最終更新日 2025-10-27

石田三成
 ~米一粒民の命説き箸整え倹約譚~

石田三成「米一粒民の命説き箸整え倹約譚」を考証。史料の不在と象徴的真実、太閤検地や佐和山での善政、倹約と規律に裏打ちされた彼の思想的背景を解明する。

【徹底考証報告】石田三成「米一粒に民の命」の逸話 — その情景、思想的背景、そして象徴的真実

序論:逸話の提示と本報告書の探求目的

石田三成という武将の人物像を語る上で、数々の逸話が引き合いに出される。その中でも、彼の清廉さと民への深い配慮を象徴する物語として、ある倹約譚が語られることがある。それは、『家臣に「米一粒に民の命」と説き、箸を整えてから食した』という逸話である。この短い物語は、豊臣政権の能吏として、また関ヶ原の戦いにおける西軍の将として知られる彼の、もう一つの顔を鮮やかに描き出している。

しかしながら、この感動的な物語は、一つの大きな謎を内包している。江戸時代に編纂された主要な武将言行録、例えば『名将言行録』や『常山紀談』といった信頼性の高い史料群を精査しても、この逸話の直接的な典拠を見出すことは極めて困難である 1 。この「史料上の不在」は、我々に根源的な問いを投げかける。この物語は、単なる後世の創作に過ぎないのだろうか。

本報告書は、この逸話の単なる真偽判定に留まるものではない。むしろ、その史実性を超えて、「なぜこの物語が、他の誰でもない石田三成という特定の人物の逸話として、これほどまでに説得力をもって語り継がれるのか」という問いを徹底的に探求することを目的とする。そのために、まず逸話に描かれる情景を、歴史的蓋然性に基づき可能な限り詳細に再構成する。次に、物語の構成要素である「民本思想」「倹約」「規律」をそれぞれ分解し、太閤検地や佐和山城での善政といった三成の確かな実績や、他の信頼性の高い逸話と照合することで、その思想的背景を明らかにする。最終的に、この物語が成立したであろう文化的・歴史的土壌を考察し、逸話が持つ「象徴的真実」としての価値を解き明かす。これは、歴史的事実の断片が、いかにして一人の人間の本質を射抜く物語へと昇華されていくかの過程を追う試みである。

第一章:逸話の情景再現 — ある日の佐和山城、治部少輔の食膳

本章では、ユーザーの要望に応えるべく、「もしこの逸話が事実であったならば」という仮定のもと、その情景を歴史的蓋然性を踏まえながら時系列で再構成する。これは史実の記録ではなく、石田三成の人物像や彼を取り巻く状況から導き出される「ありうべき光景」の描写である。

舞台設定:質実剛健の佐和山城

時刻は昼餉時。場所は、近江国に聳える佐和山城の一室である。この城は、当時の人々によって「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謡われるほど、壮麗で堅固な名城として知られていた 3 。しかし、城主である石田三成が日常を過ごすその部屋の内装は、城の華やかな評判とは全く対照的であった。伝えられるところによれば、彼の居城には余計な畳や植木もなく、壁には書画の一つもかかっていない。華美な装飾は一切排され、ただ機能性のみを追求した、極めて質素で飾り気のない空間が広がっていた 6

部屋には、主である三成と、彼の食事の給仕をする数名の側近、あるいは小姓が控えている。城内の空気は静寂に包まれ、隅々まで規律が行き届いていることが感じられる。それは、豊臣政権下で五奉行の一人として辣腕を振るい、巨大な行政機構を動かしてきた彼の、厳格な精神がそのまま城の気風となったかのようであった。

食膳の描写と三成の所作

やがて、静かに膳が運ばれてくる。その上に並べられているのは、一汁一菜程度の、およそ十九万石余の大名の食事とは思えぬほど簡素なものであった。主食は白米ではなく麦の混じった飯、汁物は季節の野菜がわずかに入る程度の質素な味噌汁、そして香の物が添えられているだけである。これは、彼の極端なまでの倹約家としての一面を色濃く反映したものであった 6

三成は、運ばれてきた膳を前にしてもすぐには手を付けない。まず、静かに居住まいを正し、背筋をすっと伸ばす。そして、おもむろに箸を取ると、その両方の箸先を、寸分の狂いもなくぴたりと揃えるのである。この何気ない所作には、彼の meticulous(細心)で几帳面な性格が凝縮されている。物事をあるべき形に整え、秩序を重んじるその精神性は、かつて豊臣秀吉との出会いのきっかけとなった「三献の茶」の逸話で見せた、相手の状況を完璧に読み解き、論理的な手順で最高のもてなしを成し遂げた精神に通底するものであった 7

核心の対話:「米一粒に宿る民の命」

その厳粛な雰囲気の中、若い家臣の一人が、空腹に急かされたのか、あるいは作法にまだ不慣れであったのか、何気なく飯をかき込むように食べ始め、その拍子に一粒の飯を膳の上にこぼしてしまう。

その様子を静かに見ていた三成が、穏やかだが、決して聞き流すことのできない芯の通った声で、その家臣の動きを制した。

「待て。その一粒を疎かにするでない」

家臣ははっとして動きを止め、三成の顔を見つめる。三成は、こぼれた米粒を指し示すでもなく、ただ静かに言葉を続けた。

「その米一粒一粒に、民の命が宿っておることを忘れるな」

彼の声には、叱責の色はない。むしろ、諭すような響きがあった。

「我らがこうして食すことのできるこの米は、どこから来ると思うておるか。それは、炎天下に額から汗を滴らせ、冷たい泥に足を取られながら、来る日も来る日も田を耕し、苗を植え、草を抜く民の、血の滲むような労苦の結晶なのだ。我らが年貢として受け取る一俵の米が、いかほどの重みを持つか。それを治める立場にある我らが、民の命そのものである米を、一粒たりとも無駄にしてはならぬのだ」

この言葉は、単なる精神論や道徳訓ではなかった。それは、豊臣秀吉の下で太閤検地を断行し、日本全国の石高、すなわち米の生産量を初めて正確に把握することで、近世日本の国家財政の礎を築いた最高位の行政官僚としての、彼の哲学そのものであった 8 。一粒の米の価値を知り、それを基盤として国を治める者の、実務に裏打ちされた重い言葉であった。

この逸話は、史実としての確かな典拠を持たないにもかかわらず、極めて高い説得力を有している。その理由は、この物語が石田三成という人物に関する複数の確かな情報—すなわち、彼の徹底した倹約、几帳面で規律を重んじる性格、そして民政を第一に考える為政者としての姿勢—を、昼食という日常の一場面に凝縮し、見事に一つの寓話として統合しているからに他ならない。それは、個々の事実の単なる寄せ集めではなく、三成という人物の本質を象徴する、首尾一貫した物語として機能しているのである。

第二章:「民の命」— 行政官・石田三成の農本主義的政策

逸話の核心をなす「米一粒に民の命」という思想は、石田三成の個人的な信条に留まるものではなかった。それは、豊臣政権の中枢を担う行政官として、また一人の領主として彼が推進した具体的な政策の中に、明確な形で反映されていた。彼の政策を深く分析することで、この逸話の言葉がいかに彼の政治哲学に根差していたかが見えてくる。

国家事業としての米の価値:太閤検地

豊臣秀吉が天下統一を成し遂げる上で、その基盤を固めた最重要政策の一つが「太閤検地」である。この国家事業において、石田三成は検地奉行として中心的な役割を担った 8 。太閤検地は、単に全国の田畑の面積を測量するだけのものではなかった。それは、全国でバラバラだった枡や測量単位を統一し、土地の等級(米の生産力)を客観的に評価し、それに基づいて石高(米の収穫量の基準値)を確定させるという、画期的な事業であった。

この事業の真の目的は、それまで荘園領主や在地武士の複雑な権利関係のもとで曖昧かつ不公平であった年貢の徴収システムを、客観的なデータに基づく近代的で公平なものへと転換することにあった 13 。検地帳に登録された農民は、土地の直接の耕作者としてその権利を公的に認められる一方、定められた石高に応じた年貢を納める義務を負った。これにより、農民は中間搾取や不当な課税から保護され、生活の安定が図られたのである。

三成にとって「米」とは、単なる食糧ではなかった。それは、国家の富を測る統一された基準であり、公平な税制を構築するための基礎データであり、ひいては国を支える最も重要な「基幹インフラ」であった。一粒の米の価値を正確に把握し、それを基に公平で合理的な社会システムを構築することこそ、彼の行政官としての最大の使命であった。逸話の中で語られる「米一粒の重み」とは、この国家レベルの政策思想が、彼の個人の食生活というミクロな次元にまで深く浸透していたことの証左と言える。

領国経営における民本思想:佐和山での善政

国家レベルで確立した理念は、三成が自身の領国である佐和山の経営において、より具体的で温情ある形で実践された。彼は十九万石余の領主として、領民の生活を重視する善政を敷いたことで知られている 14

その政策の中でも特に注目すべきは、年貢率の決定方法である。彼は、検地によって定められた石高に基づいて画一的に税率を課すのではなく、「稲刈りの前に田の状態を見て決定する」という、極めて柔軟で実態に即した方式を採用したと伝えられている 14 。これは、その年の天候不順による不作などのリスクを、領主側も農民と分かち合うという思想の表れである。従来の領主であれば、不作の年でも構わず厳しい取り立てを行うことが少なくなかったが、三成は実際の収穫高に基づいて年貢を調整することで、農民の生活が破綻することを防ごうとした 16

さらに、彼が発布したとされる法令には、「農地は検地帳に記された農民のものであり、これを奪い取ることを禁じる」「農民が生産した糠(ぬか)や藁(わら)などを不当に奪われた場合でも、訴状を提出することができる」といった条項が含まれていた 14 。これは、農民の財産権を公的に保護し、彼らが安心して農業に専念できる環境を整えようとする、明確な 의図の現れである。

佐和山での一連の政策は、「米一粒に民の命」という思想の最も直接的な実践例と言える。国家レベルの太閤検地で確立した「データに基づく公平性」という原則を、自身の領地ではさらに一歩進め、「民の生活実態に寄り添う温情」をもって運用していたのである。逸話は、こうした彼の複雑で先進的な政策の本質を、「米一粒を大切にする」という非常にシンプルで個人的な行動に集約させている。それゆえに、この物語は三成の政治家としての功績を、専門知識のない後世の人々にも直感的に伝えるための、優れた要約(サマリー)として機能しているのである。

第三章:「倹約と規律」— 合理主義者・石田三成の精神性

「米一粒に民の命」の逸話は、三成の民本思想だけでなく、彼のもう一つの重要な側面、すなわち「倹約」と「規律」を浮き彫りにする。質素な食事を摂り、箸を寸分違わず整えるという行為は、彼の厳格な自己管理と合理主義的な精神性を象徴している。これらの性質は、しばしば彼の「冷徹さ」や「人間味のなさ」の根拠として語られてきたが、逸話の文脈で再解釈することで、その本質が全く異なる次元にあることが見えてくる。

倹約の本質:資源の最適配分

石田三成が極端な倹約家であったことは、複数の資料で示唆されている 6 。しかし、彼の倹約は、単に物や金を惜しむ吝嗇(りんしょく)とは一線を画すものであった。その根底には、「資源を最も価値あるものに最適配分する」という、徹底した合理主義が存在した。

その最も象徴的な例が、当時、天下にその名を轟かせていた名将・島左近の登用である。浪人していた左近を家臣に迎えるにあたり、三成は自身の知行であった四万石(異説あり)のうち、実にその半分にあたる二万石という破格の待遇を提示した 4 。主君と家臣の禄高が同等という前代未聞の条件であり、これを聞いた秀吉も驚嘆したと伝えられる。これは、自身の生活をどれだけ切り詰めてでも、「人材」という最も重要な戦略的資源に最大限の投資を行うという、彼の経営者的な判断力の現れである。

また、秀吉から戦功に対する恩賞として五百石の加増を提示された際、三成はそれを固辞し、代わりに「淀川の河原に自生する葦の採集権」を求めたという逸話も、彼の卓抜した経済感覚を示している 17 。彼は目先の禄高よりも、採取権を管理し、近在の百姓に割り当てることで安定した収入(年貢)を得るという、将来的に大きな利益を生む無形の権利にこそ価値を見出した。結果として、彼はこの権利から一万石相当の軍務を賄うことができたという。

これらの逸話から見えてくるのは、三成の倹約が「無駄を徹底的に排し、価値を生むものに資源を集中させる」という明確な目的意識に基づいていたことである。逸話における質素な食事は、まさにこの哲学の実践と言える。民の命の源である「米」は一粒たりとも無駄にせず最大限尊重するが、自身の食事の贅沢という「新たな価値を生まない消費」は徹底的に切り詰める。彼の倹約は、私利私欲の否定であり、公的な価値を最大化するための手段だったのである。

規律の象徴:「箸を整える」という所作

逸話の中で描かれる「箸を整える」という細やかな行為は、彼の几帳面で秩序を重んじる性格を象徴している。この性格は、彼の人生における数々の重要な局面で、その能力の源泉となっていた。

その筆頭に挙げられるのが、豊臣秀吉との運命的な出会いの物語である「三献の茶」の逸話である 7 。鷹狩りの帰りに寺に立ち寄った秀吉は、喉の渇きを覚えて茶を所望した。当時、寺の小姓であった三成は、まず、一気に飲み干せるように、ぬるめの茶を大きな碗にたっぷりと入れて差し出した。次の一杯を求められると、今度は味わうことを考慮して、やや熱い茶を中くらいの碗に半分ほど入れて出した。さらにもう一杯を求められると、最後は茶の真髄を楽しめるように、熱く点てた濃い茶を小ぶりの茶碗に少量入れて差し出した。相手の状態と要求を的確に読み取り、論理的な手順で完璧なもてなしを成し遂げたこの逸話は、彼の分析能力と実行力、そして規律正しい思考様式を如実に示している。

この自己規律と合理性は、彼の最期の瞬間まで貫かれた。関ヶ原の戦いに敗れ、処刑される直前、喉の渇きを訴えた三成に、警護の者が水がない代わりに柿を差し出した。しかし三成は、「柿は胆の毒(体に悪い)ゆえ、食さぬ」と言ってこれを断った 1 。今から首を刎ねられる者が何を気にするのかと周囲が嘲笑する中、彼は「大義を持つ者は、首を刎ねられる瞬間まで命を大切にするものだ」と応えたという。これは、たとえ万に一つの可能性であっても、最後まで生きるための最善を尽くすという、彼の徹底した合理主義と自己規律の現れであった。

「箸を整える」という行為は、物事をあるべき形に整え、秩序を維持しようとする彼の精神性の象徴である。太閤検地で全国の複雑な土地制度に統一された秩序をもたらしたように、彼は自身の日常の些細な所作に至るまで、一貫した規律と論理を適用していたのである。

三成の「倹約」と「規律」は、彼の政敵からは「融通が利かない」「人望がない」と批判される原因となったかもしれない。しかし、「米一粒に民の命」という逸話の視点から再解釈すると、それらは「民から得た富を無駄にしない」という為政者としての責任感と、「公平で秩序ある社会を実現する」という行政官としての使命感に裏打ちされた、高度な倫理観の表れであったことがわかる。彼の合理主義は、決して非人間的なものではなく、「大一大万大吉」(一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福になれる)という彼の旗印 8 に示された、より大きな目標に奉仕するための手段だったのである。

第四章:逸話の成立背景に関する比較史的考察

「米一粒に民の命」の逸話は、なぜ史料にその典拠が見当たらないにもかかわらず、生まれ、語り継がれるに至ったのか。その謎を解くためには、この物語を三成個人のエピソードとしてのみ捉えるのではなく、より広い文化的・歴史的な文脈の中に位置づけて考察する必要がある。

文化的類型としての「為政者と食の教訓譚」

為政者が日々の食事を通じて、農民への感謝や重農主義的な思想を示すという物語は、日本の歴史物語における一つの文化的類型(トロープ)として古くから存在している。君主が民の苦労を忘れず、質素倹約に努める姿は、理想の為政者像として繰り返し描かれてきた。

その顕著な例が、江戸時代後期の水戸藩主・徳川斉昭にまつわる逸話である。藩政改革において農本主義を掲げた斉昭は、農民と五穀への感謝を示すため、農夫の姿をかたどった銅の人形を作らせた。そして、毎日の食事を始める前に、まずその農人形の笠の上に一匙の飯を供えることを習慣としていたという 21 。この「農人形」の逸話は、斉昭の農本主義思想 22 を分かりやすく象徴する物語として広く知られるようになった。

石田三成の「米一粒」の逸話も、この文化的な類型に属するものと考えられる。第二章で詳述したように、三成が太閤検地の執行や佐和山での善政を通じて、極めて先進的な農本主義的政策を実践していたことは歴史的な事実である 14 。この確かな実績は、彼をこの種の教訓譚の主人公として非常に相応しい人物にした。つまり、この物語は、三成個人の史実というよりも、日本文化の中に根差した「理想の為政者像」という鋳型に、石田三成という格好の題材が流し込まれて結晶化したものと推察されるのである。

歴史的要請としての「石田三成再評価」

この逸話が成立した背景には、もう一つ、より特殊な歴史的状況が存在する。それは、江戸時代を通じて形成された「石田三成=奸臣」というイメージに対する、名誉回復の要請である。

関ヶ原の戦いの敗者である三成は、二百数十年にわたる徳川の治世において、政権の正統性を揺るがしかねない危険な存在として、意図的にその評価を貶められてきた 8 。江戸中期の儒学者・頼山陽が著した『日本外史』などでは、三成は豊臣秀吉の恩を忘れて私欲に走り、天下を乱した「奸臣」として断罪されている 24 。このような徳川幕府の公式見解とも言える歴史観は、長い間、三成の人物像を規定してきた。

しかし、幕府によるイメージ操作の一方で、彼の優れた行政手腕や豊臣家への揺るぎない忠義、そして佐和山で敷いた善政の記憶は、特に彼の故郷である近江などを中心に、人々の間で密かに語り継がれていた。徳川の世が安定し、やがて終わりを迎えるにつれて、こうした公式史観とは異なる三成像を求める声が大きくなっていったことは想像に難くない。

このような歴史的文脈において、「米一粒に民の命」の逸話が持つ意味は極めて大きい。この物語は、徳川史観が作り上げた「私利私欲に走り、権力を弄んだ奸臣・三成」というイメージに対する、最も強力なカウンター・ナラティブ(対抗言説)として機能する。民の苦労を深く思いやり、己の食生活を厳しく律する清廉潔白な為政者の姿は、彼が奸臣などではなかったことの何よりの証明となるからである。この逸話は、三成の汚名を雪ぎ、その真実の姿を後世に伝えたいと願う人々の手によって生まれ、あるいは積極的に広められた可能性が極めて高い。

この逸話の成立には、二つの異なるベクトルが作用していると考えられる。一つは、日本の伝統文化に古くから存在する「理想の名君像」という普遍的な類型(文化的要請)。もう一つは、徳川史観によって不当に貶められた「石田三成の名誉を回復したい」という特殊な歴史的状況(政治的要請)。この二つの要請が交差する点に、この感動的な物語は生まれたのである。それは、史実ではないからこそ、かえってその時代の「願い」や、新たな「歴史観」の芽生えを色濃く反映した、貴重な文化的産物と言えるだろう。

結論:逸話が語る「象徴的真実」

本報告書において、石田三成にまつわる『家臣に「米一粒に民の命」と説き、箸を整えてから食したという倹約譚』について、多角的な視点から徹底的な考証を行った。その結果、この逸話が特定の一次史料に典拠を持つ歴史的事実である可能性は極めて低いと結論付けられる。主要な武将言行録にその記述が見られないことは、この物語が史実そのものではなく、後世のある時期に形作られたものであることを強く示唆している。

しかし、この逸話の真の価値は、その史実性にあるのではない。むしろ、史実ではないからこそ、石田三成という複雑な人物の本質を、より純粋な形で後世に伝える「象徴的真実」としての比類なき価値を持つのである。この短い物語は、彼の生涯を貫いた三つの重要な側面を見事に一つの情景へと凝縮し、描き出している。

第一に、 行政官としての卓越した業績 である。逸話の核心である「米」は、彼が太閤検地や佐和山での善政を通じて追求した、データに基づく公平な国家・領国経営の象徴である。

第二に、 個人としての厳格な倫理観 である。質素な食事と整えられた箸は、彼の徹底した倹約と規律を象徴し、それが私利私欲の否定と、公的価値を最大化するための合理主義に根差していたことを示唆する。

そして第三に、その全ての根底に流れる 民を思う温かい精神 である。「米一粒に民の命が宿る」という言葉は、彼の政策や行動原理が、最終的には「大一大万大吉」の旗印に示される万民の幸福という目標に向けられていたことを物語っている。

最終的に、「米一粒」の逸話は、歴史的事実そのものではなく、歴史が作り出した「記憶の結晶」と評することができる。それは、関ヶ原の戦いの敗者として、また徳川史観の中で長らく「奸臣」とされてきた彼の人物像をめぐる、複雑な政策論争や人間関係を捨象し、石田三成という人間の核となる「義」と「理」の精神を、時代を超えて我々の心に直接訴えかける。史実を超えた物語の力によって、彼の真の姿を後世に伝え続ける、優れた寓話的装置として、この逸話は今後も不朽の価値を放ち続けるであろう。

引用文献

  1. 「どうする家康」何が三成を変えてしまった?その最期にネット号泣…第43回放送「関ヶ原の戦い」振り返り | エンターテイメント 歴史・文化 - Japaaan - ページ 5 https://mag.japaaan.com/archives/210576/5
  2. 名将言行録 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%B0%86%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2
  3. 石田三成の名言・逸話35選 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/409
  4. 石田三成の懐刀・嶋左近が辿った生涯|関ヶ原で戦う姿を“鬼左近”と恐れられた武将【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1153053
  5. 番外編 佐和山城(2024.4/22選定外名城①・滋賀県) - 日本全国城巡り https://from-tokyo.hatenablog.com/entry/2024/05/04/020635
  6. 石田三成は何をした人?「家康の不忠義を許さず豊臣家のために関ヶ原に挑んだ」ハナシ https://busho.fun/person/mitsunari-ishida
  7. じつは理にかなっていた? 石田三成の「三服の茶」は、なぜ健康にいいのか | サライ.jp https://serai.jp/health/1097197
  8. 石田三成、その人物像とは - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/koho/324454.html
  9. 堅物なれど優しさ・忠義心はナンバーワン!武将・石田三成の名エピソード3選 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/172070
  10. 石田三成の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/65793/
  11. 知将・石田三成の生涯と壮絶な最期とは|秀吉の死から狂った歯車 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/228059/
  12. 石田三成編 - 不易流行 https://fuekiryuko.net/articles/-/1145
  13. 秀吉、太閤検地で構造改革を推進 - 郷土の三英傑に学ぶ https://jp.fujitsu.com/family/sibu/toukai/sanei/sanei-23.html
  14. 「情」に厚く善政も評価される三成の実像に触れる近江路【滋賀県 長浜市・米原市・彦根市】 https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/11243/
  15. 佐和山 http://home.r07.itscom.net/hajime-k/newpage119.html
  16. 関ヶ原での『敵役』石田三成。彼は本当に『憎まれた悪役』だったのか? | サムライ書房 https://samuraishobo.com/samurai_10011/
  17. 昔人の物語(25) 石田三成「経営企画力は抜群なのだが」 https://iyakukeizai.com/beholder/article/640
  18. 石田三成が柿を断った理由とは?処刑前に「病気」の可能性? - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/ishida/ishida-persimmon/
  19. 【死ぬ前に柿を食べてはいけない理由~石田三成の話】秋葉原心療内科・ゆうメンタルクリニック秘密コラム https://yakb.net/col/123.html
  20. 石田三成 × 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/koho/324425.html
  21. 徳川斉昭 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD
  22. 農本主義の思想基調 https://www.maff.go.jp/primaff/kanko/nosoken/attach/pdf/197510_nsk29_4_04.pdf
  23. 日本史/江戸時代 - ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-edo/
  24. 秒速で1億円稼ぐ武将 石田三成 〜すぐわかる石田三成の生涯〜 | 街角のクリエイティブ https://machikado-creative.jp/trip/history/ishida-mitsunari/