最終更新日 2025-10-24

立花宗茂
 ~敵将の首を洗い丁重に葬る礼節~

立花宗茂が敵将の首を洗い丁重に葬った逸話を検証。父の最期や島津義弘との邂逅から、武勇と礼節を重んじた宗茂の行動原理を分析し、その高潔な武士道精神に迫る。

武勇と礼節の間に―立花宗茂の首級供養譚、その真層に迫る

序論:武勇と礼節の間に―立花宗茂の首級供養譚が問いかけるもの

豊臣秀吉をして「西国無双」と言わしめ、徳川家康や秀忠からもその器量を高く評価された戦国武将、立花宗茂 1 。彼の名を不朽のものとしているのは、朝鮮出兵における碧蹄館の戦いでの武勇や、関ヶ原の戦後に改易されながらも旧領・柳川への奇跡的な大名復帰を果たした不屈の生涯だけではない。宗茂の人物像を語る上で欠かせないのが、その高潔な精神性を象徴する一つの逸話―「敵将を討ち取った後、その首を洗い清め、丁重に葬った」という礼節譚である。

この逸話は、裏切りと謀略が渦巻き、血で血を洗うことが常であった戦国の世にあって、ひときわ異彩を放つ。それは、後世の人々が理想の武将像を投影して創り上げた単なる美談なのであろうか。それとも、史実に基づき、立花宗茂という武将が貫いた確固たる哲学を体現した真実の行動なのであろうか。

本報告は、この逸話の歴史的信憑性を検証するため、その舞台となった可能性が最も高い「江上八院合戦」を軸に、当時の歴史的背景、関連する史料、そして宗茂自身の人物像を多角的に分析し、伝説の奥に秘められた真実に迫ることを目的とする。単一の逸話の考証に留まらず、それが立花宗茂という稀代の武将の行動原理、ひいては戦国時代における武士の礼節や死生観をいかに映し出しているのかを、徹底的に解き明かしていく。

第一部:戦国の常識と立花家の家風―逸話が生まれた土壌

首級の価値:戦功の証と武士の尊厳

戦国時代の合戦において、敵の首級を挙げることは、自らの武功を証明する最も直接的かつ確実な手段であった。討ち取られた首は、戦後に大将の前で検分される「首実検」にかけられ、その身分や数に応じて感状や恩賞が与えられた。これは、武士個人の名誉であると同時に、極めて実務的、かつ官僚的な戦功評価システムであった。

この時代の首級の扱われ方を如実に示す史料が、本件の逸話の舞台となる江上八院合戦において、立花宗茂と敵対した鍋島家側に現存する「頸帳(首帳)」である 3 。この帳面には、鍋島軍のどの部隊の誰が、立花軍の兵士の首をいくつ挙げたかが詳細に記録されている。例えば、鍋島軍の先鋒を務めた鍋島茂忠の組だけで103もの首級が記録されており、戦闘の凄惨さと、首級が戦功を計る「単位」として厳密に管理されていた実態を物語っている 3

このような戦功評価システムの中では、首級は個人の尊厳を剥奪され、「実績」や「数値」といった「モノ」として扱われるのが常識であった。この冷徹な官僚主義が支配する戦場の論理から見れば、宗茂の「洗い清め、葬る」という行為は、常軌を逸したものと言わざるを得ない。それは、首級を単なる戦功の証としてではなく、一人の武士の死の尊厳の象徴として捉え直す、極めて異質な価値観の表れであった。宗茂は、戦の非人間的なシステムに従い、敵を討ち、その功績を認めつつも、そのシステムが必然的に内包する非人間性を、自らの哲学と実践によって超克しようとした。彼の行動は、戦という組織的行為の果てに失われがちな人間性の回復を試みる、静かなる抵抗であったとも解釈できるのである。

父の死が刻んだ教訓:高橋紹運と敵将の敬意

立花宗茂の特異な価値観を理解する上で、決して避けては通れないのが、彼の実父であり、戦国史にその名を刻む勇将・高橋紹運の壮絶な最期である。天正14年(1586年)、九州統一を目指す島津の大軍が筑前国に侵攻した際、紹運はわずか700余りの兵と共に岩屋城に籠城した。島津軍は紹運の将才を惜しみ、好条件での降伏を再三にわたり勧告したが、紹運は主家・大友家への忠義を貫き、これを断固として拒絶。2万とも5万ともいわれる敵を相手に半月にわたって奮戦し、城兵全員と共に玉砕した 1

この岩屋城での戦いは、敵である島津軍の将兵にさえ深い感銘を与えた。紹運の壮絶な死に様を目の当たりにした彼らは、その首に手を合わせ、涙してその比類なき武勇と忠節を称えたと伝えられている 4 。この出来事は、当時、父の救援に向かうこともできず、立花山城で籠城していた19歳の宗茂の心に、消えることのない刻印を残したに違いない。

父の死は、宗茂に「真の武士は、敵味方の立場を超えて互いの武勇と覚悟に敬意を払うものである」という、生きた教訓を教えた。敵将・島津家が父・紹運に示した敬意は、宗茂の中に理想的な武士のあり方として深く内面化された。したがって、後に彼が敵将の首を丁重に扱ったという逸話は、孤立した美談としてではなく、父の死に際して敵が示した敬意に対する、世代を超えた「返礼」であり、武士道の高潔な価値観の継承と見ることができる。島津が紹運に示した敬意の記憶が、宗茂が鍋島の将兵に示した敬意の源流となり、見事な「敬意の連鎖」を形成したのである。この行動は、宗茂個人の感傷から生まれたものではなく、立花・高橋家に流れる家風、そして彼が理想とする武士道の具体的な実践であったことを強く示唆している。

第二部:慶長五年十月二十日、江上八院―逸話の舞台の再構築

関ヶ原の余波、柳川城包囲

慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わった時、立花宗茂は主戦場から遠く離れた近江・大津城を攻めていた。豊臣秀吉から受けた大恩に報いるため、勝ち目が薄いと知りながらも西軍に与した宗茂であったが、本戦に参加することなく敗報に接することとなる 4 。宗茂は巧みな撤退戦の末、大坂から海路で辛くも九州の居城・柳川への帰還を果たした 6

しかし、安息の時はなかった。九州では、いち早く東軍方についた黒田如水、加藤清正、そして鍋島直茂らが、徳川家康の命を受けて西軍に与した大名の討伐を開始していた。中でも鍋島直茂・勝茂親子は、もともと西軍として大津城攻めに参加していたが、父・直茂が家康と密かに通じていたことで、戦後いち早く東軍への寝返りが認められ、その赦免の条件として、家康から「立花宗茂を討て」との非情な命令が下されたと伝えられている 7

こうして、昨日までの友は今日の敵となった。鍋島軍は2万とも3万ともいわれる大軍を率いて柳川城に迫る 7 。城兵の数で圧倒的に劣る立花家では籠城論が主流であったが、宗茂は「領地に攻め込まれたのを防がぬは武士の恥である」として、野戦での迎撃を決意。次席家老の小野和泉守鎮幸を総大将に任じ、鍋島からの使者が申し入れた江上・八院の地での決戦を敢然と受諾したのである 7

血戦:江上・八院における激闘の時系列

慶長5年10月20日、夜明けと共に、筑後国江上・八院(現在の福岡県久留米市城島町から三潴郡大木町一帯)の地で、両軍の存亡を懸けた激戦の火蓋が切られた。

戦闘は、立花軍の先鋒、安東五郎右衛門らが鍋島軍の先鋒部隊に突撃することで始まった 7 。当初は立花軍が猛攻を仕掛け、肥前勢を追い立てたものの、大軍を擁する鍋島勢はすぐに陣を立て直し、数に物を言わせた反撃に転じる。横手から鉄砲を激しく撃ちかけられるなど、巧みな戦術の前に立花軍は次第に劣勢に追い込まれていった 3

この激戦の中で、立花軍は多くの勇将を失う。総大将の小野和泉守鎮幸は左乳の下を鉄砲で撃ち抜かれ、肘にも矢傷を負う重傷で指揮不能に陥った 3 。重臣の新田鎮実(立花右衛門)は、劣勢の先手を救うべく側面から突撃を敢行するも後続を断たれて討死。その17歳の次男・善次郎親雄も父と共に命を落とした 9 。他にも、宗茂の一門である立花統次、後世に「三太夫地蔵」としてその死を悼まれる立花三太夫、そしてわずか16歳であった十時新五郎惟久など、数多くの将兵がこの地の露と消えた 3

立花軍の敗色が濃厚となり、総大将の小野和泉守さえも討死寸前となったその時、戦況は劇的な転回を見せる。黒田如水軍の備えとして別動隊を率いていた立花成家(吉右衛門)が、味方の苦戦を知り、急遽戦場に駆けつけたのである。成家は手勢を率いて鍋島軍の側面に猛然と奇襲をかけ、敵を大混乱に陥れた 9 。この果敢な突撃によって生まれた一瞬の隙を突き、重傷の小野和泉守をはじめとする立花軍の残存部隊は、九死に一生を得て撤退に成功した。

こうして江上八院合戦は、両軍ともに多数の死傷者を出し、明確な勝敗がつかぬまま日没を迎えた。立花軍にとっては、まさに血で柳川城を守り抜いた一日であった。

表1:江上八院合戦における主要な戦死・負傷者

所属軍

立花軍

立花軍

立花軍

立花軍

立花軍

立花軍

鍋島軍

戦場の後始末:首級の前に立つ宗茂

夜の帳が下りた柳川城内の一角。揺らめく松明の光が、泥と血にまみれた武具を鈍く照らし出している。激戦を終えたばかりの兵たちが、今日の戦で討ち取った鍋島方の将兵の首級を次々と運び込んでくる。床几に腰を下ろす総大将・立花宗茂の前には、首実検のため、無数の首が並べられていく。多くの味方を失った深い悲しみと、敵を討ち取ったという高揚感が入り混じった、異様な空気が場を支配していた。

家臣の一人が、誇らしげに、しかし疲労の色を隠せずに進み出る。

家臣の一人: 「殿、ご覧くだされ。これだけの敵将を討ち取り申した。味方の犠牲は大きゅうございましたが、奴らにも一矢報いることができましたぞ」

宗茂は、並べられた首級の一つ一つに静かに視線を送り、やがて深く息をついて口を開いた。

立花宗茂: 「…うむ。皆、よう戦うてくれた。じゃが、この者たちもまた、我らと同じく主君の命を受け、家の存亡を懸けて戦った武士(もののふ)よ」

宗茂は立ち上がり、首級の前に歩み寄る。その声は、静かだが、確固たる意志に満ちていた。

宗茂: 「戦となれば、命のやり取りは致し方なし。されど、死してなお辱めるは我が本意にあらず。これらの首、一つ一つ丁重に湯で洗い清め、乱れた髪を結い直し、武士としての最後の姿を整えてやれ。その後、手厚く葬るのだ」

その言葉に、家臣たちの間にどよめきが走る。別の家臣が、戸惑いながらも口を挟む。

家臣: 「はっ…しかし、彼奴らは我らの同胞を数多手にかけた憎き敵にございますぞ」

宗茂は、その家臣を穏やかな、しかし鋭い眼差しで見つめ返した。

宗茂: 「敵味方は、生きている間のこと。死すれば皆、同じ仏の弟子よ。それに、見事な戦いぶりであった者への敬意は、武士の務めと心得よ。これは、亡くなった者への供養であると共に、我ら立花家の武士としての誇りのためでもある。…亡き父上も、きっとそうお望みのはずだ」

その言葉に、もはや異を唱える者はいなかった。宗茂の深い眼差しの中に、父・高橋紹運の面影と、敵将から受けた敬意への記憶を見た者は、少なくなかったであろう。

儀式としての供養:洗い清め、葬る

宗茂の命令に従って行われた一連の行為は、単なる戦後処理ではなかった。首を湯で洗うという行為は、戦場で付着した血や泥といった物理的な汚れを落とすだけでなく、死の穢れを浄化し、死者の魂を鎮めるという儀式的な意味合いを持つ。乱れた髻を解き、再び結い直すのは、武士としての最後の体面と尊厳を回復させるための、最大限の敬意の表れであった。

この行動の背景には、二つの大きな思想的支柱が見て取れる。一つは、敵であってもその武勇や覚悟を称え、敬意を払うことを美徳とする、武士道独自の精神。もう一つは、死後は敵味方の区別なく、全ての魂は等しく供養されるべきであるとする、仏教的な死生観である。宗茂の中で、これら二つの思想が分かちがたく融合し、具体的な行動として昇華されたのである。

この戦いの記憶は、後世にも地域の人々の間に語り継がれた。戦死した立花家の武将・立花三太夫を供養するために建立された「三太夫地蔵」は、やがてこの合戦で犠牲になった全ての兵士や農民を弔うための地蔵として、地域の人々によって祀られるようになったという 11 。この伝承は、この戦いの死者が敵味方の区別なく丁重に扱われたという記憶が、地域社会に深く根付いていたことの力強い傍証となりうる。

第三部:行動に宿る哲学―宗茂の礼節を裏付ける他の逸話

「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」:島津義弘との邂逅

江上八院合戦で見せた宗茂の礼節が、その場限りの感傷や気まぐれではなく、彼の行動哲学に深く根差したものであったことを証明する、もう一つの重要な逸話が存在する。それは、関ヶ原からの撤退時に起きた、父の仇である島津義弘との邂逅である。

大坂から九州へ向かう海上において、宗茂の船団は、同じく関ヶ原で敵中突破を果たし、決死の撤退行を続けていた島津義弘の軍勢と遭遇した。島津家は、言うまでもなく父・高橋紹運を岩屋城で死に追いやった仇敵である。家臣たちは「今こそ父上の仇を討つ絶好の機会」と進言し、いきり立った 4

しかし、宗茂は静かに彼らを制した。「敗軍の将を討つは武家の誉れにあらず」。そう言って、攻撃を一切仕掛けなかった。そればかりか、追撃してくる他の勢力から島津軍を守るかのように護衛し、互いに協力して無事に九州へと帰還したと伝えられている 4

この決断は、敵将の首を供養した逸話と、全く同じ思想的基盤の上に成り立っている。宗茂にとって、武士の「誉れ」とは、個人的な怨恨や目先の戦功といった私的な感情を超越した、より高次の規範に従うことにあった。敗れ、苦境にある敵を討つことを「恥」と捉える彼の価値観は、死した敵の尊厳を守る行為と完全に軌を一にする。彼は、父の仇を討つという私的な復讐心を、「武士の道」という公的な理念の下に置くことで、見事に克服してみせた。この一貫性こそが、宗茂の礼節が確立された哲学に基づいていたことの何よりの証明である。

慈悲と厳格の共存:家臣や領民に注がれた眼差し

宗茂の高潔な精神性は、敵に対してのみ発揮されたわけではない。彼が関わる全ての人々に対して、その眼差しは一貫して注がれていた。

家臣に対しては、「えこひいきせず、ひどい働きをさせず、慈悲をもって接し、多少の過失は見逃す」という方針で臨んでいたと記録されている 14 。関ヶ原の敗戦後、大名の地位を失い、領地も没収されて浪人となった宗茂であったが、多くの家臣が彼を見捨てることなく付き従い、托鉢や内職をしながら苦楽を共にした 1 。これは、宗茂と家臣団の間に、損得を超えた深い信頼関係が築かれていたからに他ならない。

領民への配慮もまた、彼の人間性を物語る。柳川城が鍋島・黒田・加藤の連合軍に包囲され、降伏を決断した際、領民たちは宗茂と共に城に籠り、命を懸けて戦うことを涙ながらに懇願した。しかし宗茂は、彼らを無益な戦に巻き込むことを良しとせず、降伏を受け入れた。これを聞いた領民たちは皆、声を上げて泣いたと伝えられている 4

さらに、その敬意は旧主や元家臣にまで及んだ。秀吉から高い官位を与えられそうになった際には、旧主である大友義統が自分より下位になることを憂慮し、「まず義統殿を昇進させ、私をその下にしてください」と願い出て、秀吉を感心させた 15 。また、自らの元を去って徳川家臣の井伊直政に仕えた戸次統直について尋ねられた際も、恨み言一つ言わず、「二度狙った敵は必ず討ち取る男です」と、その武勇を最大限に賞賛し、彼の処遇を後押しした 15

これらの数々の逸話は、宗茂が敵だけでなく、味方、領民、旧主、元家臣など、関わる全ての人々に対して、一貫して敬意と慈悲の念を抱いていたことを示している。そう考えれば、敵将の首を丁重に葬ったという逸話は、彼の特異な行動としてではなく、この一貫した人間性の延長線上にある、極めて自然な振る舞いであったと結論付けることができる。

結論:伝説の奥にある真実―立花宗茂が体現した武士の理想像

立花宗茂が敵将の首を洗い、丁重に葬ったという礼節譚。この逸話は、合戦に関する一次史料に直接的な記述こそ見られないものの、本報告で検証してきた通り、その史実的蓋然性は極めて高いと評価できる。その根拠は、以下の四点に集約される。

第一に、逸話の舞台として、慶長5年10月20日に行われた「江上八院合戦」という具体的な時と場所が特定可能であること。

第二に、敵将である島津家が実父・高橋紹運の死に際して示した敬意が、宗茂の価値観形成に決定的な影響を与えたであろうこと。

第三に、「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」という島津義弘への対応に見られる、私怨を超克する思想的な一貫性。

そして第四に、家臣や領民、旧主に対して示された数々の慈悲深い態度が、彼の人間性の基盤を証明していること。

これらの膨大な状況証拠と人物像から浮かび上がるのは、この逸話が宗茂という人物の本質を的確に捉えているという事実である。

秀吉や家康といった天下人が宗茂を高く評価し、関ヶ原で敵対したにもかかわらず、一度改易された大名として唯一、旧領への復帰という奇跡を許された理由 1 は、彼の戦場における武勇だけでは説明がつかない。決して裏切らない義将としての生き様 1 、そして敵味方の区別なく、人間の尊厳に対して敬意を払うその高潔な精神性こそが、戦国の世の多くの人々を魅了し、「西国無双」と称えられた真の理由であった。

立花宗茂の首級供養譚は、単なる過去の美しい物語に留まるものではない。対立する相手の立場や尊厳を認め、敬意を払うという姿勢は、現代社会においてもなお、その普遍的な価値を失ってはいない。それは、血塗られた戦国の世にあって、一人の武将が到達した、武士道の理想形として、我々に多くのことを問いかけ続けているのである。

引用文献

  1. THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/retsuden/bknm/86.html
  2. 戦国時代でスカウトしたい「立花宗茂」 - 歴史ハック https://rekishi-hack.com/muneshige-tachibana/
  3. 江上八院の戦い(慶長5年10月20日)における鍋島家 の頸帳に関する考察(その1) - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=9454
  4. 無双と呼ばれた男~立花宗茂 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/musou-muneshigetachibana/
  5. 【籠城戦】闘将宗茂の意地と清正の誠意 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ https://ameblo.jp/cmeg/entry-11057567112.html
  6. 第3章~第6章 立花宗茂と柳川の武士たち - Google Arts & Culture https://artsandculture.google.com/story/KgWRWPxXFzYZIQ?hl=ja
  7. 江上・八院合戦 http://www.snk.or.jp/cda/tanbou/ooki/hatiingassen/hatiinsen.htm
  8. 2014八院の戦い(その1)・千寿の楽しい歴史 https://kusennjyu.exblog.jp/19850000/
  9. 八院の戦い(その2)・平成26年5月27日 - 千寿の楽しい歴史 - エキサイトブログ https://kusennjyu.exblog.jp/19908029/
  10. 関ヶ原後に唯一旧領を回復した立花宗茂の「義理」堅さ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/44801/2
  11. 228 三太夫地蔵 大川市 - BIGLOBE https://www5b.biglobe.ne.jp/ms-koga/228sandayu.html
  12. 小野鎮幸とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E9%8E%AE%E5%B9%B8
  13. 大河ドラマの主役にしたい人物・立花宗茂 https://kourajimusyo.com/rekiken3.pdf
  14. 九州の名将・立花宗茂に見る、リーダーとして「普通」であることのすごみ|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-098.html
  15. 総力特集:立花宗茂 - 歴史おもしろデータ | 歴史街道 | 雑誌 | PHP研究所 https://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/data_detail.php?unique_issue_id=84258