織田信長
~鳴かぬなら殺してしまえホトトギス~
信長の句「鳴かぬなら殺してしまえ」は江戸時代の創作だが、彼の苛烈で非情な性格を象徴。泰平の世から見た英雄像を反映し、家康の忍耐を際立たせる。
逸話の解剖学 ―「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」の起源と深層
序章: 我々が知る「信長とホトトギス」
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」。この一句は、日本人であれば誰もが一度は耳にしたことがあるであろう、織田信長の人物像を象徴する言葉として広く知られています。この句は、目的のためには手段を選ばず、意に従わないものは容赦なく切り捨てる信長の苛烈で短気な性格を、鮮烈に描き出すものとして語り継がれてきました 1 。豊臣秀吉の「鳴かせてみせよう」、徳川家康の「鳴くまで待とう」という句と対比されることで、戦国乱世を終結に導いた三英傑の気質の違いを端的に示す、優れた性格類型論としても機能しています 4 。
しかし、このあまりにも有名な逸話が、信長本人が生きた戦国時代に実際にあった出来事ではない、という事実はあまり知られていません。複数の研究や資料が指摘するように、この逸話は信長、秀吉、家康の三人が実際に詠んだ句ではなく、後世、具体的には江戸時代になってから創作されたものであると考えられています 5 。中には、この逸話が「虚説である」と明確に断じている文献も存在します 7 。
とすれば、我々が問うべきは「この逸話は史実か否か」という二元論ではありません。むしろ、より深く、そして知的に刺激的な問いが浮かび上がってきます。すなわち、「史実ではないこの逸話が、いつ、どこで、誰によって、そして一体なぜ生み出されたのか」。そして、一つの「作り話」が、なぜこれほどまでに人々の心を捉え、一人の歴史的人物のパブリックイメージを決定づけ、現代にまで絶大な影響力を持ち続けているのか。
本報告書は、この壮大な謎を解き明かすことを目的とします。単に逸話の概要をなぞるのではなく、その起源を文献学的に遡り、成立の背景にあった時代の精神を読み解き、そして物語が持つ文化的な機能を分析することで、「信長とホトトギス」という逸話の重層的な構造を解剖していきます。これは、一つの物語の誕生と流布の軌跡を追う、壮大な知の探求に他なりません。
第一部: 逸話の「現場」― 二つの情景の再構成
利用者様の「リアルタイムな会話内容」「時系列でわかる形」というご要望に応えるべく、本章では逸話の原典とされる二つの文献が描く「架空の場面」を、あたかもその場にいるかのような臨場感をもって再現します。驚くべきことに、この逸話には少なくとも二つの異なる「発生現場」の物語が存在するのです。
第一景:『耳嚢』が描く「御三方の会談」― 即興の連歌会
この逸話の最古の記録とされる随筆『耳嚢』が描くのは、三英傑が一堂に会する、緊張感と文化的な香りに満ちた場面です。
状況設定の描写:
時は卯月(旧暦四月)、ホトトギスの初音が待たれる季節。場所は特定されていませんが、ある一室に、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という、当代きっての権力者たちが顔を突き合わせています。これは単なる会談ではなく、彼らの人間性が剥き出しになる即興の詩歌の場、いわば「言葉の真剣勝負」の舞台です 7。
会話の開始(時系列①):
場の口火を切ったのは、季節にまつわる何気ない話題でした。「今年はまだホトトギスの鳴き声を聞かないな」という趣旨の発言が、誰からともなく発せられます 7。この穏やかな一言が、歴史に刻まれることになる三者三様の句を生む引き金となりました。
信長の句(時系列②):
この話題に対し、即座に反応したのが信長でした。彼は言い放ちます。
「鳴ずんば殺して仕まへ時鳥(鳴かないのであれば、殺してしまえ)」7
この句には、彼の苛烈な性格が凝縮されています。ホトトギスが鳴くか鳴かないかは、鳥の意思や自然の摂理に属する問題です。しかし信長にとって、それは自身の期待に応えるか否かという二元論でしかありません。期待に応えぬもの、役に立たぬものは、たとえ風流の対象であるホトトギスであっても、その存在価値を認めず排除する。ここに、彼の徹底した合理主義と、目的達成のためには手段を厭わない非情さ、そして待つことを知らないせっかちな気性が鮮やかに描き出されています。
秀吉の句(時系列③):
信長の殺伐とした句の直後、その雰囲気を巧みに受け流すように、秀吉が続けます。
「啼かずとも啼せて聞ふ時鳥(鳴かないのであっても、鳴かせて聞いてみせよう)」7
これは、信長とは全く異なるアプローチです。彼は現状を破壊するのではなく、知恵と工夫を凝らして状況をコントロールし、自らの望む結果を引き出そうとします。鳴かないのであれば、鳴くように仕向ける方法を考える。そこには、農民から天下人にまで上り詰めた彼の機知、才覚、そして人心掌握術に長けた「人たらし」としての能力が見て取れます。力ではなく、策をもって事を成すという秀吉の真骨頂が表れた一句と言えるでしょう。
家康の句(時系列④):
最後に、二人のやり取りを静かに聞いていたであろう家康が、落ち着いた口調で詠みます。
「なかぬなら啼時聞ふ時鳥(鳴かぬのなら、鳴く時に聞こう)」7
現代に伝わる「鳴くまで待とう」とは、ニュアンスが微妙に異なります。この句は、積極的に「待つ」というよりは、「鳴かないのであれば仕方がない、鳴く機会があればその時に聞くことにしよう」という、より自然体で受動的な姿勢を示しています。無理強いもせず、焦りもせず、自然の摂理に身を委ねる泰然自若とした態度。ここに、彼の忍耐強さの萌芽と、物事を長期的な視点で捉える大局観が象徴されています。
異聞:里村紹巴の存在:
『耳嚢』の写本によっては、この劇的な場面に、当代随一の連歌師であった里村紹巴が同席していたという記述が見られます 5。そして彼もまた、三英傑に応える形で一句詠んだとされています。
「なかぬなら鳴かぬのもよし郭公(鳴かないのなら、鳴かないのもまた良いものだ)」
この句は、物事をあるがままに受け入れるという、さらに達観した境地を示しています。紹巴の存在は、この逸話が単なる性格診断ではなく、連歌会という文化的な文脈の中で生まれた物語である可能性を示唆しており、一層の深みを与えています。
第二景:『甲子夜話』が描く「鳴かぬ贈物」― 人物評としての思考実験
『耳嚢』から数十年後に記された『甲子夜話』では、物語はより寓話的で、洗練された形に変化します。そこには、三人が一堂に会する会話劇の臨場感はありません。
状況設定の描写:
物語の前提はこうです。ある人物が、信長、秀吉、家康のそれぞれに、鳴き声の美しいホトトギスを献上しました。しかし、いずれの鳥も一向に鳴こうとしません 5。この「鳴かないホトトギスをどうするか?」という普遍的な問いを通して、三者の性格を浮き彫りにする、一種の思考実験として逸話が語られます。
思考実験の開始:
これはリアルタイムの会話ではなく、後世の人物が「彼らならばこうするであろう」という形で、それぞれの気質を反映した句を当てはめていくキャラクター分析です。物語の形式が、より教訓的、類型的な性格を帯びていることが分かります。
提示される句:
- 織田右府(信長): 「なかぬなら殺してしまへ時鳥」 10
- 豊太閤(秀吉): 「鳴かずともなかして見せふ杜鵑」 11
- 大権現様(家康): 「なかぬなら鳴まで待よ郭公」 10
『耳嚢』のバージョンと比較して、信長と秀吉の句はほぼ同じですが、家康の句が「鳴くまで待てよ(待とう)」と、より積極的で強い意志を感じさせる表現に変化している点が極めて重要です。この変化については、第二部で詳述します。
第一部の洞察:二つの「現場」が示す物語の性質
この二つの「現場」を比較することで、逸話が持つ本質とその変容の過程が見えてきます。この物語には、少なくとも二つの異なるバージョンが存在し、それぞれが異なる目的を持っていたと考えられます。一つは即興性を重視した「会話劇」であり、もう一つは類型化を目的とした「寓話」です。
なぜ二つのバージョンが生まれたのでしょうか。おそらく、人々の間で口伝によって語り継がれるうちに、より分かりやすく、教訓的な形へと物語が変化していったためと推測されます。『耳嚢』が描く「会話劇」形式は、三英傑が直接対峙する緊張感と、その場で即興で詠むというライブ感を演出することで、物語の信憑性を高める効果があります。連歌師・紹巴の存在は、文化的な権威付けの役割も果たしていたかもしれません。
一方で、『甲子夜話』の「寓話」形式は、具体的な状況設定を排し、「鳴かぬホトトギス」という普遍的な課題に対して三者がどう反応するか、という純粋な性格分析に特化しています。これにより、物語のメッセージ性がより明確になり、人々の記憶に定着しやすくなったのです。
つまり、逸話の形式そのものが、その目的(単なるゴシップか、洗練された人物評か)を反映しており、物語が時代を経てどのように受容され、変質していったかを示す重要な手がかりとなっているのです。
第二部: 伝説の源流へ ― 江戸後期の随筆を遡る
逸話の「現場」を再現したところで、次はその物語が初めて文字として記録された源流へと遡ります。一体、いつ、どのような書物の中に、この有名な逸話は姿を現したのでしょうか。
最古の記録を求めて:根岸鎮衛著『耳嚢』
現在、ホトトギスの逸話の初出、すなわち最も古い記録である可能性が極めて高いと考えられているのが、江戸時代後期の旗本・根岸鎮衛(ねぎし やすもり)によって書かれた随筆集『耳嚢(みみぶくろ)』です。
『耳嚢』とは:
根岸鎮衛は、江戸の南町奉行などを歴任した高級官僚でした。『耳嚢』は、彼が公務の傍ら、天明4年(1784年)から文化11年(1814年)までの約30年間にわたって見聞きした話を書き留めた、全10巻に及ぶ膨大な雑話集です 14。その内容は、怪談奇譚、市井の噂話、武士や庶民の逸話などが中心であり、歴史の真実を記すことを目的とした史書ではないという点が重要です 15。
成立時期の重要性:
『耳嚢』の執筆期間(1784年~1814年)は、後述する『甲子夜話』(1821年~1841年)よりも明らかに早く始まっています。このことから、ホトトギスの逸話が初めて文献に登場したのは『耳嚢』であると見なされています 6。
原文の分析:
この逸話は、巻八の「連歌其心自然に顯はるゝ事(連歌にはその人の本性が自然と現れること)」という項目に記されています 7。そして、その冒頭で著者の根岸鎮衛自身が、この話の出所について極めて重要な注釈を加えています。
「古物語にあるや、また人の作る事や知らざれど(古い物語として伝わっているのか、あるいは誰かの作り話なのかは知らないが)」7
これは決定的な記述です。つまり、この逸話は記録された最初期の段階から、書き手自身によってその信憑性が留保され、真偽不明の伝聞として扱われていたのです。このことは、逸話が生まれた瞬間から「史実ではないかもしれない」という認識が共有されていたことを強く示唆しています。
逸話を広めた名著:松浦静山著『甲子夜話』
『耳嚢』が逸話の「源流」であるとすれば、それを広く世に知らしめ、人々の共通認識として定着させる上で絶大な役割を果たしたのが、肥前平戸藩の第9代藩主・松浦静山(まつら せいざん)の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』です。
『甲子夜話』とは:
『甲子夜話』は、文政4年(1821年)から天保12年(1841年)にかけて成立した、全100巻にも及ぶ膨大な随筆集です 10。静山は当代きっての知識人であり、彼の見識や彼が聞き集めた話は、当時の社会に大きな影響を与えました 12。
逸話の記述と分析:
逸話は巻三十五に登場します 7。興味深いことに、静山もまた、この話を紹介するにあたり、その信憑性について言及しています。
「夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く協へりとなん(夜の雑談の際に、ある人が言うには、これは誰かの作り話だろうが、三人の人物の性質によく合致していて見事だ)」5
ここでも、『耳嚢』と同様に、この話が創作(仮托)であることが前提とされています。しかし、静山はその上で、この創作が三英傑の性格をあまりに見事に捉えている点を高く評価しているのです。史実性よりも、人物評としての的確さに価値を見出していることが分かります。
パロディ句の存在:
『甲子夜話』がこの逸話の普及を物語る上でさらに重要なのは、三英傑の句に続けて、以下のようなパロディ句が収録されている点です。
「なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす」
「なかぬなら貰て置けよほとゝぎす」8
これらの句は、もはや英雄的な気概とは無縁の、極めて世俗的で醒めた視点を示しています。このようなパロディが生まれるということは、『甲子夜話』が書かれた時点で、すでに元となる三英傑のホトトギスの句が世間に広く知れ渡り、誰もが知る「お題」として遊ばれるほどに定着していたことを示す強力な証拠と言えるでしょう。
【表1:ホトトギスの句・表現比較表】
逸話が口伝や書写を経て、現代に至るまでにどのように言葉が変遷し、洗練されていったかを視覚的に示すため、各文献の表現を比較します。特に家康の句の変化は、物語全体の解釈を左右する重要なポイントです。
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出典 |
織田信長 |
豊臣秀吉 |
徳川家康 |
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『耳嚢』(岩波文庫版) |
鳴ずんば殺して仕まへ郭公 |
鳴かずとも啼せて聞ふほとゝぎす |
鳴ぬなら鳴時きかふ時鳥 |
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『甲子夜話』(東洋文庫版) |
なかぬなら殺してしまへ時鳥 |
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 |
なかぬなら鳴まで待よ郭公 |
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現代の一般的な句 |
鳴かぬなら殺してしまえホトトギス |
鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス |
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス |
この表から、極めて重要な変化が読み取れます。それは、徳川家康の句が、『耳嚢』における「鳴く時に聞こう(機会があれば聞く)」という受動的で自然体な姿勢から、『甲子夜話』の「鳴くまで待てよ(待とう)」という、明確な目的意識と強い意志を伴う能動的な忍耐へと、意味合いを大きく変えている点です。
なぜこのような変化が起きたのでしょうか。「待つ」という行為には、単に時が過ぎるのを傍観するのではなく、天下統一という最終目標を見据え、その時が来るまで耐え忍ぶという強靭な精神力が含意されます。この変化は、天下人となった徳川家康と、その治世を正統とする徳川幕府にとって、非常に都合の良い解釈を生み出します。
この句の変遷は、単なる言葉の揺れや偶然の産物ではありません。それは、江戸時代を通じて形成されていった「徳川史観」、すなわち徳川家康を理想的な君主として描き、その天下取りを必然とする歴史観が、物語に反映された結果である可能性が極めて高いのです。家康の成功を「強靭な忍耐力の賜物」として位置づけるため、物語が意図的に「チューニング」された過程が、この一句の変化に見て取れるのです。
第三部: なぜこの物語は生まれたのか ― 時代が求めた英雄像
逸話の源流が江戸時代後期にあることを突き止めた今、最後の謎に迫ります。なぜ、この時代に、このような物語が創作され、広く受け入れられたのでしょうか。その答えは、物語が生まれた時代の社会的・文化的背景にあります。
「徳川の世」から見た戦国時代
逸話が生まれた18世紀末から19世紀初頭は、徳川幕府による治世が200年近く続き、「泰平の世」が当たり前となった時代でした。この時代に生きた人々にとって、血で血を洗う戦国時代は、もはや遠い過去の動乱期であり、歴史物語や講談などを通じて消費されるエンターテイメントの対象でした 17 。彼らは、その激動の時代を生き抜いた英雄たちを、現実の複雑な人間としてではなく、ある種の類型化されたキャラクターとして理解し、楽しもうとしたのです 18 。
特に、江戸時代の庶民文化の中では、信長の評価は必ずしも高いものではありませんでした。講談の世界では秀吉が主役として人気を博す一方、信長は主役になりにくく、学者であった新井白石からは能力から人格まで酷評されるなど、「天下統一を目前にしながら油断して家臣に討たれた人物」という、やや否定的なイメージが持たれていました 20 。この逸話が描く「残忍」「短気」というイメージは、こうした江戸時代の信長像を補強し、定着させる上で大きな役割を果たしたと考えられます。
物語の機能:三英傑の性格類型化
この逸話が広く受け入れられた最大の理由は、その圧倒的な分かりやすさにあります。信長の「破壊と革新」、秀吉の「機知と才覚」、家康の「忍耐と安定」という、複雑な歴史的人物の性格や行動原理を、非常にシンプルで記憶に残りやすいキーワードに集約させることに成功しました 1 。
この優れた類型化は、人々が複雑な歴史を理解し、記憶するための強力なフック(手がかり)となりました。学校教育の現場で今なお引用されることからも、その教育的効果の高さがうかがえます。さらに、この三者の対比は、人生の各ステージ(青年期=信長、壮年期=秀吉、老年期=家康)になぞらえられたり 4 、現代のビジネス論におけるリーダーシップの類型として引用されたりする 3 など、時代を超えて人々の行動規範や自己分析の材料として機能し続けています。
家康を称揚する仕掛け
この物語は、単なる性格分析に留まらない、巧みな構造を持っています。それは、最終的な勝者である徳川家康を称揚する仕掛けです。
物語の結末を史実と照らし合わせると、信長の「殺す」という破壊的な手法も、秀吉の「鳴かせる」という性急な手法も、最終的には破綻を迎えました。結果として、家康の「待つ」という姿勢こそが天下を獲るための最善の策であった、という結論に自然と導かれる構造になっています 2 。
この物語は、徳川家康の「忍耐」を最高の美徳として称揚することで、彼が築いた江戸幕府の治世の正統性を、文化的な側面から補強するイデオロギー装置としての役割を担っていたと考えられます。戦乱の世を終わらせた家康の「忍耐」は、泰平の世を享受する江戸時代の人々にとって、最も共感しやすく、理想的な為政者の資質と映ったのです。
逸話は時代を映す鏡
これらの分析から導き出される結論は、この逸話が戦国時代の出来事を語っているのではなく、江戸時代後期の社会が、過去の英雄たちにどのような役割と性格を「求めた」かを色濃く反映している、ということです。
逸話が生まれた江戸時代後期は、田沼意次の政治に代表される幕政の混乱や、天明・天保の大飢饉など、幕府の権威が揺らぎ、社会が不安定化した時期でもありました 12 。そのような時代にあって、人々は安定と秩序をもたらした「建国の父」である家康の偉大さを再確認し、その美徳(忍耐)に精神的な支えを求めた可能性があります。
その文脈において、信長と秀吉は、家康の偉大さを際立たせるための「前座」、あるいは対照的な存在として、それぞれが持つ欠点(短気、性急さ)を象徴する役割を担わされたのです。
したがって、このホトトギスの逸話は、単なる英雄譚ではありません。それは、社会が不安定な時期に、理想的なリーダー像や価値観を過去の歴史に投影して生み出された、「時代の願望の産物」と結論づけることができるのです。
終章: 虚構が真実を語る時
本報告書で明らかにしてきた通り、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」という逸話は、織田信長が生きた時代の史実ではありません。その起源は江戸時代後期の随筆『耳嚢』に遡り、名著『甲子夜話』を通じて広く世に知られ、人々の口の端にのぼる過程で、より洗練された現在の形へと定着していきました。
しかし、この逸話は、史実ではないからといって無価値なわけでは決してありません。むしろ、戦国時代の史料としてではなく、「江戸時代の人々が戦国時代をどのように見ていたか」「彼らが徳川の治世をどのように意味づけていたか」を雄弁に物語る、一級の「文化史料」としての価値を持っています。
一つの短い句が、いかにして一人の歴史的人物のイメージを強力に規定し、数百年後の我々の認識にまで影響を与え続けているのか。この逸話の解剖は、歴史とは単なる過去の事実の記録ではなく、後世の人々によって絶えず「物語」として再生産され続ける、ダイナミックな営みであることを我々に示してくれます。
信長が実際にこの句を詠んだかどうかは、もはや問題の本質ではありません。重要なのは、この句が信長の人物像として「ありうべきこと」として、時代を超えて人々に受容され続けてきたという事実です。時に、虚構の中にこそ、時代が求める「真実」が隠されているのです。この逸話は、そのことを示す最も優れた一例と言えるでしょう。
引用文献
- imidas.jp https://imidas.jp/proverb/detail/X-02-C-21-2-0017.html#:~:text=%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%BB%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%81%8E%E3%81%99&text=%E3%80%8C%E9%B3%B4%E3%81%8B%E3%81%AC%E3%81%AA%E3%82%89%E6%AE%BA%E3%81%97%E3%81%A6,%E3%81%A5%E3%81%91%E3%81%A6%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE%E3%80%82
- 戦国三英傑(信長・秀吉・家康)くらべてみよう、ホトトギス https://busho.fun/column/threeheroes
- 「信長」「秀吉」「家康」。働きがいのある会社を創るのは誰? https://hatarakigai.info/library/column/20180807_121.html
- 3大武将の性格を色濃く表す3つの川柳 ― 戦国大名のホトトギスの鳴かせ方 - Goin' Japanesque! http://goinjapanesque.com/ja/04130/
- 〈鳴かぬなら~〉信長、秀吉、家康とホトトギスの歌に秘められた「徳川史観」の印象操作【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1011714
- 戦国三英傑の特徴と逸話/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/26430/
- 信長、秀吉、家康が詠んだというほととぎすの句の出典を確認したい。「みみぶくろ」とテレビ番組で放送し... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000225924&page=ref_view
- 鳴かぬなら……(「ほととぎす」の句) http://sybrma.sakura.ne.jp/206nakanunara.hototogisu.html
- 雑記帳・ホトトギス補遺 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/think/zakki_10.htm
- 「ほととぎす」の歌はいつ,だれがつくったの? | 生徒の広場 - 浜島書店 https://www.hamajima.co.jp/rekishi/qa/a11.html
- 「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」「鳴かぬなら鳴かせてみせよ... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/reference/show?page=ref_view&id=1000085590
- 寓話から教訓を学ぶ「信長・秀吉・家康のホトトギス」 - 株式会社きらめき労働オフィス ブログ https://www.kirameki-sr.jp/blog/business-skill/lesser-cuckoo-business/
- 鳴くまで待とう時鳥(ナクマデマトウホトトギス)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%B3%B4%E3%81%8F%E3%81%BE%E3%81%A7%E5%BE%85%E3%81%A8%E3%81%86%E6%99%82%E9%B3%A5-588405
- 旗本御家人 - 25. 耳嚢(みみぶくろ) - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatamotogokenin/contents/25.html
- 耳嚢 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%9A%A2
- 三英傑「ホトトギスの歌」を詠んだのは誰か - 今につながる日本史+α https://maruyomi.hatenablog.com/entry/2023/04/07/002057
- お江戸川柳お笑い旅~江戸古川柳を令和の現代に(ホトトギスの歌は・・) - 三菱電機デジタルイノベーション株式会社 https://www.mind.co.jp/oasis/013.html
- 三者三様の人柄をかぎくらべ!織田信長・豊臣秀吉・徳川家康イメージインセンス - note https://note.com/f_museumbu/n/ncacc02943753
- 意外!?信長・秀吉・家康の本当の性格とは?|出陣!歴史ワールド - ポプラ社 https://www.poplar.co.jp/rekishi/history/history1.html
- 織田信長の評価、江戸時代は低かった! - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/6666/
- 信長・秀吉・家康が詠むホトトギスの句の評価と考察|Minoru Tanaka - note https://note.com/tanakaminoru_/n/n553f6d00a4b7