最終更新日 2025-10-20

織田信長
 ~踊り好き百姓集め盆踊り見て戦術~

信長が盆踊りから戦術を考案した話は伝説。史実では、若き信長が風流踊りを主宰し、民心掌握や経済拠点の確保に利用した高度な政治戦略だった。

織田信長と風流踊り ― 「戦術考案」伝説の深層と史実の再構築

序章:伝説から史実へ ― 『信長公記』が語る「踊り御張行の事」

織田信長にまつわる逸話として、「踊り好きの百姓を集め、その盆踊りの動きを見て戦術を考案した」という物語が語られることがあります。この戦略譚は、信長の非凡な着想力と、常人とは異なる視点から物事の本質を見抜く天才性を象徴するものとして、多くの人々の心を捉えてきました。しかし、この魅力的な逸話は、信長の生涯を最も忠実に記録した一次史料、太田牛一が著した『信長公記』の中には、その直接的な記述を見出すことができません。

本報告書は、この伝説の根源に光を当て、史実の徹底的な再構築を試みるものです。その目的は、まず『信長公記』の記録に基づき、弘治二年(1556年)七月十八日に実際に何が起こったのかを、時系列に沿って詳細に再現することにあります。そして次に、その歴史的出来事が、なぜ、そしてどのようにして後世に「戦術考案」という伝説へと昇華されていったのか、その変容の過程を深く分析します。

物語の舞台となる弘治二年、信長は弱冠22歳。父・信秀の死後、尾張統一はいまだ道半ばであり、実弟である織田信勝(信行)との家督を巡る対立は深刻化していました。四方を敵に囲まれたこの緊迫した状況下で、信長が大規模な踊りの催しを挙行したという事実そのものが、尋常ならざる背景を物語っています 1

この催しの主役は、当時、武士から庶民に至るまで社会全体を巻き込んで流行していた「風流(ふりゅう)踊り」でした 2 。これは単なる娯楽ではなく、華美な衣装や奇抜な仮装で人目を惹き、囃子に合わせて練り歩くことで、怨霊を鎮め、共同体の結束を確認する重要な社会文化的行事でした 2 。信長が主宰したこの一日の出来事は、この大きな文化的潮流の中で、極めて高度な政治的意図をもって執行された、一つの壮大なパフォーマンスだったのです。

第一部:津島の饗宴 ― 弘治二年七月十八日、その一日の再現

『信長公記』の「踊り御張行の事」と題された一節は、若き日の信長の姿を鮮やかに描き出しています 5 。ここでは、その記述を基に、利用者様の要望に応えるべく、あたかもその場に居合わせたかのような臨場感をもって、その一日の出来事を再構築します。

第一景:舞台設定 ― 経済都市・津島

蝉時雨が降り注ぐ夏の盛り、弘治二年七月十八日。信長がこの壮大な風流踊りの舞台として選んだのは、本拠地である清洲城下ではなく、経済都市・津島でした。この場所の選定自体に、信長の深い戦略的思考が窺えます。津島は伊勢湾交易の重要な拠点であり、牛頭天王信仰の中心である津島神社を擁する、尾張における経済・宗教の一大要衝でした。この地を確実に掌握することは、織田家の財政基盤を盤石にする上で死活問題であり、信長はこの一大イベントを通じて、津島の持つ力を自らの支配体制に組み込もうとしたのです。

踊りの会場となったのは、津島の有力者であった堀田道空の屋敷の庭でした 5 。道空をはじめとする津島の裕福な商人層を饗宴のホスト役に仕立て、彼らと一体となって催しを成功させることで、信長は軍事力による支配だけでなく、経済的・文化的な紐帯によって彼らを懐柔し、自らの権威をこの地に深く刻みつけようとしたと考えられます。

また、七月十八日という日付は、まさにお盆の時期にあたります。当時は戦乱によって多くの命が失われる時代であり、領主が率先して死者の霊を慰め、鎮める「霊鎮め(たましずめ)」の儀礼を執り行うことは、領民の心を安んじ、統治の正当性を示すための重要な責務でした 7 。信長の風流踊りは、最新の流行を取り入れた華やかなイベントであると同時に、伝統的な鎮魂儀礼としての側面も併せ持っていたのです。

第二景:絢爛たる仮装行列 ― 異形なる者たちの舞

堀田道空の屋敷の庭に、やがて異様な出で立ちの一団が姿を現します。それは、信長麾下の武将たちが、それぞれ配下の兵を率いて趣向を凝らした仮装に身を包んだ、壮麗かつ奇妙な行列でした。『信長公記』は、その詳細な配役を次のように記録しています 2

扮装

担当者/集団

史料上の特記事項

赤鬼

平手内膳衆

黒鬼

浅井備中守衆

餓鬼

滝川左近衆

地蔵

繊田太郎左衛門衆

弁慶

前野但馬守、伊東夫兵衛、市橋伝左衛門、飯尾近江守

「勝れて器量たる仁躰なり」(特に優れた出来栄えであった)

祝弥三郎

「一段似相申し侯なり」(格別に似合っていた)

天人

上総介殿(織田信長)

小鼓を打ち、女おどりを舞った

この仮装行列は、単なる思いつきの仮装パーティーではありませんでした。その配役には、当時の人々が共有していた仏教的な世界観が色濃く反映されています。赤鬼、黒鬼、そして餓鬼は、地獄道や餓鬼道に堕ちた亡者や、人々に災いをもたらす存在を象徴しています 2 。戦乱の世の苦しみや、死後に待ち受ける恐怖を具現化したものです。

それに対し、地蔵菩薩は、地獄に落ちた衆生をも救済する慈悲深き仏です。そして、鷺は神の使いともされる吉兆の鳥であり、神聖さや清らかさを表します 2 。つまりこの行列は、「地獄の苦しみ(鬼、餓鬼)」と「それからの救済(地蔵)」、そして「聖なる吉兆(鷺)」という、一つの壮大な宗教的物語を構成していたのです。信長は、戦乱の世の苦悩を人々の目の前で可視化させ、同時にそれを乗り越える救済と希望のヴィジョンを、この踊りを通じて演じてみせたと言えるでしょう。

そして、この宗教劇の頂点に君臨するのが、信長自身が扮した「天人」でした。彼はこのパフォーマンス全体の主催者であり、人間界を超越した神聖な存在として、この世の苦しみと救済を司るかのように振る舞ったのです。これは、若き日から見られた、自らを既存の権威の上に置こうとする信長の非凡な自己プロデュース能力の萌芽と見ることができます。

第三景:天人、舞う ― 信長のパフォーマンス

行列の最後に登場した信長の姿は、見る者の度肝を抜くものでした。『信長公記』は「天人の御仕立に御成り候て」と記しています 5 。これは、能の演目『羽衣』に登場する天女のような、性別を超越した神々しくも優美な姿であったと想像されます 2

信長はただ立っているだけではありませんでした。「小鼓を遊ぱし、女おどりをたされ候」とあるように、自ら小鼓を打ち鳴らし、女性的でしなやかな舞を披露したのです 5 。これは、単に「うつけ者」としての奇行と片付けるべきではありません。むしろ、武芸だけでなく、当代一流の芸能を自ら体現してみせることで、文化の庇護者としての洗練された教養と、人々を惹きつけてやまない圧倒的なカリスマ性を見せつける、計算され尽くしたパフォーマンスでした。津島の町衆は、若き主君のこの意外な姿に、畏敬と親しみの入り混じった複雑な感情を抱いたに違いありません。

第二部:清洲城の返礼 ― 民心掌握の妙技

津島での饗宴は、それだけで終わりませんでした。数日後、物語の舞台は信長の本拠地・清洲城へと移ります。ここで信長が見せた振る舞いは、彼の統治者としての人心掌握術がいかに巧みであったかを如実に示しています。

第一景:津島五ヶ村、清洲へ

津島での壮大な風流踊りに感銘を受けた津島五ヶ村(米之座、堤下、今市場、筏場、下構村)の年寄衆は、その返礼として、自分たちの踊りを披露するために清洲城へと向かいました 5 。これは単なる義理返しではなく、尾張の新たな支配者である信長に対し、津島の町衆が忠誠と服従を誓うための、極めて重要な政治的デモンストレーションでした。

『信長公記』が「炎天の辛労を忘れ」と記していることから、彼らが夏の灼熱の太陽が照りつける中、津島から清洲までの長い道のりを歩んできたことがわかります 5 。この肉体的な労苦は、次に待ち受ける信長の破格の厚遇が、彼らにどれほど大きな感動を与えたかを際立たせる効果的な伏線となっています。

第二景:御前での対話と破格の厚遇

清洲城に到着した年寄衆を、信長は城中の奥、自らの御前へと召し寄せました。そして、彼らが披露する踊りを一つ一つ丁寧に見ながら、一人ひとりに直接言葉をかけたと記録されています。

「是れは、ひようげなり」(これは、ひょうきんで面白いな)

「似相なり」(その格好、よく似合っているぞ)

『信長公記』は、この時の信長の様子を「あひあひと、しほらしく、一々御詞懸けられ」と描写しています 5 。これは、尊大な領主が領民に発する言葉ではありません。まるで気心の知れた仲間や友人にかけるような、気安く、親しみに満ちた言葉遣いです。この予期せぬ言葉によって、年寄衆と信長との間の心理的な壁は一瞬にして取り払われたことでしょう。

信長の行動は、言葉だけに留まりませんでした。さらに彼は、驚くべき行動に出ます。

「御団にて、冥加なく、あをがせられ、御茶を下され」5

すなわち、信長自らが手に持った団扇(うちわ)で、汗だくの年寄衆を扇いであやり、さらには自ら茶を振る舞ったというのです。

これは単なる親切心の発露と見るべきではありません。戦国時代の厳格な身分秩序の中において、一国の主君が、家臣でもない一介の町人や百姓に過ぎない者たちを自ら扇ぐなど、常識では到底考えられない、あり得ない行為でした。この「あり得ないこと」を敢えて実行することで、信長は「自分は古い権威や伝統的な身分制度には縛られない、全く新しいタイプの支配者である」という強烈なメッセージを、彼らの身体に直接刻み込んだのです。

年寄衆の衝撃は、「冥加なく」(もったいなくも)という言葉に凝縮されています。この常識を覆すほどの強烈な恩義の感覚こそが、彼らを心服させた決定的な要因でした。『信長公記』は、その結果を「有り難く、皆感涙をながし、罷帰り侯ひき」(あまりの有り難さに、皆が感謝の涙を流して帰っていった)と結んでいます 5 。彼らは恐怖によって支配されたのではなく、深い感動と畏敬の念によって、自ら進んで信長に忠誠を誓ったのです。これは、後の信長の支配体制の根幹をなす「恐怖と恩賞」を巧みに使い分ける統治スタイルの、鮮やかな原型と言えるでしょう。

第三部:逸話の深層分析 ― 踊りが意味したもの

これまで見てきたように、『信長公記』が伝える「踊り御張行の事」は、若き信長の多面的な才能を示す、極めて興味深い出来事でした。ここでは、この史実が持つ多層的な意味を分析し、なぜこの逸話が「戦術考案」という伝説へと姿を変えていったのか、その謎に迫ります。

第一節:統治戦略としての「風流踊り」

この一連の出来事は、単なる余興や息抜きではありませんでした。その背後には、信長の緻密に計算された統治戦略が存在します。

第一に、 家臣団の結束 です。家督相続を巡って一族内で対立が燻る中、共通の目標(風流踊りを成功させる)に向かって準備し、共に演じるという経験は、家臣団の一体感を醸成し、内部の結束を固める上で大きな効果がありました。各武将に役割を与え、その出来栄えを評価することで、信長は自らの求心力を高めたのです。

第二に、 経済拠点(津島)の掌握 です。津島の有力者たちを饗宴の主役の一人として巻き込み、さらに清洲城で破格のもてなしをすることで、彼らを織田家の強力な経済的・政治的支援者として体制に組み込みました。これは、軍事力だけに依存するのではなく、経済の重要性を深く理解していた信長ならではの統治スタイルを象徴しています。

第三に、 民心の掌握と情報収集 です。領民と直接触れ合うことで、自らの威光と慈悲深さの両面を効果的に示し、彼らの心に深い忠誠心を植え付けました。同時に、このような無礼講に近い場は、領内の実情や人々の本音を吸い上げる、絶好の情報収集の機会であった可能性も否定できません。

第二節:「戦術考案」伝説の成立過程

ここで改めて原点に立ち返ると、『信長公記』には「百姓の踊りから戦術を考案した」という記述は一切存在しません。では、なぜ史実からかけ離れたこのような伝説が生まれ、広く信じられるようになったのでしょうか。その成立過程については、いくつかの仮説が考えられます。

一つ目の仮説は、**他の逸話との混同(コンフュージョン)**です。信長には、桶狭間の戦いの直前に、謡曲『敦盛』を舞ってから出陣したという、極めて有名な逸話があります 9 。この「舞(踊り)」と「画期的な戦術による奇跡的な勝利」が結びついた強烈なイメージが、津島での「風流踊り」の逸話と後世で混同され、やがて融合することで、「盆踊りを見て戦術を考えた」という新たな物語が創造された可能性が考えられます。

二つ目の仮説は、**江戸時代の合理的解釈(ラショナリゼーション)**です。戦乱が終わり泰平の世となった江戸時代、講談や軍記物語が庶民の間で大流行しました。その中で信長は、旧弊を打破する「合理主義的で革新的な英雄」として偶像化されていきました 10 。その物語の文脈において、英雄・信長が単に「派手な踊りを楽しんだ」というだけでは、物語として物足りなく、教訓性にも欠けます。そこで講談師や物語の作者たちが、「いや、あれは単なる遊びではない。常人には思いもよらぬ戦術の着想を得るための、深謀遠慮の表れだったのだ」という、英雄像にふさわしい「合理的」な解釈を後付けし、物語をより面白く、魅力的にしたのではないでしょうか。

三つ目の仮説は、**象徴的物語としての受容(シンボリズム)**です。この伝説は、文字通りの史実ではないとしても、信長という人物が持つ本質的な一面を見事に捉えています。すなわち、「常識にとらわれず、あらゆる事象から本質を見抜き、自らの力へと転換する非凡な能力」です。無秩序に見える百姓の踊りの輪の動きから、集団の統制や陣形のヒントを見出すという発想そのものが、いかにも信長らしいと人々が感じたからこそ、この伝説は史実を超えて広く受け入れられ、語り継がれてきたと考えられます。

結論:戦略譚の向こう側に見える、若き信長の実像

利用者様が関心を寄せられた「織田信長~踊り好き百姓集め盆踊り見て戦術~」という逸話は、厳密な意味での史実ではありません。しかし、その伝説の源流となった『信長公記』に記される「踊り御張行の事」は、単なる軍事戦術の考案という物語よりも、遥かに高度で複合的な「戦略」に満ち溢れた、歴史的な出来事でした。

この逸話から浮かび上がってくるのは、一つの顔だけではない、若き信長の多面的な実像です。それは、奇抜な仮装と舞で人々の度肝を抜く型破りな表現者(パフォーマー)の顔であり、経済の要衝と民衆の心を的確に掴む冷徹な政治家(ポリティシャン)の顔であり、そして身分の壁を越えた破格の振る舞いで人々の心理を巧みに操る統治者(ルーラー)の顔でもあります。

伝説は、信長の非凡さを「戦術」という一点に集約させて語りました。しかし、史実の中にいる彼は、政治、経済、文化、宗教、そして人間の心理の全てを駆使して、天下統一への道を切り拓いた、より深遠な「戦略家」でした。弘治二年、津島で繰り広げられた一日の饗宴は、若き信長がその類稀なる才能を遺憾なく発揮した、彼の生涯における極めて重要な一幕であったと言えるのです。

引用文献

  1. 検証 信長公記 桶狭間前夜 http://www.a-namo.com/ku_info/midoriku/page/kouki.htm
  2. 津島仮装盆踊① - 戦国徒然(麒麟屋絢丸) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054890230802/episodes/16817139556996105720
  3. 日本における盆踊りの変遷をご紹介!人が踊る理由も解説 - オマツリジャパン https://omatsurijapan.com/blog/bonodori_history/
  4. 京都市上京区役所:信長の上京焼討ち https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012425.html
  5. 信長公記』「首巻」を読む 第30話「逸話(4)踊り御張行の事 - note https://note.com/senmi/n/ncefe4dce1aba
  6. 信長も踊った:偉人達の盆踊り https://www.bonodori.net/jinbutsu/
  7. 知っておきたいお盆の風習。「盆踊り」が行われる理由 - 暮らし歳時記 https://www.i-nekko.jp/hibinotayori/2025-081500.html
  8. いつからあるの?なぜ始まったの?盆踊りの歴史をわかりやすくご紹介 | ママソレ powered by ママ賃貸|子育てママのくらしがちょっぴり軽くなる生の声メディア | 暮らし https://mama.chintaistyle.jp/article/bon-festival-dance_history/
  9. 織田信長の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/26141/
  10. 織田信長と浮世絵/ホームメイト https://www.meihaku.jp/ukiyoe-basic/odanobunaga-ukiyoe/