は完全に崩壊していた。昌幸は、徳川との手切れを単なる「危機」ではなく、圧倒的兵力差の徳川軍を新築の上田城で撃退することで、自らの武名を天下に轟かせ、豊臣秀吉ら中央の勢力にその存在を認めさせる「好機」と捉えた可能性が高い。あえて挑発的な態度をとり、徳川軍を上田の地へ引きずり込む。これは、危険な賭けを冷静に実行する昌幸の「表裏比興の者」 10 と評される所以を示す、計算された戦略的裏切りであった。家康の怒りは頂点に達し、天正13年(1585年)閏8月、真田討伐軍が上田へと差し向けられた。

絶望的な兵力差と策源地・上田城

徳川軍は、総大将こそ置かれなかったものの、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉といった徳川四天王に次ぐ歴戦の宿将たちが率いる約7,000の大軍であった 3 。対する真田軍は、上杉からの限定的な後詰があったものの、その兵力はわずか2,000に満たなかったとされる 9 。この3倍以上の圧倒的な兵力差が、昌幸に野戦での決戦という選択肢を放棄させ、築城後間もない上田城での籠城と、奇策に全てを賭けさせる戦略的背景となったのである。

項目

徳川軍

真田軍

総兵力

約7,000名 3

約2,000名 9

主要指揮官

鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉 6

真田昌幸、真田信幸 11

援軍

なし

上杉景勝からの後詰 (限定的) 6

拠点

小諸城(前線基地)

上田城、砥石城、丸子城など 14

この戦いの主舞台となった上田城は、千曲川と神川の合流点に位置する天然の要害であった 13 。昌幸は城だけでなく、城下町全体を防御陣地とする「惣構え」の発想を取り入れ、対大軍を想定した罠を随所に仕掛けていた。皮肉にも徳川の支援で築かれた城が、今まさに徳川軍を迎え撃つための巨大な罠と化そうとしていたのである 4

第二章:誘引 ― 計算された偽りの敗走

天正13年(1585年)閏8月2日、徳川軍は上田盆地に侵攻し、上田城の目前を流れる神川(かんがわ)まで進軍した 14 。全ての計略は、ここから始まる。昌幸は城から一部隊を打って出させ、徳川軍の先鋒と意図的に接触させた。これが、敵を破滅へと導く、計算され尽くした偽りの敗走劇の幕開けであった 3

リアルタイム描写:偽りの敗走劇

真田軍の少数の一隊(一説には信繁が率いたともされる 16 )は、徳川軍の先鋒と小競り合いを演じると、すぐさま「かなわぬ」と見せかけて組織的な後退を開始した。兵たちはあたかも恐怖に駆られたかのように振る舞い、武器を捨てんばかりの勢いで上田城下へと逃げ込んでいく。

この光景を目の当たりにした徳川軍の将兵は、勝利を確信した。圧倒的な兵力差からくる慢心と、一番乗りの手柄を立てようとする功名心が、彼らの判断を曇らせる。「敵は崩れたぞ、追え!」「城に攻め込み、昌幸の首を取れ!」といった声が陣中に響き渡り、統制は次第に乱れ、追撃の勢いは雪崩のように加速していく。歴戦の将である大久保忠世らでさえ、これが巧妙な罠であることを見抜けず、全軍に追撃を命じた 3 。さらに、真田兵が徳川軍に向かって能の「高砂」を謡って挑発したという逸話も残っており 14 、昌幸がいかに敵の冷静さを失わせるための心理的な揺さぶりをかけていたかが窺える。

徳川軍は追撃の勢いのまま、城下の防御ラインをやすやすと突破し、上田城の大手門前、さらには二の丸の入口まで殺到した 4 。昌幸の狙いは、敵の長大な戦列を、狭隘な城下の空間に引きずり込み、巨大な戦力を無力化する密集状態に陥れることにあった。敵は自らの意思で、巨大な罠の中心部へと誘い込まれていったのである。

戦術思想の源流と昌幸の独創性

この「偽りの敗走」による誘引戦術は、昌幸が若き日に仕えた武田信玄が得意とした戦術思想、特に島津氏の戦法としても知られる「釣り野伏せ」にその源流を見出すことができる。「釣り野伏せ」とは、中央の部隊が偽って敗走し、追撃してきた敵を左右に伏せた部隊で包囲殲滅する野戦戦術である。昌幸の戦術も、「偽りの敗走で敵を誘い込む」という点でその構造は酷似している 3

しかし、昌幸の独創性はその応用にある。彼はこの戦術を単なる野戦戦術としてではなく、城郭と一体化した「籠城戦術」として昇華させた。昌幸の戦術において、左右の伏兵の役割を担ったのは、「城壁や家々に潜む鉄砲隊・弓隊」と、後述する「城下町そのものの構造的罠」であった。これは、開けた平原での戦闘を前提とする従来の戦術を、複雑な地形を持つ城郭都市での防衛戦に最適化させた、昌幸独自のイノベーションと言える。彼は信玄から学んだ戦術の本質を深く理解し、自らが置かれた戦場環境に合わせて、より効果的な形へと発展させたのである。

第三章:罠の発動 ― 城下の殲滅空間

徳川軍の主力が、計画通り上田城下の狭隘な空間に密集した瞬間、戦場の様相は一変する。それまで敗走を続けていた真田軍の姿は消え、静まり返っていた城と城下町が、突如として徳川軍を屠るための巨大な殲滅装置へと変貌した。

千鳥掛けの罠と一斉攻撃

徳川軍が深入りした城下町の道筋には、「千鳥掛け」と呼ばれるジグザグに交差した柵が巧妙に張り巡らされていた 4 。この柵は、勢いに乗って侵攻してくる際にはさほど障害とは感じられない。しかし、ひとたび退却しようとすると、兵士たちの動きを著しく阻害し、隊列を分断し、指揮系統を麻痺させる効果を発揮する。徳川軍は、自ら進んで脱出困難な袋小路に入り込んだも同然の状態となっていた。

徳川軍が罠のエリアに完全に入りきったその時、城内から鳴り響く陣太鼓を合図に、昌幸の罠が発動する 1 。それまで静まり返っていた城壁の櫓、城下の家々の物陰から、無数の真田兵が一斉に姿を現し、四方八方から攻撃を開始した。鉄砲の轟音が耳をつんざき、硝煙が視界を奪う。矢は雨のように降り注ぎ、密集した徳川兵は身動きも取れないまま、格好の的となった 16 。さらに、二の丸の櫓からは、釣瓶落としのように巨大な木や石が投下され、下の兵士たちを容赦なく粉砕した 16

この攻撃には、正規の兵士だけでなく、昌幸が事前に城内に避難させていた武装した領民たちも加わっていた。彼らは昌幸への日頃の恩義に報いるため、鎌や鍬を手に、あるいは石礫を投げて徳川軍に襲いかかったのである 1 。兵農分離が進みつつあったこの時代において、領民が一体となって戦うこの戦術は、昌幸の領主としての統率力と、領民からの厚い信頼を物語っている。

城郭を「能動的兵器」として活用する思想

この一連の戦術は、昌幸の城郭に対する先進的な思想を明確に示している。従来の籠城戦とは、堅固な城壁で敵の攻撃を防ぎ、兵糧が尽きるか、味方の援軍が到着するのをひたすら待つという、受動的な防御が基本であった。しかし、昌幸の戦術は、敵をあえて城の内部(惣構え)に引き入れることを前提としている 4 。これは、籠城戦の常識を根底から覆す発想である。

千鳥掛けの柵、櫓からの大木や大石の投下装置、城下の家々を銃眼とした射撃陣地。これら全ては、敵を「城の中」で能動的に殲滅するために最適化された仕掛けであった。昌幸にとって上田城は、単に「守るための拠点」ではなく、城壁、堀、門、さらには城下町の街路や家屋の一つ一つが、敵兵を効率的に殺傷するための部品として組み込まれた、一つの巨大な「兵器システム」だったのである。城そのものが、敵を誘い込み、包囲し、殲滅するための能動的な兵器として機能している。この思想は、当時の城郭利用術の中でも極めて独創的であり、昌幸の軍事的才能の非凡さを示している。

予期せぬ四方八方からの攻撃と、退路を塞ぐ千鳥掛けの柵によって、徳川軍は指揮系統を完全に寸断され、大混乱に陥った 1 。前進も後退もままならない閉鎖空間で、一方的に攻撃を受け続ける。かつて武田軍を長篠で破った精強な徳川軍が、為す術もなく崩壊していく地獄絵図が、上田城下に現出したのである。

第四章:「道を開けよ」の真実 ― 追撃殲滅戦のリアルタイム再現

城下で大混乱に陥った徳川軍に対し、真田昌幸は最後の一撃を加えるべく、最大の計略を発動させる。逸話『道を開けて逃げよ』の原型となった、欺瞞と殲滅の最終局面である。

時刻(推定)

戦闘フェーズ

真田軍の行動

徳川軍の行動

閏8月2日 早朝

前哨戦・誘引

城外で小部隊が交戦後、計画的に敗走 16

勝利と誤認し、全軍で追撃を開始 3

午前中

城下での罠発動

城壁・家々から一斉射撃。大木・大石を投下 16

千鳥掛けに阻まれ大混乱。一方的に損害を受ける

正午頃

昌幸の逆襲

大手門を開き、昌幸自ら先頭に立ち突撃 1

完全に崩壊し、神川方面へ潰走を開始

午後

多重追撃戦

信幸の別働隊が側面を強襲 3 。神川を増水させる 21

神川渡河中に挟撃され、多数が溺死 17

夕刻以降

戦闘終結

追撃を完了し、城へ帰還

壊滅的打撃を受け、小諸方面へ撤退

リアルタイム再現:決定的瞬間

城下の徳川軍が混乱の極みに達したのを見計らい、昌幸は勝負を決する行動に出る。『真武内伝』によれば、昌幸は家臣と囲碁を打ちながら、冷静に戦機が熟すのを待っていたという 16。そして、その時が来たと判断するや、彼は高らかに叫んだ。

「門を開け! 者ども、わしにつづけ!」 1

その声に応じ、それまで固く閉ざされていた上田城の大手門が内側から開け放たれる。そして、昌幸自らが槍を手に先頭に立ち、精鋭の旗本勢とともに、混乱する徳川軍の真っ只中へ突撃を開始した。これは、敵に慈悲を見せて逃げ道を与えるためでは断じてない。総崩れになった敵兵の背後を突き、一人残らず殲滅するための、容赦なき追撃の開始を告げる号砲であった。この攻撃的な行動こそが、「道を開けて逃げよ」という逸話の原型なのである。突撃した真田勢は、混乱して背を向ける徳川兵を一方的に討ち取っていく。まさに「返す刀で追撃」という言葉通りの光景が繰り広げられた 1

三重の追撃網と究極の罠

パニック状態に陥った兵士は、唯一開かれた空間、すなわち安全に見えるルートに殺到する習性がある。昌幸はこの人間の心理的脆弱性を完璧に読み切っていた。彼が自ら開いた大手門からの道は、混乱する徳川兵にとって唯一の脱出口に見えた。彼らは我先にとその道へ殺到する。しかし、その道は「生」への道ではなく、昌幸が仕掛けた最終的な殲滅地点へと続く「死への一本道」であった。

  • 第一の網(正面追撃): 昌幸の本隊が、大手門から神川へ向かって潰走する徳川兵の背後を徹底的に追撃する。
  • 第二の網(側面攻撃): この絶好のタイミングを待っていたかのように、北の砥石城に控えていた長男・真田信幸が率いる別働隊が、徳川軍の側面に襲いかかった 1 。これにより徳川軍は完全に包囲され、組織的抵抗能力を完全に失う。
  • 第三の網(水計): ほうほうの体で神川までたどり着いた徳川兵を待っていたのは、最後の罠であった。事前に上流に堰き止めてあった水が一気に放流され、川が急激に増水。多くの兵士が濁流にのまれて溺死した 17 。『真武内伝』は、これも昌幸による事前の計略であったと伝えている 15

「門を開ける」という行為は、物理的に敵を解放するのではなく、心理的に敵の行動をコントロールし、最終的なキルゾーンへと誘導するための、極めて高度な心理戦術であった。逸話に伝わる「道を開けて逃げよ」という言葉は、この戦術の本質――慈悲に見せかけた冷徹極まりない罠――を、実に的確に、そして皮肉に表現していると言えるだろう。

第五章:戦術分析と逸話の形成 ― なぜ伝説となったのか

第一次上田合戦は、真田昌幸の類稀なる智謀が、徳川家康の誇る精強な軍団を完膚なきまでに打ち破るという、劇的な結末を迎えた。この勝利は、昌幸の名を天下に轟かせるとともに、後世に語り継がれる数々の伝説を生み出す源泉となった。

勝敗の帰結と戦術の要諦

真田方の記録によれば、この一戦における徳川軍の死者は1,300人以上にのぼったとされる 1 。一方、徳川方の史料である『三河物語』は、面目を保つためか、死者を300人余りと少なく記録している 3 。この記述の差異は、それぞれの立場からの政治的意図を考慮する必要があるが、いずれにせよ、真田方の損害がわずか数十名であったこと 18 を考えれば、これが真田軍の圧倒的かつ一方的な勝利であったことは疑いようがない。

この奇跡的な勝利を可能にした昌幸の戦術は、以下の四点に集約される。

  1. 徹底した心理操作: 敵の慢心を誘う偽りの敗走、挑発による冷静さの喪失、パニックを利用した行動誘導など、合戦の始終を通じて敵の心理を巧みに操り続けた。
  2. 地形と城郭の最大活用: 上田城と城下町を一体化した巨大な罠として設計・運用し、地の利を完璧に味方につけた。
  3. 周到な多層的計画: 千鳥掛けの設置、別働隊の伏在、水計の準備など、合戦のあらゆる局面を想定した、幾重にも張り巡らされた計画性。
  4. 領民を巻き込む統率力: 昌幸への絶対的な信頼が、兵士だけでなく領民をも戦闘に参加させ、絶望的な兵力差を補う原動力となった。

逸話の形成と「表裏比興の者」の真髄

この劇的な勝利は、すぐさま『三河物語』 3 や、後に成立した『上田軍記』 6 、『常山紀談』 25 といった多くの軍記物や講談で語り継がれた。その過程で、第四章で分析した「大手門を開けての突撃」という史実が、より象徴的で記憶に残りやすい「道を開けて逃げよ、と見せかけて殲滅」という逸話へと昇華されていったと考えられる。この物語は、単なる勝利の記録ではなく、強大な敵を智謀で翻弄する小者の痛快さを描き出すものであり、日本人の判官贔屓の心情とも合致し、広く受け入れられたのである。

結論として、この逸話と、その背景にある一連の戦術は、後に豊臣秀吉から「表裏比興の者(信用ならないが、それ故に頼りになる狡猾な人物)」と評された真田昌幸の人物像 3 を完璧に体現している。敵を欺き、罠にかけ、慈悲を見せるかに見せて完膚なきまでに叩き潰す。その非情で計算高い戦略眼こそが、戦国の荒波を生き抜いた昌幸の真髄であり、この逸話が今日まで色褪せることなく人々を魅了し続ける理由なのである。

引用文献

  1. 徳川勢を震え上がらせた真田昌幸・上田合戦の策略 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2818?p=2
  2. 上田城の戦い ~真田昌幸の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/ueda.html
  3. 家康を苦しめた戦国屈指の食わせ者・真田昌幸 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12008/
  4. 【第一次上田城の戦い】数年で3回もボス変えをした真田昌幸の処世術とは | GOETHE https://goetheweb.jp/lifestyle/more/20240224-senryaku-zukan-02
  5. 神川合戦(第一次上田合戦) https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/070099.html
  6. 第一次上田合戦 http://ogis.d.dooo.jp/sanada2.html
  7. 本能寺の変勃発!天正壬午の乱と真田昌幸の智謀 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2839?p=1
  8. 圧倒的な兵数の差でなぜ勝てたのか?真田と徳川の因縁の始まり『第一次上田合戦』の勝因を解説 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/205907
  9. 第一次上田合戦と真田昌幸の戦術 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2925
  10. 上田城の攻防と徳川秀忠関ヶ原遅参の真相【前編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/3299
  11. 上田合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6
  12. 上田城の歴史 https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/shogaku/2378.html
  13. 第一次上田合戦 https://ueda-kanko.or.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/9d5b86a758efb333c4d40e45042683b5.pdf
  14. 第一次上田合戦 https://takato.stars.ne.jp/kiji/meigen.html
  15. 「第一次上田城の戦い(1585年)」真田勢は寡兵ながら、なぜ徳川勢を撃退できたのか https://sengoku-his.com/458
  16. 第一次上田合戦と真田昌幸の戦術 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2925?p=1
  17. 7000の最強・徳川軍を「知将」真田昌幸は2000足らずでどう撃退したのか?武田、織田、北条、上杉、徳川…。生き残りをかけた転身とその知略『どうする家康』 - 婦人公論 https://fujinkoron.jp/articles/-/9429?page=5
  18. 《第3回 第一次上田合戦》天下に真田の名を知らしめた 徳川との長い戦いが始まる - LIVING和歌山 https://www.living-web.net/%E3%80%8A%E7%AC%AC3%E5%9B%9E-%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6%E3%80%8B%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E3%81%AB%E7%9C%9F%E7%94%B0%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%97/
  19. 真田昌幸は何をした人?「表裏比興にあっちこっち寝返って真田を生き残らせた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/masayuki-sanada
  20. 歴史を動かした真田昌幸の智謀 「上田城」で徳川の大軍を苦しめたゲリラ戦術 - おとなの週末 https://otonano-shumatsu.com/articles/388465/2
  21. 真田昌幸の知略が炸裂! 第1次上田合戦 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=q9Xc6S9--xY
  22. 《第5回 第二次上田合戦》真田軍が徳川の大軍を翻弄 その悲しい結末とは - LIVING和歌山 https://www.living-web.net/%E3%80%8A%E7%AC%AC5%E5%9B%9E-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6%E3%80%8B%E7%9C%9F%E7%94%B0%E8%BB%8D%E3%81%8C%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%BB%8D%E3%82%92%E7%BF%BB/
  23. 第一次上田合戦 / 真田昌幸 VS 徳川軍 / 丸子表の戦い - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=hP8AJEqjfrg
  24. 史書を訪ねて 「三河物語」 長野・上田 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=a33eGlSbE2Y
  25. 【今日の出来事】真田親子が九度山へ!真田庵修繕プロジェクトも実施中! - 戦国魂 https://www.sengokudama.jp/blog/archives/4519
  26. 真田昌幸智謀北条勢を破る事 https://iyokan.itigo.jp/jyozan/jyozan023.html