石田三成
~敗戦後、捕縛され「義を失わず」~
石田三成は関ヶ原敗戦後も「義」を貫き、自害を拒否。村人を守るため捕縛に応じ、干し柿問答に象徴される信念は、最期まで目的達成を諦めない合理精神だった。
石田三成~敗戦後、捕縛され「義を失わず」~ その終焉に至る十六日間の軌跡
序章:関ヶ原、落日の刻
慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原。夜明けと共に立ち込めていた深い霧が晴れ、天下分け目の戦端が開かれてから数刻後、西軍の命運は急速に傾き始めていた。石田三成が構想した鶴翼の陣は、松尾山に布陣した小早川秀秋の裏切りを契機に、その翼をもがれるように崩壊していく 1 。友である大谷吉継の奮戦も虚しく、西軍諸隊は次々と戦線を離脱し、あるいは東軍に寝返った。笹尾山の陣にて最後まで戦況の挽回を試みた三成であったが、敗北はもはや覆しがたい事実として、彼の眼前に突きつけられていた。
敗軍の将がとるべき道は、多くの場合、自刃による潔い死であった。武士の名誉を保ち、主君への最後の忠義を示す行為として、それは一種の美徳とさえ見なされていた時代である。しかし、石田三成はその道を選ばなかった。彼は数名の供回りと共に戦場を離脱し、伊吹山方面へと落ち延びることを決断する 3 。
この選択は、単なる生への執着や臆病さから来るものではなかった。それは、彼の「義」を貫徹するための、極めて合理的かつ戦略的な第一歩であった。後日、捕縛された三成は、自害しなかったことを詰問した本多正純に対し、「人手に掛かるまいと自害するのは葉武者(取るに足らない武者)のすること」「汝のような者に大将の道など、語るだけ無駄というものじゃ」と一蹴したと伝えられる 3 。彼の胸中にあったのは、たとえ今は敗れても、生き延びて再起を図り、豊臣家の安泰という「本意」を遂げることこそが大将の責務であるという、揺るぎない信念であった 7 。関ヶ原での落日は、彼の物語の終わりではなく、その「義」が最も純粋な形で試される、過酷な十六日間の始まりを告げるものであった。
第一章:伊吹山中の逃避行
関ヶ原を脱出した三成が目指したのは、彼の領国である近江と美濃の国境にそびえる伊吹山であった。追っ手の目を逃れるため、彼は権勢を誇った治部少輔の姿を捨て、みすぼらしい樵(きこり)の姿に身をやつした 4 。かつては豊臣政権の中枢にあって采配を振るったその手で、今はただひたすらに山道を進む。
逃避行は過酷を極めた。昼は岩陰や森の奥深くに身を潜め、夜の闇に紛れて移動を続けた。食料は尽き、飢えをしのぐために口にできたのは、木の実や、まだ実りの秋を迎えていない田の生の稲穂などであったという 1 。このような劣悪な食事は、ただでさえ疲弊しきっていた彼の身体をさらに蝕んだ。激しい下痢に襲われ、体力は刻一刻と奪われていく 1 。肉体的な苦痛は、精神的な屈辱と絶望感を伴い、彼を極限状態へと追い込んでいった。
しかし、その苦難の道程にあって、彼の心には明確な目的地があった。母の故郷である、近江国伊香郡古橋村 9 。なぜ彼はその地を目指したのか。土地勘があり、匿ってくれる者がいるかもしれないという合理的な計算があったことは想像に難くない。だが、それだけではなかったであろう。豊臣政権の冷徹な官僚、合理主義者として知られた三成が、心身ともに追い詰められた極限状況下で求めたのは、自らのルーツに連なる最も根源的な心の拠り所、すなわち「母の故郷」という温かな記憶であった。それは、彼の人間的な情愛や郷愁が、過酷な現実の中で唯一の希望の光として灯っていたことを示唆している。数日間にわたる潜行の末、彼は満身創痍の姿で、ついに古橋村へとたどり着くのである。
第二章:古橋村の義、大蛇の岩窟
母の故郷、古橋村にたどり着いた三成は、旧知であった百姓、与次郎太夫(よじろうだゆう)にかくまわれることとなった 1 。与次郎は、徳川方による厳しい探索の目をかいくぐり、三成を村から離れた山中深くの「大蛇(おとち)の岩窟」と呼ばれる洞窟へと導いた 4 。
この岩窟での潜伏生活は、三成にとって肉体的にも精神的にも厳しいものであった。入口は人がようやく一人通れるほどの狭さで、内部は光も届かぬ暗闇と、ひやりとした空気に満ちていた 4 。与次郎は、自らの危険を顧みず、毎日食事を運び続けたと伝わる 12 。与次郎がこれほどの義侠心を見せた理由については、二つの伝承が残されている。一つは、かつて古橋村が飢饉に見舞われた際、領主であった三成が蔵米を分け与えて村を救ったことがあり、その恩義に報いるためであったという説 12 。もう一つは、三成が再起の暁には「古橋から琵琶湖までを大きな平野となし、道は全部石畳にする」という壮大な構想を語り、与次郎をはじめとする村人たちがその未来に希望を託したため、という説である 16 。いずれの伝承も、彼が単なる権力者ではなく、民の心を動かす何かを持っていたことを物語っている。
しかし、潜伏は長くは続かなかった。三成が村にいるという噂は次第に広まり、村の名主の知るところとなる 1 。徳川方は、三成をかくまった場合、当事者のみならず親族や村人全員を処刑するという厳しい触れを出していた 16 。これ以上、自らの存在が与次郎や村全体に累を及ぼすことを悟った三成は、一つの決断を下す。彼は与次郎を説得し、自らの居場所を徳川方に知らせるよう促したのである 1 。
この行動は、彼が旗印に掲げた「大一大万大吉」―一人は万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下は幸福になる―という理念を、自らの命をもって実践した瞬間であった 17 。自分一人(一)の身を差し出すことで、村人全員(万)の命を救う。彼の「義」が、豊臣家への忠誠という公的なものだけでなく、民を慈しむ為政者としての責任感にも深く根差していたことを、この決断は雄弁に物語っている。
第三章:捕縛―旧知・田中吉政との邂逅
慶長5年9月21日、与次郎太夫からの知らせを受けた田中吉政の家臣らによって、石田三成はついに捕縛された 7 。三成を捕らえた田中吉政は、東軍に属しながらも、三成とは旧知の間柄であったとされる 18 。
多くの逸話において、吉政は敗者となった旧友に対し、武士としての情けをもって接したと描かれている。彼は三成に「戦いの勝敗は天命のこと、人の力の及ぶところではない」と声をかけ、罪人としてではなく、一人の武将として丁重に扱った 20 。逃亡生活で衰弱し、腹を病んでいた三成のために、ニラ雑炊を供してもてなしたという話も伝わっている 15 。三成もまた、その厚遇に深く感謝し、「自分を捕らえたのが吉政でよかった」と述べたとされる 18 。そしてその感謝の証として、かつて主君・豊臣秀吉から拝領した形見の脇差「切刃貞宗」を吉政に贈った 20 。武士にとって刀は魂であり、ましてや亡き主君からの拝領品である。それを手放すという行為は、自らの武士としての生涯の終わりを受け入れ、その最期を吉政という人物の情に託すという、極めて象徴的な意味を持っていた。
しかし、歴史の記録は一様ではない。『明良洪範』という書物には、全く異なる吉政の姿が記されている。それによれば、吉政は助命をちらつかせて三成を欺き、彼の武具や財産の隠し場所を聞き出した後、冷酷に家康の前に突き出した、というのである 22 。この二つの相反する記述は、歴史が勝者の視点で語られ、また後世の同情によって脚色されていくという多層的な性質を示している。真実がどちらであったにせよ、三成が捕縛という屈辱の中で、敵将である吉政に対し、武士としての礼を尽くそうとしたことは、彼の義の在り方の一端を示すものであった。
なお、捕縛の状況については異説も存在する。家康の同朋衆であった板坂卜斎が記した『慶長記』によれば、ある夜、田中吉政の宿所の前を通りかかった男が番衆に呼び止められた。男は「水を汲みに行く」と答えたが、不審に思った番衆が捕らえてみると、それが三成であったという 1 。
第四章:大津城の対峙―勝者たちの前で
捕縛された三成は、徳川家康が本陣を置く大津城へと護送され、勝者たちの前に引き据えられた 10 。そこで繰り広げられたのは、敗者としての屈辱的な尋問ではなく、三成が自らの「義」を堂々と主張する、最後の論戦の場であった。
まず、三成は徳川家康と引見した。この対面の様子を記した『常山紀談』によれば、家康は対面後、「三成はさすがに大将の道を知るものだ。平宗盛などとは大いに異なる」と述べたとされる 23 。平宗盛とは、源平合戦の敗将であり、捕縛後に見苦しく命乞いをしたことで知られる人物である。家康は、敗れてなお自害せず、再起を期して生き延びようとした三成の姿勢に、むしろ大将としての器量と執念を見出し、敵ながら評価したのである。
しかし、他の東軍諸将の態度は厳しかった。福島正則は馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様は何事であるか」と大声で罵倒した 16 。また、家康との対面後、三成の身柄を預かった本多正純は、挙兵したことや敗戦しても自害しなかったことを執拗に非難した 23 。これに対し、三成は激怒し、「汝は武略を知らぬも甚だしい。人手に掛かるまいと自害するのは葉武者のすること。汝のような者に大将の道など、語るだけ無駄というものじゃ」と、逆に正純の武略の浅さを論破し、その後は一切口を利かなかったという 3 。彼は腕力ではなく、一貫した論理によって自らの尊厳を守り抜いた。
その舌鋒が最も鋭く向けられたのは、見物にやってきた小早川秀秋に対してであった。西軍敗北の最大の原因となった裏切り者に対し、三成は静かに、しかし痛烈に言い放ったと伝わる。
「汝に二心あるを知らざりしは愚かなり。されど、義を捨て人を欺きて、裏切したるは、武将の恥辱、末の世までも語り伝へて笑うべし」
(お前に裏切る心があることを見抜けなかった私が愚かであった。しかし、義を捨て、人を欺き、裏切ったその行為は、武将として最大の恥である。未来永劫、語り継がれて笑いものになるがよい) 24。
この言葉は、三成が最も許しがたいものが「不義」であったことを明確に示している。自らの不明を認めつつも、裏切りという行為そのものを「武将の恥」として断罪する。彼の「義」の核心が、この対峙の瞬間に凝縮されていた。
第五章:辱めと情けの道―市中引き回し
慶長5年9月28日、石田三成は、同じく西軍の将であった小西行長、安国寺恵瓊と共に、大坂と堺で市中引き回しの上、処刑地の京都へと護送されることとなった 10 。両腕を縛られ、罪人として民衆の好奇と侮蔑の視線に晒されるという、武士にとってこれ以上ない屈辱であった。
しかし、その辱めの中にあっても、三成の態度は終始毅然としていたと伝えられる。彼は決して頭を垂れることなく、まっすぐに前を見据え、運命を受け入れていた 26 。その堂々とした姿は、皮肉にも敵方の武将たちの心を動かすことになる。
道中、二人の敵将が三成に情けをかけるという逸話が残されている。一人は、徳川家康の従兄弟でもある水野勝成である。彼は、晒しものにされている三成らの姿を見るに見かね、「少しの間、休まれよ」と声をかけ、持っていた編笠を被せてやったという 26 。これは、旧主であった小西行長への配慮もあったとされるが、それ以上に、勝敗を超えて命を賭して戦った者への敬意を示す、勝成の剛直な武士としての矜持の表れであった。
もう一人は、東軍勝利の功労者の一人、黒田長政である。長政は三成に歩み寄ると、「勝敗は兵家の常とはいえ、五奉行筆頭の貴殿が、このような境遇になろうとは……。さぞやご無念でござろう」と労いの言葉をかけ、自らが羽織っていた陣羽織を脱いで、そっと三成の肩にかけたという 26 。この行動の背景には、深い因縁があったとされる。かつて長政の父・黒田官兵衛が織田信長に謀反の疑いをかけられた際、人質であった幼い長政(松寿丸)は処刑の危機に瀕した。その時、処刑の偽装工作に協力し、秀吉への取り次ぎを行うことで長政の命を救ったのが、若き日の石田三成であったというのである 26 。
これらの逸話は、関ヶ原の戦いが単なる正義と悪の対立ではなく、元は同じ豊臣の家臣であった者たちの、複雑な恩讐と人間関係のもとに成り立っていたことを示している。三成が貫き通した「義」は、敵対する者たちの心の中にも眠っていた「義」を呼び覚まし、一瞬の情けという形で現出させたのかもしれない。
第六章:終焉の地、六条河原
慶長5年10月1日、市中引き回しの末、三成、小西行長、安国寺恵瓊の三名は、京都の六条河原に設けられた処刑場へと引き立てられた 10 。鴨川の河原は、数万人の見物人で埋め尽くされていたという 10 。その喧騒の中、三成は最期の瞬間まで、自らの「義」を貫き通した。
処刑に先立ち、徳川家康から三人の罪人へ小袖(短い袖の着物)が与えられた。行長と恵瓊はこれを受け取ったが、三成は毅然として拒絶した。彼は警固の者に「この小袖は誰からのものか」と問い、返答が「江戸の上様(家康)からだ」と聞くや、次のように言い放ったと『常山紀談』や『武功雑記』は伝えている。
「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様に成ったのか」 23。
死を目前にしてもなお、彼は家康を天下人として認めることを断固として拒んだ。これは、自らが起こした戦いが豊臣家を守るための「正義の戦い」であったことを最後まで主張する、彼の忠義の最後の表明であった。
そして、彼の人物像と死生観を最も象徴する逸話が、この最後の道中で語られることになる。「干し柿問答」として知られるこの出来事は、彼の「義」の本質を解き明かす鍵となる。
核心:干し柿問答の徹底再現
処刑場へ引かれていく途中、三成は喉の渇きを覚え、警固の者に白湯(さゆ)、すなわち湯を一杯所望した 7 。しかし、警固の者は「湯はない」と無下に断り、代わりに「ここに甘干の柿がある。これを食われよ」と干し柿を差し出した 17 。すると三成は、意外な言葉でこれを断った。「夫(それ)は痰の毒なり、食す間敷(まじき)」(柿は痰の毒であるから、食べるわけにはいかぬ) 9 。
これを聞いた警固の者や周囲の人々は、大いに嘲笑した。「只今首を刎(はね)らるゝ人の毒断(どくだち)するこそ笑(おか)しけれ」(今から首を斬られるという人間が、健康を気遣うとはなんと滑稽なことか) 34 。死を目前にした男の奇行としか、彼らには映らなかった。
その嘲笑に対し、三成は静かに、しかし力強く答えた。この言葉は、『名将言行録』などに記され、後世に彼の信念を伝えている。
「汝等(なんじら)如き者の心には尤(もっと)もなり、大義を思ふ者は、仮令(たとい)首を刎らるゝ期までも、命を大切にして、何卒(なにとぞ)本意を達せんと思ふものなり」
(お前たちのような(小人物の)心には、そう思うのももっともだろう。しかし、大志を抱く者は、たとえ首を刎ねられるその瞬間まで、命を大切にし、何としてでも本懐を遂げようと思うものなのだ) 7。
この問答は、単なる健康への配慮や、見苦しい生への執着を語ったものではない。それは、「目的を持つ限り、その達成のための手段である生命を、最後の瞬間まで最善の状態に保つことを放棄しない」という、彼の徹底した合理主義と目的意識の究極的な発露であった。万が一、この場で処刑が中止される、あるいは雷が落ちて縄が切れるといった、万に一つもない奇跡が起きたとしても、その瞬間に最高の状態で行動を起こせるように備えておく。その可能性が限りなくゼロに近くとも、そのための準備を怠らないことこそが「大志を抱く者」の姿勢なのだと、彼は自らの死をもって説いたのである。彼の「義」とは、希望の有無にかかわらず、最後の最後まで自らの信条に則って行動し続ける、その精神的態度そのものであった。
以下の表は、『名将言行録』の記述に基づき、この問答の劇的な構造を時系列で再現したものである。
表1:『名将言行録』に見る干し柿問答の時系列再現
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段階 |
登場人物 |
発言・行動(原文からの引用と現代語訳) |
その場の状況・心理描写 |
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1. 要求 |
石田三成 |
「途中にて湯を乞ひしに…」(喉が渇いた。湯をくれぬか) |
処刑場へ向かう道中。肉体的な渇きと、人間としての最後の要求。 |
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2. 提供 |
警固の者 |
「湯は只今求め難し…甘干の柿あり、是を食はれよ」(湯はない。干し柿ならある) |
職務上の対応。特別な意図はない、ありあわせの提供。 |
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3. 拒絶 |
石田三成 |
「夫は痰の毒なり、食す間敷」(それは痰の毒ゆえ、食さぬ) |
一見不可解な健康への配慮。彼の合理主義的な思考の一端。 |
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4. 嘲笑 |
周囲の人々 |
「只今首を刎らるゝ人の毒断するこそ笑しけれ」(今から死ぬ者が健康を気遣うとは滑稽だ) |
常識的な反応。三成の行動原理を理解できず、死を前にした奇行と捉える。 |
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5. 論理の開陳 |
石田三成 |
「大義を思ふ者は…何卒本意を達せんと思ふものなり」(大志を抱く者は、最期の瞬間まで命を大切にし、本懐を遂げようと思うものだ) |
自らの行動原理を堂々と説明。生への執着ではなく、目的達成への執念の表明。嘲笑を論理で制圧する。 |
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6. 最期 |
石田三成 |
「顔色平生の如くにして、死に就きしとぞ」(顔色は普段と変わらぬまま、死に臨んだ) |
精神的な動揺を見せない。自らの論理と義に殉じる覚悟の完成。 |
第七章:辞世―筑摩江のかがり火
六条河原の刑場にて、石田三成はついにその生涯を終える。享年41 9 。『名将言行録』が伝えるように、彼は最期の瞬間まで「顔色平生の如く」 34 、つまり顔色一つ変えることなく、冷静に死に臨んだという。小西行長はキリシタンであったため、改宗を勧められるも拒否し、神に祈りを捧げて首を打たれた 38 。安国寺恵瓊もまた、堂々とした最期であったと伝わる。
三名の首は三条大橋のたもとに晒された 9 。勝者による見せしめであり、一つの時代の終わりを告げる光景であった。
その死に臨み、三成は一首の辞世の句を遺している。最後まで闘争的な言葉を発し続けた彼が、最期に詠んだのは、驚くほど静かで内省的な歌であった。
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
16
「筑摩江(つくまえ)」とは、彼の故郷である近江国の歌枕であり、琵琶湖の東北部に広がる入江を指す 24 。権力闘争の舞台であった大坂や京都ではなく、人生の最期に彼の心を占めたのは、自らの原風景であった故郷の情景であった。
琵琶湖のほとり、芦の間に漁師が灯すかがり火が、夜の闇を照らし、やがて夜明けと共に静かに消えていく。その儚い光に、彼は自らの命運を重ね合わせた。ここには、運命を受け入れる穏やかな無常観が見て取れる。
しかし、この「かがり火」は、単なる風景描写以上の意味を内包しているとも解釈できる。一つには、彼が生涯を捧げて守ろうとした豊臣家の栄華の象徴 41 。そしてもう一つは、敗れてなお彼の胸の内に燃え続けた、再起への執念の炎。その公的な忠義と私的な執念の火が、故郷の原風景の中で、今静かに消えようとしている。この句は、彼の忠義と郷愁、そして敗者としての諦観が一体となった、彼の複雑な内面世界を映し出す鏡となっている。
終章:敗者の「義」が遺したもの
石田三成の死後、三条大橋に晒されていたその首は、生前彼と深い親交のあった大徳寺の僧、春屋宗園(しゅんおくそうえん)や沢庵宗彭(たくあんそうほう)によって密かに引き取られた 16 。そして、三成自身が若き日に春屋宗園のために建立した大徳寺の塔頭・三玄院に、丁重に葬られた 16 。敵将として処刑されたにもかかわらず、その最期が篤く弔われたという事実は、彼が多くの人々と深い信頼関係を築いていたことを物語っている。
江戸時代を通じて、徳川幕府の正当性を確立する過程で、三成はしばしば豊臣政権を壟断(ろうだん)した奸臣として描かれた。しかし、彼が敗戦から処刑までの十六日間に見せた一連の言動、すなわち「義を失わなかった」物語は、講談や書物を通じて人々の間に語り継がれていった。
本報告書で追ってきた三成の最後の軌跡は、彼の「義」が単一の概念ではなく、多層的なものであったことを示している。それは、第一に、豊臣家への絶対的な**「忠義」 。第二に、信義を重んじ裏切りを断罪する 「信義」 。第三に、自らの犠牲を厭わず民を救おうとした 「仁義」 。そして第四に、いかなる逆境にあっても目的達成を諦めない、徹底した合理精神に基づく 「主義」**。これらすべてが統合されたものが、石田三成の「義」であった。
彼は、敗戦という抗いがたい現実に対し、自らが持つ全ての「義」をもって最後まで抵抗し、その生き様を歴史に刻み付けた。中でも、嘲笑の中で自らの死生観を堂々と語った「干し柿の逸話」は、彼の哲学が最も凝縮された、象徴的な瞬間として、今なお多くの人々の心を打ち続けている。敗者の物語は、時として勝者のそれ以上に、人間の尊厳とは何かを我々に問いかけてくるのである。
引用文献
- 逃げ切れず、ついに捕まった三成 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/701/
- 関ヶ原の戦い|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents3_01/
- 石田三成のその後 http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/sonogo01.html
- 14.敗者・石田三成の最期を追う 関が原から古橋へ | 須賀谷温泉のブログ https://www.sugatani.co.jp/blog/?p=3712
- 石田三成コース - 岐阜aiネットワーク https://www.gifuai.net/?page_id=13903
- 親子兄弟が東西に分かれた大名家、そして三成の最期:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(下) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06917/
- 慶長5年(1600)9月21日は関ヶ原合戦で敗走していた石田三成が捕縛された日。斬首される前の三成に有名な逸話がある。警固兵に白湯を所望したがないため干柿を勧められると痰の毒と断り嘲笑される。 - note https://note.com/ryobeokada/n/nabc31701c2c4
- 石田三成が関ヶ原の戦いで敗北した理由とは - BS11+トピックス https://bs11plus-topics.jp/ijin-sugaono-rirekisho_11/
- 石田三成斬首~大志を抱く者は最期の瞬間まで諦めない - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4391
- 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
- 石田三成生捕覚書(古橋村高橋家文書) | デジタルミュージアム - 長浜城歴史博物館 https://nagahama-rekihaku.jp/digital-museum/49
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- 三成ゆかりの地めぐり|滋賀県ホームページ https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/koho/324455.html
- 石田三成が関ヶ原の戦いの後に逃げ隠れたオトチの岩窟をめざして - ナガジン https://www.nagazine.jp/mitsunari4/
- 大蛇(おとち)の洞窟へ行ってきました。洞窟編 - note https://note.com/good5_/n/n91c5bdd542bd
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- 石田三成、その人物像とは - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/koho/324454.html
- 家康に代わり岡崎城主となり、関ヶ原の戦いで石田三成を捕える|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【田中吉政編】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1025706/2
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- 関ヶ原の戦いで西軍についた武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/osaka-history/sekigahara-west/
- 田中吉政公とその時代 http://snk.or.jp/cda/yosimasa/jidai.html
- 田中吉政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E6%94%BF
- 石田三成の名言・逸話35選 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/409
- 石田三成の辞世 戦国百人一首㉕|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/n9a45a7d380a5
- 石田三成 処刑 - 首都大阪(田仲ひだまり) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054890559287/episodes/1177354054890823401
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- 水野勝成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%8B%9D%E6%88%90
- 戦国一の傾奇者・水野勝成|意匠瑞 - note https://note.com/zuiisyou/n/n11feaaa25f0a
- 水野勝成とはどんな人? 徳川家康のいとこの規格外な生き様を見よ! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/78000/
- 歴史の目的をめぐって 石田三成 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-02-isida-mitunari.html
- 関ヶ原の戦い|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=804
- 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 柿が大好物だった石田三成が最期に柿を拒んだ理由 - note https://note.com/kanomatamasao/n/ne585f76c8a92
- 大義を思う者は最期まで…石田三成が処刑直前に干し柿を拒んだ ... https://mag.japaaan.com/archives/209641
- 【真田丸】石田三成の過敏性腸症候群(IBS)が他人事じゃなくて震える - ふくぎ鍼灸院 https://ibs-nagoya.jp/blog/?p=208/
- 石田三成の実像とは?「三献の茶」から関ヶ原、知られざる豊臣政権のキーマンを徹底解説 https://sengokubanashi.net/person/ishidamitsunari/
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