築山殿
~徒党通じ疑われ誅殺不吉譚~
徳川家康の正室・築山殿は武田家との内通を疑われ、佐鳴湖畔で誅殺。信康事件へと繋がり、徳川家に深い影を落とした。椿の不吉譚は彼女の悲劇を象徴。
築山殿誅殺異聞:徒党内通の嫌疑と佐鳴湖畔の悲劇、そして椿の不吉譚
序章:天正七年、徳川家に渦巻く暗雲
天正七年(1579年)、徳川家康の治める三河・遠江に、暗く不吉な雲が垂れ込めていた。それは、後に「信康事件」と呼ばれる一連の悲劇の序曲であり、徳川家の礎を揺るがしかねない深刻な亀裂の兆候であった。この悲劇の中心にいたのが、家康の正室・築山殿と、その子であり徳川家の後継者である松平信康である。彼らの死は、単なる家庭内の不和や個人の資質に起因するものではなく、戦国という時代の激動の中で徳川家が抱え込んだ、構造的な矛盾と歪みが噴出した結果であった。この逸話を深く理解するためには、まず事件が起きるべくして起きたとも言える、当時の徳川家を取り巻く複雑で緊張をはらんだ状況を解き明かす必要がある。
政治的背景:二大勢力の狭間で
当時の徳川家は、西の織田信長、東の武田勝頼という二大勢力に挟まれ、絶えず緊張を強いられる地政学的な位置にあった。永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれた後、家康は今川家から独立し、織田信長と清洲同盟を結んだ 1 。この同盟は、徳川家にとって存続のための生命線であると同時に、常に織田家の強大な影響力と圧力を受け続けることを意味した 2 。
一方、甲斐の武田家とは、長篠の戦いで大勝した後も、遠江・駿河の国境線をめぐって一進一退の攻防が続いていた 3 。武田勝頼は父・信玄の遺志を継ぎ、依然として徳川領への侵攻を繰り返しており、家康にとって最大の脅威であり続けた 5 。この織田家への従属と、武田家との敵対という明確な外交方針は、徳川家中の路線対立の火種を燻らせる土壌となっていた。
徳川家中の分裂:浜松と岡崎の二元体制
元亀元年(1570年)、家康は本拠地を三河岡崎城から遠江浜松城へと移した 1 。これは、対武田戦線の最前線で直接指揮を執るための戦略的な決断であった。そして、旧来の本拠地である岡崎城は、元服した嫡男・信康に譲られた 1 。これにより、徳川家の統治体制は、父・家康が率いる「浜松」と、嫡男・信康が治める「岡崎」という二元的な構造を持つに至った。
この二元統治は、必然的に家臣団をも二分した。浜松には、本多忠勝や榊原康政といった、家康と共に数々の戦場を駆け抜け、織田家との連携を重視する武断派の家臣たちが集った。一方、岡崎には、石川数正をはじめとする三河以来の譜代の家臣たちが信康を支え、旧領の統治にあたった。この浜松派と岡崎派の間には、次第に政策や権力をめぐる対立が生じていった。特に、徹底した反武田路線を突き進む家康の浜松派に対し、岡崎派の一部には、旧今川家との繋がりや三河の安定を優先する立場から、武田との和睦も視野に入れるべきだという考えがあった可能性が指摘されている 3 。
築山殿の孤立
この岡崎派の中心にいたのが、信康の母・築山殿であった。彼女は今川義元の姪という高貴な出自であり、家康がまだ今川家の人質であった時代に、その正室として迎えられた 8 。しかし、家康が今川家から独立し、その仇敵である織田家と同盟を結んだ瞬間から、彼女の立場は政治的に極めて微妙なものとなった 6 。
夫・家康が浜松城で対武田戦に明け暮れ、於万の方をはじめとする側室を次々と迎え子をなす一方で 10 、築山殿は岡崎城に留まり、政治の中枢から遠ざけられていた。彼女の周囲には、今川家への郷愁を抱く者や、家康の親織田路線に不満を持つ者たちが集まり、一種のサロンを形成していたとも考えられる。しかしそれは、浜松の家康から見れば、潜在的な反主流派の拠点と映ったかもしれない。後世の徳川家の公式史観に近い編纂物では、彼女は「嫉妬深く悪質な婦人」として描かれることが多い 12 。しかし、それは勝者の視点から描かれた一面的な評価に過ぎない。夫との別居、政治的な立場の変遷、そして嫡男・信康の将来への不安。岡崎城の奥深くで、彼女は深い孤立感と焦燥に苛まれていたと想像される。
この徳川家が抱える構造的な歪みと緊張関係は、一つの些細な亀裂から、一気に崩壊へと向かうことになる。築山殿の悲劇は、彼女個人の問題というよりも、徳川家が戦国大名として急成長する過程で生じた痛みの象徴であり、その犠牲者となった側面が極めて強いのである。
第一章:疑惑の濫觴 – 十二箇条の訴状
岡崎城内に燻る不和と、徳川家全体を覆う政治的緊張は、天正七年(1579年)夏、一通の書状によって爆発する。信康の正室・徳姫が、父である織田信長へ密かに送ったとされる「十二箇条の訴状」。これが、築山殿と信康を死へと追いやる直接的な引き金となった。この訴状は、単なる家庭内の諍いの告発に留まらず、徳川家の内情を同盟国の最高権力者に暴露し、問題を家康の制御が及ばない領域へと引きずり出した、極めて政治的な意味合いを持つ「外交事件」であった。
嫁姑の確執:世継ぎ問題という火種
徳姫は、織田信長の娘として、九歳で信康に嫁いだ 13 。これは清洲同盟を盤石にするための政略結婚であった。彼女は信康との間に二人の娘、登久姫と熊姫をもうけたが、待望の男子には恵まれなかった 1 。戦国時代の武家において、嫡男を産むことは正室の最も重要な役割であり、男子が生まれなければその地位は盤石とは言えなかった。
世継ぎの誕生を誰よりも強く望んでいたのが、姑である築山殿であった。彼女は、徳川家の安泰と、何よりも愛息・信康の地位を確固たるものにするため、信康に側室を設けるよう強く勧めたと伝えられる 2 。これは当時の武家の慣習としては決して珍しいことではなかったが、織田信長の娘としての高いプライドを持つ徳姫にとっては、耐え難い屈辱であったに違いない。「女児しか産めぬ役立たず」という、姑からの無言の圧力を感じ取ったであろう彼女の心中は、嫉妬と憎悪の炎に焼かれていた 1 。
問題をさらに深刻化させたのは、信康の側室として選ばれた女性の一人が、武田家の元家臣・日向大和守の娘であったことである 15 。徳川家が総力を挙げて武田家と戦っている最中に、敵方の縁者から側室を迎えるという築山殿の行動は、徳姫にとって格好の攻撃材料となった。これは単なる嫁いびりではなく、徳川家の外交方針に背く利敵行為であると、父・信長に訴えることが可能になったのである。
訴状の内容:不行跡と内通疑惑
『三河後風土記』などの後世に編纂された史料によれば、徳姫が信長に送った訴状は十二箇条にも及んだとされる 15 。その内容は、夫・信康と姑・築山殿への積年の恨みをぶちまけた、凄まじいものであった。
訴状はまず、信康の粗暴な振る舞いを告発する。領内で催された踊りの見物中に、踊り子の所作が気に入らないという理由で弓矢で射殺した、といった常軌を逸した行状が書き連ねられていたという 19 。これらの記述が事実であったか、あるいは徳姫による誇張や捏造であったかは定かではない。しかし、彼女の筆は、より深刻な告発へと向かう。
その矛先は、姑・築山殿に向けられた。訴状は、築山殿が甲斐から減敬(滅敬)という名の唐人医師を岡崎に呼び寄せ、彼と不義密通の関係にあると断じている 12 。そして、この減敬を仲介役として、武田勝頼と密かに内通していると告発したのである 21 。これは、徳川家、ひいては織田・徳川同盟そのものに対する裏切り行為の告発であり、極めて重大な意味を持っていた。徳姫はさらに、築山殿の侍女から、武田勝頼が築山殿に宛てて送った誓書(起請文)が存在するという情報を得たと記し、その疑惑に信憑性を持たせようとした 2 。
この訴状は、岡崎城という閉ざされた空間で起きていた嫁姑の確執や夫婦の不和といった「家」の問題を、武田家との内通という「国家」レベルの反逆事件へと一気にすり替えるものであった。それまで徳川家内部の問題であった対立の構図は、徳姫のこの一筆によって、織田信長という絶対的な外部権力を巻き込み、もはや家康一人の裁量では収拾不可能な政治問題へと変質したのである。
第二章:安土での対審と、覆らぬ運命
徳姫からの訴状は、安土城の織田信長のもとへ届けられた。同盟者である徳川家の内情、それも嫡男とその母が敵である武田と内通しているという衝撃的な内容は、信長の逆鱗に触れた。この報せを受けた徳川家康は、弁明のために重臣を安土へ派遣する。この安土での対審が、築山殿と信康の運命を決定づけたとされるが、その真相をめぐっては、古くからの通説と、近年の研究による新たな説が鋭く対立している。
通説:信長の命令と酒井忠次の失態
江戸時代に成立した『三河物語』や『改正三河後風土記』などが描く、いわゆる通説では、物語は次のように展開する。訴状を読んだ信長は激怒し、家康に対して築山殿と信康の即時処分を厳命した 1 。同盟者からの、しかも嫡男とその母に関する内政干渉は、家康にとってまさに青天の霹靂であり、徳川家始まって以来の最大の危機であった 1 。
窮地に陥った家康は、徳川四天王の筆頭であり、重臣中の重臣である酒井忠次を安土城へ派遣し、信長の誤解を解き、必死の弁明をさせようとした 1 。しかし、安土城で信長の前に進み出た忠次の行動は、不可解極まるものであった。信長が訴状の一ヶ条ずつを指さし、その真偽を厳しく問い質したところ、忠次は一切の弁明を試みることなく、全ての条項について「その通りにございます」と肯定してしまったというのである 7 。
信長は、徳川家の宿老である忠次自身が全てを認めるのであれば、もはや疑いの余地はないと判断。「信康をこのままにはしておけぬ。ただちに切腹させるよう家康に伝えよ」と、最終的な命令を下した 23 。忠次は岡崎へは寄らず、直接浜松の家康のもとへ戻り、この絶望的な結果を報告した。家康は全てを悟り、信長を恨むこともなく、ただ涙をのんで我が子と妻の処分を受け入れた、というのが長らく語り継がれてきた物語である。この説に立てば、悲劇の主たる責任は、非情な命令を下した信長と、弁明という役目を果たせなかった使者・酒井忠次にあることになる。
家康主導説:塗り替えられる事件の構図
しかし近年、この通説は大きく揺らいでいる。同時代のより信頼性の高い史料を再検討する中で、事件は信長の命令によるものではなく、むしろ家康自身が主導した粛清であったとする「家康主導説」が有力視されるようになった 3 。
この説の根拠となる史料の一つに、『当代記』や『安土日記』がある。これらの記録によれば、信長は家康からの相談に対し、「信康を殺せ」とは一言も言っておらず、徳川家の内情を酌んだ上で「家康の存分次第(思う通りにせよ)」と返答したと記されている 7 。これは、最終的な決断の権限と責任が、家康自身にあったことを強く示唆している。
この視点に立つと、事件の構図は180度転換する。家康は、浜松の自身の方針に従わず、岡崎で独自の動きを見せる信康・築山殿ら岡崎派の存在を、徳川家の統制を乱す危険な要素と見なしていた 7 。特に、武田との和睦をも視野に入れるかのような岡崎派の動きは、織田との同盟を国是とする家康にとって到底容認できるものではなかった。徳姫からの訴状は、家康にとって岡崎派を粛清するための絶好の口実となった。家康は自らの意志で妻子を処分することを決断し、信長の「許可」を得るという形式を整えるために、酒井忠次を安土へ派遣した、というのである 7 。
この家康主導説に立てば、酒井忠次が安土で弁明をしなかったという逸話も、全く異なる意味を帯びてくる。忠次の行動は失態などではなく、家康の意向を忠実に実行した結果であった。つまり、はじめから弁明するつもりはなく、訴状の内容を肯定することで、信長から処分の「お墨付き」を得ることが目的だったのである。徳川家の筆頭家老である忠次が、主君の妻子に関わる重大な嫌疑に対し、何の弁明もせずに全てを認めるという不自然な行動は、むしろ家康の明確な意図があったと考える方が合理的である。
長らく語られてきた「信長の非情な命令に、家康は苦渋の決断を強いられた」という物語は、結果として「主君が自らの意志で妻子を殺した」という徳川家にとって極めて不都合な事実を覆い隠し、初代当主の非情な行為を正当化・美化するために、徳川の治世が確立していく過程で後世に創られ、定着していった可能性が極めて高いのである。
第三章:誅殺への道程 – 岡崎から佐鳴湖へ
安土での対審を経て、築山殿と信康の運命は覆すことのできないものとなった。天正七年の夏から秋にかけて、徳川家による粛清は、冷徹かつ計画的に実行されていく。その最初の標的とされたのは、築山殿であった。彼女が住み慣れた岡崎城を追われ、死地である遠江・佐鳴湖畔へ至るまでの、静かで絶望に満ちた旅路は、この悲劇の核心部へと続く道程であった。
表1:築山殿誅殺に至る時系列表(天正七年)
一連の出来事の流れを俯瞰するために、まずその時系列を以下に示す。この表からは、信康を先に岡崎城から引き離して築山殿を孤立させ、段階的に処分を進めていった周到な計画性がうかがえる。
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年月日(天正7年 / 1579年) |
主要な出来事 |
関連人物 |
典拠・備考 |
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7月頃 |
徳姫、父・信長へ十二箇条の訴状を送付か |
徳姫、織田信長 |
『三河後風土記』など後世の編纂史料に基づく通説 15 |
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7月下旬~8月上旬 |
酒井忠次、安土城にて信長と謁見。弁明せず疑惑を認めるか |
酒井忠次、織田信長 |
通説では事件の決定打とされるが、家康主導説では形式的な報告との見方もある 22 |
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8月4日 |
松平信康、岡崎城を追放され大浜城へ移送される |
松平信康、徳川家康 |
築山殿より先に信康が隔離される 21 |
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8月29日 |
築山殿、岡崎城から移送の途中、佐鳴湖畔にて誅殺される |
築山殿、野中重政、岡本時仲 |
享年38歳(諸説あり)。本報告書の中心となる出来事 7 |
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9月15日 |
松平信康、二俣城にて自刃を命じられる |
松平信康、服部半蔵(介錯役) |
享年21歳。築山殿の死から半月後の出来事 7 |
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9月下旬以降 |
築山殿の首が信長のもとへ届けられ、検分される |
石川義房、織田信長 |
誅殺が信長の意向に沿ったものであることを示すための手続きか 27 |
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時期不明 |
築山殿の遺品から武田勝頼の起請文が発見されたとの逸話 |
徳川家康 |
家康は中身を見ずに焼却を命じたとされる 9 |
追放と移送命令
粛清の第一段階として、まず8月4日、松平信康が岡崎城から追放された 26 。彼は三河湾に面した大浜城、次いで遠江の堀江城、そして最終的には二俣城へと、身柄を転々とさせられた 21 。これにより、岡崎城には築山殿が一人取り残される形となり、彼女の最大の庇護者であった信康から物理的に引き離され、完全に孤立させられた。
そして運命の日、8月29日が訪れる。築山殿のもとに、「浜松城へお移りいただきます」という家康からの命令が下された 29 。表向きは夫のいる本城への移動であったが、ある史料では、彼女はこの命令をうきうきと喜んで輿に乗ったとさえ記している 30 。しかし、この「浜松への移転」は、彼女を岡崎城という守られた空間から引き離し、人目につかない場所で密かに処分するための、冷酷な口実に過ぎなかった。
最期への旅路
築山殿を乗せた輿の一行は、物々しい警護のもと、岡崎城を出立した。その道程は、本坂道(姫街道)を西へ進み、三ヶ日の湊から舟に乗って浜名湖を渡ったと伝えられている 2 。夏の終わりの陽光が煌めく湖上の穏やかな風景とは裏腹に、輿の中の築山殿の胸中、そして彼女を死地へと護送する家臣たちの間に流れる空気は、いかばかりであったか。一行は宇布見(現在の浜松市中央区雄踏町)で一泊し、翌日再び舟に乗ったとされる 2 。
佐鳴湖への到着
一行の舟は、浜名湖からさらに入野川(新川)を遡り、内陸の佐鳴湖へと入った 2 。そして、佐鳴湖東岸の小藪村(現在の浜松市中央区富塚町あたり)と呼ばれた地で舟を降り、上陸した 7 。そこは、家康の本拠地・浜松城からも、信康が幽閉されている二俣城からも程近い場所であったが、城下や街道筋からは外れた、葦の生い茂る寂しい湖畔であった。
その岸辺には、彼女の最期を執行するために、徳川家臣の野中三五郎重政、岡本平右衛門時仲、そして検死役の石川太郎左衛門義房らが、静かに待ち受けていた 12 。城のような公的な空間でも、街道のような人目につく場所でもない、この「湖畔」という境界領域が処刑の場として選ばれたことには、象徴的な意味があったのかもしれない。この誅殺が、公式な処刑ではなく、あくまで徳川家内部の内密な「処分」であることを示し、築山殿という存在を徳川家の歴史から完全に「彼岸」へと送り去るための、儀式的な舞台装置であったとも考えられるのである。
第四章:湖畔の悲劇 – 築山殿、最期の刻
天正七年八月二十九日、佐鳴湖畔の小藪の地。築山殿の生涯は、ここで悲劇的な終焉を迎える。湖面を渡る風が葦の葉を揺らす音だけが響く中、彼女の最期の瞬間は、後世の史料や伝承の中で、様々な形で語り継がれてきた。それは、武家の女性としての矜持を示す壮絶な自害であったのか、それとも抵抗空しい無慈悲な斬殺であったのか。この誅殺という事実を、後世の人々がどのように受け止め、意味付けしようとしたかの痕跡が、これらの多様な物語の中に刻まれている。
死の宣告と最期の様相
小藪の岸辺に上陸した築山殿の前には、筵が敷かれ、全ての準備が整えられていた 27 。輿を降り、その異様な光景を目の当たりにした彼女は、自らの運命を即座に悟ったであろう。家康の命を受けた野中重政らが進み出て、彼女に自害を促したとされる。ここからの彼女の行動については、大きく分けて二つの説が伝えられている。
一つは、彼女の最期の尊厳を強調する「覚悟の自害説」である。『三河後風土記』などの編纂史料が伝えるところによれば、築山殿は少しも取り乱すことなく、静かに「覚悟はできております」と告げたという。介錯役の野中重政が、さすがに主君の正室に刃を向けることをためらっていると、築山殿は「御役目を果たされよ。できぬとあらば、わらわが手ずから!」と叱咤し、懐から取り出した懐剣で自らの喉を突いた。これを見た重政は、やむなくその首を打ち落とし、介錯の役目を果たしたとされる 32 。この描写は、彼女を単なる罪人ではなく、運命を潔く受け入れた高貴な女性として描こうとする意図が感じられる。
もう一つは、より悲劇性を際立たせる「斬殺説」である。こちらは、築山殿が自害を拒んだため、家臣らがやむなく、あるいは独断で彼女を斬り殺したとする説である 28 。徳川家の正室として生きてきた誇りが、夫の家臣の手にかかって死ぬことを潔しとしなかったのかもしれない。この説は、誅殺の強制的で理不尽な側面をより強く印象付ける。
呪詛の言葉と太刀洗の池
いずれの説が真実であったにせよ、彼女の死が無念に満ちたものであったことは想像に難くない。その無念さを象徴する逸話が、『士談会稿』という史料に記録されている。それによれば、築山殿は殺されるまさにその瞬間に、執行者たちに向かって「我が身は女なれども汝らの主なり。三年の月日に思い知らせん」と、凄まじい形相で叫んだという 9 。これは、無実の罪で殺される自らの怨念が、実行者たちへの呪いとなって降りかかることを予言した言葉であり、この事件のただならぬ不吉さを物語っている。
築山殿の首を落とした刀は、相州貞宗の名刀であったと伝えられる 32 。その刀に付着した血は、近くの池で洗い清められた。この池は後に「太刀洗の池」と呼ばれ、史跡としてその名を残すことになった 4 。そして、この池の水は、その後百年もの間、血の色さながらに赤く濁り続けたという、恐ろしい伝説も生まれた 27 。これらの伝説は、築山殿の怨念の深さと、この非情な誅殺という行為に対する人々の畏怖の念が、具体的な物語として結晶化したものであろう。
首の行方と亡骸の埋葬
築山殿の首は、検死役の石川義房によって確認された後、安土城の織田信長のもとへ届けられた 27 。これは、徳川家が信長の意向に沿って、疑いの中心人物を確かに処分したことを証明するための手続きであった。信長の検分を終えた首は、その後岡崎へ送り返され、重臣・石川数正の手によって祐傳寺に葬られた(後に八柱神社に移設) 2 。一方、首を失った亡骸は、現場に駆け付けた西来院の住職によって引き取られ、同寺院の境内に手厚く埋葬された 32 。法名は「西来院殿政岩秀貞大姉」と贈られた。享年38歳(天文11年生まれとすれば)、あるいは42歳ともいわれる、あまりにも短い生涯であった。
半月後の9月15日、息子の信康もまた、二俣城で自刃を命じられ、21歳の若さでこの世を去った 7 。母子の悲劇は、こうして完結したのである。
第五章:不吉譚の真相 – 椿の伝説を巡って
ご依頼の核心である「築山殿が誅された道中、山の椿が一斉に散った」という不吉譚。この鮮烈なイメージを伴う逸話は、彼女の悲劇的な最期を象徴する物語として、一部で語り継がれてきた。しかし、この伝承の起源をたどると、歴史的事実とは異なる、より複雑で興味深い背景が浮かび上がってくる。この不吉譚は、史実の断片が、浜松という土地に根付く別の物語と人々の心象風景の中で結びつき、再結晶化して生まれた「フォークロア(民間伝承)」である可能性が極めて高い。
「山の椿が一斉に散った」伝承の検証
まず結論から述べれば、今回調査した『三河物語』『改正三河後風土記』『当代記』といった主要な編纂史料や、地域の記録の中に、築山殿の死の瞬間に「山の椿が一斉に散った」という直接的な記述を見出すことはできなかった。これは、この逸話が広範に知られた史実ではなく、特定の地域や文脈でのみ語られる口承、あるいは後世の創作である可能性を示唆している。では、なぜ「築山殿の死」と「椿」が結びつけられるようになったのか。その鍵は、浜松の郷土史に深く刻まれた、もう一つの椿の物語にある。
もう一つの椿の物語 – 椿姫観音
浜松の地には、築山殿と椿にまつわる、非常によく知られた別の伝承が存在する。それは、彼女の慈悲深い一面を伝える物語である。
永禄十一年(1568年)、家康が遠江に侵攻し、当時の浜松(引間)城を攻めた際のことである。城主・飯尾連龍はすでになく、その妻であったお田鶴の方が女城主として城を守っていた。お田鶴の方は、家康の降伏勧告を毅然と拒絶し、侍女たちと共に緋縅の鎧をまとい、薙刀を振るって徳川軍に討って出た。奮戦空しく、彼女と侍女たちは壮絶な討死を遂げた 36 。
このお田鶴の方の母と、築山殿の母は義理の姉妹にあたる関係であった 2 。縁者であり、同じ戦国の世を生きる女性として、お田鶴の方の勇猛な最期を伝え聞いた築山殿は、その死を深く哀れんだ。そして、家康が手厚く葬ったお田鶴の方と侍女たちの塚の周りに、自ら100株余りの椿の木を植えて、その霊を弔ったと伝えられている 13 。この塚は、やがて見事な椿が咲き誇る名所となり、いつしか人々から「椿塚」と呼ばれるようになった。そして、塚に祀られたお田鶴の方は「椿姫」と称され、現在も「椿姫観音」として浜松の街角で手厚く祀られている 37 。
伝説の混交と創造
ここに、二つの物語が存在する。一つは「佐鳴湖畔で非業の死を遂げた築山殿の物語」。もう一つは「引間城で壮絶な死を遂げ、築山殿によって椿で弔われたお田鶴の方(椿姫)の物語」である。この二つの物語が、長い年月の中で人々の記憶の中で融合し、新たな伝説を生み出したと考えられる。そのプロセスは、以下のように推察できる。
- 象徴性の一致: 椿の花は、桜のように花弁が一片一片散るのではなく、花の形を保ったまま萼(がく)からぽとりと落ちる。この様子が、人間の首が落ちる様を強く連想させるため、古くから武士の間では「斬首の花」として不吉なものと見なされ、庭に植えることを忌避する風習があった。
- 物語の融合: 浜松という土地には、「悲劇の女性・築山殿」の記憶と、「椿に縁の深い悲劇の女性・お田鶴の方(椿姫)」の伝説が、共に存在していた。特に、築山殿自身がお田鶴の方を弔うために椿を植えたというエピソードは、彼女と椿とを強く結びつけるものであった。
- 新たな物語の創造: この二つの物語が人々の間で語り継がれていくうちに、記憶の混同や物語的な脚色が生じた。「築山殿」という悲劇の主人公に、彼女と縁の深い「椿」という象徴的な花が結びつく。そして、椿の花が持つ「落花=斬首」という不吉なイメージが、まさに斬首に近い形で殺された築山殿の最期と重ね合わされる。その結果、「築山殿の死の際に、彼女を象徴する花である椿が一斉に散った(首を落とした)」という、より劇的で、悲劇性を際立たせた新たな不吉譚が創造されたのではないか。
したがって、ユーザーが提示した「椿の不吉譚」は、歴史的事実そのものではなく、史実の断片(築山殿の死、彼女と椿の関わり)が、文化的背景(椿の象徴性)を触媒として、人々の集合的記憶の中で再構成されて生まれた、美しいながらも哀しい「伝説」であると結論付けられる。それは、人々が歴史上の悲劇をいかに記憶し、意味を付与し、語り継いでいくかという、伝承創出の貴重な一例と言えるだろう。
終章:歴史の残響 – 逸話が語り継ぐもの
築山殿と信康の死は、徳川家中に深い傷跡を残し、その後の歴史にも静かな、しかし確かな影響を与え続けた。この悲劇的な逸話は、単なる過去の一事件として風化することなく、様々な形で語り継がれ、後世の人々の心に権力と人間、そして運命の非情さを問い続けている。
関係者たちのその後と呪いの影
築山殿が最期に叫んだとされる「三年の月日に思い知らせん」という呪詛の言葉 9 。それは、単なる無念の叫びでは終わらなかったかのように、事件の関係者たちには暗い影を落としたと伝えられている。築山殿を直接手にかけるという汚れ役を担った野中重政や岡本時仲、検死役の石川義房らは、その後原因不明の病に倒れたり、身内に不幸が相次いだりしたという 21 。『野中豊之丞先祖書』によれば、家康は誅殺の報告に来た野中重政に対し、「女ではないか。なぜ髪を剃り尼にして追放しなかったのか」と激しく叱責し、これに嫌気がさした重政は武士をやめて隠棲したとも記されている 9 。これが事実であれば、家康の心中にあった葛藤の一端を示すものだが、同時に、実行者たちに全ての責任を負わせようとする為政者の冷徹さも垣間見える。
当の家康自身は、この事件について生涯多くを語ることはなかった 9 。しかし、築山殿の菩提を弔うために西来院に廟堂を建立し 32 、信康の介錯を命じられながらも涙して刀を振るえなかった服部半蔵が、信康の供養のために建てた西念寺を庇護するなど 21 、その行動の端々には、妻子への複雑な思いが滲み出ていた。
闇に葬られた起請文
この事件の核心である「武田家内通」の真偽をめぐっては、一つの興味深い逸話が残されている。『士談会稿』によれば、事件の後、家臣の一人が築山殿の住まいを調査したところ、武田勝頼からの起請文(誓約書)が収められた道具箱を発見したという 9 。内通の動かぬ証拠である。家臣がこれを家康に差し出すと、家康は中身を確かめようともせず、ただ一言、「火にくべよ」と命じた。そして、その後は何も語らなかったという 9 。
この逸話は、二つの全く異なる解釈を可能にする。一つは、築山殿の内通が事実であり、家康はその証拠を完全に闇に葬ることで、徳川家の汚点を抹消しようとしたという見方である。もう一つは、たとえ内通が事実であったとしても、もはや死人に口なしであり、その詳細を追及することはせず、元妻への最後の情けとして全てを不問に付したという見方である。天下人としての冷徹さと、一人の人間としての情。この逸話は、家康という人物の多角的で複雑な内面を、見事に映し出している。
物語としての昇華
築山殿の悲劇は、徳川の世が確立されると、公式の歴史の中では「嫉妬深く、悪逆な振る舞いの末に誅された悪女」として、その死を正当化する形で記録されることが多かった 12 。それは、神君・家康の経歴から、この妻子殺しという最大の汚点を取り除くための、意図的な歴史の編纂であった。
しかし、民衆の間で語り継がれる講談や、後の時代の小説、そして現代の映像作品では、彼女は全く異なる姿を見せる。今川家の誇りを胸に抱きながらも、夫に疎まれ、時代の奔流に翻弄された悲運の女性。あるいは、我が子・信康の将来を案じるあまり、危険な策謀に手を染めてしまった母として。そこでは、彼女の苦悩や孤独、そして無念さが繰り返し描かれ、多くの人々の同情と共感を呼んできた。
築山殿が徒党と通じたと疑われ、誅殺されたという逸話、そしてそれにまつわる椿の不吉譚は、単なる歴史上の一事件に留まらない。それは、史実の断片を核としながら、人々の想像力や共感、そして時代の価値観を織り交ぜて、豊かで重層的な「物語」として昇華されたのである。この物語は、権力とは何か、正義とは何か、そして運命の非情さに翻弄される人間の哀しみを、四百数十年後の我々に静かに語りかけている。
引用文献
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- 家康公ゆかりの地を 紹介します!【出世大名家康くんのおでかけ日記】 - 浜松市 https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/ieyasu/promotion/odekake/202008_yukari.html
- 浜松城周辺で家康公ゆかりの地を歩く・家康の散歩道(城内・城下ルート)前編 https://hamamatsu-daisuki.net/pickup/3115/