織田信長
~炎に包まれ是非もなし最期譚~
本能寺の変で織田信長が発した最期の言葉「是非に及ばず」を、その背景、多層的な意味、史料的信憑性、そして後世に与えた影響まで含めて徹底的に分析・考察する。
本能寺の変における織田信長最期の一言「是非に及ばず」に関する総合的考察
序章:天正十年六月二日、払暁
天正十年六月二日(西暦1582年6月21日)、天下統一を目前に控えた織田信長は、京都の本能寺に滞在していた。この日の夜明け前、歴史の歯車が大きく、そして決定的に軋むことになる。当時の本能寺は、現在の寺域とは異なり、四条西洞院を中心とした東西南北それぞれ約120メートルの敷地を持つ、防御施設としては決して堅固とは言えない寺院であった 1 。堀や高い石垣に囲まれた城郭ではなく、いわば政庁を兼ねた宿舎に過ぎなかったのである。
信長はこの時、毛利輝元を攻める羽柴秀吉への援軍として、自ら中国地方へ出陣する途上にあった。彼が率いていたのは、森蘭丸(長定)や長谷川宗仁といった小姓衆や馬廻衆など、わずか百名に満たない手勢のみであった。天下人として絶頂期にあり、もはや自らに公然と敵対しうる勢力は風前の灯火であった。その油断ともいえる状況下での静寂は、しかし、歴史上最も有名な謀反劇の開始によって無残に引き裂かれることになる。
本報告書は、この歴史的転換点において、織田信長が炎に包まれる中で発したとされる最期の一言、「是非に及ばず」という逸話に焦点を絞り、その背景となる状況、言葉が持つ多層的な意味、史料的な信憑性、そして後世に与えた影響について、時系列に沿って徹底的に分析・考察するものである。この一言に凝縮された、信長という人物の精神性の深淵に迫ることを目的とする。
第一章:黎明の急襲 ― 本能寺、包囲さる
第一節:鬨の声と誤認
天正十年六月二日、曙の刻、午前四時頃。本能寺の周囲は、突如として不穏な空気に包まれた。明智光秀が率いる一万三千ともいわれる大軍が、音もなく寺を完全に包囲し終えていたのである 1 。やがて、静寂を破る鬨の声が上がり、鉄砲の轟音が京都の未明の空に響き渡った。
しかし、本能寺内部の信長の近習たちの反応は、驚くほど鈍いものであった。当初、彼らはこの物音を「下々の者たちの喧嘩か、あるいは酔っ払い同士の騒ぎであろう」と判断したと伝えられている 2 。これは、彼らの意識の中に、この京都の中心で、天下人である主君が襲撃されるという可能性が全く存在していなかったことを如実に物語っている。信長政権の権威がいかに盤石なものと認識されていたか、そして、それ故の油断が寺内に蔓延していた状況がうかがえる。
この初動の遅れ、すなわち状況の誤認こそが、明智光秀の計画の周到さを証明している。信長側が全く予期せぬ奇襲であったからこそ、彼らは目の前で起きている事態を即座に「謀反」と結びつけることができなかったのである。
第二節:謀反の覚知
喧騒がただの騒ぎではないことは、明智軍による一斉射撃によって明らかとなった。火縄銃の弾丸が障子を突き破り、矢が雨のように降り注ぐに及んで、信長の近習たちはようやく事態の異常性を覚知した。それは、もはや単なる喧嘩騒ぎではなく、明確な殺意を持った組織的な襲撃であった。
興味深いのは、襲撃者である明智軍の兵卒たちの多くもまた、自分たちの真の目的を知らされていなかったという点である。後年の史料である『本城惣右衛門覚書』には、明智軍の一兵卒として本能寺に一番乗りで突入した本城惣右衛門の回想が記されている。彼によれば、兵士たちは信長討伐とは夢にも思っておらず、徳川家康の接待に不手際があったため、家康を討つものとばかり思い込んでいたという 3 。光秀は、情報の漏洩を極限まで警戒し、目的地が本能寺であること、そして標的が主君・信長であることを、実行の直前まで麾下の将兵にすら伏せていたのである。
この徹底した情報統制こそが、完璧な奇襲を成功させた最大の要因であった。信長側の「油断」は、単なる気の緩みという内的な要因だけでなく、光秀の巧みな作戦によって外部から「作られた」状況であったと言える。本城惣右衛edmonの証言はさらに、本能寺の南門は開け放たれており、内部にはほとんど抵抗する相手がいなかったと伝えている 1 。信長側がいかに無防備であり、光秀の奇襲がいかに完璧であったか。この絶望的な状況認識こそが、信長の次なる行動と、かの有名な一言の前提となるのである。
第二章:「何者の企てぞ」 ― 謀反人の判明
第一節:信長と蘭丸の対話
ただならぬ物音と混乱に、信長は寝所から起き上がり、自ら状況を確かめようとした。表の騒ぎが謀反であると悟った信長は、傍らに控えていた小姓の森蘭丸(森長定)に冷静に問いかけたとされる。第一級史料である『信長公記』には、その時の信長の言葉が「いかなる者の企てか」(一体、誰の仕業であるか)と記されている 5 。
この問いに対し、森蘭丸は即座に答えた。「明智が者と見え申し候」(明智光秀の軍勢と見受けられます) 5 。おそらく蘭丸は、寺を包囲する軍勢が掲げる旗印が、明智家の家紋である桔梗紋であることを瞬時に確認したのであろう。この短い問答によって、謀反の首謀者が、信長が最も信頼し、重用してきたはずの筆頭家老、明智光秀であることが確定した。
第二節:衝撃の受容
謀反人が光秀であると知った瞬間、信長の胸中にいかなる感情が去来したか。史料には、彼が驚愕の声を上げたり、蘭丸の報告を疑って問い質したりしたという記述は一切見られない。彼は蘭丸の言葉をただ静かに受け入れ、即座に次の行動へと移行する。この異常なまでの冷静さと受容の速さこそ、信長という人物の特異な精神構造を解き明かす鍵となる。
通常の主君であれば、最も信頼する家臣の名を挙げられた場合、「何かの間違いではないか」「確かなのか」と動揺し、確認を求めるのが自然な反応であろう。しかし、信長は一切の懐疑を示さなかった。これは、彼が誰よりも明智光秀という武将の能力、知性、そして性格を深く理解していたが故の反応と解釈できる。信長にとって、「光秀が謀反を起こした」という情報は、単に裏切り者の名前を知る以上の意味を持っていた。それは、「この襲撃が極めて周到に計画され、包囲網に一切の抜け道はなく、脱出は完全に不可能である」という戦術的な結論と直結していたのである。
したがって、信長と蘭丸のこの簡潔な対話は、単なる情報の伝達ではない。それは、信長の卓越した頭脳が瞬時に行った状況分析と未来予測の結果を凝縮したものであった。蘭丸が告げた「明智」という名は、信長にとって将棋における「詰み」の宣告に等しかったのである。
第三章:「是非に及ばず」 ― 発せられた言葉の深層
第一節:『信長公記』における記述の検証
謀反人が明智光秀であると確信した信長が、次に発したとされるのが、本報告書の主題である「是非に及ばず」という一言である。この逸話の直接的かつ唯一の典拠は、信長の旧臣である太田牛一が著した『信長公記』である。その記述は、「是非に及ばずと、上意候」(是非に及ばずと、信長様はおっしゃった)という、極めて簡潔なものである 4 。
『信長公記』は、信長の生誕から本能寺の変に至るまでを、側近の視点から詳細に記録した一代記であり、その正確性と史料的価値の高さから、現代の歴史研究においても第一級史料として扱われている 7 。したがって、この言葉を巡るあらゆる解釈は、この『信長公記』の記述を原点としなければならない。
第二節:言葉の多義性 ― 解釈の分岐点
「是非に及ばず」という言葉は、現代の我々には馴染みが薄いが、その構造を分析することで、複数の解釈の可能性が浮かび上がってくる。まず、「是非(ぜひ)」とは、「是(ぜ)」すなわち良いこと・正しいことと、「非(ひ)」すなわち悪いこと・間違ったことを指し、転じて「物事の善悪や道理について議論し、判断すること」を意味する 9 。
次に、「に及ばず」という部分は、「〜するには及ばない」、つまり「〜する必要はない」「〜している場合ではない」という打ち消しの意味を持つ 10 。したがって、この二つを組み合わせた「是非に及ばず」は、直訳すれば「善悪を議論する必要はない」「あれこれ論じている場合ではない」という意味になる。
類似の表現として「是非もなし」があるが、両者には微妙なニュアンスの違いが存在する 9 。「是非もなし」が「仕方がない」「どうしようもない」という、ある種の諦観や状況の受容を示す静的な表現であるのに対し、「是非に及ばず」は「議論することをやめる」という、より能動的で意志的なニュアンスを含む 12 。このわずかな差異が、信長の言葉の解釈を豊かにし、後述する複数の説を生み出す土壌となっている。
第三節:解釈の多角的分析
この一言が発せられた状況と、言葉の持つ多義性から、歴史家や研究者の間では、主に三つの解釈が提示されてきた。
解釈一:諦観と覚悟 ― 「もはや、これまで」
最も一般的で、通説として広く受け入れられている解釈である。謀反の首謀者が、誰よりもその能力と計画の周到さを熟知している明智光秀であると知った信長が、この完璧な包囲網からの脱出は不可能であると瞬時に悟り、「もはやどうしようもない」「仕方がない」と自らの運命を受け入れ、死を覚悟した際の言葉であるとする説である 4 。この解釈は、絶望的な状況下で冷静に自らの死を見据える、悲劇の英雄としての信長像を浮かび上がらせる。
解釈二:決断と命令 ― 「議論無用、戦うのみ」
信長の生涯にわたる合理的かつ攻撃的な性格を重視した解釈である。「今さら、誰が裏切ったのか、なぜ裏切ったのかといった是非を論じている場合ではない。ただちに応戦の準備をせよ」という、蘭丸をはじめとする近習たちへの決断と命令の言葉であったとする説である 4 。この解釈の強力な論拠は、信長がこの言葉を発した直後、自ら弓や槍を手に取り、最後まで徹底抗戦したという事実である。これは単なる諦めではなく、最後まで戦い抜くという強い意志の表れと捉えられる。
解釈三:合理的現実認識 ― 「光秀ならば、是非を論ずるまでもない」
上記の二つの解釈を統合し、さらに深化させた解釈である。これは、信長の類稀なる合理主義精神に焦点を当てる。「相手があの光秀である以上、この謀反には彼なりの相応の理由があり、またその計画に一切の抜かりはないはずだ。その行動の善悪や当否を今ここで論じても何の意味もない。我々が今取るべき行動は、ただ一つ、武士として戦い、死ぬことである」という、極めて冷静かつ冷徹な現実認識を示した言葉であるとする説である 12 。これは感情的な諦めでも、単なる戦闘命令でもなく、状況を瞬時に分析し、最善(この場合は最も潔い最期)の行動を判断した、究極の合理主義者としての信長の姿を映し出している。
これら三つの解釈は、互いに対立するものではなく、むしろ一つの思考プロセスにおける異なる側面を捉えたものと考えることができる。すなわち、信長の頭脳の中で、「①状況認識(相手は光秀だ)→ ②結果予測(脱出は不可能だ)→ ③行動決定(議論は無意味、死を覚悟して戦う)」という三段階の思考が一瞬のうちに駆け巡り、それが「是非に及ばず」という一言に圧縮されて表現されたのである。この言葉は、信長という人物の驚異的な情報処理能力と精神的強度を象徴する、究極の「思考の圧縮言語」であったと結論づけられよう。
表1:「是非に及ばず」の主要解釈比較
|
解釈の名称 |
言葉の要約 |
論拠 |
この解釈が示す信長像 |
|
諦観・覚悟説 |
「もはやこれまでだ。仕方がない」 |
明智光秀の能力を熟知しており、完璧な包囲からの脱出は不可能と瞬時に悟った。 |
運命を受け入れる、悲劇的な英雄。 |
|
決断・命令説 |
「議論している暇はない。応戦せよ!」 |
直後に自ら武器を取り、徹底抗戦した事実。信長の生涯にわたる攻撃的な性格。 |
最後まで闘志を失わない、不屈の覇王。 |
|
合理的現実認識説 |
「相手が光秀では、議論の余地もない」 |
感情を排し、状況を冷徹に分析。光秀の行動の必然性と計画の完璧さを瞬時に理解した。 |
究極の合理主義者。死の瞬間まで冷静な判断を下す統治者。 |
第四章:最後の抗戦と炎
第一節:覇王の奮戦
「是非に及ばず」という一言は、信長の思考の終着点ではなく、行動の開始点であった。彼は言葉を発すると即座に行動に移った。『信長公記』によれば、信長はまず御殿にいた女房衆などを下がらせ、身辺の安全を確保しようとした。そして、自ら弓を手に取り、押し寄せる明智の兵に向かって矢を二、三本放って応戦したという 4 。天下人自らが、わずかな手勢とともに最前線で武器を取ったのである。
奮戦むなしく、弓の弦が切れると、信長は次に槍を手に取り、なおも戦いを続けた 4 。この一連の行動は、「是非に及ばず」という言葉が、単に運命を甘受するだけの消極的な諦めではなかったことを物理的に証明している。もし彼が完全に諦観していたならば、即座に自刃の道を選んだであろう。しかし、彼は最後まで武将として戦うことを選択した。これは、前章で述べた解釈二「決断・命令説」や、解釈三「合理的現実認識説」における「戦う」という行動決定の側面を強力に裏付けるものである。
第二節:最期の刻
圧倒的な兵力差の前では、信長の奮戦も長くは続かなかった。肘に槍による傷を負い、これ以上の防戦は不可能と判断した信長は、御殿の奥深くへと姿を消した 5 。それは、自らの最期を悟った上での、最後の、そして最も重要な儀式への移行であった。
信長は、近習に対して寺に火を放つよう命じ、燃え盛る炎の中で自刃して果てたとされる 15 。これは、自らの首を敵に渡すことを最大の恥辱とする当時の武士の価値観に則った行動である。特に天下人である信長の首は、謀反を成功させた光秀にとって、その正当性を天下に示すための最大の戦利品となるはずであった。信長は、死の瞬間においてすら、敵である光秀に決定的な勝利を与えないという、最後の抵抗を試みたのである 16 。
事実、本能寺の焼け跡から信長の遺体は発見されなかった 17 。この事実は、彼の最後の意志が近習たちによって忠実に実行され、天下人の尊厳が守り抜かれたことを示唆している。信長の最後の行動は、「是非に及ばず」という言葉が「戦いの勝敗」に対する合理的な諦観であり、「武士としての誇り」の放棄ではなかったことを明確に示している。彼は、天下人としてのゲームの敗北を認めた上で、一個の武将としての死に様、その美学を最後の最後まで貫き通したのである。
第五章:史料の検証 ― 誰がその言葉を聞き、伝えたのか
第一節:伝達経路の謎 ― 『信長公記』の限界
この劇的な逸話は、しかし、その史料的信憑性において重大な問題を抱えている。最大の論点は、この言葉を記録した『信長公記』の著者・太田牛一が、事件の当事者ではなかったという事実である。牛一は本能寺の変が起きた際、加賀国(現在の石川県)におり、現場である京都にはいなかった 18 。
牛一自身は同書の奥書で、事件から約一週間後に京へ戻り、「信長の死亡まで側に居た女共」から聞き取り調査を行って事実を掌握したと記している 18 。しかし、具体的に誰から、どのような状況で話を聞いたのかは一切明記されていない。さらに致命的なのは、信長と直接「いかなる者の企てか」「明智が者と見え申し候」という対話をした森蘭丸が、その場で討ち死にしていることである 6 。信長と蘭丸、そして「是非に及ばず」という言葉が発せられた場にいたとされる男性の近習たちは、ほぼ全員が死亡している。
この状況は、伝達経路における決定的な断絶を意味する。信長の最期の言葉が、混乱と炎の中で、いかにして正確に外部の、それも生き残った女中たちに伝わったのか。その過程は全くの謎である。このため、研究者の中には、「是非に及ばず」という言葉は、太田牛一が信長の最期を劇的に演出するために創作したものではないか、という厳しい見解も存在する 18 。
第二節:外部史料との比較 ― フロイスの沈黙
逸話の信憑性を検証するためには、他の同時代史料との比較が不可欠である。この点で最も重要なのが、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが残した記録、すなわち『日本史』および『1582年日本年報』である。フロイス自身は事件当時、九州の島原に滞在していたが、本能寺のすぐ近くにあった南蛮寺(イエズス会の教会)にいた同僚の宣教師から、事件の様子について極めて詳細な報告を受け取っていた 19 。
フロイスの記録は、事件の勃発からその後の京都の混乱までを、第三者の視点から生々しく伝えている。例えば、光秀が兵士たちに真の目的を隠していたことなど、『本城惣右衛門覚書』の記述を裏付ける重要な情報も含まれている 3 。しかし、その詳細な記録の中に、信長が「是非に及ばず」と発したという記述は一切存在しない。この「記録の不在」は、逸話が後世に広く知られるようになった物語ではなかった可能性を示唆しており、その信憑性を考察する上で極めて重要な論点となる。
これらの史料的検証から導き出されるのは、「是非に及ばず」という言葉が、実際にその場で発せられたと100%断定することは学術的に極めて困難であるという結論である。この逸話は、史料的に証明可能な「歴史的真実」というよりも、別の次元でその価値を考えるべきものかもしれない。太田牛一は、信長の側近として誰よりもその人物を深く理解していた。彼が記したこの言葉は、信長が「言いそう」な言葉として、あるいは信長の壮絶な生涯の最期に「ふさわしい」言葉として、伝聞を元に再構成、あるいは創造された「物語的真実」としての価値を持つのではないだろうか。この逸話の真価は、録音記録のような事実性にあるのではなく、信長という人物の本質を凝縮し、後世に伝えるための優れた歴史文学としての完成度にあるのかもしれない。
表2:本能寺の変に関する主要史料の比較
|
史料名 |
著者 |
成立時期 |
事件との関わり |
「是非に及ばず」の記述 |
史料としての特性・限界 |
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『信長公記』 |
太田牛一(信長の元側近) |
1610年頃(事件の約28年後) |
著者は事件時不在。事件後に生存者(女中)から聞き取り。 |
あり。 本逸話の唯一の直接的典拠。 |
信長への強い敬愛に基づく記述。伝聞情報であり、蘭丸の死により直接証拠が欠落 6 。 |
|
『フロイス日本史』 / 『日本年報』 |
ルイス・フロイス(宣教師) |
1580年代 |
著者は事件時不在。京都の宣教師からの詳細な報告に基づく。 |
なし。 |
第三者の客観的視点を持つが、キリスト教布教の観点からのバイアスも存在する可能性 17 。 |
|
『本城惣右衛門覚書』 |
本城惣右衛門(明智軍兵士) |
事件の約58年後 |
明智軍の一兵卒として現場に突入した当事者。 |
なし。 |
兵卒からの視点であり、信長側の動向は不明。襲撃側の状況を知る貴重な一次史料 3 。 |
終章:歴史的逸話としての一考察
逸話の生命力
本報告書で検証してきたように、織田信長の最期の一言とされる「是非に及ばず」の逸話は、史実としての確実性には大きな疑問符がつく。直接の証人は死亡し、伝達経路は不明確であり、同時代の詳細な外部史料にはその記録が存在しない。にもかかわらず、なぜこの言葉は400年以上の時を超えて人々の心を捉え、信長の最期を象徴する言葉として、あたかも歴史的事実であるかのように語り継がれてきたのであろうか。
その答えは、この言葉が持つ物語性、そして信長という人物の本質を見事に捉えている点にあると考えられる。史実性の曖昧さとは裏腹に、この逸話には人々を惹きつけてやまない力がある。
信長像の集大成として
「是非に及ばず」という一言が持つ、「諦観」「決断」「合理性」といった多面的な解釈の可能性こそが、織田信長という人物の複雑で多層的な魅力を凝縮している。ある者はこの言葉の中に、強大な運命の前に自らの死を受け入れる悲劇の英雄の姿を見る。またある者は、絶望的な状況下でも闘志を失わず、即座に行動を命じる不屈の覇王の姿を見る。そして、またある者は、感情を排し、冷徹に状況を分析して最善の死に様を選択する究極の合理主義者の姿を見る。
この言葉は、聞く者の信長観を映し出す鏡のような役割を果たしてきた。人々は、この一言の解釈を通じて、自らが求める信長像を見出し、その人物像をより強固なものとしてきたのである。もし信長が単に「無念」と叫んだり、光秀を罵ったりしたと伝えられていたならば、これほどまでに長く人々の記憶に刻まれることはなかったであろう。
結論
「是非に及ばず」という言葉は、歴史的事実の記録という枠を超え、織田信長の生涯と精神性を後世に伝えるための、最も完成された「文化的記憶装置」として機能していると言える。太田牛一が意図したか否かにかかわらず、この逸話は信長の死を、単なる謀反による敗北死から、彼の哲学を体現する壮大な自己完結の物語へと昇華させた。
それは、旧来の権威や常識を「是非に及ばず」と断じ、破壊と創造を繰り返した信長の生涯そのものを象徴する最期であった。したがって、この逸話の不滅の価値は、その史実性にあるのではなく、一人の稀有な人間の本質を後世に伝え続ける「物語的真実」の力にある。我々はこの言葉を通じて、今なお織田信長という人物と対話し続けているのである。
引用文献
- 本能寺の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
- 明智光秀はなぜ裏切ったのか?「本能寺の変」について現役阪大生が解説 | 家庭教師ファースト https://www.kyoushi1.net/column/history-trivia/honnouji-akechi/
- 光秀は「敵は本能寺に」と言ったのか?~フロイスの記録と、もうひとりの証言者 https://kyotolove.kyoto/I0000195/
- 是非に及ばず~織田信長最後の命令・本能寺の変~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/honnoji-nobunaga-kotoba.html
- 本能寺の変とは?なぜ裏切った?謎なの?簡単にわかりやすく - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/honno-ji
- 「信長公記」に想う|Moosan - note https://note.com/moosan7798/n/necad6499751f
- 『現代語訳 信長公記(全)』太田 牛一 | 筑摩書房 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097774/
- 現代語訳信長公記 / 太田 牛一【著】/中川 太古【訳】 - 紀伊國屋書店ウェブストア https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784046000019
- 「是非もなし」の意味とは?織田信長の心は?使い方や類語も解説 ... https://intelli-gorilla.com/media/5082
- 「是非に及ばず」は誰が言った?読み方、意味や類語など、覚えておきたい基礎知識をおさらい!【大人の語彙力強化塾204】 | Precious.jp(プレシャス) https://precious.jp/articles/-/39997
- 「是非もなし」の意味とは? 語源は織田信長? 使い方や類語も紹介 | マイナビニュース https://news.mynavi.jp/article/20210830-1937358/
- #1 信長の体(たい)|クニラ - note https://note.com/kuniraxxx/n/n731f26e76eaf
- 是非に及ばず 僕の好きな言葉|アザレア@主夫 - note https://note.com/azalea223/n/n8e9a47a5ecce
- 骨ひとつ、毛髪1本残さず果てた、謎多き織田信長の最期 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/1475/
- 【本能寺に明智を呼んでいた】教科書では教えない本能寺の変 信長が警戒していない事を知っていたのは誰だ?「是非に及ばず」の解釈とは 遺された文献を元に再検証!大人気「本能寺の変」最終章 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=U9djMTrkd1k
- 「麒麟がくる」最終回「本能寺の変」徹底解説!|予習・復習はこれで完璧! | CINEMAS+ https://cinema.ne.jp/article/detail/45750
- 本能寺の変、黒幕は誰だ?日本史最大の謎、最新研究で迫る明智光秀の動機と深層 https://sengokubanashi.net/column/honnoujinohenkuromakudare/
- 是非に及ばず - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AF%E9%9D%9E%E3%81%AB%E5%8F%8A%E3%81%B0%E3%81%9A
- 本能寺の変とキリシタン教会 - 慶應義塾大学 通信教育課程 - Keio University https://www.tsushin.keio.ac.jp/column/category/entry/column-064678.html
- ルイス・フロイス『日本史』を読みなおす⑫ https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/essay/20240807/
- フロイス日本史 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2