真田昌幸
~関ヶ原裏で徳川軍を上田で足止め~
関ヶ原前夜、真田昌幸が徳川秀忠軍を上田城で足止め。犬伏の別れから戦後の真田家運命まで、知略で翻弄した第二次上田合戦の全貌を解説。。
第二次上田合戦 ― 真田昌幸、天下分け目の刻に徳川本隊を翻弄せし八日間の軌跡
序章:天下分け目の岐路、犬伏の決断
慶長五年(1600年)七月、天下の趨勢は、徳川家康による会津の上杉景勝討伐という一大軍事行動によって、まさに決せられようとしていた。この徳川の大軍に、信濃上田の領主・真田昌幸、その嫡男・信幸(後の信之)、次男・幸村(信繁)の父子三人もまた、一武将として従軍していた 1 。彼らが下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)に陣を敷いていた七月二十一日、事態は急転する。家康が東国へ兵を進めた隙を突き、石田三成が「家康は豊臣家への反逆者である」として西国で挙兵したのである。三成の使者がもたらした一通の密書は、真田父子に天下分け目の岐路に立たされていることを告げる狼煙であった 2 。
この重大局面に際し、父子三人は陣中の薬師堂と伝わる場所で、密議の席を設けた 2 。野営の喧騒の中、芋雑炊を囲みながら、彼らは真田家の未来を賭けた激論を交わしたと伝えられる 5 。その議論の核心は、三者三様が背負う義理と立場、そして複雑に絡み合った人間関係にあった。
嫡男・信幸は、徳川四天王の筆頭・本多忠勝の娘である小松姫を正室に迎えており、家康は彼の舅にあたる存在であった 2 。家康からは「さいつ殿(信幸の官途名である伊豆守の唐名)」で始まる私信めいた書状が頻繁に届くなど、個人的な信頼関係も篤く、徳川への恩義を重んじる信幸にとって、東軍に与することは当然の帰結であった 5 。彼は父と弟に対し、あくまで徳川に忠誠を尽くすべきだと静かに、しかし断固として主張した 7 。
一方、次男・幸村は、若き日に豊臣秀吉の馬廻衆として仕え、秀吉の盟友であった大谷吉継の娘を妻としていた 5 。彼の心は、秀吉個人と豊臣家への恩義に固く結ばれており、三成の挙兵を豊臣家への忠義の戦いと捉えていた。妻が大坂で人質同然の状況にあることも、彼の決意を後押ししたであろう 5 。父・昌幸の意向に同調し、西軍への参加を表明した。
そして、父・真田昌幸。この老獪な戦国武将の胸中には、徳川家康に対する根深い不信感が渦巻いていた。かつて天正壬午の乱の後、領土問題を巡って家康と対立し、第一次上田合戦において徳川の大軍を寡兵で打ち破った過去がある 8 。その後、秀吉の裁定によって和睦はしたものの、家康の「与力大名」という屈辱的な立場に置かれた不満は消えていなかった 8 。さらに、石田三成の舅の妹を側室に迎えており、三成とは義兄弟の間柄でもあった 5 。これらの個人的な感情に加え、西軍が勝利した際の恩賞の大きさという現実的な計算も働き、昌幸は豊臣方につくことを決断した 2 。
この密議は、後世に「犬伏の別れ」として語り継がれることになる。通説では、東西どちらが勝利しても真田の家名を存続させるための、冷徹なリスク分散戦略であったとされる 4 。昌幸が「家を分けることが、結局は家の存続に繋がる」と語ったとも伝えられるように、その側面があったことは間違いない 8 。しかし、この決断の深層には、単なる戦略論では割り切れない、個々の武将としての生き様、忠義、そして人間関係が色濃く反映されていた。それは、信幸の徳川への義理、幸村の豊臣への恩義、そして昌幸の家康への反骨心という、三者三様の譲れない信念がぶつかり合った末の選択であった 10 。議論の末、互いの立場を認め合った兄弟は、「父上を、たのむ」「心得ております」という短い言葉と視線を交わし、それぞれの戦場へと向かう 7 。それは、真田家存続のための戦略的決断であると同時に、血を分けた家族が敵味方となる悲壮な「別れの儀式」でもあったのである 4 。
第一章:対峙する両軍 ― 徳川秀忠軍の進発と真田昌幸の策謀
犬伏での決断の後、昌幸と幸村は急ぎ上田城へと帰還し、来るべき戦いに備えて防備を固めた 1 。一方、徳川方は軍を二手に分け、家康率いる主力は東海道を、そして徳川家の後継者である徳川秀忠率いる一軍は中山道を進んで、西国で合流する手筈となっていた 11 。慶長五年八月二十四日、秀忠は下野国宇都宮の陣を引き払い、中山道を西上するべく進発した 3 。その行く手には、西軍についた真田昌幸が籠る上田城が待ち構えていた。
秀忠が率いた軍勢は、単なる別動隊ではなかった。総兵力三万八千という、徳川軍の「本隊」とも言うべき大軍団である 6 。総大将の秀忠を補佐するのは、知将として名高い本多正信、徳川四天王に数えられる猛将・榊原康政、そして大久保忠隣、酒井家次といった徳川譜代の重臣たちであった 12 。これに、東軍についた真田信幸や森忠政、石川康長といった外様大名も加わっていた 15 。この戦は、秀忠にとって初陣に等しい大軍の指揮であり、父・家康に対して後継者としての力量を示すまたとない機会であった 3 。この若き総大将が抱く功名心と自負心こそが、後に昌幸が仕掛ける策謀の最大の標的となる。
これに対する真田軍の兵力は、わずか二千五百から三千五百程度であったと記録されている 6 。その兵力差は実に十倍以上であり、客観的に見れば、戦いの帰趨は火を見るよりも明らかであった。しかし、昌幸には勝算があった。その根拠こそ、彼自身が築き上げた難攻不落の城、上田城である。昌幸と幸村は上田城に籠り、支城である砥石城や丸子城にも兵を配して、上田小県郡全体を要塞とする総力戦の構えを取った 18 。
上田城は、千曲川が刻んだ河岸段丘の崖という天然の要害を利用して築かれていた 16 。その縄張り(城の設計)は、一見すると大手門から本丸までが直線的に連なっており、攻撃側にとっては攻めやすいように見える。しかし、これこそが昌幸の罠であった。敵を意図的に城の奥深く、狭い通路へと誘い込み、三方から集中攻撃を浴びせて殲滅するための、計算され尽くした構造なのである 21 。そして、歴史の皮肉というべきか、この徳川軍を窮地に陥れることになる堅城は、元をただせば、かつて家康が対上杉政策の一環として、昌幸に築城を支援したものだったのである 9 。
表1:第二次上田合戦における両軍の兵力と主要構成
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項目 |
徳川秀忠軍(東軍) |
真田昌幸軍(西軍) |
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総兵力 |
約 38,000 |
約 2,500 |
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総大将 |
徳川秀忠 |
真田昌幸 |
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主要武将 |
榊原康政、本多正信、大久保忠隣、酒井家次、真田信幸 |
真田幸村、矢沢頼康 |
第二章:開戦の火蓋 ― 挑発と降伏勧告を巡る心理戦
九月初旬、徳川秀忠率いる三万八千の大軍は、上田城の東に位置する小諸城に着陣した 11 。ここを本陣とし、いよいよ真田討伐が開始される。しかし、本格的な武力衝突に先立ち、両者の間では息詰まるような心理戦が繰り広げられた。この戦いは、物理的な攻城戦であると同時に、昌幸が秀忠個人の精神を主戦場として仕掛けた、巧妙な心理戦でもあった。
秀忠はまず、圧倒的な兵力を背景に、真田昌幸へ降伏を勧告する使者を送った 3 。大軍に恐れをなして降伏するであろうと高を括っていた秀忠に対し、昌幸は老獪な駆け引きで応じる。「城を明け渡せば赦免する」という秀忠の申し出に対し、昌幸はすぐには明確な返答をせず、降伏するかに見せかけて時間を稼ぎ、秀忠をじらし続けたとされる 22 。
昌幸は、秀忠が若く、父である偉大な家康に手柄を認められたいという功名心に駆られていることを見抜いていた 23 。そこで、秀忠の自尊心を巧みに刺激する挑発を繰り返す。城下の稲を徳川軍に刈らせる(苅田)といった小規模な軍事行動を黙認するかと思えば、突如として小部隊を繰り出して徳川方を蹴散らすなど、相手を翻弄した 19 。これらの行動はすべて、「信濃の小大名ごときに、徳川本隊が軽んじられてはならない」という秀忠の感情を煽り、本来の目的である関ヶ原への迅速な行軍という合理的な判断を曇らせ、力攻めという選択肢へ誘導するための、計算され尽くした挑発であった 23 。
この心理戦の巧みさを象徴する逸話が残されている。徳川方の使者である鈴木忠重(通称・兵四郎)が、上田城の大手門前に馬を乗りつけ、こう叫んだ。「君命を帯びて、我が先陣に急ぎ連絡せねばならぬ。どうか城内をお通し願いたい!」 22 。まさに交戦中の敵城を通過させてほしいという、前代未聞の要求である。城兵たちが度肝を抜かれて昌幸に報告すると、昌幸は一笑に付してこう命じたという。「なんと肝の据わった武士であろうか。通してやらねば、こちらの器量が狭いと思われる。門を開けてやれ」 25 。兵四郎は堂々と城内を駆け抜け、裏の搦手門から出て任務を果たした。後に昌幸は兵四郎を引見し、「城の真の要害とは、城壁や堀にあるのではない。大将の心の中にあるものよ」と語ったと伝えられている 22 。この常識外れの対応は、昌幸の揺るぎない自信と器の大きさを示すと同時に、戦の主導権は完全にこちらが握っているという、秀忠に対する無言の圧力でもあった。昌幸は、兵力ではなく「情報」と「心理」を武器とし、開戦前からすでに徳川軍を自らの掌の上で転がし始めていたのである。
第三章:上田城攻防戦 ― 老獪なる昌幸の罠
九月六日、ついに第二次上田合戦の火蓋が切られた。徳川軍の牧野康成らが率いる部隊が、挑発を兼ねて上田城下の田の稲を刈り始めた。これを阻止すべく真田の兵が城から打って出るが、徳川軍の追撃を受けて城内へ敗走する。これを好機と見た徳川軍は、大手門前まで一気に押し寄せた 19 。しかし、これこそが昌幸が周到に準備した、多層的で連続的な罠の始まりであった。彼の戦術は、敵の勝利や前進そのものを、次なる敗北への引き金へと転化させる、恐るべきものであった。
第一の罠:砥石城の明け渡し
徳川軍はまず、上田城の支城である砥石城に攻撃を仕掛けた。この城を守っていたのは幸村であったが、徳川方についた兄・信幸の軍勢が迫ると、ほとんど抵抗することなく城を明け渡した 16。これは、徳川軍の中で肩身の狭い思いをしていたであろう兄・信幸の顔を立てるという配慮であると同時に、徳川軍全体に「真田は戦わずして降る」という油断を生じさせ、上田城本丸へと深くおびき寄せるための、高度な策略であった 16。
第二の罠:大手門への誘引
砥石城をやすやすと手に入れた徳川軍は、勢いに乗って上田城本体へと殺到する。昌幸は城門を開け放ち、少数の兵で挑発的な抵抗を見せた。敵の罠とも知らず、徳川軍の先鋒はこれを好機と捉え、大手門から二の丸へと雪崩れ込むように突入した 21。彼らを誘ったのは、一見攻めやすそうに見える上田城の直線的な縄張りであった 21。
第三の罠:殲滅戦
徳川軍の兵士たちが二の丸の狭い空間に密集し、逃げ場を失った瞬間、昌幸の罠が発動した。城壁や櫓に潜んでいた真田軍の鉄砲隊が一斉に火を噴き、至近距離からの十字砲火を浴びせたのである 16。突然の猛射に徳川軍は大混乱に陥る。そこへ、城の側面からかねてより待機していた幸村率いる精鋭の遊撃部隊が突撃し、混乱する敵軍の側背を鋭く突いた 16。正面と側面からの挟撃を受け、徳川軍は算を乱して敗走を始めた。
第四の罠:神川の水計
しかし、昌幸の罠はまだ終わらない。敗走する徳川軍が、城の東を流れる神川を渡ろうとするタイミングを見計らい、真田方はあらかじめ堰き止めておいた堤防を決壊させた。増水した川は瞬く間に濁流と化し、多くの徳川兵が鎧の重みで川に飲み込まれ、溺死した 26。これは、十五年前の第一次上田合戦でも徳川軍を苦しめた、昌幸得意の戦法であった 16。
この日の戦闘の後も、幸村が率いる部隊による執拗な夜討ちが繰り返され、徳川軍は十分な休息も取れず、兵士たちの士気は完全に打ち砕かれた 16 。昌幸の戦術は、地形、城の構造、兵の心理、そして天の時(水計)を完璧に組み合わせた、芸術的なまでの複合的防衛システムだったのである。
第四章:焦燥と決断 ― 秀忠軍の足止めと撤退
上田城での手痛い敗北により、徳川秀忠軍は完全にその進軍を止められてしまった。天下分け目の決戦が刻一刻と迫る中、徳川本隊が信濃の小城一つに数日間も釘付けにされるという事態は、総大将である秀忠にとって耐え難い屈辱であり、深刻な焦燥をもたらした 6 。昌幸の最大の戦果は、徳川軍に与えた物理的な損害以上に、その指揮系統を麻痺させ、秀忠の自信と判断力を根底から揺るがしたことにあった。
秀忠の陣中では、今後の対応を巡って重臣たちの間で激しい議論が交わされた。軍議は紛糾し、徳川軍は意思決定能力を失っていく。
後見役として従軍していた本多正信は、これ以上の戦闘は無益であると判断した。彼は、上田城攻略に固執すれば損害が拡大するばかりか、関ヶ原への到着が絶望的になると考え、即刻城の包囲を解き、西上を急ぐべきだと強く進言した。第一次上田合戦の悪夢を思い出し、これ以上の失敗を重ねることを極度に恐れていたのである 27 。
これに猛然と反対したのが、武断派の筆頭である榊原康政であった。「ここで小勢の真田に敗退したままでは、徳川の威信が地に落ちる。断固として城を攻め落とすべきである」と彼は主張した。「真田勢が来れば迎え撃つまで」と、正信の慎重論を臆病者の戯言と一蹴した 27 。
歴戦の重臣たちの間で板挟みとなった若き秀忠は、決断を下せずに苦悩した。手柄を立てたいという功名心と、これ以上の損害と醜態を晒すことへの恐怖が、彼の中で激しくせめぎ合っていた。
この膠着状態を動かしたのは、他ならぬ父・家康からの使者であった。家康からの書状には、西上を急ぐよう催促する旨が記されていたと推測される 27 。これが決定打となり、秀忠は断腸の思いで上田城の攻略を断念。全軍に撤退を命じた。
しかし、昌幸の影は撤退する徳川軍にまで付きまとった。撤退路の選択において、再び正信と康政の意見が対立する。真田の追撃を恐れた正信は、険しい山道だが安全と思われる大門峠を越える迂回ルートを進言した。一方、康政は「何を恐れることがあるか」と正信の案を退け、一千の兵を率いて最短ルートである和田峠を堂々と踏破し、無事に諏訪へと到着した。しかし、秀忠率いる本隊は正信の進言に従い、悪路に行軍を阻まれて多大な時間を浪費した上、兵士たちを極度に疲弊させてしまった 27 。この最後の失態は、昌幸の策が徳川軍の指揮系統を最後まで混乱させ続け、秀忠がもはや合理的な軍事判断を下せる精神状態になかったことを如実に物語っている。
終章:戦後の余波 ― 関ヶ原への遅参と真田家の運命
徳川秀忠率いる軍勢が、疲労困憊の末に美濃国境の妻籠宿に到着したのは、九月十七日のことであった 28 。しかし、天下分け目の関ヶ原の戦いは、その二日前の九月十五日に、徳川家康率いる東軍の圧倒的な勝利をもって、わずか半日で決着していた 28 。徳川家の後継者たる秀忠が、三万八千の本隊を率いながら、この決戦に間に合わなかったという事実は、徳川家にとってあるまじき大失態であった 29 。
後に父・家康と対面した秀忠は、厳しい叱責を受けたと伝えられる 28 。ただし、近年の研究では、家康が問題視したのは遅参そのものよりも、決戦に間に合わなかったにもかかわらず、上田城攻めに固執し、さらに無理な行軍を強いたことで、徳川の主力たる軍勢を無意味に疲弊させた指揮官としての未熟さであった、という説も有力である 30 。いずれにせよ、この第二次上田合戦での苦い経験は、秀忠の生涯に大きな教訓と、拭い去れない汚点を残すことになった。
一方、上田城での戦いに戦術的には完勝した真田昌幸と幸村であったが、関ヶ原における西軍本隊の敗北により、彼らは敗軍の将となった。徳川本隊を翻弄した罪は重く、本来であれば父子ともに処刑されても何ら不思議はなかった 28 。
しかし、ここで「犬伏の別れ」の深謀遠慮が真価を発揮する。東軍に属し、関ヶ原でも武功を挙げていた嫡男・信幸が、舅である本多忠勝と共に、父と弟の助命を家康に必死に嘆願したのである。家康もこの嘆願を無下にはできず、昌幸と幸村は死罪一等を減じられ、高野山、そして後に紀州九度山への配流という処分に決まった 32 。昌幸は再び故郷の土を踏むことなく、配流先の九度山でその波乱の生涯を終えることになる。
結果として、東軍が勝利したことで、真田家の家督は信幸が継承し、大名として存続することになった。「どちらが勝っても真田の家名を残す」という犬伏での決断は、最悪の事態を回避し、家名存続という形で結実したのである 8 。
真田昌幸は、戦国時代最後の大舞台において、その老獪な知略の限りを尽くし、徳川の大軍を翻弄して戦術家としての名声を不動のものとした。しかし、その輝かしい戦術的勝利も、天下の趨勢という巨大な流れを覆すには至らなかった。この第二次上田合戦は、一人の稀代の戦略家の才気が、時代の大きなうねりと激しく交錯した、戦国の終焉を象徴する戦いとして、後世に語り継がれていくのである。
引用文献
- 第二次上田攻め https://museum.umic.jp/sanada/sakuhin/uedazeme2.html
- 真田父子犬伏〔いぬぶし〕密談図 | 政治・文化情報2017 https://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress015/%E6%96%87%E5%8C%96%E6%B4%BB%E5%8B%95/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E6%9D%91%E3%83%BB/
- 第二次上田合戦 http://ogis.d.dooo.jp/sanada3.html
- 戦国時代の最後をしめくくった真田幸村。 - 江戸散策 | クリナップ https://cleanup.jp/life/edo/101.shtml
- 犬伏の別れ~真田昌幸、信幸、幸村。三者三様、漢たちの決断 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1242?p=1
- 関ヶ原の役と上田籠城(第2次上田合戦) https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/090099.html
- 第二次上田合戦までの話(2):犬伏の別れ - 真田太平記をなぞる https://kennytata.hatenablog.com/entry/2019/09/24/012830
- 真田父子の生涯における最大の見せ場となった「犬伏の別れ(1600 ... https://sengoku-his.com/464
- 上田合戦古戦場:長野県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/uedajo/
- 真田丸『第35話』裏解説。「犬伏の別れ」は武士として当然の事だった? - まぐまぐニュース! https://www.mag2.com/p/news/218510
- 慶長 5 年(1600) 「第二次上田合戦」の幕開け そのとき、小諸城は? https://www.city.komoro.lg.jp/material/files/group/3/_Part3_01654717.pdf
- 【徳川秀忠軍の上田攻め】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096320
- Vol.29 特集 戦国を駆け抜けた真田一族の里を巡る - しあわせ信州 https://blog.nagano-ken.jp/magazine/search_area/951.html
- 徳川秀忠が上田城を攻めた戦いで、上田城側は2千兵 - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000293922&page=ref_view
- [合戦解説] 8分でわかる第二次上田合戦 「真田の上田城を落とせなかった徳川秀忠」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=S3GCPYKE3Kk
- 【真田昌幸】知謀を尽くして小大名になった、徳川家康が最も恐れ ... https://shirobito.jp/article/1624
- 日本一の兵・真田幸村特集 | 真田幸村と武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康 - ウエダモヨウ http://shinshu-ueda.info/feature/feature_yukimura-sanada
- 徳川勢を震え上がらせた真田昌幸・上田合戦の策略 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2818
- 上田合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6
- 上田城の強さは地形にあり!~急崖と川が守る鉄壁の城塞~ - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/12460/
- 徳川勢を震え上がらせた真田昌幸・上田合戦の策略 | WEB歴史街道 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2818?p=1
- 真田昌幸・幸村父子の人柄がわかる!?LINEトーク風に逸話をご紹介 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/256
- 所蔵される史料の紹介 - 小諸市 https://www.city.komoro.lg.jp/material/files/group/3/_Part5_19508154.pdf
- 上田合戦とは/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16980_tour_061/
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- 《第5回 第二次上田合戦》真田軍が徳川の大軍を翻弄 その悲しい結末とは - LIVING和歌山 https://www.living-web.net/%E3%80%8A%E7%AC%AC5%E5%9B%9E-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6%E3%80%8B%E7%9C%9F%E7%94%B0%E8%BB%8D%E3%81%8C%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%BB%8D%E3%82%92%E7%BF%BB/
- 第二次上田合戦(3):秀忠のその後、昌幸・幸村のその後 - 真田太平記をなぞる https://kennytata.hatenablog.com/entry/2019/12/30/181411
- 22歳の秀忠をゲリラ戦で手玉に取った真田昌幸 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/10945
- 徳川秀忠。家康の息子が関ヶ原の戦いで「世紀の大遅参」をした理由とは? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/38089/
- 徳川秀忠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0
- 【どうする家康】「偉大なる凡庸」徳川秀忠が、家康に「関ヶ原遅参」を叱責された本当の理由 https://www.dailyshincho.jp/article/2023/11220618/
- 真田信繁(幸村)すごろく - 上田市 https://www.city.ueda.nagano.jp/uploaded/attachment/12630.pdf
- 昌幸・幸村高野山配流 https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/100099.html