石田三成
~家臣の訴え三度黙し答える沈考譚~
石田三成の「沈考譚」を徹底考察。家臣の訴えに三度黙した逸話の史実性、人物像の再構築、歴史的背景、そして彼の多面的な性格がこの沈黙にどう表れているかを分析する。
石田三成「沈考譚」の徹底的考察 ― 沈黙の逸話に秘められた史実と人物像の再構築
序章:沈黙の逸話への問い
豊臣政権の優れた能吏、関ヶ原の戦いにおける西軍の将、そして主家への忠義に殉じた悲劇の武将。石田三成という歴史上の人物は、その評価が時代と共に大きく変遷し、多岐にわたる顔を持つことで知られている。彼の複雑な人物像は、数多くの逸話によって語り継がれてきた。その中でも、彼の統治者としての一面をひときわ鮮やかに象徴するのが、「家臣の訴えを聞く際、必ず三度黙してから答えた」とされる、通称「沈考譚」である。
この逸話は、三成の沈思黙考の姿勢、公平無私な判断力、そして民を思う深い配慮を示すものとして、しばしば引用される。しかし、その出典は必ずしも明確ではなく、三成の人物像をめぐる他の著名な逸話や確かな史実と照らし合わせた時、この「沈黙」が持つ真の意味は一層の深みを帯びてくる。
本報告書は、この「沈考譚」という一つの逸話に焦点を絞り、徹底的に解剖することを目的とする。まず、逸話が描く情景を歴史的想像力をもって再現し、次に、その史実性、すなわち逸話の源流を史料の中に探る。そして、この逸話が生まれた歴史的背景と、それが象徴する三成の多面的な性格を分析する。
調査を進めるにあたり、極めて重要な事実が明らかとなった。それは、主要な歴史資料や江戸時代に成立した著名な逸話集の中に、この「沈考譚」そのものを直接的に記述した文献が見当たらないという点である。この「逸話の不在」という事実は、本報告書が単なる逸話の解説に留まらず、なぜこのような物語が生まれ、語られるに至ったのかという、歴史解釈の変遷そのものを解き明かす試みであることを示唆している。石田三成の沈黙が語るもの、そして歴史が沈黙してきたものの双方に耳を傾けることで、彼の人物像の核心に迫りたい。
第一章:逸話の情景 ― ある日の治部少輔
文禄四年(1595年)、豊臣秀次事件の後処理を経て、石田三成は近江佐和山十九万四千石の領主となった。彼の居城である佐和山城は、「治部少(三成)に過ぎたるもの」と謳われるほどの堅城であったと伝わるが、その内部は驚くほど質素であり、華美な装飾や私的な蓄財とは無縁であったという 1 。本章では、この機能的で無駄のない城の一室を舞台に、「沈考譚」の逸話を、訴えを申し立てる者の視点から時系列に沿って再構成する。
なお、本章で描かれる情景は、逸話の内容と史実からうかがえる三成の人物像に基づき、歴史的想像力を用いて構成したものであり、特定の史料に記録された事実そのものではないことを予め断っておきたい。
ある日の訴え
佐和山城内の一室。そこは、政務を執るために整えられた、実用本位の空間である。一人の家臣が、緊張した面持ちで治部少輔・石田三成の前に平伏している。議題は、領内の二つの村の間で長年続く水利権をめぐる争いである。家臣は、自らが調査した事実、双方の村の言い分、そして過去の慣例を、言葉を選びながら詳細に言上していく。
三成は、身じろぎもせず、ただ静かにその訴えに耳を傾けている。彼の視線は家臣に注がれ、その表情からは何の感情も読み取ることはできない。やがて、家臣がすべての報告を終え、裁定を待つべく深く頭を垂れる。
一度目の沈黙:事実の咀嚼
しんと静まり返った部屋に、時間の流れだけが重くのしかかる。三成は微動だにしない。家臣の額からは、冷たい汗が流れ落ちる。自分の報告に不備があったのだろうか。あるいは、治部少輔様の逆鱗に触れてしまったのだろうか。不安と焦燥が心をかき乱す。
この最初の沈黙は、三成が家臣から提示された情報を、一切の先入観を排して咀嚼し、客観的な事実関係を頭の中で再構築している時間であった。どちらの村が正しく、どちらが間違っているかという性急な判断ではなく、まず問題の全体像を正確に把握するための、冷静な分析の段階である。
二度目の沈黙:法理との照合
長い沈黙の後、三成は低い声で一つ、二つ、事実関係の核心を突く問いを発した。家臣は、その鋭さに内心驚きながらも、必死に記憶をたどり、淀みなく答える。そして再び、部屋は深い沈黙に包まれた。一度目よりもさらに長く感じられる沈黙に、家臣の心中の葛藤は頂点に達する。
この二度目の沈黙は、客観的に把握した事実を、法や道理、そして過去の先例と照らし合わせるための時間であった。三成が佐和山領内に発布した詳細な「掟書」にも見られるように、彼の統治の根幹には、公平性と合理性があった 4 。この沈黙の中で、三成は感情論を排し、最も理に適った解決の道筋を模索していたのである。
三度目の沈黙と決断:影響の熟慮
やがて三成は、最後の問いを発する。それは、裁定が下された後の、双方の村人の感情や将来の関係性に関わる問いであった。家臣が考えを述べ終えると、決定的な三度目の沈黙が訪れた。
この最後の沈黙は、導き出した結論がもたらすであろう、あらゆる影響を多角的に予測するための時間であった。単に白黒をつけるだけでは、禍根を残す可能性がある。裁定によって一方の村が利を得、もう一方が恨みを抱けば、それは将来の新たな争いの火種となりかねない。三成は、その判断が領内の長期的な安定と民の安寧にどう寄与するか、あるいは害するかを、深く、そして慎重に思考していた。
長い、長い沈黙の果てに、三成は静かに顔を上げた。そして、理路整然と、しかし冷徹ではない言葉で、その裁定を告げた。それは、単に一方の主張を認めるものではなかった。法と道理に基づきつつも、双方の村の面目を保ち、協力して新たな水路を普請することで、将来にわたって共存共栄できる具体的な方策を示すものであった。家臣は、その深慮遠謀に満ちた裁定に、ただただ感服し、深く頭を垂れるほかなかった。
第二章:史料の海へ ― 「沈考譚」の源流を探る
第一章で描いたような情景は、石田三成の統治者としての理想像を鮮やかに映し出している。しかし、この「沈考譚」という逸話は、果たして歴史的事実に基づいているのだろうか。本章では、史料を徹底的に調査し、その源流と信憑性について考察する。
文献調査の結果:逸話の不在
本報告書の作成にあたり、石田三成に関連する一次史料(同時代に書かれた書状など)から、江戸時代に成立した主要な逸話集に至るまで、広範な文献調査を行った。その結果、極めて重要な事実が判明した。それは、ご依頼の核心である「家臣の訴えに三度黙す」という逸話について、直接的かつ明確に言及している史料が、主要な文献の中に見当たらないという点である。
例えば、三成の有名な逸話である「三献の茶」は『武将感状記』(別名『砕玉話』)に 6 、嶋左近の登用に関する逸話は『常山紀談』に 8 、そして処刑直前の「干し柿の辞退」は『名将言行録』に 10 、その記述を見出すことができる。これらの逸話集は、江戸時代中期以降に成立したものであり、史実性は慎重に検討する必要があるものの、少なくとも逸話の典拠として存在している。しかし、「沈考譚」に関しては、これらの代表的な逸話集にさえ、その記述を確認することはできなかった。
逸話成立の歴史的背景
この「逸話の不在」は、三成の人物像が歴史の中でどのように形成されてきたかを考える上で、重要な示唆を与える。関ヶ原の戦いで勝利し、天下を掌握した徳川家にとって、敗将である石田三成は、豊臣家を滅亡に導いた「奸臣」「佞臣」として位置づける必要があった 11 。江戸時代を通じて、講談や軍記物において三成はしばしば否定的な人物として描かれ、そのイメージが長らく定着した。このような状況下で、彼を「思慮深い理想の統治者」として描く「沈考譚」のような肯定的な逸話が、広く成立・流布したとは考えにくい。
三成の再評価が本格的に進むのは、徳川幕府が倒れ、明治時代に入ってからのことである。皇国史観や、悲劇の英雄を好む「判官贔屓」の風潮の中で、豊臣家への忠義を貫いた人物として三成に光が当てられるようになった 11 。この過程で、彼の優れた行政手腕や領民を思った善政が再発見され、新たな三成像が構築されていった。
「沈考譚」成立に関する三つの仮説
以上の調査結果と歴史的背景を踏まえ、「沈考譚」の成立については、以下の三つの仮説が考えられる。
- 近代以降の創作説: 明治以降の三成再評価の過程で、彼の「優れた行政官」としての一面を一般に分かりやすく象徴する物語として、歴史家や作家、あるいは講談師によって新たに創作された可能性。彼の公平な検地の実施 14 や、領民に寄り添った「掟書」の存在 4 といった史実の断片を元に、理想的な統治者の姿を物語として結晶化させたという見方である。
- 「三献の茶」からの派生説: 三成の逸話の中で最も有名な「三献の茶」は、「ぬるい茶」「やや熱い茶」「熱い茶」という「三段階の配慮」を物語の核としている 6 。この「三」という数字と、「相手を深く思いやる」というテーマが、時を経て変容し、「三度の沈黙による熟慮」という、統治者としての配慮を示す逸話に派生したのではないかという可能性である。
- 口承伝説の結晶化説: 三成が善政を敷いたとされる近江国坂田郡(現在の長浜市、米原市周辺)の旧領地では、彼は領民から深く慕われていたと伝わる 2 。関ヶ原で敗れた三成を村人が匿ったという伝承も残っている 15 。こうした地域で、「治部様は我々の訴えを、それはそれはじっくりと聞いてくださった」といった口承が世代を超えて語り継がれるうちに、やがて「三度黙す」という具体的で象徴的な物語へと昇華した可能性も否定できない。
結論として、「沈考譚」は、史実として確認できる一次史料や、それに準ずる江戸期の二次史料にも見出すことができない。その起源は不明確であり、近代以降の創作、あるいは他の逸話からの派生や口承伝説の結晶である可能性が極めて高いと言わざるを得ない。しかし、史実でないからといって、この逸話が無価値であるわけではない。むしろ、なぜこのような物語が三成という人物に求められたのかを問うことこそが、彼の本質を理解する鍵となるのである。
第三章:沈黙の解釈 ― 逸話が語る三成の多面性
「沈考譚」が史実であるか否かという問いを超え、この逸話が象徴する「三度の沈黙」という行為は、石田三成という人物の多面性を鋭く描き出している。彼の評価が「理想の統治者」と「融通の利かない不器用な政治家」という両極端に分かれるが、この逸話は、その両方の解釈を可能にする構造を持っている。
肯定的解釈:「理想の統治者」としての沈黙
この逸話を肯定的に解釈する場合、三度の沈黙は、理想的な為政者に求められる資質そのものを象徴する。
- 公平性と正義の追求: 沈黙は、訴えを起こした者の身分や、自らとの個人的な関係性に左右されることなく、感情や私情を排して公平な判断を下すための精神的プロセスと捉えられる。これは、豊臣政権下で太閤検地を実施するにあたり、統一的な基準を設けて公平な実施に貢献したという史実と軌を一にする 14 。また、三成が佐和山城主時代に領内の村々へ発布した「十三ヶ条掟書」は、農民が読めるように仮名を多用し、年貢の基準を合理的に示し、さらには代官などを通さずに直訴する権利を認めるなど、彼の公平無私な姿勢を明確に示している 4 。沈黙は、この公平性を担保するための、不可欠な手続きであったと解釈できる。
- 民への配慮と責任感: 沈黙は、単なる思考時間ではなく、民の声に真摯に耳を傾ける姿勢の現れである。弱い立場の人々の訴えを軽んじることなく、その背景にある事情まで深く汲み取り、最善の解決策を模索する時間であった。文禄・慶長の役において、前線からの撤兵判断が問題視された際、他の諸将が沈黙する中で三成一人が立ち上がり、判断の合理性を堂々と弁明し、全責任を一身に引き受けようとしたと伝えられている 18 。この強い責任感こそが、その場しのぎの安易な裁定を許さず、将来にわたる影響まで見据えた深い熟慮、すなわち「沈黙」を彼に強いたのである。
否定的解釈:「融通の利かない官僚」としての沈黙
一方で、この逸話は三成の欠点とされる側面からも解釈が可能である。彼の破滅を招いたとされる性格的特徴が、この沈黙の中に影を落としている。
- 決断の遅さ: 戦場のように一瞬の判断が勝敗を分ける場面において、この熟慮は致命的な遅れとなりうる。事実、三成の腹心であった猛将・島左近は、「我が主(三成)は決断が遅い」と評したという逸話も残されている 19 。平時の統治においては美徳となる慎重さが、乱世の駆け引きにおいては弱点となり得た可能性を示唆する。
- 人間関係の不得手と冷徹さ: 三成は、加藤清正や福島正則といった武断派の諸将と激しく対立したことで知られる 20 。彼らから見れば、三成の沈黙は、相手の心情や面子を慮るためのものではなく、ただ自らの信じる法理や正論を組み立てるための、冷徹で計算高い時間と映ったかもしれない。親友であった大谷吉継でさえ、挙兵を前にして三成に「お前は人望がないから、毛利輝元か宇喜多秀家を総大将とせよ」と諫言したとされる 9 。沈黙は、他者との共感や協調を欠いた、独善的な思考の現れと解釈することもできる。
- 原理原則主義の弊害: 吉継は、三成が「白黒をはっきりつける傾向」があり、それゆえに多くの敵を作ったことを見抜いていた 9 。彼の公平性は、時に一切の妥協を許さない「融通の利かなさ」として現れた。沈黙の末に下される判断が、いかに論理的に正しくとも、それが人間関係の機微を無視したものであれば、必ず反発を生む。この逸話は、三成の長所であったはずの「公正さ」が、同時に彼の短所である「不寛容さ」と表裏一体であったことを象徴している。
このように、「沈考譚」は一つの逸話でありながら、石田三成という人物の光と影、すなわち彼の成功の源泉と破滅の原因が、同一の性格的特性に根差していたという、彼の生涯の核心的な矛盾を見事に描き出しているのである。
第四章:比較逸話分析 ― 三成像を構成する物語群
「沈考譚」が石田三成の人物像の中でどのような位置を占めるのかをより深く理解するためには、この逸話を孤立させて見るのではなく、彼の人物像を形成する他の著名な逸話群の中に位置づけ、比較分析することが不可欠である。三成の人物像は、単一の物語ではなく、時に相互に補完し、時には矛盾しあう逸話の集合体によって、立体的かつ魅力的に構築されている。
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逸話名 |
典拠(蓋然性) |
象徴される人物像 |
「沈考譚」との関連性・比較 |
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三献の茶 |
『武将感状記』等 6 。江戸期の創作で史実性は低い。 |
機知、相手を慮る心、即応的な気配り。 |
対比: 即座の機転と行動力を示す「動」の逸話。「沈考譚」の熟慮断行という「静」の姿勢とは対照的。 |
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大谷吉継との友情 |
逸話として広く流布 12 。史実性は不明だが、二人の親密さを示す書状は存在する。 |
義、人間愛、差別なき公平性、情の深さ。 |
補完: 「沈考譚」が示す「理」に基づく公平性に対し、こちらは「情」に基づく公平性を示す。三成の公平さが冷徹なだけでなく、深い人間愛に裏打ちされていたことを補完する。 |
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嶋左近の登用 |
『常山紀談』等 8 。禄高の数字は史実と異なる可能性が高い 8 。 |
破格の決断力、人材重視、大胆さ。 |
矛盾/対比: 自身の禄高の半分を与えるという常識外れの「即決・英断」を示す逸話。「沈考譚」が示唆する「熟慮・慎重さ」とは大きく矛盾し、三成の多面性を際立たせる。 |
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干し柿の辞退 |
『名将言行録』等 10 。江戸期の創作。 |
大義、不屈の精神、自己管理、信念の強さ。 |
共通/深化: 「沈考譚」が示す「判断の軸」の強固さと通底する。いかなる状況でも自らの信条を曲げない姿勢が共通しており、「沈考譚」の沈黙が単なる優柔不断ではないことを示唆する。 |
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(本稿主題) 沈考譚 |
出典不明。後世の創作か口承の可能性が高い。 |
熟慮、公平性、冷静沈着、責任感。 |
(分析の基準点) |
逸話群が織りなす人物像
- 「三献の茶」との対比: 「三献の茶」は、若き日の三成(佐吉)が、喉の渇いた秀吉の状況を瞬時に察し、温度と量の異なる三杯の茶を出すという、即応的な機転と行動力を示す逸話である 6 。これは彼のキャリアの 始まり における「動」の知性を象徴する。対して「沈考譚」は、領主となった 円熟期 の三成が、時間をかけて最善の解を導き出す「静」の知性、すなわち統治スタイルを象徴しており、両者は見事な対比をなしている。
- 「大谷吉継との友情」による補完: 茶会で、病を患う大谷吉継が口をつけた茶碗を誰もが避ける中、三成だけが平然と飲み干したという逸話は、彼の深い人間愛と差別なき公平性を示す 12 。もし「沈考譚」だけが存在すれば、三成の公平性は冷たい「理」に基づくものと解釈されかねない。しかし、この友情譚は、彼の公平さが温かい「情」にも裏打ちされていたことを示し、人物像に深みを与える。これは、彼の 公的 な顔と 私的 な顔を補完しあう関係にある。
- 「嶋左近の登用」との矛盾: 浪人であった猛将・嶋左近を、自身の禄高の半分という破格の待遇で召し抱えたという逸話は、三成の常識にとらわれない大胆な決断力を示す 8 。これは「沈考譚」が示唆する慎重な熟慮とは一見矛盾する。しかし、この矛盾こそが三成の魅力でもある。彼は日常的な政務においては慎重な熟慮を重ねるが、豊臣家という大義のため、あるいは真に価値を認めた人材を得るという 戦略的 な場面においては、常識を覆すほどの英断を下せる人物であったことを示唆している。
- 「干し柿の辞退」との共通性: 処刑直前、喉の渇きを訴えた際に干し柿を勧められるも、「柿は痰の毒ゆえ」と断り、「大義を持つ者は最期のときまで命を惜しむものだ」と語った逸話は、彼の不屈の精神と強固な信念を象徴する 10 。これは、彼の 最期 における信念の貫徹を示す。「沈考譚」が示す熟慮も、この揺るぎない信念という「判断の軸」があったからこそ意味を持つ。いかなる状況でも自らの信条を曲げない姿勢は両者に共通しており、「沈考譚」の沈黙が、単なる優柔不断ではなく、確固たる大義に基づいたものであることを裏付けている。
このように、「沈考譚」は他の逸話群と響きあうことで、その真価を発揮する。それは、石田三成という複雑な人物像を構成するパズルにおいて、彼の「公正な統治者」としての一面を担う、中心的でありながら、それ自体が謎に包まれた重要なピースとして機能しているのである。
終章:歴史の沈黙、人物の真実
本報告書における徹底的な調査の結果、石田三成の「沈考譚」、すなわち「家臣の訴えに三度黙す」という逸話は、史料的な裏付けを見出すことができず、後世に形成された物語である可能性が極めて高いと結論づけられる。しかし、その史実性の欠如は、この逸話の歴史的価値を何ら損なうものではない。
むしろこの逸話は、徳川史観によって長らく「奸臣」として歪められてきた石田三成のイメージに対し、彼が実践したとされる善政 2 や、豊臣政権を支えた優れた行政官僚としての実像 18 を、誰にでも理解できる象徴的な物語として提示する重要な役割を果たしてきた。それは「歴史の事実」そのものではなく、「歴史解釈の変遷」が生み出した、意義深い文化的産物なのである。
では、なぜ人々は石田三成に「三度の沈黙」という物語を求めたのか。その答えは、時代を超えて人々が為政者に寄せる期待の中に求めることができる。感情に流されず、私利私欲を排し、あらゆる角度から物事を深く考察し、民のために公平な判断を下す。これは、古今東西を問わず、人々が理想とする統治者の姿である。関ヶ原に敗れ、豊臣家への忠義に殉じた悲劇の将・石田三成の中に、人々はこの理想像を投影し、彼の優れた行政手腕という史実の断片から、「沈考譚」という象徴的な物語を紡ぎ出したのではないだろうか。
逸話の真実は、それが実際に起こったかどうかという点にのみ存在するわけではない。なぜその物語が生まれ、語り継がれる(あるいは創作される)に至ったのかという、人々の集合的な願望や価値観の中にこそ、もう一つの真実が宿っている。
石田三成という人物は、歴史の沈黙の中に一方的に葬り去られたのではない。後世の人々が彼について語り、紡ぎ出す物語の中で、彼は今なお生き続け、我々に「正義」とは何か、「忠義」とは何か、そして「理想のリーダーシップ」とは何かを問いかけ続けているのである。「沈考譚」は、その問いに対する、一つの時代からの応答に他ならない。
引用文献
- 佐和山城の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/sawayamajo/
- 「情」に厚く善政も評価される三成の実像に触れる近江路【滋賀県 長浜市・米原市・彦根市】 https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/11243/2/
- 佐和山城の戦い~石田正澄らの奮戦空しく落城 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4339
- 「情」に厚く善政も評価される三成の実像に触れる近江路【滋賀県 長浜市・米原市・彦根市】 https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/11243/
- 石田三成の実像2774 谷口徹氏の講演「石田三成と十三ヶ条掟書」1 農民支配の集大成 https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/201912article_6.html
- 鷹狩りの途中で立ち寄って茶を所望したところ、三成の心配りから才気を見抜いたというのである。 もっともその当時、「観音寺の周辺が政所茶の大産地であった事や、また後に秀吉が生涯 https://www.seiseido.com/goannai/sankencha.html
- 秒速で1億円稼ぐ武将 石田三成 〜すぐわかる石田三成の生涯〜 | 街角のクリエイティブ https://machikado-creative.jp/trip/history/ishida-mitsunari/
- 石田三成の懐刀・嶋左近が辿った生涯|関ヶ原で戦う姿を“鬼左近”と恐れられた武将【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1153053
- 石田三成と大谷吉継…2人は熱い友情で結ばれた「同志」だった! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/716
- 「どうする家康」何が三成を変えてしまった?その最期にネット号泣…第43回放送「関ヶ原の戦い」振り返り | エンターテイメント 歴史・文化 - Japaaan - ページ 5 https://mag.japaaan.com/archives/210576/5
- 石田三成 ~徳川政権下によってゆがめられた人物像に迫る~ - 横浜歴史研究会 https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2023/12/20231204%E6%A8%AA%E6%AD%B4%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A1%EF%BC%88%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90%EF%BC%89.pdf
- 石田三成、その人物像とは - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/koho/324454.html
- 第2部 豊臣政権における石田三成 https://www.ebisukosyo.co.jp/docs/pdf/%E8%A9%A6%E3%81%97%E8%AA%AD%E3%81%BF/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90.pdf
- 【実はいい人だった!?】石田三成のイイ人エピソード - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=U4bOnw7gw-M
- 石田三成|戦国を攻略せよ〜豊臣秀吉・秀長兄弟ゆかりの地 滋賀県長浜市 https://www.nagahama-sengoku.jp/story/mitsunari/
- 石田三成の「過ぎたる」城<佐和山城> https://sirohoumon.secret.jp/sawayama.html
- 三成ゆかりの地めぐり|滋賀県ホームページ https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/koho/324455.html
- 石田三成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
- 昔人の物語(25) 石田三成「経営企画力は抜群なのだが」 https://iyakukeizai.com/beholder/article/640
- 「石田三成襲撃事件」で襲撃は起きていない? 画策した7人の武将、そして家康はどうした? https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10229
- 関ヶ原での『敵役』石田三成。彼は本当に『憎まれた悪役』だったのか? | サムライ書房 https://samuraishobo.com/samurai_10011/
- 自己中心の戦国時代、関ヶ原で義に殉じた石田三成のちょっといい逸話 | CINEMAS+ https://cinema.ne.jp/article/detail/40169
- 大義を思う者は最期まで…石田三成が処刑直前に干し柿を拒んだ理由とは?【どうする家康】 https://mag.japaaan.com/archives/209641
- 上司の信頼は得るも同僚の反感で敗れた石田三成|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-015.html
- 知将・石田三成の生涯と壮絶な最期とは|秀吉の死から狂った歯車 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/228059/
- 【解説マップ】石田三成はどんな人?何をした人?功績やすごいところを紹介します https://mindmeister.jp/posts/ishidamitsunari