織田信長
~天下布武の印作る際書体選び宣す~
信長は「天下布武」の印に、争いを収める「武」の真義を込めた。篆書体の選択や実用性を重視した逸話に、彼の革新性と合理性が象徴される。
『天下布武』印創出の刻 ― 永禄十年、信長の意志が形を成すまで
序章:永禄十年、美濃平定の刻 ― 新たな時代の胎動
永禄10年(1567年)8月、長きにわたる攻防の末、難攻不落を誇った斎藤龍興の稲葉山城は、織田信長の手に落ちた。城下に立ち、眼下に広がる濃尾平野を見下ろす信長、時に34歳。その胸中に去来したのは、単なる一国を制圧したという征服者の高揚感だけではなかった。それは、父・信秀の代からの悲願を達成し、かつて「尾張の大うつけ」と揶揄された自らが、尾張・美濃の二国を完全に掌握する大大名へと飛躍を遂げた、歴史的転換点であった 1 。
この勝利は、信長にとって単なる領土の拡大以上の意味を持っていた。それは、彼自身のアイデンティティを根底から再定義する契機となったのである。もはや彼は、尾張という一地方の枠組みに留まる存在ではない。天下の行く末を見据え、新たな秩序を構想する者へと、その自己認識を昇華させつつあった。この内面的な変革は、必然的に、旧来の慣習や象徴を超克する、新たな「統治のシンボル」を渇望させた。美濃平定という軍事的成功は、信長の内なる自己像を劇的に変えた。そして、その新しい自己像を内外に宣言するための、不可欠な儀式として、新たな印章の創出は、もはや実務的な必要性を超えた、政治的・思想的な急務となったのである。
第一章:新たな拠点「岐阜」の誕生と、理念の模索
稲葉山城を新たな本拠地と定めた信長は、まずその改名に着手した。この重要な事業において、彼の傍らには一人の僧侶がいた。臨済宗妙心寺派の僧、沢彦宗恩(たくげんそうおん)である。沢彦は、信長の父・信秀の時代から織田家に仕え、若き信長の教育係も務めた人物であり、単なる宗教家ではなく、当代随一の学識を備えた、信長の政治的・思想的ブレーンであった 3 。
近世の史料によれば、沢彦は信長に対し、中国の故事に由来する三つの地名候補を提示したという。「岐山」「岐陽」「岐阜」の三案である 6 。これらは、古代中国で周王朝の文王が「岐山」より起こり、徳治をもって天下を平定したという故事、そして学問の祖である孔子が生まれた地「曲阜」にちなむものであった 5 。信長がこの中から「岐阜」を選んだという行為は、極めて示唆に富んでいる。彼は自らの事業を、単なる武力による下克上としてではなく、古代の聖王が成し遂げた天下平定の偉業に擬えることで、その行動に道徳的な正統性を付与しようとしたのである。
この「岐阜」命名と、それに続く「天下布武」印の考案は、決して分断された事象ではなかった。むしろ、それらは沢彦宗恩が信長のために設計した、一つの連続した「王道創出の物語」と解釈することができる。沢彦は、周の文王という「徳治」の象徴を地名に引用し、場所の正統性を確立した。そして次に、信長の行動理念そのものに正統性を与える言葉を模索した。地名が「舞台設定」であるならば、次なる印章は、その舞台で演じられる壮大な物語の「表題」となるべきものであった。両者は相互に補完しあい、信長の覇業を、乱世を終わらせるための「王道」として再定義する、壮大なナラティブを構築していたのである。
第二章:対話の再現 ―「天下布武」の四文字が提案される
岐阜城内の一室。美濃平定後の戦略構想に没頭する信長の傍らに、沢彦宗恩が静かに控えている。新たな時代の幕開けを前にした、期待と緊張が入り混じる空気が支配していたであろう。この時、沢彦は新たな印文として「天下布武」の四文字を信長に進言したと伝えられる 6 。
しかし、信長は当初、この提案に難色を示したという。「四文字は長すぎる」というのがその理由であった 6 。これは、当時の武将の印判が、武田信玄の「龍朱印」のように図案化されたものや、北条氏の「禄寿応穏」のような二字・四字の吉語が主流であった慣習を鑑みれば、自然な反応であったかもしれない。あるいは、信長自身の直感的で鋭い美意識が、四文字という構成に何らかの冗長さを感じ取った可能性も考えられる。
この信長の逡巡に対し、沢彦は「天下布武」という言葉に秘められた、深遠な真意を説き明かし始める。まず彼は、「武」という文字の字源に立ち返った。この文字は、武器である「戈(ほこ)」と、それを「止める」という二つの部分から成り立っている。すなわち、「武」の本来の意味とは、暴力を振るうことではなく、むしろ争いを鎮め、戈を止めさせることにある、と説いたのである 10 。
さらに沢彦は、その思想的典拠として、中国の古典『春秋左氏伝』を引いた。そこには、真の「武」とは七つの徳を備えたものであり、それによって天下は治まると記されている。いわゆる「七徳の武」である。その七徳とは、「暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする」こと 11 。これは、単なる軍事力ではなく、暴力の抑止、戦争の終結、国家の維持、功績の正当な評価、民生の安定、社会の調和、そして経済の繁栄という、為政者に求められる包括的な平和構築の理念であった。
この解説を聞いた信長の表情は、一変したに違いない。彼は、「天下布武」という言葉が、表向きには「武力による天下統一」という敵対勢力への明確な威嚇として機能しつつ、その内実としては「七徳の武による平和な世の創造」という、朝廷や民衆に対する大義名分を内包していることを瞬時に理解した。この二重構造こそ、彼の目指す新しい政治体制のスローガンとして、この上なく戦略的価値の高いものであった。信長は、この四文字に込められた深謀遠慮に感嘆し、これを自らの印文とすることを決断したのである。
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表1:『天下布武』の二重構造 |
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階層 |
解釈 |
典拠と思想的背景 |
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表層的意味(対外的メッセージ) |
武力をもって天下に号令し、統一を果たす。 |
戦国乱世の現実主義、覇者の論理。敵対勢力への明確な威嚇。 |
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深層的意味(対内的・大義名分) |
七徳の武を天下に敷き、争乱を鎮め、万民が安寧に暮らせる平和な世を創る。 |
中国古典『春秋左氏伝』。徳治を重んじる王道思想。朝廷や民衆への正統性の主張。 |
第三章:印判の意匠 ― 書体「篆書」に込められた王者の意志
印文が「天下布武」に定まると、次なる焦点はその視覚的表現、すなわち「書体」の選定へと移った。これは単なるデザイン上の選択ではない。印章が持つ権威そのものを決定づける、極めて重要な政治的決断であった。そして信長が最終的に選び取ったのは、「篆書体(てんしょたい)」であった 13 。
この選択には、明確かつ大胆な意図が込められていた。篆書体は、紀元前3世紀に中国大陸を初めて統一した秦の始皇帝によって、公式書体として制定された歴史を持つ 15 。文字を統一し、度量衡を定め、法治国家の礎を築いた始皇帝にとって、篆書体は国家の統一と絶対的な権威の象徴であった。信長がこの書体を選んだことは、自らを日本の歴史における既存の権威、すなわち形骸化しつつあった室町幕府や、伝統的権威である朝廷の枠外に置き、直接的に古代の「始皇帝」のような、新たな秩序を創造する創始者・絶対君主の系譜に連なろうとする意志の表明に他ならなかった。
また、篆書体はその独特の字形が、他の書体にはない荘厳さと風格を醸し出す。曲線的で優雅でありながら、どこか呪術的ですらあるその意匠は、印章に神聖な権威をまとわせる効果があった 17 。意図的に判読性を低くデザインされることさえあるこの書体は、見る者に畏敬の念を抱かせ、権威の神秘性を高める役割を果たしたのである 15 。
戦国時代、武士階級における正式な署名は、自らの筆跡に基づく「花押(かおう)」が主流であった 19 。花押は、あくまでその人物個人に帰属する「属人的」な権威の象徴である。それに対し、篆書体の印章、特に公印は、中国の歴史において「国家」や「官職」といった、個人を超えた「非属人的」な公的権威の象徴であった。信長は花押も併用し続けたが、彼の最も重要な政治スローガンである「天下布武」を、あえて篆書体の印章という形式で布告した。この行為は、彼の統治がもはや織田信長という一個人の武威に依存するのではなく、「天下布武」という理念を掲げる新しい「政権」の公的な行為であると宣言するに等しい。それは、花押という「個人的な署名」の文化から、篆書印という「国家的・公的な認証」の文化へのパラダイムシフトを意図した、革命的な一歩だったのである。
第四章:天下人の印を彫る ― 製作過程の逸話と職人たち
印文と書体が定まり、信長は印判師にその製作を命じた。この歴史的な印章を彫った職人の名は、残念ながら特定されていない。しかし、当時の権力者がいかにして最高の技術者を確保したかを物語る伝承がある。金沢の老舗、細字(ささじ、後にほそじ)印判店に伝わる話によれば、信長(あるいは後の豊臣秀吉)は全国から名工を集め、技術研修を受けさせた上で、特に優秀であった者に「細字」の姓を与えたという 21 。この伝承は、信長が印章製作という事業に対し、いかに高い水準を求めていたかをうかがわせる。
「天下布武」印の製作過程については、『政秀寺記』に象徴的な逸話が残されている 6 。信長は当初、その権威を最大限に示すため、最も高貴な金属である「純金」で印を造らせた。これは、彼の権威志向や、絢爛豪華なものを好む美意識の表れであっただろう。しかし、実際にその金の印を捺してみると、問題が生じた。金は非常に柔らかい金属であるため、圧力をかけると歪みやすく、印影が鮮明に浮かび上がらなかったのである。
ここで、信長のもう一つの側面が顔を出す。理想や権威の象徴性よりも、実用的な機能性を重んじる、徹底した合理主義である。印章の本来の目的は、発行者の意志を正確かつ明瞭に文書へ転写することにある。印影が不鮮明では、その根本的な役割を果たせない。信長は即座に作り直しを命じ、今度は銅を混ぜた合金で鋳造させた。この合金製の印は、十分な硬度を持ち、朱肉を均一に付着させ、紙上にくっきりと鮮やかな「天下布武」の四文字を刻み込むことに成功した。
この「金から合金へ」という一連の出来事は、信長の人物像そのものを凝縮して示している。すなわち、第一に、自らの権威の象徴として最高のものを求める「理想主義」。第二に、それが機能しないと判断すれば、即座に現実的で最適な解を選択する「徹底した合理主義・実用主義」。そして第三に、自らの意志(鮮明な印影)が完璧に実現されるまで妥協しない「完璧主義」。この小さな印章製作の逸話は、旧来の慣習よりも合理性を重んじた楽市楽座や兵農分離といった彼の革新的な政策と、通底する思考様式を映し出す鏡となっているのである。
第五章:「天下布武」印の完成と、その最初の使用
こうして完成した初代「天下布武」印は、楕円形の輪郭を持ち、その中に篆書体の四文字が力強く、かつ均整の取れた配置で刻まれていた 23 。その意匠は、華美な装飾を排したシンプルさの中に、天下人にふさわしい威風堂々とした風格を湛えていた 24 。
そして永禄11年(1568年)、信長が足利義昭を奉じて上洛を果たす前後の時期、歴史的な瞬間が訪れる。この新しい印章が、初めて公式文書に捺されたのである。現存する初期の朱印状の一つは、この年に発給された知行安堵状(所領を保証する文書)であり、そこには真新しい「天下布武」の朱印が鮮やかに押されている 25 。これは、信長の新たな政治理念が、初めて公的な形で世に示された瞬間であった。
この朱印状を受け取った全国の武将、公家、寺社勢力は、そこに計り知れない衝撃を受けたに違いない。それは、もはや織田信長個人のサインである花押とは全く異質なものであった。始皇帝を想起させる篆書体で刻まれた「天下布武」の四文字は、旧来の室町幕府の権威とは全く異なる、新たな権力中枢の誕生を天下に告げる公印であった。この印章は、受け取る者に対し、信長の野望の壮大さと、彼がこれから築こうとする新しい秩序に従うか否かの踏み絵を迫る、強烈な政治的メッセージだったのである。
なお、信長の治世を通じて「天下布武」印は少なくとも三つの異なる意匠(初代の楕円形印、馬蹄形印、双竜形印)が用いられたことが確認されている 6 。これは、彼の権力が拡大し、その統治が深化するにつれて、その権威の象徴もまた、より洗練され、より威厳を増す形へと変化していったことを示唆している。
結論:一人の武将から「天下人」へ ― 印章に刻まれた宣言
「天下布武」印の製作にまつわる一連の逸話は、単なる道具作りのエピソードに留まるものではない。それは、織田信長が自らの手で新たな時代を創造しようとした、壮大な意志の biểu hiện そのものであった。この印章の創出過程は、信長という類稀なる人物の多面性を、余すところなく映し出している。
沢彦宗恩との知的な対話からは、彼が古典や伝統に深い理解を持ち、それを自らの権威の源泉として巧みに利用する戦略家であったことがわかる。王者の書体たる篆書の選択は、既存の秩序を破壊し、全く新しい権威を打ち立てようとする革命家としての側面を明らかにする。そして、金の印から合金の印への変更に見られる判断は、理想を追い求めつつも、最終的には機能性と実用性を優先する、冷徹なまでの現実主義者としての顔を浮き彫りにする。
この小さな印章が公式文書に押された瞬間から、織田信長は単なる有力な戦国大名の一人ではなく、天下の新たな秩序を構想し、実行する「天下人」としての道を、公式に歩み始めた。岐阜の地で生まれたこの印章は、戦国の長き乱世の終焉と、新たな時代の到来を告げる、歴史の転換点を示す号砲の役割を果たしたのである。
引用文献
- 織田信長の天下布武について|社会の部屋 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisi/tenkahubu.htm
- 『信長公記』にみる信長像② 上洛編|Sakura - note https://note.com/sakura_c_blossom/n/n350f047d28c2
- 学習塾ブログ / 天下の意味は時代によって違う - ベスト個別指導塾 https://www.bestkobetsu.com/1109
- 沢彦宗恩 - TVアニメ「胡蝶綺 ~若き信長~」公式サイト http://wakanobu.com/character_06.html
- 天下布武(てんかふぶ)に込めた思い「織田信長」から学ぶ /稻田会計事務所-岡山市・倉敷市・総社市・玉野市で活動する税理士・会計事務所 https://inatakaikei.net/page17.php?blog_id=1925
- 織田信長が用いた花押、「天下布武」の朱印に込められた意味とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2874
- ブログ – 「岐阜」の地名は織田信長が名づけた話。岐阜県岐阜市 | 東洋精器工業株式会社 https://www.toyoseikico.co.jp/blog/6574/
- 織田信長と「ぎふ信長まつり」~「岐阜城」と「天下布武」を名付けた織田信長 - オマツリジャパン https://omatsurijapan.com/blog/historical-greats-nobunaga2022-1/
- chapter_2_s.pdf - 岐阜市 https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/148/chapter_2_s.pdf
- 武の徳 | かんながらの道 https://www.caguya.com/kannagara/?p=18157
- NHK 麒麟がくるで 天下布武の意味が放送されるか 信長の立志 http://www.g-rexjapan.co.jp/ishikawahironobu/archives/2796
- 名前の由来 | 【公式サイト】徳の宿ふぶ庵[ふぶあん] 別府 https://fubuan.com/origin/
- 印鑑はオーダーメイドで決まり! 好きな武将と同じ字体で! - スタンプボックス https://media.stamp-box.jp/articles/14336688307
- 印鑑天下人ショールーム/信長・秀吉・家康が愛用したハンコ【美印工房】 https://www.tebori-inkan.jp/tengabito2.html
- 篆書体 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%86%E6%9B%B8%E4%BD%93
- 篆書体のルーツを探る | (有)横田印房 創業明治29年|広島市で実印・印鑑の製作実績50万本以上 https://yokotainbou.jp/2024/12/13/121302/
- 印章 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E7%AB%A0
- ハンコはなぜ奇妙な字体をつかうのか——秦の文字統一と東大の漢字から - U-PARL - 東京大学 https://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/japanese/column4-2
- テーマ解説 - 古文書を読む―織田信長朱印状― - ひょうご歴史ステーション https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/rekihaku-meet/seminar/komonjo/theme.html
- 織田信長の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/26141/
- 【まちネタ】戦国時代創業の印判店 尾張町にある「細字印判断店」 - いいじ金沢 https://iijikanazawa.com/news/contributiondetail.php?cid=7315
- 歴史と伝統文化講演会 ― 日本最古の印判店 - 尾張町 老舗交流館 https://owarichoshinise.com/blog/?kawara=%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E6%96%87%E5%8C%96%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A-%E2%80%95-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%81%AE%E5%8D%B0%E5%88%A4%E5%BA%97
- 真鍮製の馬蹄形「天下布武」印(近江国) | 河越御所 エンターテイメント研究所 http://kawagoe304ipei.com/custom60.html
- 戦国武将の印 織田信長の印「天下布武」 非売品|実例・製作事例|印鑑・はんこ・ゴム印|宝塚山本の株式会社ベスタ https://www.besta-web.com/01_hanko/ziturei/20140325_busho/index.html
- 印章歴史館 にほんのしるし https://dainihon-insho.co.jp/sp/history/museum/section3/