最終更新日 2025-10-20

織田信長
 ~天皇に拝謁、直立不動で圧倒~

織田信長が天皇に直立不動で拝謁し圧倒した逸話は史実ではない。彼の威圧は、蘭奢待切り取りや京都御馬揃えで旧来の権威に挑み、武力を誇示した政治的行動にあった。

織田信長「天皇拝謁・直立不動」の逸話に関する歴史的検証報告

序論:語り継がれる「威圧譚」とその謎

織田信長という人物を語る上で、数々の逸話がその革新性とカリスマ性を彩っている。中でも、彼の大胆不敵さを象徴する物語として広く知られているのが、「正親町天皇に拝謁した際、直立不動で一言も語らず、その威圧感だけで満座を圧倒した」という逸話である。この情景は、旧来の権威である天皇に対し、新たな時代の覇者たる信長がその存在感だけで優位に立ったかのような、劇的な印象を与える 1

この鮮烈な「威圧譚」は、信長の型破りな人物像を端的に示し、多くの人々を魅了してきた。しかし、歴史を深く探求するにあたり、我々は一つの根源的な問いに直面する。この劇的な逸話は、果たして歴史的事実なのであろうか。それとも、後世の人々が信長のイメージを凝縮して創り上げた、巧みな伝説なのであろうか。

本報告書は、この問いを徹底的に検証することを目的とする。調査の基盤となるのは、信長と同時代に生きた太田牛一や公家たちが残した一次史料である。これらの信頼性の高い記録を丹念に読み解き、史実と伝説を峻別する。そして、もしこの逸話が史実でないとすれば、なぜこのような「威圧譚」が生まれ、語り継がれるに至ったのか、その歴史的背景と真相にまで踏み込んで分析を進めるものである。

第1章:逸話の源流を求めて ― 一次史料の沈黙

特定の逸話の真偽を検証する上で、最も重要な手続きは、同時代に書かれた信頼性の高い史料にその記述が存在するか否かを確認することである。本章では、信長研究の根幹をなす一次史料を精査し、「直立不動」の逸話の源流を探る。

1-1. 最重要史料『信長公記』の検証

織田信長の生涯を最も詳細かつ正確に伝えるとされるのが、信長に直接仕えた太田牛一が記した『信長公記』である 2 。この史料には、信長の上洛、足利義昭の将軍擁立、そして天正9年(1581年)の京都御馬揃えなど、信長と朝廷が関わる数々の出来事が具体的に記録されている 3 。特に御馬揃えの際には、信長自身の華麗な装束や振る舞いが生き生きと描写されており、その場の雰囲気を今に伝えている 5

しかしながら、『信長公記』のいかなる箇所を精読しても、「信長が天皇に対し直立不動で一言も発さなかった」という記述は一切見出すことができない。信長の行動が詳細に記録されているにもかかわらず、これほど特異で前例のない行動が記録されていないという事実は、この逸話の信憑性に対して深刻な疑問を投げかける。

1-2. 宮廷人の視点 ― 公家日記の分析

次に、天皇の側近であった公家たちの日記に目を向ける。彼らの記録は、宮廷内部の出来事を客観的に知る上で不可欠な史料である。特に、山科言継が記した『言継卿記』 6 や、吉田兼見の『兼見卿記』 9 は、上洛した信長が宮中に参向した際の様子を克明に記録している。

これらの日記には、信長がいつ、誰と、どのような目的で宮中を訪れたか、何を献上し、どのような饗応を受けたかといった事実が詳細に記されている。例えば、永禄12年(1569年)1月19日の参内では、信長が近習500名を従えて宮中に入り、三毬打(さぎちょう)という宮中の儀式を見物したことが記録されている 11 。しかし、ここでも「直立不動」のような異常な態度は一切記録されていない。むしろ、儀礼に則った、あるいは儀礼を一部省略しただけの、極めて現実的なやり取りが記されているのみである。

1-3. 逸話の不在が意味するもの

一次史料における逸話の「不在」は、単なる情報の欠落ではない。それは、「そのような事実はなかった」ことを示す積極的な証拠と解釈すべきである。宮廷という、儀礼と前例を何よりも重んじる空間において 12 、これほど前代未聞の無礼、あるいは型破りな振る舞いが行われれば、賞賛であれ非難であれ、必ず誰かが記録に残したはずである。

特に、公家の日記は儀礼や序列からの逸脱に極めて敏感である。『言継卿記』には、信長が疲労を理由に公家衆との対面を断ったこと 14 や、後述する酒の給仕が遅れたために退出したこと 11 など、些細な出来事でさえ書き留められている。これらよりも遥かに重大な「直立不動」という行為が、公的な記録はもちろん、私的な日記にさえ一切の痕跡を残していないのは、それが起こらなかったからと考えるのが最も合理的である。

このことから、問題の逸話は、江戸時代以降に信長の「魔王」的、あるいは「革命児」的なイメージが講談や逸話集の中で誇張される過程で創作された、文学的な物語である可能性が極めて高いと言える 1

第2章:史実の再構成 ― 信長は、いつ、どのように天皇と対面したか

「直立不動」の逸話が後世の創作であるとすれば、史実としての信長は、いつ、どのように天皇と対面したのだろうか。本章では、一次史料に基づき、信長の参内・禁裏参向の実態を時系列で再構成し、そのリアルな姿に迫る。

2-1. 永禄11年(1568年):上洛と最初の接触

信長が初めて正親町天皇と公式に関わりを持つのは、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛した時である 15 。当時の朝廷は応仁の乱以来の戦乱で疲弊し、財政的にも困窮していた。そのため、強大な軍事力を背景に京の治安を回復し、財政支援を約束する信長は、まさに待望の庇護者であった 17

『言継卿記』が描く当時の様子は、威圧的な雰囲気とは程遠い 8 。信長の上洛に際し、公家や奉公衆、さらには京都市民が吉田山まで出迎えるなど、都は歓迎ムードに包まれていた。公家の山科言継自身も、信長の行列に加わり、馬を下りて一町(約110m)ほど同道したと記している。この時点での信長と朝廷の関係は、対立的・威圧的というよりは、むしろ協調的であったことがうかがえる。

2-2. 永禄12年(1569年):三毬打見物の日の詳細

信長の性格と朝廷への態度を最も象徴的に示す出来事が、翌永禄12年(1569年)1月19日に起こる。この日、信長は近習500名を従えて参内し、宮中で行われる打毬の儀式「三毬打」を見物した 11 。この一連の出来事を時系列で再現する。

  1. 参内 : 信長は武装した500名の兵を伴って宮中へ入る。これは警護であると同時に、自らの武威を宮廷に示すデモンストレーションでもあった。
  2. 見物 : 正親町天皇と共に、儀式である三毬打を見物する。儀式そのものには敬意を払っている様子がうかがえる。
  3. 小御所にて : 儀式の後、信長は小御所に招かれ、天皇から酒を賜るという栄誉を受ける。これは極めて儀礼的な饗応の場である。
  4. 事件 : ここで予期せぬ事態が起こる。『言継卿記』は、「銚子(酒を注ぐ器)が遅れたため退出する」と簡潔に記録している 11

この「銚子遅延による退出」事件こそ、「直立不動」の逸話の原型、あるいはその性格的根拠となった史実である可能性が極めて高い。信長は沈黙によって場を威圧したのではない。宮廷の悠長な時間感覚と非効率な進行に我慢ならず、儀礼の途中であろうと自らの判断でその場を打ち切ったのである。これは、彼の合理的でせっかちな性格を示すと同時に、天皇の権威の下で行われる儀礼よりも、自らの時間を優先するという、旧来の価値観への挑戦であった。この「せっかちで儀礼に無頓着」という史実が、後世に語り継がれる中で、より劇的で象徴的な「沈黙によって場を支配する」という「直立不動」の物語へと昇華・変質していったと考えられる。

2-3. 「参内」の形式をめぐる攻防

さらに、近年の研究では、信長が天皇との主従関係が儀礼的に確定してしまう「正式な参内」を意図的に避けていた可能性が指摘されている 19 。当時の正式な参内には、天皇が「主」、参内者が「臣」として振る舞う「三献の儀」(三度にわたる饗応の儀式)が含まれていた。この形式は、自らを「天下人」と位置づけようとしていた信長の政権構想とは相容れない部分があった。

そのため信長は、三毬打「見物」や、禁裏の修理状況の「視察」 20 といった、儀礼の中心から一歩引いた形での参向を好んだ。これは、天皇の権威を政治的に利用しつつも、その伝統的な枠組みに自身が完全に組み込まれることを避けるという、信長の高度な政治戦略を示唆している。彼は天皇を尊重し庇護したが、その臣下として固定されることは断固として拒否したのである。

【表1:織田信長の主要な参内・禁裏参向記録】

年月日 (西暦)

典拠史料

目的・内容

特記事項・歴史的意義

永禄11年10月 (1568)

『言継卿記』

足利義昭を奉じ上洛、禁裏へ挨拶

歓迎ムードで迎えられる。庇護者としての最初の公式接触 8

永禄12年1月19日 (1569)

『言継卿記』

三毬打の見物

小御所で酒を賜るも、銚子が遅れ退出。信長の合理的・せっかちな性格を示す象徴的事件 11

天正2年3月 (1574)

『信長公記』等

蘭奢待切り取りのため東大寺へ

天皇の勅許を「要請」し、勅封の聖域に介入。天皇の権威への挑戦 21

天正9年2月28日 (1581)

『信長公記』

京都御馬揃えの天覧

天皇・公家を「招待」し、内裏東馬場で壮大な軍事パレードを披露。軍事力の誇示と権力関係の可視化 3

第3章:「圧倒」の真相 ― 逸話の背景にある権威の誇示

「直立不動」の逸話は史実ではない。しかし、信長が朝廷や天皇を「圧倒」したというイメージそのものは、決して根拠のないものではない。そのイメージは、拝謁の場での個人的な振る舞いではなく、より大規模で、計算され尽くした政治的パフォーマンスによって構築された。本章では、その具体的な行動を分析する。

3-1. 蘭奢待切り取り ― 聖域への挑戦

信長の権威誇示の象徴的事件が、天正2年(1574年)3月の蘭奢待(らんじゃたい)切り取りである 21 。蘭奢待とは、東大寺正倉院に秘蔵されていた天下第一の名香木であり、その名は東大寺の三文字を内に含んでいる。正倉院は勅封、すなわち天皇の許可なくしては開けることのできない神聖な場所であり、過去に蘭奢待を切り取ることが許されたのは、室町幕府8代将軍・足利義政など、ごく一握りの最高権力者のみであった 22

信長は、東大寺側の難色を物ともせず、正親町天皇に勅許を強く「要請」した。当時の書状には、天皇側が信長の強引な要請に応じざるを得なかった無念さが綴られており 21 、これが物理的な暴力ではなく、政治的圧力による「威圧」であったことを物語っている。

この行為は、単に香木への個人的な興味からではない。天皇のみが管理できる「聖域」に対し、自らの権威が及ぶことを天下に示す、極めて計算されたパフォーマンスであった。信長は、自らが過去の将軍たち、そして天皇に比肩、あるいはそれを凌駕する存在であることを、この行動一つで満天下に知らしめたのである。「直立不動」の逸話が内包する「旧来の権威への挑戦」というテーマは、この蘭奢待切り取りという史実に、その明確な原型を見出すことができる。

3-2. 京都御馬揃え ― 天覧の軍事パレード

信長による「圧倒」のもう一つの頂点が、天正9年(1581年)2月28日に行われた「京都御馬揃え」である 3 。信長は内裏の東に特設した馬場に、丹羽長秀や柴田勝家をはじめとする織田軍団の主力武将と、その精鋭部隊を総動員した。そして、この壮大な軍事パレードを、正親町天皇と誠仁親王、公家衆を「招待」して見物させたのである 4

この御馬揃えは、天皇側からの観覧希望に応えたものとも、信長が朝廷を威圧するためだったとも解釈されており、おそらくその両方の側面があったと考えられる 3 。天皇は、信長の強大な軍事力による庇護を再確認し、その壮麗さに満足した 17 。一方、信長は、天皇の伝統的権威の目の前で、絢爛豪華かつ圧倒的な「現実の力」を披露することで、誰がこの国の実質的な支配者であるかを内外に知らしめた。

もし「直立不動」が静的な威圧であるとすれば、この御馬揃えは動的な威圧の極致である。言葉を一切発せずとも、整然と行進する数多の騎馬武者と輝く武具は、信長の権力が盤石であることを何よりも雄弁に物語っていた。「一言も語らず圧倒した」という逸話の情景は、この御馬揃えという壮大なスペクタクルを、信長個人の身体的振る舞いへと凝縮して表現したものと解釈することも可能であろう。

結論:伝説の向こう側にある実像

本報告書における徹底的な史料検証の結果、以下の結論に至った。

織田信長が正親町天皇に「直立不動で拝謁し圧倒した」とされる逸話は、『信長公記』をはじめとする同時代の一次史料からは一切確認できず、歴史的事実ではない可能性が極めて高い。

しかし、この逸話は単なる作り話として切り捨てるべきではない。それは、信長が旧来の権威に対して取った、複雑かつ前例のない態度を象徴的に表現した「歴史的伝説」として捉えるべきである。この伝説が生まれる土壌には、信長による実際の行動があった。

信長の真の「圧倒」は、拝謁の場での沈黙のような個人的なパフォーマンスではなく、より大規模で政治的な行動によって示された。具体的には、

  1. 聖域への介入 : 蘭奢待の切り取りに見られるように、天皇の権威が及ぶ神聖な領域へ、自らの意志で踏み込む力。
  2. 武力の可視化 : 京都御馬揃えのように、朝廷の目の前で圧倒的な軍事力を誇示し、権力の源泉がどこにあるかを明確に示す大胆さ。
  3. 儀礼の相対化 : 「銚子遅延」で臆面もなく退出するように、伝統的な儀礼の権威よりも、自らの合理性や時間を優先する革新的な姿勢。

これらが、信長が同時代の人々に与えた衝撃の源泉であった。「直立不動」の逸話は、これらの史実が織りなす信長の革新性、そして時に威圧的ですらあった対朝廷政策の「本質」を、後世の人々が理解しやすく、また記憶に残りやすいように結晶化させた物語なのである。我々はこの逸話を通して、史実そのものではなく、史実が人々の記憶の中でどのように変容し、一人の傑出した歴史上の人物のイメージを形成していったのかという、歴史のもう一つの深遠な側面を垣間見ることができるのである。

引用文献

  1. 織田信長と浮世絵/ホームメイト https://www.meihaku.jp/ukiyoe-basic/odanobunaga-ukiyoe/
  2. 『現代語訳 信長公記(全)』太田 牛一 | 筑摩書房 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097774/
  3. 京都御馬揃え - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E9%A6%AC%E6%8F%83%E3%81%88
  4. 信長公記(巻の14)と絵画 https://kininaruart.com/artist/shincho/n14.html
  5. 山姥の姿で乗馬しながら登場!?織田信長が信頼した70歳オーバーの老近習「武井夕庵」の魅力とは? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/130467/
  6. 天下統一期年譜 1570年 http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho4.htm
  7. 歴史の目的をめぐって 山科言継 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-36-yamasina-tokitugu.html
  8. 明智光秀の京屋敷の位置を探る【2025更新版】 - note https://note.com/nanaful77/n/n11a90ad46102
  9. 天下統一期年譜 1580年 http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho14.htm
  10. 吉田兼見 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E8%A6%8B
  11. 歴史の目的をめぐって 織田信長 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-05-oda-nobunaga.html
  12. 武家の作法・三献の儀 - 戦国徒然(麒麟屋絢丸) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054890230802/episodes/16817330659354994184
  13. 戦国時代のビジネスマナーとは? 一次史料から読み解く | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1300
  14. 『言経卿記』に見る織田信長 - ありエるブログ http://ari-eru.sblo.jp/article/105318692.html
  15. 織田公上洛列先頭 立入宗継 http://www.lint.ne.jp/~uematsu/jidai8.html
  16. 永禄の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%A6%84%E3%81%AE%E5%A4%89
  17. 正親町天皇と織田信長・豊臣秀吉 - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/historian-text/ogimachi-tenno/
  18. 正親町天皇 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/21101/
  19. <研究ノート>信 の参内と政権構想 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/bitstreams/77e312d2-28cb-412b-9d22-aba5c67f761c/download
  20. 1568年 – 69年 信長が上洛、今川家が滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1568/
  21. 織田信長も欲した天下の名香「蘭奢待」/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/18312/
  22. 蘭奢待(らんじゃたい)・織田信長・正倉院展・伽羅・沈香の香木-麒麟(きりん)がくる - アロマ香房 焚屋 https://www.aroma-taku.com/page/34
  23. 「馬揃え」を天皇天覧のもと実施した武将は? - リビング京都 https://www.kyotoliving.co.jp/article/151024/quiz.html
  24. Q.京都御馬揃えについて教えてください。 - 一般社団法人 明智継承会 | https://akechikai.or.jp/archives/mitsuhide-qa/57904