最終更新日 2025-10-22

石田三成
 ~義に死すとも恥に生きずと答える~

石田三成の「義に死すとも恥に生きず」は、最期の生き様から生まれた精神の表題。豊臣への忠義を貫き、干し柿を拒否した逸話は大志を抱く者の心構えを象徴。

石田三成、最後の義 ―「義に死すとも恥に生きず」の逸話、その時系列と深層

序章:関ヶ原の終焉、そして敗走 ― 義将の原風景

慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原。鶴翼の陣を敷いた西軍の優勢は、しかし、深い霧が晴れるとともに幻のように消え去った。松尾山に陣取った小早川秀秋の裏切りを皮切りに、西軍の戦線は瞬く間に崩壊。天下分け目の戦いは、わずか一日で徳川家康率いる東軍の圧倒的勝利に終わった。西軍を実質的に率いた石田三成は、この絶望的な戦況の中、数名の供回りと共に戦場を離脱し、伊吹山中へと敗走を開始する 1 。これから語られる数々の逸話の序幕は、この敗北と逃避行という、極限の状況から始まる。

三成の逃避行は、壮絶を極めた。彼は追手の目を欺くため、樵(きこり)の姿に身をやつした 2 。栄華を極めた五奉行の面影はなく、手には山仕事の道具を持ち、破れた笠で顔を隠して山道を彷徨った。最大の敵は、徳川の追手だけではなかった。飢えと病が、着実に彼の心身を蝕んでいったのである。ある記録によれば、三成は空腹のあまり生の稲穂を口にしたところ、かえって胃腸を著しく損ない、激しい下痢に苦しめられたという 3 。かつて天下の差配を振るった男が、今は自らの身体の自由さえ失い、山中で身を横たえるほかなかった。この肉体的な困窮と衰弱は、後に彼が示す精神的な強靭さと鮮烈な対比をなし、その言葉に一層の重みを与えることになる。

三成が目指したのは、母方の故郷である近江国古橋村(現在の滋賀県長浜市)であった 2 。土地勘のあるこの地で再起の機会をうかがう、あるいはただ安息の地を求めたのか、その真意は定かではない。彼は山中の岩窟に身を潜めたと伝えられる 2 。昼なお暗い洞窟の中で、彼は何を思ったであろうか。豊臣家への忠義、家康への憎悪、そして自らの運命。孤独な時間は、彼の信念をより純粋なものへと研ぎ澄ましていったのかもしれない。

この絶望的な状況下で、三成は一筋の光を見出す。かつて恩を与えた古橋村の住人、与次郎太夫が彼を匿い、危険を冒して毎日食事を運び続けたのである 2 。この事実は、三成が単に傲岸不遜なだけの人物ではなく、一部の民からは深く慕われる側面を持っていたことを示唆している。しかし、この密かな庇護も長くは続かなかった。村の名主が三成の存在を嗅ぎつけ、与次郎に密告を迫ったのである 1 。この時、三成の人間性が垣間見える一つの逸話が生まれる。

第一章:捕縛 ― 義将、囚われの身となる

与次郎の窮地を知った三成は、自らの運命を悟った。彼は与次郎とその家族に累が及ぶことを何よりも恐れ、自ら捕らわれる道を選んだとされる。三成は与次郎に深く感謝の意を述べた上で、「そなたが訴人となり、私を捕らえて差し出すがよい」と促したという 3 。この逸話は、三成が最後まで他者への配慮を忘れなかった人物であったことを物語っている。

捕縛の経緯については諸説存在する。与次郎の訴えによるものとは別に、家康の命を受け三成を捜索していた田中吉政の家臣、田中傳左衛門(あるいは田中正武)が、樵の姿の三成を怪しみ、その顔を見て本人と確認し捕らえた、という記録も複数の史料に見られる 1 。いずれにせよ、慶長5年9月21日(22日説もあり)、石田三成はついに囚われの身となった 1

三成を捕らえた田中吉政は、かつて豊臣政権下で共に働いたことのある武将であった。吉政は敗将となった三成に対し、礼を失することなく、むしろ丁重に遇したと伝えられている。特に有名なのが、腹痛に苦しむ三成の身を案じ、消化の良いニラ粥(あるいはニラ雑炊)を勧めたという逸話である 4 。敵将とはいえ、その困窮した姿に武士としての情けをかけた吉政の態度は、三成の心を動かした。

三成はこの厚情に応える形で、一つの行動に出る。豊臣秀吉から拝領し、形見として大切にしていた名刀「切刃貞宗(きりはさだむね)」の脇差を、吉政に与えたのである 1 。この刀は後に「石田貞宗」とも呼ばれ、現在、東京国立博物館に所蔵されている 3 。この贈呈行為は、単なる謝意の表明に留まらない、深い意味を持っていた。武将にとって刀は魂そのものである 4 。自らの死を覚悟した三成は、その魂の象徴であり、豊臣家への忠義の記憶が宿る品を、敵方でありながらも武士の情けを解する吉政に託した。それは、自らの「義」の証人として、そしてその記憶の継承者として吉政を選んだ、極めて象徴的な行為であったと解釈できる。三成は、「自分を捕らえたのが吉政でよかった」という言葉を残したともいう 6

しかし、この美談には全く異なる側面を伝える記録も存在する。江戸時代に成立した『明良洪範』によれば、吉政の親切は三成を油断させ、武具や財産の隠し場所を聞き出すための「詐略」であったという 7 。そして、情報を聞き出すや否や、三成を家康の前に突き出して見せしめにした、と記されている。この対照的な記述は、歴史が一つの視点からのみ語られるものではないことを示している。徳川の治世において、勝者である吉政の行動をより功利的に描き、敗者三成の悲劇性を強調する、もう一つの物語の潮流が存在したことをうかがわせる。

第二章:対峙する言葉 ― 矜持と嘲弄

捕縛された三成は、大津城、あるいは家康の本陣へと護送された。そこで彼は、勝利に沸く徳川方の武将たちと対峙することになる。この時交わされたとされる言葉の応酬の中にこそ、「義に死すとも恥に生きず」という精神の核心が凝縮されている。

本多正純との問答 ―「大将の道」の表明

家康の側近である本多正純は、囚われた三成に対し、尋問の形で嘲弄の言葉を投げかけたとされる。その内容は、当時の武士の一般的な価値観を代弁するものであった。

「貴殿ほどの智将が、なぜ時勢を読むことができず、勝ち目の薄い戦を軽々しく起こしたのか。そのあげく、潔く自害もせずに捕らえられるとは、何たる恥辱か」 1

正純の言う「恥」とは、敗軍の将として敵の手に掛かるという、武士としての面目を失うことであった。敗北したならば自刃して果てるのが、武士の美学であるという常識に基づいた問いである。

これに対し、三成は静かに、しかし揺るぎない口調で反論した。まず、自らの挙兵が私心によるものではなく、豊臣家への恩義に報いるための「義戦」であったことを明言する。

「農民の子であった私を、一城の主としてくださった太閤殿下の御恩は、天にも例えようがない。天下の情勢を見るに、徳川殿を討たねば豊家の行く末は危ういと思い、戦を起こしたのである。二心ある者(裏切り者)のために勝つべき戦に敗れたのは口惜しい限りだが、我が敗れたのは天命である」 1

そして、正純が最も強く非難した「自害しなかったこと」について、三成は自らの死生観、すなわち「大将の道」を説き明かす。

「人手に掛かることを恐れて安易に自害するのは、思慮の浅い葉武者(はむしゃ、身分の低い武士)のすることだ。大将たる者は、大義のためならば最後の最後まで生き抜き、万に一つの機会を捉えてでも本懐を遂げようと志すもの。汝のような者に、大将の道など語っても理解できまい」 1

この反論は、単なる負け惜しみではない。「恥」の定義をめぐる、思想的な対立であった。正純が提示する「捕縛される恥」という武士社会の常識に対し、三成は「義を失う恥」という、より高次の価値観を対置したのである。彼にとっての「大義」とは、豊臣家への忠誠であり、それによって天下の秩序を守ることであった。この大義の前では、一個人の名誉や生死は二次的な問題に過ぎない。生きることそのものが目的ではなく、「大義を遂行するために生き抜くこと」こそが目的なのだ。したがって、自害しないという選択は、彼の中では「恥」ではなく、「義」を貫くための最後の抵抗であり、責任の表明であった。

小早川秀秋との対面

三成の矜持は、関ヶ原での裏切りの張本人である小早川秀秋と対面した際にも、鋭く示された。三成が捕らえられたと聞き、細川忠興の制止を振り切ってまで面前に現れた秀秋に対し、三成は痛烈な言葉を浴びせたとされる。

「汝の二心を見抜けなかったのは、我が愚かさであった。しかし、約束を破り、人を欺いて裏切ったことは、武将としての最大の恥辱である。末代まで語り伝え、笑ってやろうぞ」 1

返す言葉もなく、秀秋はその場を立ち去るしかなかったという。この言葉は、三成が自らの敗北を認めつつも、その原因となった裏切りの非道義性を決して許さないという、彼の義に対する厳格な姿勢を示している。

第三章:六条河原への道 ―「干し柿の逸話」の深層

慶長5年(1600年)10月1日、石田三成は、同じく西軍の将であった小西行長、安国寺恵瓊と共に、京の市中を引き回された上、六条河原の刑場へと送られた 1 。彼の最期を飾る最も有名かつ象徴的な逸話、「干し柿の逸話」が生まれるのは、まさにこの処刑直前のことであった。

「干し柿の逸話」の時系列再現

刑場へと引かれていく道中、三成は喉の渇きを覚えた。彼は警固の兵に「喉が渇いた。白湯を一杯所望したい」と静かに告げた 10

しかし、兵はあいにく白湯を持ち合わせていなかった。代わりに、懐から干し柿を取り出し、「湯は今すぐには求め難い。もし喉が渇いておられるなら、ここに甘い干し柿がある。これを食されてはどうか」と差し出した 9

三成は、差し出された干し柿を一瞥すると、首を横に振ってこれを断った。その理由は、あまりにも意外なものであった。

「その柿は、痰の毒になるゆえ、食すことはできぬ」 9

この言葉を聞いた警固の兵たち、そして周りで見ていた者たちは、思わずどっと笑った。「これから首を刎ねられるという人間が、痰の毒を気にして養生するとは、何と滑稽なことか」と、彼らは三成を嘲笑したのである 9

嘲りの声が満ちる中、三成は顔色一つ変えず、静かに、しかしその場にいる全ての者に聞こえるようにはっきりと語りかけた。その言葉は、彼の生涯の哲学の最終表明であった。

「汝らがそう思うのももっともなことだ。しかし、大志を抱く者は、首を刎ねられるその瞬間まで己の命を惜しみ、大切にするものだ。それは、何としても本懐を遂げたいと願うからに他ならない」 12

この「干し柿の逸話」は、前章で述べた本多正純との問答で示された「大将の道」の思想を、より日常的で、しかし極めて象徴的な行動へと凝縮した寓話である。論理的に考えれば、処刑を目前にした人間が痰の毒を心配するのは、全くの無意味である。聴衆の嘲笑は、この常識的な判断に基づいている。

しかし、三成はこの無意味に見える行動に、自らの哲学の根幹を結びつけた。彼の「命」は、もはや彼個人のものではなく、豊臣家への忠義という「大志」を宿すための器であった。その器を、たとえ僅かであっても自らの意思で損なうことは、「大志」そのものへの裏切り行為に等しい。万に一つ、億に一つ、刑が執行される直前に何らかの事態が起こり、本懐を遂げる機会が訪れないとも限らない。その可能性がゼロでない限り、彼は最善の状態でその瞬間に備える責任があった。

この逸話は、三成の行動原理が、いかなる極限状況下にあっても微塵の揺らぎもなく一貫していたことを示している。それは、ある者にとっては融通の利かない頑固さと映るかもしれない。しかし同時に、彼の信じる「義」が、いかなる妥協も許さない絶対的なものであったことの、何より雄弁な証明なのである。

程なくして、三成の頭上に白刃が一閃し、その首は胴から離れた。享年四十一歳 1 。彼は最後まで顔色を変えず、平然として死に就いたと伝えられている 11

第四章:逸話の形成と史実性 ― 後世に語られた「義」

これまで詳述してきた石田三成の最期を彩る数々の逸話は、彼の人物像を形成する上で極めて重要な役割を果たしてきた。しかし、これらの物語が歴史的事実としてどの程度信頼できるのかについては、慎重な検討が必要である。逸話がどのように生まれ、語り継がれてきたのかを、史料批判の観点から分析する。

逸話の典拠とその性格

本報告書で取り上げた、本多正純との問答や干し柿の逸話の多くは、江戸時代中期から後期にかけて編纂された逸話集や武将言行録にその典拠を求めることができる。具体的には、岡谷繁実が編纂した『名将言行録』や、湯浅常山の『常山紀談』、そして『茗話記』といった書物である 11

これらの史料は、同時代に記録された一次史料とは性格を異にする。特に『名将言行録』は、戦国武将たちの言行の中から教訓的なエピソードを収集したものであり、編者の岡谷繁実自身が「言行を知るを主とし、履歴を叙するを主とせず」と述べているように、歴史の正確な叙述よりも、後世への教訓を主眼としている 14 。そのため、巷間に流布していた話をそのまま採録している箇所も多く、今日の歴史学界では、史実性を慎重に検討すべき「俗書」として扱われることもある 15

一次史料の沈黙

一方で、関ヶ原の戦い直後に記録された、より信頼性の高い一次史料に目を向けると、様相は一変する。三成が捕縛されてから処刑に至るまでの具体的な言動、特に本多正純との詳細な問答や、干し柿をめぐるやり取りといった劇的な場面に関する記述は、ほとんど見出すことができない 16 。一次史料が沈黙しているという事実は、これらの逸話が少なくとも同時代に起きた事実として広く認識されていたわけではないことを強く示唆している。

江戸時代における三成像の変遷

では、これらの逸話はなぜ、そしていつ生まれたのか。その背景には、江戸時代を通じて起こった石田三成像の評価の変遷がある。徳川幕府が成立して間もない頃、三成は家康に敵対し、豊臣家を滅亡に導いた「奸臣」として、否定的に描かれる傾向が強かった 17

しかし、徳川の治世が安定し、泰平の世が続くと、武士階級に求められる徳目も変化していく。戦場での武勇よりも、主君への絶対的な忠誠や組織人としての倫理といった、儒教的な価値観が重視されるようになった。このような時代の空気の中で、豊臣家への忠義を貫き、私利私欲なく奉公したとされる三成の生き様が、再評価され始める 18 。彼は、政治的な敗者から、武士道における「忠義」の理想を体現した道徳的な模範へと、その意味合いを変化させていったのである。

本多正純との問答や干し柿の逸話は、まさにこうした時代の要請の中で生まれ、あるいは史実の断片から大きく脚色され、理想の忠臣・石田三成というイメージを補強するために広く流布していったと考えられる。これらの物語は、歴史的事実の忠実な記録というよりも、江戸時代の武士階級が求める「理想の忠臣像」を投影した、文化的創造物としての側面が強い。それは、徳川の世を生きる武士たちにとって、「かくあるべき姿」を示すための、力強い教訓譚として機能したのである。

結論:「義に死すとも恥に生きず」という精神の結晶

本報告書は、石田三成の最期をめぐる一連の逸話について、その詳細な時系列を追い、背景にある思想と、後世における形成過程を多角的に分析してきた。ここから導き出される結論は、以下の通りである。

利用者様が提示された「義に死すとも恥に生きず」という言葉は、三成が特定の場面で発した直接的な台詞として史料に記録されているわけではない。むしろそれは、本多正純との対話で示された「大将の道」と、干し柿の逸話で体現された「大志を抱く者の心構え」という、彼の最期の生き様そのものから抽出され、後世の人々によって名付けられた「精神の表題」であると結論付けられる。それは、個人の面目や生死といった「小さな恥」に生きるのではなく、自らが信じる忠義という「大いなる義」のために死ぬことを選んだ、彼の哲学の結晶である。

これらの逸話は、史実としての厳密な正確性を超えて、石田三成という一人の武将が抱いた「義」の本質を、時代を超えて伝えるための、極めて強力な文化的記憶装置として機能してきた。すなわち、私利私欲や個人の名誉よりも、主家への奉公と天下の安寧という公の理念を重んじ、その信念のためにはいかなる妥協も許さないという、彼の哲学である。三成の佐和山城には金銀の蓄えがほとんどなく、質素な暮らしぶりであったという逸話も、彼の公への奉仕という姿勢を裏付けている 13

石田三成の最期をめぐる物語は、単なる敗将の末路を描いたものではない。それは、政治的な敗北が、必ずしも人間的な敗北を意味しないことを示す、力強い証言である。たとえ歴史の勝者にはなれなくとも、自らが信じる「義」に殉じる生き方は、後世の人々の心を打ち、時代を超えて語り継がれる価値を持つ。石田三成の最期を飾る一連の逸話群は、その普遍的な真理を我々に教えてくれる、日本の歴史が生んだ珠玉の物語であると言えよう。

引用文献

  1. 石田三成のその後 http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/sonogo01.html
  2. 14.敗者・石田三成の最期を追う 関が原から古橋へ | 須賀谷温泉のブログ https://www.sugatani.co.jp/blog/?p=3712
  3. 関ヶ原合戦後、石田三成はどういう逃亡経路で脱出したのか - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2451
  4. 石田三成と刀/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/9563/
  5. 戦国の出世頭・田中吉政とは?名バイプレーヤーのちょっといい話を紹介! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/165946/
  6. 家康に代わり岡崎城主となり、関ヶ原の戦いで石田三成を捕える|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【田中吉政編】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1025706/2
  7. 田中吉政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E6%94%BF
  8. 石田三成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
  9. 石田三成は何をした人?「家康の不忠義を許さず豊臣家のために関ヶ原に挑んだ」ハナシ https://busho.fun/person/mitsunari-ishida
  10. 慶長5年(1600)9月21日は関ヶ原合戦で敗走していた石田三成が捕縛された日。斬首される前の三成に有名な逸話がある。警固兵に白湯を所望したがないため干柿を勧められると痰の毒と断り嘲笑される。 - note https://note.com/ryobeokada/n/nabc31701c2c4
  11. 「どうする家康」何が三成を変えてしまった?その最期にネット号泣…第43回放送「関ヶ原の戦い」振り返り | エンターテイメント 歴史・文化 - Japaaan - ページ 5 https://mag.japaaan.com/archives/210576/5
  12. 石田三成の名言・逸話35選 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/409
  13. 大義を思う者は最期まで…石田三成が処刑直前に干し柿を拒んだ理由とは?【どうする家康】 https://mag.japaaan.com/archives/209641/2
  14. [新訳]名将言行録: 大乱世を生き抜いた192人のサムライたち - 岡谷繁実 - Google Books https://books.google.com/books/about/%E6%96%B0%E8%A8%B3_%E5%90%8D%E5%B0%86%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2.html?id=2MgUAgAAQBAJ
  15. 名将言行録 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%B0%86%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2
  16. 関ヶ原で負けた三成に本多忠勝がひれ伏したのはなぜか…敗戦責任で切腹させられると覚悟していた三成の潔さ | (4/4) | PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン) | “女性リーダーをつくる” https://president.jp/articles/-/75695?page=4
  17. 石田三成はなぜ、悪者にされたのか? 歴史を記す側の裏事情|Saburo(辻 明人) - note https://note.com/takamushi1966/n/n7b254aa4fbba
  18. 悪者じゃなかったの?歴史的評価が大逆転した2人 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63637?page=2