筒井順慶
~日和見を決め込んだ俗説~
筒井順慶が「洞ヶ峠を決め込む」日和見主義者という俗説を解体。彼は居城で情勢を分析し、一族と領国を守るため秀吉への恭順を決断。乱世を生き抜いた。
筒井順慶と洞ヶ峠の俗説:日和見主義者の汚名と、ある大名の生存戦略
序章:俗説の輪郭 ―「洞ヶ峠を決め込む」という言葉の背後
現代日本語において、「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」という言葉は、有利な方につこうと形勢をうかがう日和見主義的な態度の代名詞として定着している。この言葉の背後には、戦国時代の劇的な一場面として語り継がれてきた、ある武将の物語が存在する。
その武将の名は筒井順慶(つついじゅんけい)。通説として広く知られる物語はこうだ。天正10年(1582年)6月、本能寺の変で主君・織田信長を討った明智光秀と、主君の仇を討つべく驚異的な速さで中国地方から引き返してきた羽柴秀吉が、天下の覇権をかけて山崎の地で対峙した。大和国(現在の奈良県)を治める大名であった筒井順慶は、両陣営から味方になるよう誘いを受ける。しかし、どちらに与(くみ)すべきか決めかねた順慶は、軍勢を率いて山城国と河内国の境にある洞ヶ峠に布陣。そこから眼下に広がるであろう戦場の様子を傍観し、戦いの趨勢が明らかになった後、勝利した秀吉のもとへ馳せ参じた、というものである。この逸話は、順慶を狡猾で優柔不断な日和見主義者として描き出し、「洞ヶ峠」という地名を日和見の象徴へと変えた。
しかし、このあまりにも有名な物語は、史実を正確に伝えているとは言えない。近年の研究によって、この通説は後世に創られた潤色であり、史料が示す順慶の行動とは大きく異なることが明らかになっている。本報告書は、この「洞ヶ峠の日和見」という俗説に焦点を絞り、その虚構を解体する。そして、本能寺の変勃発から山崎の戦いを経て、順慶が秀吉に拝謁するまでの約二週間の動向を、史料に基づき時系列で徹底的に再構築する。そこで見えてくるのは、峠の上で戦況を眺める日和見主義者の姿ではない。激動の情勢下で、自らの一族と領国を守るために、居城である大和郡山城(やまこおりやまじょう)の内で苦悩し、情報をかき集め、生存をかけた極めて冷静な政治判断を下した、一人の大名の真実の姿である。
第一章:激震 ― 天正十年六月二日、大和郡山城
天正10年(1582年)6月2日、早朝。大和郡山城は、にわかに緊張に包まれた。京の都からもたらされた一報は、にわかには信じがたい内容であった。「本能寺にて、上様(織田信長)、明智日向守(光秀)様の謀反により御自害」。天下人・織田信長の突然の死は、戦国の世を根底から揺るがす激震であった。
この時、筒井順慶は、羽柴秀吉が遂行する備中高松城攻めへの援軍として、まさに軍勢を整え、出陣の準備を進めている最中であった。そして皮肉なことに、その出陣は、畿内方面軍の統括者であり、順慶の直属の上官でもある明智光秀の指揮下で行われる手筈だったのである。変報は、順慶の全ての計画を白紙に戻し、彼を絶体絶命の岐路へと突き落とした。
順慶と光秀の関係は、単なる上官と部下という言葉では言い表せないほど深く、複雑であった。長年、大和国では松永久秀との間で熾烈な覇権争いを繰り広げてきた順慶であったが、最終的に信長の麾下(きか)に入り、大和一国の支配を認められるに至ったのは、光秀の強力な斡旋と後見があったからに他ならない。光秀は順慶にとって、大恩ある政治的後援者であった。この恩義(おんぎ)を考えれば、光秀に味方することは当然の選択肢に思える。
しかし、状況はそれほど単純ではなかった。光秀の起こしたクーデターは、その成功が全く保証されていない危険な賭けであった。もし光秀に味方し、彼が敗れれば、筒井家は逆賊として滅亡の道をたどることになる。一方で、恩人を裏切り光秀に敵対すれば、もし光秀が畿内を制圧した場合、真っ先に報復の対象となることは避けられない。順慶が治める大和国は、光秀の拠点である京都や近江と目と鼻の先にあり、地政学的に極めて危険な位置にあった 1 。
混乱と錯綜する情報の中、順慶が取った最初の行動は、彼の冷静さを示すものであった。彼はただちに備中への出陣計画を中止。全ての軍勢を城内に留め、すぐさま籠城の準備を開始させたのである。城内には米や塩などの兵糧が運び込まれ、大和郡山城は一気に臨戦態勢へと移行した。この初動は、彼が攻撃的な野心や日和見的な傍観を選んだのではなく、まず自らの足元を固め、一族と領国の安全を確保することを最優先に考えたことを物語っている。順慶の決断の時は、まだ訪れていなかった。それは、これから始まる情報戦の幕開けを告げるものであった。
第二章:苦悩の評定 ― 光秀か、羽柴か
大和郡山城内の一室。順慶は一族の主だった者や、島左近(しまさこん)、松倉右近(まつくらうこん)といった歴戦の重臣たちを招集し、連日連夜、評定(ひょうじょう)を重ねていた。城内の空気は、張り詰めていた。一つの判断ミスが、一族郎党の首を刎(は)ね、領国を焦土と化す。その重圧が、評定の場にいる全員の肩にのしかかっていた。
議論は紛糾したであろう。一方の派閥は、光秀への加勢を主張したはずだ。彼らは、信長への臣従を仲介してくれた光秀への恩義を説き、現に京と安土を掌握している光秀の優位性を強調したであろう。「日向守様は我らの恩人。今こそ恩を返す時」「ここで背けば、武士の道に悖(もと)る」といった忠義を重んじる声が上がったに違いない。
しかし、島左近に代表されるであろう慎重派は、即座の決断に強く警鐘を鳴らしたはずだ。「今は動くべき時ではありませぬ。光秀殿に味方する大名がどれほどいるのか、全く見えておりませぬ」。彼らは、他の織田家重臣、特に遠征中の羽柴秀吉や柴田勝家の動向が不明な中での軽挙妄動は、自滅行為に等しいと主張した。彼らにとって最優先事項は、個人的な恩義よりも、筒井家と大和の民の存続であった。
順慶の心は、激しく揺れ動いていた。史料によれば、当初、彼は光秀の要請に完全に応じないまでも、その顔を立てるかのように、一部の兵を光秀方に合流させるなど、宥和的な態度を示した形跡がある。これは決断を先延ばしにし、時間を稼ぐための苦肉の策であった可能性が高い。順慶はただ待っていたのではない。彼はこの時間を使って、必死に情報を収集していたのである。
この時期の順慶の「日和見」は、決して受動的な傍観ではなかった。それは、生き残りをかけた能動的な情報収集活動そのものであった。通信手段が飛脚や早馬に限られる時代、周辺の有力大名がどう動くかという情報は、自らの進退を決する上で最も重要なデータであった。彼の「優柔不断」と見える態度は、実は次々と舞い込む断片的な情報を分析し、最善の選択肢を見出そうとする、極めて合理的なプロセスだったのである。
そして、その判断を決定づける情報が、次々と郡山城にもたらされる。
第一の衝撃は、光秀と姻戚関係にある細川藤孝(幽斎)・忠興親子が、光秀への加勢を拒絶し、信長への弔意を示すために剃髪したという報せであった。最も頼りにしていたはずの身内からの離反は、光秀の求心力の欠如を何よりも雄弁に物語っていた。
第二に、高山右近や中川清秀といった、畿内の有力武将たちが、次々と反光秀の旗幟(きし)を鮮明にし始めたことであった。これにより、光秀は畿内において急速に孤立していく。
そして、最後の決定打となったのが、羽柴秀吉の「中国大返し」の報せであった。備中高松城で毛利氏と対峙していたはずの秀吉が、信じられない速さで和睦を成立させ、大軍を率いて京へと向かっている。この情報は、戦局のパワーバランスを根本から覆すものであった。
光秀の孤立と、秀吉の圧倒的な軍事行動。集められた全てのデータが、一つの結論を指し示していた。順慶の迷いは、もはや確信へと変わろうとしていた。
第三章:峠の攻防 ― 待つ光秀、動かぬ順慶
本能寺の変から一週間が経過し、畿内の情勢は刻一刻と動いていた。その中で、筒井順慶の決断が、天下の趨勢を左右する重要な鍵の一つとなっていた。
六月九日:賽は投げられた
収集した情報を分析し尽くした順慶は、ついに最終的な決断を下す。羽柴秀吉に与する。この日、彼は光秀への加勢の可能性を完全に断ち切り、大和郡山城での籠城準備をさらに本格化させた 2 。これは、万が一光秀が攻め寄せてきた場合、徹底抗戦も辞さないという明確な意思表示であった。
六月十日:対決の一日
この日は、本報告書の核心となる、極めて劇的な一日であった。
まず動いたのは、明智光秀であった。順慶の加勢が依然として得られないことに焦りを募らせた光秀は、自ら軍勢を率いて、山城国と河内国の国境、洞ヶ峠へと進軍した。この地は、大和から京へ向かう街道を押さえる戦略的要衝である 1。光秀の狙いは、順慶の軍勢をここで迎え入れること、そして、もし順慶が敵対するならば、その進軍を阻止し、圧力をかけることにあった。洞ヶ峠の陣中で、光秀は南の道を睨み、友軍の旗が翻るのを固唾をのんで待ち続けていた。
光秀は、最後の説得を試みる。腹心の家臣である藤田伝五(ふじたたでんご)を、大和郡山城へ急使として派遣したのである。城内での会見は、緊迫したものだったに違いない。
「日向守様を忘れたか。今こそ、貴殿の力が頼りなのだ」
藤田伝五は、過去の恩義に訴え、共に天下を治める未来を語り、必死の説得を試みたであろう。時には、恫喝に近い言葉も口にしたかもしれない。
しかし、順慶の決意は固かった。彼は、藤田伝五の勧誘を、きっぱりと拒絶した 2。一部の記録には、一度は伝五を帰したものの、再び呼び戻したという記述もあり、決断の瞬間に至るまで順慶の内心に葛藤があったことをうかがわせる。だが、最終的な答えは「否」であった。
そして、この日の順慶の行動は、単なる拒絶に留まらなかった。光秀の使者を追い返したその裏で、彼は自らの使者を、猛スピードで畿内に迫る羽柴秀吉の軍のもとへと派遣していた。その使者が携えていたのは、秀吉への恭順を誓う起請文(きしょうもん)、すなわち誓紙であった。
6月10日という一日に起きたこの二つの出来事は、偶然ではない。それは、順慶の高度な政治戦略の表れであった。表立って光秀の使者を拒絶することで、自らの反光秀の立場を(危険を冒して)内外に示し、同時に、水面下で秀吉への忠誠を誓うことで、来るべき新体制下での自らの地位を確保する。彼は受動的に事態を傍観していたのではなく、一方の勢力からの離脱と、もう一方の勢力への参入を、同時に、かつ能動的にマネジメントしていたのである。これは、俗説が描く優柔不断な人物像とは全く異なる、極めてしたたかで有能な政治家の姿であった。
六月十一日:消えた希望
洞ヶ峠で待ち続けた光秀のもとに、順慶の軍勢はついに現れなかった。藤田伝五からの報告を受け、光秀は順慶の加勢が絶望的であることを悟る。彼は洞ヶ峠の陣を撤収し、目前に迫る秀吉軍との決戦地、山崎へと兵を進めた。彼の賭けは、この時点で大きく綻び始めていた。一方、郡山城周辺では「順慶が城内で切腹した」といった流言飛語が飛び交い、事態の混乱と緊張が極度に高まっていたことを示している。
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日付 |
筒井順慶の動向 |
明智光秀の動向 |
羽柴秀吉の動向 |
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六月二日 |
本能寺の変を覚知。郡山城での籠城準備を開始。 |
本能寺にて織田信長を討つ。安土城を掌握。 |
備中高松城にて毛利軍と対峙中。 |
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六月三日~八日 |
重臣らと評定を重ねる。周辺の動向を情報収集。 |
諸大名に味方になるよう書状を送る。 |
毛利氏と和睦。京へ向け「中国大返し」を開始。 |
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六月九日 |
秀吉方への加勢を決意。籠城準備を本格化。 |
順慶の来援を期待し、河内方面へ進軍準備。 |
姫路城に到着。軍備を整える。 |
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六月十日 |
光秀の使者・藤田伝五の勧誘を拒否。秀吉へ誓紙を送付。 |
洞ヶ峠に着陣し、順慶の来援を待つ。 |
摂津国富田に到着。 |
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六月十一日 |
郡山城で籠城を継続。 |
順慶の来援を諦め、洞ヶ峠から下鳥羽へ移動。 |
丹羽長秀・織田信孝軍と合流。 |
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六月十三日 |
郡山城から動かず。山崎の戦いには不参加。 |
山崎の戦いで秀吉軍に敗北。敗走する。 |
山崎の戦いで光秀軍を破る。 |
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六月十四日 |
光秀方に与した槙島城などを接収するため出兵。 |
逃走中に小栗栖で落武者狩りに遭い絶命。 |
京都に入り、戦後処理を開始。 |
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六月十五日 |
醍醐にて秀吉に拝謁。遅参を激しく叱責されるも所領安堵。 |
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順慶を叱責し、自らの権威を確立。 |
第四章:戦いの幕切れと遅参の代償
六月十三日:山崎の戦い
天王山を望む山崎の地で、羽柴軍約4万と明智軍約1万6千が激突した。戦いは午後4時頃に始まり、わずか数時間で決着した。兵力と勢いに勝る羽柴軍の前に明智軍は総崩れとなり、光秀は居城の坂本城を目指して敗走する。この天下分け目の決戦の間、筒井順慶とその軍勢は、大和郡山城から一歩も動かず、戦闘には一切参加しなかった。
六月十四日:忠誠の証明
戦いの翌日、秀吉の勝利が確実なものとなると、順慶はついに軍を動かす。しかし、その矛先は山崎の戦場ではなかった。彼は約6千の兵を派遣し、これまで光秀方に与していた山城国の槙島城などを接収させたのである。これは、戦後処理への貢献という形で、自らが秀吉方であることを明確に示すための、計算された軍事行動であった。遅ればせながらも、勝利者のために働き、自らの忠誠を実力で証明しようとしたのである。
六月十五日:醍醐での対面
全ての決着がついた後、順慶は少数の供を連れて、京の醍醐に陣を置く秀吉のもとへ拝謁に赴いた。勝利者との初めての対面は、決して和やかなものではなかった。
『多聞院日記』などの信頼性の高い史料は、この時の様子を明確に記録している。秀吉は、順慶の顔を見るなり、その参陣の遅れと日和見的な態度を激しい口調で叱責したのである。
「なぜすぐに馳せ参じなかったのか!貴殿の動きの鈍さが、どれほど味方を不安にさせたか分かっておるのか!」
居並ぶ諸将の前で、順慶は屈辱的な叱責に耐えなければならなかった。
しかし、この秀吉の行動は、単なる感情的な怒りではなかった。それは、自らが織田家の後継者レースの先頭に立ったことを天下に示すための、高度な政治的パフォーマンスであった。日和見的な態度を取った大名を公衆の面前で厳しく咎めることで、自らの権威を確立し、他の諸将に絶対的な服従を促す狙いがあった。
そして、そのパフォーマンスの後、秀吉は現実的な判断を下す。激しい叱責とは裏腹に、彼は順慶の大和国における所領を安堵したのである。秀吉にとって、ここで順慶を罰し、畿内に新たな火種を生むことは得策ではなかった。厳しい叱責という「アメとムチ」の「ムチ」を振るうことで自らの威光を示し、所領安堵という「アメ」を与えることで、畿内の有力大名である筒井家を確実に自らの支配下に組み込む。秀吉は、この一連の政治劇を通じて、新たな天下人としての器量と冷徹な計算高さを見せつけたのであった。順慶は面目を失ったが、一族と領国を守るという最大の目的は、達成されたのである。
第五章:物語の誕生 ― なぜ順慶は「日和見」の代名詞となったのか
史実における筒井順慶は、洞ヶ峠には行かず、大和郡山城で冷静に情勢を分析し、戦闘が始まる前に秀吉方につくことを決断した。では、なぜ彼は「洞ヶ峠で日和見した」という、史実とは異なる物語の主人公にされてしまったのだろうか。その背景には、いくつかの要因が複合的に絡み合っている。
まず、物語には「真実の核」が存在した。順慶が、光秀と秀吉のどちらに付くべきか、実際に数日間「日和見」していたことは事実である。ただし、その場所が洞ヶ峠ではなく、居城の郡山城であったという点が異なる。彼の行動は、大名としては極めて合理的で慎重な判断であったが、武士の美徳とされる「忠義」や「武勇」の観点から見れば、優柔不断で臆病な態度と解釈されやすい素地を持っていた。
次に、物語の劇的な効果を高めるための「主役の入れ替え」が行われた。史料が示すように、洞ヶ峠で順慶を待ちわびていたのは、他ならぬ明智光秀であった。しかし、後世の物語作者たちは、この構図を逆転させた。待つ者であった光秀ではなく、待たれる者であった順慶を峠の主役に据えることで、「戦況を高みから見物し、勝ち馬に乗る狡猾な武将」という、より分かりやすく、より劇的なキャラクター像を創り出したのである。
この歪曲された物語が決定的に流布し、定着したのは、戦乱の世が終わり、泰平の世となった江戸時代であった。講談師や浄瑠璃、歌舞伎といった大衆芸能の担い手たちは、戦国時代の出来事をエンターテインメントとして語り継いだ。彼らにとって、郡山城内での複雑な情報戦や政治的駆け引きよりも、「峠の上で逡巡する武将」という視覚的でシンプルなイメージの方が、聴衆の心を掴みやすかった。特に、秀吉の立身出世を描いた『絵本太閤記』のような大衆向けの読み物は、この俗説を全国に広める上で絶大な影響力を持った。
そして、物語はついに言葉そのものとなった。この逸話はあまりにも有名になり、「洞ヶ峠を決め込む」という慣用句や、「定まらぬ 天気 順慶 見定める」(天候が不安定な様子と、順慶が形勢を見定めようとしている様をかけたもの)といった川柳が生まれるに至った。一度ことわざとして人々の生活に根付いてしまえば、その元となった物語の真偽が問われることは少なくなる。
「洞ヶ峠の順慶」という物語は、忠義を裏切る者への教訓や、狡猾な政治家への風刺として、時代を超えて人々に愛された。それは、複雑な歴史的現実を、分かりやすい道徳的な物語へと単純化した、強力な文化的記憶なのである。その結果、筒井順慶という一人の武将は、史実の姿とはかけ離れた「日和見主義者」という不名誉なレッテルを、永遠に貼られることになった。
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項目 |
俗説 |
史実(『多聞院日記』などに基づく) |
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誰が |
筒井順慶が洞ヶ峠に布陣した。 |
明智光秀が洞ヶ峠に布陣した。 |
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どこで |
順慶は洞ヶ峠で戦況を観望した。 |
順慶は居城の大和郡山城で籠城し、情報収集に徹した。 |
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何をしたか |
戦いの趨勢を見て、有利な秀吉方に味方した。 |
戦闘が始まる前に秀吉への恭順を決定し、誓紙を送付した。 |
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行動の性格 |
狡猾な日和見主義 |
領国と一族の存亡をかけた、慎重な政治的判断 |
結論:再評価されるべき決断
本報告書が明らかにしてきたように、筒井順慶が洞ヶ峠で山崎の戦いを傍観したという逸話は、史実ではない。彼は居城である大和郡山城に留まり、激しく揺れ動く情勢の中で、必死に情報を集め、分析し、一族と領国の存続という最も重い責務を果たそうとした。彼が秀吉への恭順を決断したのは、戦いの勝敗が決した後ではなく、戦闘が開始されるよりも前のことであった。
これまで彼に貼られてきた「日和見」というレッテルは、再評価されるべきである。彼の行動は、臆病さや優柔不断さの表れではなく、むしろ乱世を生きる領主としての「慎重さ」と「責任感」の表れと見るべきであろう。個人的な恩義と、領主としての公的な責任との間で板挟みになりながらも、彼は最終的に後者を選んだ。それは、感情や旧来の義理人情に流されることなく、冷徹なリアリズムに徹した政治判断であった。
本能寺の変という未曾有の国難に際して、多くの大名が判断を誤り、歴史の舞台から姿を消していった。その中で、筒井順慶は、最も危険な嵐の中心近くにいながら、巧みな情報収集と冷静な状況分析によって、自らの船を沈没させることなく、見事に乗り切ったのである。
「洞ヶ峠を決め込む」という言葉を生んだ魅力的な俗説は、日本の文化史の一部として記憶されるべきであろう。しかし、その言葉の陰に隠された、一人の大名が下した苦渋に満ちた生存戦略の現実は、それ以上に、歴史の教訓として正しく理解され、語り継がれていくべきである。筒井順慶の真の物語は、日和見主義者のそれではなく、絶体絶命の危機を乗り越えた、有能な政治家の物語なのである。
引用文献
- 洞ヶ峠 京都通百科事典 - 京都通百科事典(R) https://www.kyototuu.jp/Geography/KaidouHogaraTouge.html
- 筒井順慶は洞ヶ峠には行かなかった!|makiryo9 - note https://note.com/makiryo9id/n/n7d28260459e2