最終更新日 2025-10-31

織田信長
 ~能を舞い戦の気迫示す演武譚~

織田信長が桶狭間前に舞った幸若舞『敦盛』は、単なる奇行ではなく、死生観と覚悟を示す究極の自己演出。家臣の士気を高め、勝利へ導いた心理的リーダーシップの証。

織田信長、桶狭間前夜の舞 — 演舞譚に秘められた死生観とリーダーシップの徹底解剖

序章:運命の夜明け前 — 桶狭間、永禄三年五月十九日未明

永禄三年(1560年)五月、尾張国清洲城は、かつてない緊張と重苦しい空気に包まれていた。「海道一の弓取り」と謳われた駿河・遠江・三河の三国を領する大名、今川義元が、二万五千とも四万五千ともいわれる未曾有の大軍を率いて、尾張への侵攻を開始したのである 1 。これに対し、尾張半国をようやく統一したに過ぎない織田信長が動員しうる兵力は、わずか二千から三千 2 。その戦力差は十倍以上であり、客観的に見れば、織田家の命運は風前の灯火であった。

五月十八日には、今川軍の先鋒である松平元康(後の徳川家康)が、織田方の最前線基地である大高城への兵糧入れを成功させ、さらに織田方の丸根砦、鷲津砦を包囲下に置いた 6 。勝利を確信した今川軍の士気は天を衝く一方、清洲城内では絶望が支配していた。開かれた軍議において、家老筆頭の林秀貞をはじめとする重臣たちは、衆寡敵せずとして籠城を主張した。しかし、信長は彼らの進言に耳を貸すでもなく、ただ雑談に興じるばかりで、何ら具体的な作戦を示すことはなかった。この不可解な態度に、家臣たちは「運の末には、知恵の鏡も曇る」と、主君の乱心を嘆き、織田家の滅亡を覚悟したという 6

しかし、この信長の態度は、単なる奇行や混乱ではなかった。それは、情報漏洩を徹底的に防ぎ、家臣団の動揺を逆手に取るための、高度に計算された情報統制であった可能性が高い。圧倒的劣勢の状況下で、奇襲という常軌を逸した作戦を合議に諮れば、反対論で紛糾し貴重な時間を浪費するだけでなく、作戦の機密性が失われる危険性が極めて高い。信長は、集団の合意形成ではこの未曾有の国難を乗り越えられないと判断し、全ての責を自らが負う独裁的なリーダーシップを発揮する準備として、意図的に「沈黙」と「不可解な行動」を選択したのである。家臣たちに「もはや万策尽きたか」という絶望と、「何か深謀遠慮があるはずだ」という微かな期待を同時に抱かせ、彼らの思考を一度停止させる。これこそが、後に続く歴史的な演舞というパフォーマンスの効果を最大化するための、周到な舞台装置であった。

第一章:決断の刻 — 幸若舞『敦盛』と出陣

運命の五月十九日、夜の帳が最も深くなる時刻、事態は急変する。

時系列再現:午前三時から四時の出来事

午前三時頃 、今川軍による鷲津・丸根砦への総攻撃が開始された 6 。闇を切り裂く鬨の声と鉄砲の轟音は、数キロ離れた清洲城にまで届いていたであろう。城内の誰もが固唾を飲んで戦況を見守る中、信長は静かにその「時」を待っていた。

夜明け前(午前四時頃) 、両砦から血路を開いてきたであろう急使が城に駆け込み、「鷲津・丸根、敵勢に取り巻かれ、すでに落城寸前」との絶望的な報告をもたらした。前日まで泰然自若としていた信長は、この報を聞くや、やおら立ち上がった。だが、彼が発した命令は、出陣の号令ではなかった。信頼性の高い史料として知られる太田牛一の『信長公記』は、その瞬間をこう記している。「此時、信長敦盛の舞を遊ばし候(この時、信長は敦盛の舞を舞われた)」 8 。戦場の喧騒を前に、あまりにも場違いな、しかし凛とした静謐な舞が始まったのである。

舞の直後 、謡い終えた信長は、別人のように気迫のこもった声で叫んだ。「螺(ほら)ふけ、具足(ぐそく)よこせ(法螺貝を吹け、鎧を持ってこい)」 8 。その鋭い声は、絶望に沈んでいた城内の空気を一瞬にして切り裂き、戦場へと転換させた。

出陣準備 、家臣が慌ただしく持ってきた鎧をその場で身につけると、信長は立ったまま湯漬けをかき込み、兜をかぶった 8 。座って食事をとる時間すら惜しむその姿は、一刻の猶予もない戦況と、彼の尋常ならざる集中力を物語っていた。

清洲城出立 、全ての準備を終えた信長は、夜明け前の薄闇の中、馬に飛び乗った。この時、彼に従ったのは、岩室長門守、佐脇藤八といった小姓衆、わずか五騎のみであったという 6 。主だった家臣たちが後を追おうと準備を整える頃には、主君はすでに戦場へと疾駆していた。この突出した行動こそ、彼の揺るぎない決意の表れであった。

この一連の行動は、単なる感情の発露ではない。舞は、信長にとって精神状態を「平時」から「戦時」へ、そして「生」から「死」へと移行させるための、極めて個人的な儀式(スイッチ)であった。同時に、その神聖な儀式を家臣たちにあえて見せることで、言葉による説得を超え、自らの死生観と決死の覚悟を一座に伝播させる、効果絶大なパフォーマンスでもあった。極度のストレス下では、論理的な言葉よりも象徴的な行動が人の心を動かす。静謐な舞と戦の喧騒という異常な組み合わせは、見る者に強烈な印象を刻み込み、個々の恐怖を「主君と共にある壮絶な覚悟」へと昇華させる装置として機能したのである。

第二章:『敦盛』の深層 — なぜ能ではなく幸若舞だったのか

信長が舞った「敦盛」は、しばしば能楽の演目と誤解されるが、これは正確ではない。彼が舞ったのは、室町時代から戦国時代にかけて武士階級に特に愛好された「幸若舞(こうわかまい)」と呼ばれる芸能であった 8

幸若舞という選択

幸若舞は、軍記物語などを題材に、鼓を伴奏として力強く謡い舞う語り物芸能である 12 。その勇壮で男性的な曲風は、武士の価値観と深く共鳴し、織田信長や豊臣秀吉といった武将たちに熱心に支持された 12 。信長自身、幸若太夫に所領を与えるなど、単なる愛好家にとどまらない後援者であったことが記録されている 13 。彼が、公家や貴族文化の象徴である能ではなく、武士の芸能である幸若舞を選んだことは、自らのアイデンティティを武将として強く意識していたことの証左と言える。また、幸若舞には五穀豊穣を祈願する神事としての側面もあり 14 、信長の舞には戦勝祈願という儀式的な意味合いも込められていたと考えられる。

演目『敦盛』の物語とその象徴性

幸若舞『敦盛』は、『平家物語』における最も悲劇的な逸話の一つ、一ノ谷の戦いでの平敦盛と熊谷直実の物語を題材としている 8 。平敦盛は、平清盛の甥にあたり、当時16歳(数え年)の美しい公達であった。彼は笛の名手としても知られ、戦場にも愛用の笛「小枝(さえだ)」を携えていたという 17

一ノ谷の戦いで平家が敗走する中、敦盛は沖の船に乗り遅れる。そこに源氏方の歴戦の武将、熊谷次郎直実が追いつき、一騎討ちを挑む。敦盛は応戦するも敵わず、ついに組み伏せられる。直実が首を掻こうと敦盛の兜を押し上げると、そこに現れたのは、我が子・小次郎とさして年の変わらぬ、薄化粧を施した若武者の顔であった 17 。直実は一瞬ためらうが、後方からは味方の軍勢が迫る。ここで見逃せば、他の者の手にかかるだけである。直実は涙ながらに敦盛の首を討ち取り、その非情な武士の宿命と世の無常を嘆き、後に出家したと伝えられる 16

この物語が持つ「若く高貴な者の儚い死」「武士の非情な宿命」「世の無常」というテーマは、まさに桶狭間の戦いを前にした信長の状況と不気味なほどに重なり合う。信長も当時27歳。若くして家督を継ぎ、ようやく尾張をまとめ上げた矢先に、強大な敵によって滅ぼされようとしている。彼は『敦盛』を舞うことで、自らの運命を物語の主人公である敦盛に重ね合わせていたのである。これは、単に状況が似ているというだけではない。もし自分がこの戦で死ぬのであれば、それは無意味な犬死にではなく、後世まで語り継がれる悲劇の英雄「敦盛」のような、美しくも壮絶な最期なのだと、自らと家臣たちに宣言する行為であった。死の恐怖を、物語の力を用いて美学の域にまで昇華させ、それによって乗り越えようとしたのである。

第三章:「人間五十年」の哲学 — 信長の死生観と覚悟の表明

信長が舞いながら謡ったとされる幸若舞『敦盛』の中でも、特に有名なのが中心となるこの一節である。

「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり。一度(ひとたび)生を得て滅せぬ者のあるべきか」 8

この言葉は、信長の死生観と行動哲学を理解する上で、極めて重要な鍵となる。

一節の正確な解釈

この一節は、しばしば「人生は短い50年だ」という単純な意味で解釈されがちだが、その背景には壮大な仏教的宇宙観が存在する。「人間(じんかん)」とは人の世を指し、「人間五十年」とは、当時の平均寿命が50年程度であったという事実に加え、「人間界における50年という歳月」を意味する 22

真に重要なのは、比較対象として挙げられている「下天(げてん)」である。下天とは、仏教の世界観における六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)のうち、最上位である天界をさらに六つに分けた「六欲天」の最下層に位置する世界(四天王衆天)を指す 16 。この下天では、一昼夜が人間界の50年に相当し、そこに住まう天人の寿命は500歳であるとされている 23 。つまり、天界の悠久の時に比べれば、人間の一生など、まさに夢や幻のように儚い一瞬の出来事に過ぎない、という強烈な無常観がこの一節には込められているのである 16

信長の行動哲学への接続

しかし、信長にとってこの無常観は、決して虚無主義や諦念には結びつかなかった。むしろ、それは彼の革新的な行動を支える強靭な哲学へと昇華されていた。「人生は限りある儚いものだからこそ、無為に過ごす時間はない」「この限られた時間の中で、何を成すべきか」という、常人離れした行動原理の源泉となっていたのである 22

幸若舞『敦盛』には、この有名な一節に続く結びの句がある。「これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ(この世の儚さを悟りのきっかけと考えないのは、実に残念なことだ)」 22 。信長はこの言葉の真意を深く理解し、人生の有限性を、天下布武という壮大な目標を達成するためのエネルギーに転化していた。

この舞は、戦術論争の次元そのものを変える効果も持っていた。家臣たちが籠城か出撃かという目先の損得勘定に囚われている中、信長は「人間五十年」を謡うことで、意思決定の判断基準となる「時間軸」を、人間的なものから宇宙的なものへと一気に引き延ばした。この壮大な時間軸の前では、兵力差や戦術の優劣といった常識的な計算は意味をなさなくなる。「歴史に名を残すか、無為に滅びるか」という究極の選択だけが、絶対的な価値として浮かび上がる。これにより、信長の「奇襲」という非常識な選択が、唯一にして正しい道であると、自らに言い聞かせ、家臣たちにも有無を言わさず納得させたのである。

第四章:気迫の顕現 — 家臣たちの目に映ったもの

信長の舞は、単なる自己完結した儀式ではなかった。それは、その場に居合わせた家臣たちの心理を掌握し、集団の士気を極限まで高めるための、計算され尽くしたリーダーシップの発現であった。

リーダーシップのパフォーマンス

絶望的な状況下で、総大将が微塵の動揺も見せず、冷静に、そして美しく舞う。この常軌を逸した光景は、家臣たちに強烈な衝撃を与えたはずである。パニック状態にある集団において、リーダーが示す断固たる、しかし冷静沈着な態度は、集団全体の感情を安定させる効果を持つことが知られている。信長の行動は、彼が単なる軍事指揮官ではなく、人の心を読み、集団心理を演出することに長けた稀代のパフォーマーであったことを証明している 26 。その姿は、家臣たちに「我々の大将は常人ではない」「この人にならば、命を預けても悔いはない」という、カリスマ性への畏敬と絶対的な信頼を再認識させたであろう。

命令の浸透力

舞という非合理的なパフォーマンスの直後、信長は極めて合理的で具体的な戦闘指示を発している。『信長公記』によれば、彼は後に軍勢を前にしてこう檄を飛ばした。「敵は兵糧の運搬や砦攻めで疲労困憊している。対して我々は気力に満ちた新手である」「古来より『運は天にあり』と言うではないか。小勢であっても大軍を恐れるな」「分捕り(戦利品を奪うこと)はせず、討ち取った首も打ち捨てにせよ。とにかく目の前の敵を切り崩すことに集中せよ。この戦に勝てば、末代までの高名となるぞ」 1

舞という儀式によって感情が高揚し、主君への帰依の念が最高潮に達した状態で発せられたこれらの命令は、単なる作戦指示としてではなく、神がかったリーダーからの「天啓」のような重みをもって家臣たちに受け止められた。儀式によって醸成された一体感と高揚感が、命令への絶対的な服従心を生み出したのである。

この一連の流れは、家臣たちの心理を巧みに誘導するプロセスであったと分析できる。まず、『敦盛』の舞によって「死」を美しく、避けられないものとして提示し、家臣たちに一度、死を覚悟させる。これにより、目前の死への恐怖が麻痺し、中和される。次に、「螺ふけ、具足よこせ」という力強い命令と、立ったまま食事をするという生命力に満ちた行動が、彼らを死の静謐な世界から、生の躍動する世界へと一気に引き戻す。そして最後に、「敵は疲れている」「運は天にあり」という言葉が、一度は死を覚悟した心に一条の光として差し込まれる。「もしかしたら勝てるかもしれない」という希望が、通常の状態よりも遥かに強い「勝利への渇望」として心に燃え上がる。信長は、家臣の心理を「恐怖 → 死の受容 → 生への渇望」というダイナミックな過程で揺さぶり、そのエネルギーを勝利へと結集させた。これは、極めて高度な心理的リーダーシップ術と言わざるを得ない。

第五章:逸話の源流と変遷 — 二つの『信長記』を比較する

今日、我々が知る信長の「敦盛の舞」の逸話は、主に二つの歴史書にその源流を求めることができる。一つは、信長の側近であった太田牛一が記した『信長公記』。もう一つは、江戸時代初期に儒学者の小瀬甫庵が著した『甫庵信長記』である。両者を比較検討することで、史実の核と、後世に付加された物語的要素を明確に区別することができる。

一次史料としての『信長公記』

太田牛一が記した『信長公記』は、彼自身が信長に仕えた同時代人であり、その見聞に基づいて記されているため、信長の一代記の中でも最も信頼性の高い史料と評価されている 8 。その記述は、客観的かつ簡潔であり、事実を淡々と記録する姿勢が貫かれている 30 。『信長公記』における「敦盛の舞」の場面は、急報の到来から舞、出陣準備、そして僅かな供を連れての出立までが、極めてシンプルに記されているのが特徴である 8

後世の脚色としての『甫庵信長記』

一方、小瀬甫庵による『甫庵信長記』は、『信長公記』を底本としながらも、読者を楽しませることを目的とした講談調の読み物として成立した 30 。そのため、物語を劇的に盛り上げるための文学的な脚色が多く加えられている。例えば、「敦盛の舞」の場面では、舞の前に籠城を主張する林秀貞ら重臣との軍議での対立が描かれ、信長が「酒を出せ」と命じて酒宴を開き、その場の興に乗じて舞い始めるという、よりドラマティックな展開となっている 32 。この英雄性を強調した描写が、後の講談や小説、映像作品における信長像に絶大な影響を与えた。

記述の比較分析

両者の記述の差異を明確にするため、以下にその要点をまとめる。

比較項目

『信長公記』(太田牛一)

『甫庵信長記』(小瀬甫庵)

典拠

舞の前の状況

砦からの急報を受け、即座に起床し舞い始める。

軍議で重臣と対立後、「酒を出せ」と命じ、酒宴の最中に舞う。

[8, 32]

舞の目的

記述なし。行動から死の覚悟と出陣の合図と推察される。

家臣の士気を鼓舞し、自らの決意を示す意図がより明確に描かれる。

[8, 32]

出陣時の供

小姓衆5騎のみ。

岩室長門守、長谷川橋介など複数の武将名が具体的に挙げられる。

[6, 32]

全体のトーン

事実を淡々と記録した、現実的なドキュメンタリー調。

物語性を重視し、信長の英雄性を際立たせたドラマティックな講談調。

[30]

この比較から、逸話の「原型」は『信長公記』に見られる簡潔な事実の記録であり、そこに『甫庵信長記』が物語的魅力を付加するための「脚色」を施した構図が浮かび上がる。我々が今日イメージするドラマティックな信長像は、後者の影響を色濃く受けたものであることを理解することは、歴史を正確に捉える上で不可欠である。

結論:一舞に込められた天下布武の覚悟

織田信長が桶狭間の戦いの直前に舞った幸若舞『敦盛』の逸話は、単なる戦前の勇壮なエピソードとして片付けることはできない。それは、絶望的な状況を打破するために、信長が自らの死生観、武士の美学、そして人心掌握術を融合させ、練り上げた、究極の自己演出であり、計算され尽くしたパフォーマンスであった。

「人間五十年」の一節に象徴されるように、彼は人生の有限性を深く認識し、それを天下統一という壮大な目標への強烈なエネルギーへと転化させた。その舞姿は、家臣たちに死の覚悟を共有させると同時に、それを乗り越えた先にある勝利への渇望を植え付けた。この一舞には、既成概念に囚われない合理主義 33 、一点集中突破の戦略思考 34 、そして自らを世界の中心に据える強烈な自意識 36 といった、後の信長の行動を特徴づける全ての要素が凝縮されていたと言える。

桶狭間の奇跡的な勝利は、信長を尾張の一地方領主から、天下人へと駆け上がらせる輝かしい出発点となった。そして、その歴史的な大逆転劇の幕開けを飾ったのが、この「敦盛」の一舞であった。戦後、信長が討ち取った敵将・今川義元の首を清洲城外に塚を築いて手厚く供養したという事実 27 は、この舞に込められた無常観が決して一時の感情ではなかったことを示している。この逸話は、信長の天下布武が、単なる軍事力や政治力だけでなく、死をも乗り越える強靭な哲学と、人の心を動かす圧倒的な表現力に支えられていたことを、後世の我々に雄弁に物語っているのである。

引用文献

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  3. 【通説とは違う! 】実は桶狭間の奇襲は偶然の勝利ではなかった? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=8lJ3XFqXT-E
  4. 桶狭間の戦いの勝因はなんだった?圧倒的な兵を目の前にとった織田信長の行動とは https://sengokubanashi.net/history/okehazama-victory-oda/
  5. 桶狭間の戦い古戦場:愛知県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/okehazama/
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  7. 桶狭間の戦い - 武将愛 https://busho-heart.jp/okehazama-fight
  8. 織田信長が愛した「幸若舞」と「敦盛」 - 能楽協会 https://www.nohgaku.or.jp/journey/media/nobunaga
  9. 人間五十年 桶狭間の戦い - 有限会社ハイブリッド https://www.hybridkobe.jp/2020/06/08/%E4%BA%BA%E9%96%93%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%B9%B4%E3%80%80%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
  10. レジメ桶狭間 - 横浜歴史研究会 https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2022/11/%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%A1%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93.pdf
  11. 『富樫』 - 古典に親しむ - 国文学研究資料館 https://www.nijl.ac.jp/koten/kokubun1000/1000kume2.html
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