石田三成
~処刑場で「清く死するは義の誉れ」~
石田三成の処刑時に語られる「清く死するは義の誉れ」という逸話の史料的信憑性を徹底検証。この逸話は近代以降の創作である可能性が高いと結論付けられる。
石田三成の最期と「清く死するは義の誉れ」の逸話に関する徹底的検証
序章:慶長五年十月一日、洛中の朝霧
慶長五年(1600年)九月十五日の関ヶ原における決戦が、実質的には半日で西軍の総崩れという形で終結した後、西軍の主導者であった石田三成の逃亡が始まった。しかし、伊吹山中での潜伏も長くは続かず、九月二十一日、田中吉政の捜索隊によって古橋村(現在の滋賀県長浜市)で捕縛される。
三成の身体的状態は、この時点で既に極限にあったと推測される。敗戦による精神的消耗に加え、数日間の逃亡生活、さらには(後世の伝承によれば)赤痢を患っていたともされ、その衰弱は著しかったとされる。捕縛後、大津城に移送され、徳川家康の面前に引き出された後、大津の城下で曝(さらし)となった。
そして十月一日、三成は、同じく西軍の首魁(しゅかい)と目された小西行長、安国寺恵瓊と共に、京都の六条河原で処刑されることとなる。本報告書が主題とする「潔譚」、すなわち『処刑場で「清く死するは義の誉れ」と叫んだ』とされる逸話は、この最期の日の出来事とされる。本報告は、この特定の逸話に焦点を絞り、その史料的典拠、背景、そして歴史的受容の変遷について、徹底的に検証を行うものである。
第一章:検証:「清く死するは義の誉れ」という潔譚の源流探索
ご依頼の核心である『処刑場で「清く死するは義の誉れ」と叫んだという潔譚』は、石田三成の最期を象徴する、極めて劇的な場面としてしばしば語られる。この文言は、「義のために清く(潔く)死ぬことこそが名誉である」という、武士道的な死生観を鮮烈に表明するものである。本章では、この逸話の源流を、史料を遡って探索する。
一次史料(同時代)における探索
三成の処刑は、当時の京都において重大事件であった。したがって、同時代に記された公家や僧侶の日記、あるいは編纂物(一次史料)に、その様子が記録されている可能性がある。
代表的な史料として、山科言経の『言経卿記』、西洞院時慶の『時慶卿記』、あるいは『当代記』『慶長記』などが挙げられる。これらの史料は、関ヶ原の戦い前後の動静や、三成らの捕縛・処刑について記述を残している。しかし、これらの同時代史料を精査する限りにおいて、三成らが市中を引き回され、六条河原で処刑されたという「事実」は記されているものの、処刑に際して三成が「清く死するは義の誉れ」と叫んだ、あるいはそれに類する特定の文言を大声で発したという具体的な記述は、現時点では確認されていない。
二次史料(江戸時代)における探索
次に、三成の死から数十年ないし百年以上を経て、江戸時代に成立した逸話集や武辺咄(ぶへいばなし)集(二次史料)に目を転じる。これらの編纂物は、歴史的厳密さよりも教訓や興味深さを重んじる傾向があるため、しばしば人物の言行が劇的に脚色される。
石田三成の最期に関する逸話として最も有名なものに、後述する「柿の逸話」がある 1 。この逸話の出典は、主に『茗話記(めいわき)』や『明良洪範(めいりょうこうはん)』といった江戸中期の逸話集であるとされる 1 。これらの資料は、三成の最期について詳細な(真偽はともかく)「会話」を収録している 1 。
しかし、これらの「逸話の宝庫」とも言える江戸時代の二次史料群においても、ご依頼の「清く死するは義の誉れ」という具体的な文言、あるいは三成が処刑場で「叫んだ」とする記述は見当たらない。
洞察と仮説:「潔譚」の不在
一次史料に記録がなく、かつ、逸話を積極的に収集した江戸時代の二次史料群 1 にも収録されていないという事実は、極めて重要である。
この状況から導き出される一つの仮説は、ご依頼の「清く死するは義の誉れ」という逸話が、史実(一次史料)でも、江戸時代の有名な逸話(二次史料)でもなく、 近代(明治・大正・昭和)以降に成立した という可能性である。
この背景には、江戸時代に「柿の逸話」 1 を通じて形成された「三成は最期まで*大義(Taigi)*を貫いた」という人物像が、近代の歴史観(例えば、講談や歴史小説、あるいは戦前の修身教育における武士道の礼賛など)と融合する過程で、より英雄的で劇的な表象へと「昇華」した可能性が考えられる。すなわち、「柿の逸話」 1 における理性的・内面的な「大義」が、大衆文化の中で、より情熱的・宣言的な「 義(Gi)の誉れ 」という「叫び」へと 変質・創作 されたのではないか、という推論が成り立つ。
第二章:最期の日の時系列(クロノロジー)― 護送と「公の舞台」
ご依頼の「時系列でわかる形」という要求に基づき、慶長五年十月一日の三成の足取りと、彼が置かれた「状態」を再構築する。
起点:京都所司代・奥平信昌邸
処刑当日の朝、三成は京都所司代であった奥平信昌(当時は信昌の嫡男・家昌が駐在)の屋敷に拘留されていた。ここが護送の起点となる。
この屋敷の正確な位置については諸説ある。中村武生氏の研究によれば、江戸時代に京都所司代屋敷が置かれた場所(元待賢小学校跡地、現・上京区藁屋町)が、奥平屋敷の跡地を利用した可能性が高いと推定されている 1 。一方で、隆慶一郎氏の小説『影武者徳川家康』など、多くの大衆文芸作品では「堀川出水(ほりかわでみず)」がその場所として描かれてきた経緯もある 1 。いずれにせよ、三成は京の市中、公権力の監視下からその最期の道程を開始した。
市中引き回しという「刑罰」
三成は、小西行長、安国寺恵瓊と共に、粗末な車(罪人護送用の荷車)に乗せられたとされる。彼らは縄で縛られ、市中を引き回された。
「市中引き回し」は、単なる処刑場への「移動」ではない。これは、見せしめ(曝し)を目的とした厳然たる「刑罰」である。その目的は、敗軍の将の権威を公衆の面前で徹底的に剥奪し、勝者の支配を視覚的に知らしめることにあった。三成は、かつて自らが権勢を振るった京の都を、最も屈辱的な姿で巡ることとなった。
ルート:「室町通」という選択
3
市中引き回しの具体的な経路については、 3 が「主に室町通だったようです」と指摘している 3 。
室町通は、平安京の室町小路に由来し、当時は京都の政治・経済・文化の中心的な通りの一つであった。このルートが選ばれた理由は、最大限の群衆の目に晒すためであったと考えられる 3 。
この「室町通」という「公の舞台」設定 3 は、第一章で提示した仮説の信憑性を考察する上で重要である。これほど人目につく場所で、もし三成が「清く死するは義の誉れ」と大声で叫んでいれば、それは多数の市民に目撃・聴取されたはずである。その場合、同時代の公家や知識人の日記(一次史料)に、「三成が何か叫んでいた」「見苦しくわめいていた」あるいは「立派なことを叫んでいた」といった形で、何らかの断片的な記録が残されていても不思議ではない。そのような記録が(現時点で)確認されていない事実は、この「叫び」の逸話の史実性を著しく低下させる傍証となる。
三成の状態
この引き回しの間、三成がどのような状態であったか。群衆からは罵声や嘲笑が浴びせられ、時には投石などもあったと想像される。
その中で三成がどのような態度を取ったかについては、後世の逸話(特に「柿の逸話」 1 )は「泰然自若としていた」かのように描く。しかし、序章で触れた通り、三成は極度に衰弱していた可能性が高く、物理的に「叫ぶ」ほどの気力や体力が残っていたかは疑問である。むしろ、衰弱しきった姿を晒していた可能性も否定できない。
第三章:比較分析:もう一つの逸話「柿と大義」のリアルタイム会話
ご依頼の「清く死するは~」という逸話の史料的信憑性が極めて低い(第一章)からこそ、比較対象として、史料(二次史料)に明確に記録されているもう一つの有名な逸話、「柿の逸話」を詳細に分析する。これは、ご依頼の「リアルタイムな会話内容」「その時の状態」という要求に、史料(ただし江戸時代のもの)ベースで最も近づける試みである。
この逸話は、主に『茗話記』 1 や『明良洪範』 2 に収録されており、その会話内容は具体的である。
状況設定:喉の渇き
1
護送の途中、あるいは処刑場への到着を待つ間、三成は喉の渇きを覚えた。これは、病(赤痢)による脱水症状か、あるいは極度の緊張によるものか、いずれにせよ非常に現実的な(リアルな)身体的状態の描写である。
三成は警護の者に「湯(白湯)を欲した」 1 。
「干し柿」の提供
1
警護の者は、「(生憎)近くに湯がなかった」ため、替わりにその場にあった「柿」を差し出した 1 。この「柿」について、国立国会図書館の調査によれば、『茗話記』や関連資料では「あまぼし(干柿)」であったと具体的に記されている 2 。
会話の再現①:拒絶
1
干し柿を差し出された三成は、これを拒否する。
三成 : 「(干し柿は)痰(たん)の毒だ(から、いらない)」 1
この発言は、死を目前にしてもなお、自らの健康管理に(あるいは迷信的な俗信に)こだわる、三成の人物像(理屈っぽい、神経質、生真面目)を反映したものとして、後世しばしば引用される。
会話の再現②:警護者の嘲笑
1
三成の意外な反応に対し、警護の者は嘲笑とも呆れともつかぬ口調で応じる。
警護者 : 「(これから)処刑される身で、(今更)体のことを気遣っても仕方がない(ではないか)」 1
これは、死を目前にした者への「常識的な」反応であり、三成の「理屈」を無意味なものとして切り捨てる発言である。
会話の再現③:三成の反論と「大義」
1
この嘲笑に対し、三成は自らの行動原理を明確に述べて反論する。これが「柿の逸話」の核心である。
三成: 「(そうではない。)大義を思う者は、最後まで体を大事にする(ものだ)」 1
(原文では「大義を思ふ者は、自ら身体を大切にして、生命を保つ事を望むものなり」などに近い形)
ここでの三成の論理は、単なる延命(生への執着)ではない。「大義(Taigi)」という自らが信じる目的のためには、最後の瞬間まで心身を最善の状態に保つことこそが「義(Gi)」である、という強固な信念の表明である。万が一の(例えば処刑中止の)可能性に備える、あるいは最期の瞬間まで意識を明瞭に保つ、という意味合いが込められている。
「潔譚」の比較
この「柿の逸話」と、ご依頼の「清く死するは義の誉れ」という逸話を比較すると、両者の性質は対極的である。
- 柿の逸話 : 「問答」の形式であり、理性的・論理的。三成の「大義」は内面的な信念として語られる。
- ご依頼の逸話 : 「叫び」の形式であり、情熱的・宣言的。「義の誉れ」は公衆に対するアピールとして発せられる。
両者は「義」や「大意」をテーマとしながら、その表現方法と精神性において、全く異なる人物像を提示している。
第四章:史料批判:「柿の逸話」の成立と江戸時代の「三成観」
「柿の逸話」は、ご依頼の逸話とは異なり、江戸時代の複数の編纂物に収録され、広く流布した 2 。しかし、なぜこの逸話は生まれ、これほどまでに受容されたのだろうか。本章では、その歴史的背景を考察する。
出典『茗話記』の信頼性
1
まず史料批判の観点から言えば、 1 が指摘するように、『茗話記』は江戸時代に書かれた逸話集であり、史料的価値としては「良質な史料ではない」 1 と評価されるのが一般的である。これは、この逸話が同時代の**史実(Fact)ではなく、後世に創作・脚色された物語(Story)**として受容されるべきものであることを示している。
逸話の伝播と必要性
2
とはいえ、 2 が示す通り、この逸話は『茗話記』 2 だけでなく、『続明良洪範』 2 や『武士道全書』所収の『明良洪範』 2 など、多くの類書に「石田三成あま干柿を喫せず」といった形で収録され、江戸時代を通じて「有名な話」として定着していた 2 。
この逸話が「必要とされた」背景には、江戸時代の「三成観」の変遷がある。
徳川の天下が安定した江戸時代初期から中期にかけ、石田三成は「豊臣家を滅ぼした奸臣(かんしん)」「計算高いだけの小役人」という否定的なイメージで語られることが多かった。
しかし、泰平の世が続くと、戦国の「義」に生きた武将への再評価の気運も生まれる。その中で、敗将・三成の最期を、単なる「無様な死」や「悪人の末路」として終わらせるのではなく、彼なりの一貫した論理(=大義)に基づいた「立派な最期」として描き直す必要が生じた。
「柿の逸話」 1 は、三成を単なる「奸臣」から、自らの「大義」を最後まで貫いた**「理の武将」 として 「リハビリテーション(名誉回復)」**させる機能を果たしたのである。この逸話は、江戸時代の人間が三成の最期に「意味」と「一貫性」を見出そうとした、文化的産物であったと言える。
第五章:終焉の地・六条河原
市中引き回し 3 の末、一行は処刑場である六条河原(当時の鴨川の河原)に到着した。
小西行長は熱心なキリシタンであり、最期まで祈りを捧げ、十字架に礼拝したと伝えられる。安国寺恵瓊は、処刑の順番を巡って行長と口論になった(あるいは行長を罵倒した)とも伝わるが、最期は堂々としていたとされる。
一方、石田三成が残したとされる辞世の句は、以下の通りである。
筑摩江(ちくまえ)や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
(筑摩江=琵琶湖の古名。琵琶湖の芦の間に見えるかがり火が消えていくように、私の命も消えていくことだ)
「潔譚」との乖離
この辞世の句が示す精神性は、極めて重要である。ここには「義」や「大義」を叫ぶような激しさはなく、自らの命運を、湖上のかがり火の消滅という**「無常観」 や 「諦念」**に重ね合わせた、静かな心境が詠まれている。
この「静かな辞世の句」と、ご依頼の「清く死するは義の誉れ!(という情熱的な叫び)」、そして「柿の逸話(という理詰めの問答)」 1 との間には、 著しい精神的・態度的ギャップが存在する 。
一人の人間の最期として、これら三つ(諦念、理屈、叫び)が全て同時に真実であるとは考えにくい。この乖離は、 「歴史的実像」 (辞世の句に見る諦念)と、 「後世に求められた英雄像」 (逸話群に見る「義」や「大義」) 1 とが、時代と共に「石田三成の最期」というイメージの上に重層的に形成されていったことを示している。
表1:石田三成の最期に関する主要な「言葉」の比較分析
本報告書の分析を総括するため、三成の最期をめぐる三つの「言葉」を以下の表で比較する。
|
区分 |
発言内容 |
主要な典拠(出典) |
成立時期(推定) |
史料的信憑性(評価) |
逸話が象徴する人物像 |
|
ご依頼の逸話 |
「清く死するは義の誉れ」 |
典拠不明 |
近代(明治)以降? |
低い(創作の可能性大) |
情熱的な殉教者 |
|
柿の逸話 |
「大義を思う者は、最後まで体を大事にするものだ」 1 |
『茗話記』 1 、
『明良洪範』 2 など |
江戸時代(中期) |
中~低(アポクリファ) |
理性的な大義の人 |
|
辞世の句 |
「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」 |
『(続)武家閑談』など |
慶長五年(1600年) |
比較的高い(ただし異説あり) |
無常を受け入れる教養人 |
結論:石田三成の「最期の言葉」の真相
本報告書は、石田三成の『処刑場で「清く死するは義の誉れ」と叫んだという潔譚』という特定の逸話について、その詳細と信憑性を徹底的に調査・分析した。
-
逸話「清く死するは義の誉れ」の史料的評価:
本逸話は、同時代の一次史料(公家の日記など)、および『茗話記』 1 や『明良洪範』 2 に代表される江戸時代の主要な二次史料(逸話集)においても、その典拠(出典)を確認することはできなかった。時系列的な足取り(室町通の引き回し 3)や、辞世の句との精神的乖離を鑑みても、その史実性は極めて低いと言わざるを得ない。 -
逸話の成立に関する仮説:
本逸話は、江戸時代に成立した「柿の逸話」 1 が提示した「大義(Taigi)」というテーマが、原型にある可能性が高い。この「理屈っぽい大義」が、近代(明治以降)の歴史観や大衆文化(講談、小説、演劇など)の中で、よりヒロイズム(英雄主義)的に、より劇的に脚色され、「義(Gi)の誉れ」という**「叫び」として「創作」**されたものである可能性が極めて高いと結論付けられる。 -
「潔譚」が象徴するもの:
「柿の逸話」 1 が、三成を「理屈と大義の人」として描き、江戸時代の価値観の中で彼を名誉回復させようとしたのに対し、ご依頼の「清く死するは義の誉れ」という逸話は、三成を「義に殉じた悲劇の英雄」として、より情熱的に描き出している。
三成の最期に関するこれらの「潔譚」の存在( 1 、そしてご依頼の逸話)は、史実の有無以上に、 後世の人々が石田三成という人物の最期に「一貫した論理(大義)」と「劇的な名誉(義の叫び)」を求めずにはいられなかった という、歴史的受容の変遷そのものを強く示唆している。ご依頼の逸話は、史実の記録というよりも、石田三成という人物が「かくあってほしかった」という後世の願望が結晶化した、文化的な「記憶」の産物であると評価できる。
引用文献
- 石田三成の実像542 「中村武生とあるく洛中洛外・三成はどこで湯を欲したのか」 https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/201010article_17.html
- 石田三成の処刑時のエピソードが載った「茗話記」を読みたいが - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?tt_lk=1&st=update&ldtl=1&type=reference&page=ref_view&dtltbs=1&id=1000057053&asc=desc
- 415年前1600年11月6日室町通での出来事 - 京都朝げいこ http://asageiko.jp/others/415%E5%B9%B4%E5%89%8D1600%E5%B9%B411%E6%9C%886%E6%97%A5%E5%AE%A4%E7%94%BA%E9%80%9A%E3%81%A7%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B/