織田信長
~彗星現れ信長の星落つ天象譚~
1582年に現れた彗星は、織田信長の天下統一を目前にした絶頂期に現れ、その後の本能寺の変を暗示する凶兆とされた。天変地異と歴史が交錯する信長の運命を詳細に探る。
天翔る凶星 ― 織田信長と天正十年の彗星譚、その真相と時系列の再構築
序章:天魔、頂に立つ ― 天正十年、絶頂期の信長を覆う天の影
天正十年(1582年)、織田信長の権勢は、まさにその頂点に達していた。同年三月、長年の宿敵であった甲斐の武田氏を、世に言う「甲州征伐」によって滅亡に追い込んだ 1 。これにより、信長の天下統一事業は、もはや目前に迫っていた。安土城では壮麗な馬揃えが催され、その威光は日の本に遍く知れ渡り、旧来の権威である朝廷や寺社勢力をも凌駕する勢いであった 1 。しかし、その圧倒的な力は、既存の秩序を破壊し、伝統的な価値観を根底から揺るがすものであり、多くの人々の心に畏怖とともに、一種の反感をも植え付けていた。
信長自身は、極めて合理的な思考の持ち主であったとされ、その死生観は、彼が好んで舞ったとされる幸若舞『敦盛』の一節に象徴される。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」 2 。人の一生の儚さを達観し、天命や神仏といった超自然的な力に頼るのではなく、自らの力で現実を切り拓こうとする彼の姿勢は、当時の常識からは逸脱していた。
奇しくも、信長の権勢が歴史上、最も輝きを放ったこの天正十年の初頭から、夜空には次々と不可解な現象が現れ始める。それはあたかも、人知を超えた領域にまで達しようとする信長の力に、天が呼応し、何らかの意思を示しているかのようであった。武田家が滅亡し、信長の力が最大化するという地上の出来事と、天がその貌を異様なものに変えるという天上の出来事が、時間的に完全に同期していたのである 1 。当時の人々が、天変地異と地上の出来事を不可分と見なす「災異思想」の世界観に生きていたことを鑑みれば 4 、この偶然の一致は、単なる偶然として片付けられるものではなかった。むしろ、偉大すぎる力は天の警戒を招くという神話的な思考に基づき、人々が天の異常に深い意味を見出そうとしたのは、必然であったと言えよう。本報告書は、この天正十年に現れた彗星を巡る逸話、すなわち「信長の星落つ」と囁かれた天象譚を、一次史料を丹念に読み解きながら時系列に沿って再構築し、その真相に迫るものである。
第一部:凶兆の連鎖 ― 本能寺へと続く天変地異の記録
1. 北天を焼く赤気(オーロラ)― 天正十年二月十四日の夜
本能寺の変へと至る一連の天変の序章は、彗星の出現に先立つこと約二ヶ月前、天正十年二月十四日(西暦1582年3月8日)の夜に幕を開けた 3 。この夜、京や信長の居城・安土城の周辺で、北の空が不気味な赤色に染まる現象が目撃されたのである。これは現代で言うところの低緯度オーロラ、すなわち「赤気」であった 3 。
この異常な光景は、当時の人々に大きな衝撃と動揺を与えた。公卿であった勧修寺晴豊は、その日の日記『晴豊記』に、「今夜天あかく、雲ことことしき事也」(今夜は空が赤く、雲の様子が尋常ではない)と、簡潔ながらもその異様さを書き留めている 3 。また、京の金融業者であった立入家に残された『立入文書』には、「夜從北方赤雲天下をゝい、其色光明しゆのことし」(夜、北の方から赤い雲が天を覆い、その色は光明を発して朱のようであった)と、より具体的に、天全体を覆うほどの規模と鮮烈な色彩であったことが記録されている 3 。朱色は、血や炎を連想させ、人々の心に不吉な影を落としたであろうことは想像に難くない。
この現象は、安土に滞在していたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスによっても詳細に記録されている 3 。彼の報告は、当時の日本人がこの赤気を凶兆と捉え、恐怖に慄いていた様子を伝えている。しかし、フロイスが驚きをもって記したのは、信長の反応であった。彼は、信長がこの天変を目の当たりにしても全く動じることなく、予定通り甲州征伐の軍を発するよう命じたと本国に報告しているのである 3 。
信長のこの泰然自若とした態度は、彼の合理主義的な精神の表れと見ることもできる。しかし、それは同時に、極めて高度な政治的パフォーマンスであった可能性も否定できない。「災異思想」が社会の共通認識であった当時において、天変は為政者の不徳の現れと解釈され、政情不安に直結しかねない危険な事象であった 4 。もし信長が天の異変に怯える姿を見せれば、それは自らの権威の脆弱性を内外に認めることに繋がる。民衆や敵対勢力は「天が信長を見放した」と解釈し、反乱の気運を高めるかもしれない。したがって、信長の態度は、内心の動揺の有無にかかわらず、「我は天の意向ごときに左右されぬ」という強烈な政治的メッセージを発する、計算された行動であったと解釈するのがより妥当であろう。それは、自らを旧来の秩序を超越した存在と位置づけようとする、信長の強い意志の表明でもあった。
2. 夜空を裂く光物(火球)― 三月の不安
北の空を焼いた赤気の衝撃が冷めやらぬ三月、不安はさらに深まる。同月の七日と十一日の夜、立て続けに夜空を切り裂く「光物」、すなわち火球と思われる現象が目撃されたのである 3 。この記録は、公的な編纂物ではなく、奈良・興福寺の僧であった多聞院英俊が日々書き綴っていた日記『多聞院日記』に見出すことができる。
英俊は、三月九日の条に、「一昨夜大霰後夜ノ過ニ下、當山光物飛去云々、如何心細者也」(おとといの夜、大粒の霰が降った後、当山の上を光る物が飛び去ったという。なんと心細いことか)と記している 3 。さらに三日後の十二日の条では、「昨夜大雨下、風吹、先段方々光物飛、心細々々」(昨夜は大雨が降り風も吹いたが、先日のように方々で光る物が飛んだ。心細いことだ、心細いことだ)と、不安を募らせる様子が記録されている 3 。
ここで注目すべきは、英俊が「如何心細者也」「心細々々」という、極めて主観的で情動的な言葉を繰り返している点である。これは単なる天文現象の客観的な記録ではない。知識人である僧侶ですら、この不可解な現象を科学的に解明しようとするのではなく、抑えがたい不安と恐怖をもってしか受け止められなかった、当時の精神状況を生々しく伝えている。
この『多聞院日記』の記述の重要性は、それが一個人の内面で醸成されていく「リアルタイムの不安」の証拠であるという点にある。後の彗星出現が「信長滅亡の凶兆」という公の言説として語られるようになる、その心理的な土壌が、この時点で既に個々人の内面レベルで形成されつつあったことが窺える。公的な凶兆として議論される以前に、まず「個人的な不安の種」として、天の異変は人々の心に深く染み込んでいたのである。やがて本能寺の変という結末を知った時、「やはりあれは予兆だったのだ」という大きな物語を受け入れる下地は、こうした無数の個人の「名状しがたい不安」の集合体として、既に出来上がっていたと言えるだろう。
第二部:運命の彗星 ― 「信長の星」の出現と観測
オーロラ、火球と続いた天変のクライマックスとして、ついに物語の核心である大彗星が姿を現す。以下の表は、本能寺の変が起こる天正十年を中心に、どのような天象が、いつ、誰によって記録されたかをまとめたものである。これにより、一連の出来事の時系列的な関係性を俯瞰することができる。
表1:天正十年・本能寺の変前後の主要な天象と関連記録
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日付(旧暦) |
日付(西暦) |
天象 |
主要史料 |
記録内容の要約 |
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天正10年2月14日 |
1582年3月8日 |
赤気(オーロラ) |
『晴豊記』、『立入文書』、『フロイス日本史』 |
京や安土で北の空が赤く染まる。人々は凶兆と恐れたが、信長は動じなかった 3 。 |
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天正10年3月7日 |
1582年3月31日 |
光物(火球) |
『多聞院日記』 |
奈良で火球が目撃される。英俊は「如何心細者也」と不安を記す 3 。 |
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天正10年3月11日 |
1582年4月4日 |
光物(火球) |
『多聞院日記』 |
再び火球が目撃され、英俊は「心細々々」と恐怖を重ねて記す 3 。 |
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天正10年4月22日 |
1582年5月14日 |
彗星 |
『フロイス日本史』 |
非常に長い尾を引く彗星が出現。数日後、安土に物体が落下したとの記録もある 7 。 |
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天正10年4月23日 |
1582年5月15日 |
彗星 |
『多聞院日記』、『立入文書』 |
乾(戌亥)の方角に出現。「長さ十丈」「長太刀なりにゆがみ」と記録される 3 。 |
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天正10年6月2日 |
1582年6月21日 |
本能寺の変 |
各種史料 |
織田信長、自刃。 |
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(変の後) |
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『多聞院日記』(追記) |
4月23日の彗星の記録に「信長生害の先端也」と追記される [3, 8]。 |
1. 四月二十三日、乾(いぬい)の方角に ― 彗星、現る
天正十年四月、空の異変は決定的な貌を見せた。同月二十二日から二十三日にかけて、夜空に長大な尾を引く彗星が出現したのである 1 。その方角は乾(いぬい)、すなわち戌亥(北西)であったと記録されている 1 。この彗星の姿は、複数の一次史料によって、驚くほど具体的に描写されている。
奈良の僧・多聞院英俊は、その『多聞院日記』四月二十三日の条に、興奮と畏怖の入り混じった筆致で次のように記した。
「近般當乾方彗星出了、光本は戌亥末は辰巳、長さ十丈も可在之と見、近年のなかき光也、物怪云々」(近頃、乾の方角に彗星が出た。光の根元は戌亥(北西)で、末は辰巳(南東)を指し、長さは十丈(約30メートル)ほどにも見え、近年稀に見る長い光である。物の怪の仕業であろうか、などと噂されている)3。
「長さ十丈」という表現は、科学的な計測値ではないにせよ、夜空を支配するほどの圧倒的な存在感であったことを物語る。「近年のなかき光」という言葉は、これが尋常ならざる天象であるという英俊の認識を明確に示している。そして何よりも重要なのが、「物怪云々」の一節である。彼はこの現象を、天文学的な客体としてではなく、超自然的で怪異な存在、すなわち「物の怪」として捉えていた。これは、当時の知識人の世界観を如実に示す決定的な証拠と言える。
一方、京の『立入文書』は、その形状をさらに具体的に描写している。
「自地直に立、末は長太刀なりにゆがみ」(地平線からまっすぐに立ち上り、その末は長大な太刀のように湾曲していた)3。
この記述は、彗星が単なる光の筋ではなく、あたかも天に掲げられた巨大な武器、あるいは振り下ろされんとする刃のような、脅威的なイメージを伴って人々の目に映ったことを再現してくれる。
これら日本側の記録が、彗星の姿形を象徴的・解釈的に捉えているのに対し、安土にいたルイス・フロイスの『日本史』は、より客観的な視点からこの現象を報告している。「一つの彗星が現れ、非常に長い尾を引いて数日間続いた」という記述に加え、彼は他の日本側史料には見られない、衝撃的な出来事を伝えている。「数日後の正午には、数名の修道士たちが彗星とも花火とも思えるような物体が安土に落下するのをみて、驚愕した」 7 。この「物体の落下」が何を指すのかは定かではないが、天の脅威が、信長の居城である安土城に物理的に及んだかのような、極めて不吉な印象を与える記録である。
日本側の記録が彗星を「物の怪」や「長太刀」といったシンボルとして解釈する傾向が強いのに対し、西洋人であるフロイスが「数日間続いた」「物体が落下した」といったイベントとして観察している点は興味深い。この視点の違いは、本能寺の変という結末を知る以前から、日本社会には天象を「何かの前触れ」として意味づける文化的土壌が色濃く存在したことを示唆している。フロイスが記録した「物体の落下」ですら、もし日本人の手で記録されていれば、「天が石を投げつけた」といった、より象徴的な物語として受容されたかもしれない。
第三部:囁きの源流 ― なぜ彗星は「信長の凶兆」と解釈されたのか
1. 災異思想という世界観 ― 天は為政者を見ている
天正十年に出現した彗星が、なぜ即座に凶兆、そして天下人である信長の凶事と結びつけられたのか。その根底には、当時の人々が共有していた「災異思想」という世界観があった。これは、古代中国の天人相関思想に源流を持つ考え方で、天上の世界と地上の人間世界は密接に連関しているとするものである 4 。
この思想によれば、天は地上の為政者、すなわち天子の徳を常に監視している。為政者が徳を失い、悪政を行えば、天は警告として日食、月食、地震、そして彗星の出現といった天変地異(災異)を引き起こすと信じられていた 4 。為政者は、これらの災異を天からのメッセージと受け止め、自らを省み、徳政を行わなければならないとされた。
この思想は古くから日本にも伝わり、社会に深く根付いていた。『日本書紀』の時代から、彗星の出現は国家的な出来事と結びつけて記録されており、その伝統は戦国時代に至るまで、公家社会から民衆に至るまで広く浸透していた 9 。彗星は、その尾を引く姿から「ほうき星」と呼ばれる一方、不吉な武器を想起させる「鉾星(ほこぼし)」といった異名も持ち、その姿自体が人々に畏怖の念を抱かせた 12 。戦国の世にあっても、合理的な判断力が求められる武将たちですら、この世界観から自由ではなかった。例えば、甲斐の武田信玄は、軍配者(軍師の一種)に彗星の吉凶を占わせ、それを軍事や政治の判断材料にしていたという逸話も残っている 13 。
この災異思想の文脈において、織田信長という存在は極めて特異であった。彼は、旧来の権威である朝廷や、比叡山延暦寺に代表される寺社勢力を武力で屈服させ、ついには自らを神格化しようとする動きさえ見せていた。これは、災異思想が前提とする「天と地上の支配者の間の秩序(天命)」に対する、最大の挑戦と見なすことができる。信長の行動は、この秩序を根底から覆し、自らが「天」そのものになろうとする試みと解釈されかねないものであった。
したがって、天正十年に現れた大彗星は、単なる為政者の不徳への警告というレベルを超えて、「神になろうとする者」への天罰の象徴として、より深刻に、そして直接的に受け止められた可能性が高い。これにより、「信長の星落つ」という囁きは、単なる凶兆の噂ではなく、宇宙論的な秩序を巡る闘争の物語として、より深い意味を帯びることになったのである。
2. 鮮烈なる前例 ― 天正五年の「弾正星」
天正十年の彗星が「信長の凶兆」と解釈されるに至った背景には、災異思想という一般的な世界観に加え、人々の記憶に生々しく刻まれた、ある決定的な前例が存在した。それが、本能寺の変のわずか五年前に起こった、天正五年(1577年)の「弾正星」の逸話である。
この年、梟雄として知られた松永久秀が、信長に対して二度目の叛旗を翻した 14 。久秀は官位が弾正少弼であったことから、通称「松永弾正」として知られていた 14 。彼は信貴山城に立てこもったが、織田軍の猛攻の前に追い詰められ、同年十月十日、名器・平蜘蛛の茶釜とともに爆死するという壮絶な最期を遂げた 15 。
まさしく、この松永久秀の反逆から滅亡に至るまでの期間、日本の夜空には巨大な彗星(非周期彗星 C/1577 V1)が出現し、圧倒的な存在感を放っていたのである 16 。『信長公記』によれば、この彗星は九月二十九日の戌の刻(午後8時頃)に西の空に現れたと記録されている 16 。
当時の人々は、この大彗星の出現と、天下を揺るがした大物・松永弾正の滅亡という二つの劇的な出来事を、偶然とは考えなかった。彼らは、滅びゆく久秀の運命をこの不吉な星に重ね合わせ、この彗星を「弾正星」と呼んだのである 16 。この命名行為そのものが、「大彗星の出現」と「大物の滅亡」とが、人々の認識の中で強固な因果関係として結びついたことを示している 15 。
この「弾正星」の逸話が果たした役割は極めて大きい。それは、災異思想という抽象的な世界観を、「信長の世界」における具体的な政治的法則へと変換する触媒となったのである。つまり、「天変は為政者の凶兆である」という一般論が、「信長に逆らう者に天罰が下る証として彗星が現れる」という、信長を中心とした極めて具体的な政治的神話へと書き換えられたのだ。
この経験があったからこそ、天正十年に再び、しかも「弾正星」をも凌ぐかのような大彗星が現れた時、人々の思考は五年前の法則をなぞることになった。しかし、状況は決定的に異なっていた。もはや信長の前に、松永久秀ほどの「敵」は存在しなかった。そこで、人々の思考は次のように転換したに違いない。「前回は信長の“敵”である弾正が滅んだ。だが、今回は信長に比肩する敵はいない。ならば、この不吉な星は、一体誰の運命を指し示しているのか。他ならぬ、信長自身の星ではないのか?」――この思考の飛躍こそが、「信長の星落つ」という囁きが生まれた、核心的なメカニズムであったと考えられる。
第四部:歴史の追記 ― 本能寺の変と予言の完成
1. 六月二日、凶星の現実化
天正十年六月二日(西暦6月21日)、夜明け前の京都で、日本史を揺るがす大事件が勃発した。本能寺の変である 3 。天下統一を目前にした織田信長が、最も信頼していたはずの家臣・明智光秀の謀反によって討たれるという、誰もが信じがたい報は、瞬く間に畿内を駆け巡った。
この衝撃的な知らせが各地に伝わる中で、人々の脳裏には、わずか一ヶ月半ほど前に夜空を支配した、あの不気味な大彗星の記憶が鮮明に蘇ったに違いない。「やはり、あの星は…」。巷では、そんな囁きが交わされたであろう。それまで漠然とした不安の対象でしかなかった彗星は、信長の死という動かしがたい「結果」を得て、明確な意味を持つようになった。彗星の出現という「原因」と、信長の死という「結果」が、人々の認識の中で完全に、そして決定的に結びついた瞬間であった。
それまでの囁きは、確信へと変わった。天は、信長の死を前もって告げていたのだ、と。こうして、天象の記録は、歴史的な予言へと昇華された。
2. 「信長生害の先端也」― 記された確信
この逸話が、単なる人々の噂話から、後世に伝わる「歴史」として定着する上で、決定的な役割を果たした一つの記録が存在する。それは、これまでも度々参照してきた、多聞院英俊の『多聞院日記』である。
英俊は、本能寺の変が起こった後、自身の日記を遡り、天正十年四月二十三日の条、すなわち彼が初めて彗星を目撃し、「物怪云々」と記したその記録の脇に、ある一文を書き加えた。
「信長生害の先端也」(信長が非業の死を遂げることの、これが始まりであった) 1 。
この短い追記こそ、「信長の星落つ」という逸話が誕生した瞬間を捉えた、極めて貴重な証拠である。分析すべき重要な点は、これがリアルタイムの予言では断じてなく、事件発生後に過去を振り返ってなされた「歴史的解釈」であるということだ。英俊は、信長の死という衝撃的な結末を知った上で、過去に起きた不可解な天象に意味と秩序を与え、自らの記録を「完成」させたのである。
この追記行為は、歴史記述の本質的な営為そのものを象徴している。人間は、無秩序で偶発的に見える出来事の連続を理解し、記憶するために、それらを因果関係で結びつけ、一つの物語として再構成しようとする。信長の死は、当時の人々にとってあまりに突然で、理不尽な出来事であった。歴史を記録する者として、英俊はこの混沌とした出来事を、後世が理解可能な枠組みの中に収める必要性を感じたのだろう。彼は、事件前にあった一連の不吉な天象を物語の「始まり(先端)」と位置づけ、信長の死をその「結末」とすることで、偶発的な彗星の出現と、人間的な陰謀による暗殺とを、「天が警告し、そしてその通りになった」という一つの首尾一貫した物語へと昇華させた。
英俊によって書き留められたこの解釈は、やがて口伝や、江戸時代以降に成立する『太閤記』などの軍記物語を通じて増幅され 18 、「彗星は信長の死を予言していた」という、よりドラマティックな天象譚として後世に定着していくことになったのである。
結論:天象と歴史の交差点 ― 逸話が語るもの
織田信長を巡る「夜空に彗星が現れ『信長の星落つ』と囁かれた」という天象譚は、単なる迷信や偶然の産物ではない。それは、客観的な天文現象、当時の人々が共有していた世界観、生々しい政治的記憶、そして歴史を揺るがす大事件が、複雑に絡み合って生まれた、必然の物語であった。
本報告で明らかにしたように、その成立過程は以下の段階を追って分析することができる。
第一に、天正十年(1582年)初頭、信長の権勢が頂点に達した時期に、オーロラ、火球、そして大彗星という一連の天変地異が実際に発生した。これらは、客観的に観測された天文現象である。
第二に、これらの天象は、古代中国から伝わる「災異思想」という文化的フィルターを通して解釈された。天は為政者の動向を監視し、その不徳を災異によって警告するという世界観は、人々に天の異変を単なる自然現象ではなく、意味を持つ「凶兆」として捉えさせた。
第三に、その解釈を決定的なものとしたのが、わずか五年前に起きた「弾正星」の鮮烈な記憶であった。信長に反逆した松永久秀の滅亡と同時に現れた大彗星の経験は、「彗星の出現は信長に関わる大物の死を意味する」という、具体的な政治的神話を生み出していた。
そして最後に、本能寺の変における信長の死という衝撃的な事件が、それまでの漠然とした不安や噂を、決定的な「予言の成就」へと変貌させた。その確信は、『多聞院日記』における「信長生害の先端也」という追記によって、歴史記録として刻印されたのである。
旧来の価値観や迷信を打ち破り、合理主義を貫こうとした織田信長が、その最期を、最も非合理的で象徴的な天象譚によって彩られることになったのは、歴史の皮肉と言えるだろう。この逸話は、もはや信長個人の物語に留まらない。それは、一つの時代が終わりを告げ、その巨大な喪失と混沌を理解しようとした人々が、答えを求めて天を見上げた、精神史の記録そのものなのである。
引用文献
- 1582年(前半) 武田家の滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-1/
- 『信長公記』にみる信長像① 信長立志編|Sakura - note https://note.com/sakura_c_blossom/n/n59cc82c44a95
- 見たか家康 徹底解説3 運命の天正十年 - 平塚市博物館 https://www.hirahaku.jp/blog/?p=4143
- 黄帝内経』には天を畏れる災異思想の痕跡がある? http://tokyo89am.or.jp/wp-content/uploads/2016/06/%E3%80%88%E9%BB%84%E5%B8%9D%E3%81%A8%E8%80%81%E5%AD%90%E3%80%89%E9%9B%91%E8%A6%B3%E3%80%80%E7%AC%AC8%E5%9B%9E-%E3%80%8E%E9%BB%84%E5%B8%9D%E5%86%85%E7%B5%8C%E3%80%8F%E3%81%AB%E3%81%AF%E5%A4%A9%E3%82%92%E7%95%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E7%81%BD%E7%95%B0%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AE%E7%97%95%E8%B7%A1%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%EF%BC%9F-%E3%80%8E%E9%BB%84%E5%B8%9D%E5%86%85%E7%B5%8C%E3%80%8F%E3%81%AF%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%A4%A9%E9%81%93%E3%80%8D%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%82%92%E5%BC%95%E3%81%8D%E7%B6%99%E3%81%90%EF%BC%88%E3%81%9D%E3%81%AE2%EF%BC%89-%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%8D%9A%E5%85%AC-%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%80%8E%E3%81%82%E3%81%AF%E3%81%8D%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%80%8F.pdf
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- 見たか家康 徹底解説5 弾正星 - 平塚市博物館 https://www.hirahaku.jp/blog/?p=4218
- 太田牛一『信長公記』に見る松永征伐 - note https://note.com/senmi/n/n7653e62c9da8
- 非周期彗星の一覧とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%9D%9E%E5%91%A8%E6%9C%9F%E5%BD%97%E6%98%9F%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
- 江戸時代、隕石は本当に八王子に落ちた!「暴れん坊将軍」 - 風なうらみそ~小田原北条見聞録 http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-e31e85.html
- 【朗読 新書太閤記】その三十三「信長と光秀編」 吉川英治のAudioBook ナレーター七味春五郎 発行元丸竹書房 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=4Wiy5wpUTrQ