最終更新日 2025-11-01

織田信長
 ~「人間五十年」と舞い、生死観を謡う~

織田信長が桶狭間前に舞った「人間五十年」の謡を解析。絶望的状況下での信長の生死観、リーダーシップ、そしてその史実性を深く考察し、現代的意義を探る。

織田信長「人間五十年」の生死観譚 ― 桶狭間出陣前夜、運命の舞の徹底解析

第一章:決戦前夜 ― 清洲城を包む絶望の空気

永禄三年(1560年)五月、尾張国清洲城は、かつてない緊張と静かな絶望に包まれていた。駿河、遠江、三河を束ねる「海道一の弓取り」、今川義元が、数万と号する大軍を率いて尾張への侵攻を開始したのである。この出来事が、織田信長という稀代の英雄の伝説の中でも、特に鮮烈な一幕の序章となる。信長が運命の舞を舞うに至った背景には、抗いようのない現実としての圧倒的な軍事的劣勢と、それがもたらす深刻な心理的圧迫が存在した。

圧倒的な兵力差の現実

当時の軍記物や後世の記録によれば、今川義元が動員した兵力は総勢2万5千、対する織田信長が即座に動員可能な兵力は2千から3千程度とされ、その差は実に10倍にも及んだ 1 。戦国時代の常識において、この兵力差は合戦の成立すら意味せず、一方的な蹂躙と城の陥落を待つに等しい状況であった。この数字が織田家の家臣団に与えた衝撃は計り知れず、城内では籠城策を主張する声が大勢を占めていた。

しかしながら、近年の研究ではこの兵力差について新たな視点が提示されている。今川軍2万5千という数字は総動員数であり、実際に戦闘に参加する兵員だけでなく、兵站を担う非戦闘員も多く含まれていた可能性が高い。さらに、広大な領国を維持するため各地に兵力を分散配置する必要があり、義元が直接率いていた本隊の兵力は5千から6千程度であったとする説が有力視されている 3 。一方で、信長も前年に尾張の大部分を統一しており、その潜在的な動員兵力は通説よりも多かった可能性も指摘される 5

だが、ここで最も重要なのは、実際の兵力差そのものよりも、清洲城内に蔓延していた「絶望的な状況認識」である。家臣たちが籠城以外の選択肢を考えられないほど、今川軍の威勢は織田家中の人々を心理的に圧倒していた。そして、この圧倒的な兵力差という「情報」は、逆説的に今川方に致命的な油断を生じさせる要因ともなった 2 。自軍の圧倒的優勢を信じて疑わない義元とその将兵たちの慢心は、信長にとって唯一の勝機を見出すための隙となり得た。すなわち、織田方を覆う「恐怖」と今川方を満たす「慢心」という二つの心理状態こそが、この合戦の真の戦場だったのである。

最前線の状況と迫りくる刻限

清洲城で激論が交わされている間にも、戦況は刻一刻と悪化していた。五月十八日夜、今川軍の先鋒である松平元康(後の徳川家康)隊は、織田方の最前線拠点である大高城への兵糧入れを成功させる。そして十九日の未明には、今川軍本隊が織田方が築いた前線の砦、鷲津砦と丸根砦への攻撃を開始したという急報が、立て続けに清洲城へと舞い込んだ 7 。もはや議論の猶予はなく、決断の時は最終段階にまで迫っていた。

この絶体絶命の状況下で、筆頭家老の林秀貞をはじめとする重臣たちは、改めて籠城し、援軍を待つべきだと信長に強く進言した 8 。彼らにとって、城を出て野戦を挑むことは自殺行為に他ならなかった。しかし、信長はこの合理的な判断を一蹴する。家臣団との深刻な意見対立の中、信長は孤独な決断を迫られていた。尾張の存亡、そして自らの運命を賭けた一手が、まさにこの瞬間に下されようとしていたのである。

第二章:運命の夜明け ― 緊迫の朝を時系列で再構築する

永禄三年五月十九日、夜明け。清洲城内が前線からの急報に騒然とする中、織田信長の取った行動は、後世にまで語り継がれる伝説的な一幕として歴史に刻まれることとなる。この章では、信長の側近であった太田牛一が記した信頼性の高い一次史料『信長公記』の記述を基に、運命の朝の出来事を分刻みで再構築し、その一挙手一投足に込められた意味を明らかにする。

行動の逐次再現

『信長公記』が描くその朝の光景は、極度の緊張と静謐が同居する、異様な雰囲気に満ちている。

発端: 夜が白み始めた頃、鷲津・丸根両砦が今川軍の猛攻に晒されているという注進が、矢継ぎ早に城内へともたらされた 8 。家臣たちの間に動揺が広がり、城内は混乱の極みに達する。誰もが信長の次の一言を固唾を飲んで待っていた。

信長の反応: しかし、信長は迫りくる危機を前にしても、慌てるそぶりを一切見せなかった。彼はその喧騒の中で静かに立ち上がると、おもむろに謡を口ずさみ、当時、武士階級の間で流行していた幸若舞『敦盛』の一節を舞い始めたのである 9 。この、あまりにも唐突で予測不可能な行動は、周囲の者たちに計り知れない衝撃を与えたであろう。

謡: やがて、城内に朗々とした声が響き渡る。

「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」

信長は、この有名な一節を力強く謡い上げた 9。それは、目前の合戦の勝敗を超えた、深遠な死生観の表明であった。

変転: 舞が終わり、謡の声が消えた瞬間、それまでの静謐な雰囲気は一変する。信長は表情を鋭く引き締め、あたかも別人になったかのように力強く号令した。

「法螺をふけ、具足をよこせ(法螺貝を吹け、鎧を持ってこい)」9。

精神世界の儀式から、冷徹な現実の指揮官へと瞬時に回帰したのである。

出陣準備: 側近たちが慌ただしく持ってきた具足を身に着けながら、信長は立ったまま食事を口にした 9 。後世の物語では、この時「湯漬け」をかき込んだと広く伝わっているが、『信長公記』の原文には「御食(おもの)をまいり」とあるのみで、湯漬けという具体的な記述はない 9 。形式や作法に囚われず、一刻を惜しんで出陣の準備を整えるこの行動は、信長の合理性と決意の固さを象徴している。

出立: 最後に兜をかぶると、信長は供の者たちを振り返ることなく、清洲城を飛び出した。この時、彼に従ったのは、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎ら、わずか五人の側近のみであった 9 。主従六騎という極めて小人数での出陣は、軍事行動の常識を逸脱しており、信長の決断がいかに個人的で、かつ機密性を重視したものであったかを物語っている。夜明け前の薄闇の中、彼らは熱田神宮を目指して馬を駆った。

運命の朝の行動時系列表

信長のこの一連の行動は、単なる感情的なものではなく、極限状態におけるリーダーの高度な意思決定プロセスとして分析することができる。その流れを以下の表にまとめる。

推定時刻

出来事

『信長公記』における記述

分析・意味合い

午前4時頃

鷲津・丸根砦より敵襲の急報

「注進頻りなり」

決断の時が最終的に迫る。外部からの圧力が増大。

直後

幸若舞『敦盛』を舞い始める

「敦盛の舞を遊ばし候」

内面への集中。静と動の転換による精神統一の儀式。

「人間五十年…」と謡う

「人間五十年…と謡はれ候」

死生観の表明と覚悟の確立。死の恐怖からの超越。

出陣を号令

「螺ふけ、具足よこせ」

精神世界から現実への帰還。決断の実行を命令。

立ったまま食事

「立ながら御食をまいり」

合理性と速度の重視。旧来の形式に囚われない姿勢。

午前5時頃

僅かな供回りと共に出陣

「主従六騎にて御出であり」

決意の固さと行動の機密性確保。個人的な戦いの開始。

この時系列は、信長の行動が「精神的儀式(舞と謡)」から「物理的準備(具足と食事)」、そして「軍事行動(出陣)」へと、極めて論理的かつ迅速なシーケンスで構成されていることを明確に示している。それは単なる奇行ではなく、絶望的な状況を打開するために、自らの精神を極限まで高め、周囲の動揺を鎮め、そして一瞬の勝機を掴み取ろうとする、類稀なる将帥の姿そのものであった。

第三章:謡の真意 ―「人間五十年」の深層解析

織田信長が謡った「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」という一節は、彼の代名詞としてあまりにも有名である。しかし、その言葉が持つ本来の意味と文化的背景は、通俗的な解釈の奥に深く隠されている。この章では、この謡の出典を特定し、その本来の意味を解き明かし、そして信長がこの言葉を引用した真の意図を探ることで、彼の思想の核心に迫る。

第一節:出典としての幸若舞『敦盛』

まず重要なのは、信長が舞ったのが能の『敦盛』ではなく、「幸若舞(こうわかまい)」という芸能の一演目であったという点である 10 。幸若舞は室町時代に興り、戦国時代にかけて武士階級に特に愛好された語り舞の一種で、勇壮な軍記物語などを題材とすることが多かった。

その中でも『敦盛』は、『平家物語』における一ノ谷の合戦の悲話に基づいている。源氏方の老練な武将・熊谷次郎直実が、平家方の若武者を組み伏せ、首を掻こうとしたところ、その相手が自らの息子と同年代の、まだ元服して間もない紅顔の美少年・平敦盛であったことに気づく。直実は彼を助けようとするが、味方の軍勢が迫る中で叶わず、泣く泣くその首を取る。戦場で笛を携えるほどの風雅な心を持つ若者の命を奪ったことに世の無常を感じた直実は、この出来事をきっかけに武士としての生き方に深い疑念を抱き、ついには出家を決意する、という物語である 10

第二節:謡に込められた無常観

信長の謡った「人間五十年」という言葉は、しばしば当時の日本人の平均寿命が50歳程度であったことを指す、と通俗的に解釈されがちである。しかし、これは本来の意味から離れた理解である 20 。この一節の真意を理解するためには、仏教的な宇宙観に触れる必要がある。

原文の「化天(げてん)」、あるいは「下天」とは、仏教の世界における天界の一つを指す。この天界での時間の流れは人間界とは比較にならず、化天における一日は、人間界の数百年から数千年に相当するとされる 11 。したがって、この一節が本来意味するところは、「人間の一生、たとえそれが五十年という歳月であったとしても、長大で悠久な天界の時間に比べれば、まるで夢か幻のように儚く、一瞬のできごとに過ぎない」という、壮大なスケールでの無常観の表明なのである 11

さらに、幸若舞『敦盛』におけるこの一節には、重要な続きがある。

「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」 11

現代語に訳せば、「この世に生を受けた者で、死なない者などいるだろうか。この死すべき運命という真理を、悟りを得るためのきっかけ(菩提の種)と考えないのは、実に残念なことである」となる。これは単に人生の儚さを嘆くのではなく、死の必然性を受け入れた上で、それをより高次の精神的境地へと至るための糧と捉える、積極的で深遠な仏教思想が根底に流れていることを示している。

第三節:熊谷直実の謡と信長の謡 ― 意味の反転と再創造

本報告における最も重要な分析は、この謡が本来の物語の中で持つ文脈と、信長がそれを使用した文脈との間に存在する、決定的な「反転」である。幸若舞『敦盛』の物語において、この一節は、戦の世の非情と無常を痛感した熊谷直実が、 武士としての生を捨て、俗世を離れて出家を決意する場面 で謡われる 10 。つまり、本来は「世俗からの離脱」と「戦いの否定」を象徴する、内省的な諦観の歌なのである。

ところが信長は、この「離脱」の歌を、これから彼の生涯で最も熾烈な「世俗の戦い」に身を投じようとする、まさにその 出陣の直前 に謡った。これは、本来の文脈を180度転換させる、驚くべき行為である。

熊谷直実にとって、「人間五十年(人生は儚い)」という認識は、「ゆえに、人を殺し、功名を求める武士の生き方は虚しい」という結論に至るための、静的な諦観であった。

一方、織田信長は、同じ「人間五十年(人生は儚い)」という認識を前提としながら、「ゆえに、この限られた一瞬に全ての情熱を注ぎ込み、激しく燃え尽きることこそに価値がある」という、全く逆の動的な結論を導き出した。

ここに、信長の思想の真髄が垣間見える。彼は既存の文化や思想をただ受容するのではなく、一度自らの中で解体し、自身の哲学と目的に合致するように再構築する能力を持っていた。本来は戦いを捨てるための歌を、戦意を最高潮に高めるための歌へと昇華させたこの行為は、古い権威や常識を破壊し、新たな価値を創造していった信長の革新性の根源を、象徴的に示しているのである。

第四章:信長の精神世界 ― 絶望を前にした将の心理

桶狭間の戦いを前にした信長の一連の行動は、単なる戦術的判断や精神論では説明しきれない、彼の複雑な内面世界を映し出している。絶望的な状況下で舞を舞い、死生観を謡うという行為の裏には、どのような心理が働いていたのか。ここでは、彼の行動を精神的な側面から多角的に分析する。

死の受容と超越

10倍以上の兵力差という現実は、信長に自らの死を色濃く意識させたはずである。彼がまず『敦盛』を舞ったという行為は、目前に迫った死の恐怖と対峙し、それを受容し、そして乗り越えるための、極めて個人的な精神的儀式であったと解釈できる 27 。舞という身体的な集中を通じて精神を研ぎ澄まし、謡によって自らの死生観を再確認することで、彼は個人的な恐怖を超越し、一個の武将から、組織の運命を背負う冷徹な決断者へと変貌を遂げたのである。この儀式は、これから始まる非情な戦いに臨むための、精神的な武装であった。

計算され尽くしたパフォーマンス

しかし、この行動は単なる自己完結的な精神統一に留まるものではない。それは同時に、絶望と混乱の淵にいる家臣団に向けられた、強烈なメッセージ性を持つ計算されたパフォーマンスでもあった。

家臣たちが論じているのは、兵力、兵糧、城の防御力といった、目に見える「現実的」な要素であった。その恐怖に囚われている彼らの前で、信長はあえて舞という「非現実的」で象徴的な行動を取った。これは、家臣たちの意識を、目前の恐怖から「死生観」や「運命」といった、より高次の次元へと強制的に引き上げる効果を狙ったものではないだろうか。大将である信長自らが、死すらも超越した存在であるかのような姿を見せつけることで、兵士たちの動揺を鎮め、絶望的な状況に立ち向かうための覚悟を植え付けた。それは、恐怖を共有するのではなく、恐怖を超越した意志を示すことで組織を導くという、高度な心理的リーダーシップの発露であった 28

宿命論と能動性の結合

信長の思想の核心には、一見矛盾する二つの要素が共存している。一つは「宿命論」、もう一つは「徹底した能動性」である。彼はこの後、前線の中島砦に進出した際、出撃を諌める家臣たちに向かってこう言い放っている。「運は天にあり」と 7 。これは、最終的な結果は人知を超えた天命による、という彼の宿命論的な世界観を示している。

しかし、彼は天命をただ待つだけの人間ではなかった。『敦盛』の舞が「宿命論」の受容、すなわち「人の生死は天命にあり、いつ死ぬかは定められている」という覚悟の表明であったとすれば、その直後の迅速極まる出陣準備と電光石火の出撃は、「能動性」の極致、すなわち「その天命を引き寄せるための最善の行動を、人間はこの一瞬において実行せねばならない」という強い意志の表明であった。

この「結果は天に委ねる。しかし、その過程においては人事を尽くす」という哲学こそが、信長の常人離れした決断力の源泉であった。彼は、コントロール不可能な領域(運命)と、コントロール可能な領域(自らの行動)を明確に区別し、後者に対して全精力を注ぎ込んだ。『敦盛』の舞と謡は、この二つの精神的支柱が劇的に交差した瞬間であり、信長の複雑な精神構造を理解する上で、極めて重要な鍵となるのである。

第五章:逸話の礎 ― 一次史料『信長公記』の信頼性と限界

織田信長の桶狭間出陣前の逸話は、その劇的な内容から後世の創作ではないかと疑われることもある。しかし、この物語が単なる伝説ではなく、歴史学的に価値のある記録に基づいている点が極めて重要である。この章では、逸話の根拠となる一次史料『信長公記』の史料的価値を評価するとともに、史料批判の視点からその限界についても考察し、逸話の信憑性を客観的に検証する。

『信長公記』の史料的価値

この逸話の直接的な典拠は、太田牛一(おおたぎゅういち)によって記された『信長公記(しんちょうこうき)』である。牛一は信長に長く仕えた側近であり、自らの見聞に基づいて信長の一代記を記録した 29 。信長と同時代を生きた人物による記録であるため、『信長公記』は信長研究における最も信頼性の高い一次史料の一つとして、高く評価されている 29

牛一自身、その著述姿勢について「虚飾を加えず、ありのままを記した」と述べており、客観的な記録を心掛けていたことがうかがえる 32 。そのため、『信長公記』に記された桶狭間出陣前の描写は、実際に起こった出来事を忠実に反映している可能性が非常に高いと考えられる。

史料批判的視点と解釈の限界

一方で、『信長公記』を史料として扱う際には、その限界も認識しておく必要がある。近年の研究では、太田牛一が信長の常に側に侍る最高幹部というよりは、柴田勝家や丹羽長秀といった重臣の配下(与力)として活動した、比較的実務的な役割を担う中級武士であった可能性が指摘されている 34 。彼が信長家臣団の中で、必ずしも最高意思決定の場に常に同席できるような、極めて重要な地位にあったわけではないとする見方もある 34

この視点に立つと、桶狭間出陣前の清洲城内における、信長の極めて私的で内面的な行動(舞と謡)を、牛一がその場で直接目撃したと断定することは難しい。彼が、その場に居合わせた岩室長門守のような信頼できる目撃者から、後日詳細に聞き取りを行い、それを基に記録した可能性も十分に考えられる。

したがって、我々が知るこの劇的な逸話は、「実際に起こった出来事」そのものではなく、「太田牛一という記録者のフィルターを通して叙述され、一つの物語として構成された出来事」であるという、歴史学の基本的な視座を持つことが重要である。逸話の劇的な魅力は、信長の行動そのものだけでなく、それを後世に伝えるに足る印象的な場面として切り取り、効果的に記録した牛一の優れた筆力にも負うところが大きいと言えるかもしれない。

結論として、この逸話は歴史的事実であった可能性が極めて高いと評価できる。しかし、その詳細な描写を解釈する際には、それが一人の人間によって記録されたものであるという前提に立ち、史料批判の視点を常に忘れてはならない。

総括:歴史的瞬間の再評価

織田信長が桶狭間の戦いを前に幸若舞『敦盛』を舞ったという逸話は、単に豪胆な武将の奇行や、後世に脚色された勇ましい伝説として片付けるべきではない。本報告で詳述した通り、この一瞬の出来事は、絶望的な戦況という「現実」、仏教的な無常観という「思想」、幸若舞という当代の「文化」、そして動揺する家臣団を掌握するという「政治」が、複雑に交差する多層的な意味を内包した歴史的瞬間であった。

圧倒的な兵力差という現実を前に、信長は死を覚悟し、受容した。その上で、彼は『敦盛』の一節が持つ本来の文脈、すなわち戦いを捨て去るための諦観の歌を、これから死地へ赴くための覚悟の歌へと大胆に反転させてみせた。これは、既存の価値観を破壊し、自らの目的のために再構築する、彼の革新的な精神性を象徴している。

この舞と謡は、個人的な精神統一の儀式であると同時に、絶望に沈む家臣たちの心を奮い立たせるための、計算され尽くした政治的パフォーマンスでもあった。それは、目前の恐怖から目を逸らさせ、より高次の死生観と運命論を共有させることで、組織に一体感と覚悟をもたらす高度なリーダーシップの発露であった。

「運は天にあり」という宿命論と、電光石火の出陣という徹底した能動性の結合は、信長の行動哲学の核心を示す。彼は人知の及ばぬ運命を受け入れつつ、その運命を自らの手で切り拓くために、一瞬の躊躇もなく人事を尽くしたのである。

この逸話を我々に伝える『信長公記』は、極めて信頼性の高い一次史料であり、この出来事が歴史的事実であったことの強力な裏付けとなる。太田牛一という優れた記録者によって切り取られたこの一場面は、信長の複雑な人間性、死と隣り合わせであった戦国武士の精神構造、そして一つの文化が時代を代表する人物によって新たな意味を与えられていくダイナミズムを、鮮やかに凝縮している。

したがって、清洲城の夜明け前のあの舞は、単なる戦いの序章ではない。それは、旧時代の価値観が終焉を迎え、新たな時代を切り拓く一人の人間の強烈な意志が、芸術と哲学と政治を巻き込みながら迸った、日本史における一つの特異点として再評価されるべきである。

引用文献

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  2. 桶狭間の戦いの勝因はなんだった?圧倒的な兵を目の前にとった織田信長の行動とは https://sengokubanashi.net/history/okehazama-victory-oda/
  3. 桶狭間の戦いの謎~じつは信長の奇襲攻撃ではなかった? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3895
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  6. 桶狭間の戦い:若き信長の躍進と戦国史の転換点 https://sengokubanashi.net/person/okehazamanotatakai/
  7. 桶狭間合戦 ― 織田&今川の進軍ルート - 歴旅.こむ - ココログ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-87d8.html
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  27. 【桶狭間の戦い編②】信長が好んだ敦盛のストーリーをお話しします!【織田信長の年表】 https://www.youtube.com/watch?v=TcZGjnqf8Ss
  28. 織田信長と桶狭間の戦い突出した個の能力で圧倒的不利な戦いに勝利! - Okamura Live : ) https://live.okamura.co.jp/post/id45
  29. 『信長公記』(しんちょうこうき)/『甫庵信長記』(ほあん しんちょうき) | 筒井氏同族研究会 https://tsutsuidouzoku.amebaownd.com/posts/51873488/
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  31. 太田牛一の自筆本で読み解く信長公記|講座紹介 - 中日文化センター https://www.chunichi-culture.com/programs/program_172475.html
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  33. 信長公記とは?織田信長に関する最も信頼性が高い史料 - 歴史ハック https://rekishi-hack.com/shincho_0_0/
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