織田信雄
~伊賀再侵攻で火放ち失策譚~
織田信雄の伊賀再侵攻における放火失策譚を検証。史料では戦略的放火とされ、信雄の「愚将」イメージと伊賀衆の抵抗が物語を形成。記憶と評価の複雑さを探る。
織田信雄と伊賀再侵攻 ― 失策の炎か、戦略の煙か
序章:雪辱の炎か、失策の煙か ― 織田信雄と伊賀再侵攻の逸話に迫る
日本の戦国史において、織田信長の次男・織田信雄の名は、しばしば「うつけ」や「愚将」といった評価と共に語られる。その評価を象徴する逸話の一つとして、「第二次天正伊賀の乱において、焦りから放った火が自軍の進路を塞ぎ、作戦を頓挫させた」という失策譚が存在する。この物語は、功を急ぐあまり大局を見失う若き武将の姿を鮮烈に描き出し、信雄の人物像を決定づけるものとして広く知られている。
しかし、この劇的な逸話は、歴史的な検証に耐えうるものなのだろうか。本報告書は、この「信雄の放火失策譚」という一点に焦点を絞り、その真偽を徹底的に調査・分析するものである。当時の一次史料や軍記物語を丹念に読み解くと、織田軍が伊賀において広範囲にわたる放火を「戦略」として用いたことは明白に記されている。一方で、それが信雄個人の「失策」であり、味方の進軍を妨げたとする直接的な記述は、信頼性の高い史料の中には見出すことが困難である。
ここに、歴史的事実と後世に形成された物語との間に横たわる深い溝が存在する。本報告書では、まずこの逸話の背景にある、信雄の心に深く刻まれたであろう第一次侵攻での惨敗と父・信長からの痛烈な叱責を検証する。次に、雪辱を期して行われた第二次侵攻が、信雄個人の戦いではなく、織田家の総力を挙げた殲滅戦であったという実態を明らかにする。そして、主戦場となった比自山城での攻防を史料から再構築し、そこで行われた「放火」の戦術的意味を解き明かす。最終的に、なぜ「戦略的放火」が「個人的失策」という物語へと変容し、語り継がれるようになったのか、その背景にある複数の要因を考察することで、逸話の核心に迫る。これは、一人の武将の評価を再検討する試みであると同時に、歴史の記憶がどのように形成され、語り継がれていくのかを探る旅でもある。
第一章:すべての発端 ― 惨敗と叱責、信雄を縛る第一次天正伊賀の乱の呪縛
信雄の伊賀侵攻を語る上で、天正9年(1581年)の第二次侵攻に先立つ、天正7年(1579年)の第一次侵攻の失敗は決定的な意味を持つ。この戦いは、信雄のその後の運命と評価を方向づける、いわば「呪縛」の始まりであった。
野心が生んだ無断出兵
当時、信雄は父・信長の命により伊勢の名門北畠家の養子となり、三瀬の変を通じて同家を事実上乗っ取ることで、伊勢国の大半を掌握していた 1 。若き信雄が次なる目標として伊賀国に目を向けたのは、武将としての功名を求める自然な野心の発露であった。その背中を押したのが、伊賀の国人でありながら織田方に内通した日奈知城主・下山甲斐守であった 2 。下山は「伊賀の結束は乱れており、今が攻め時である」と信雄に進言したとされる 2 。
この進言を受け、信雄は伊賀侵攻の拠点として丸山城の修築に着手するが、これを察知した伊賀衆の奇襲により頓挫 3 。この失敗を取り返さんと、信雄は父・信長に一切の相談なく、独断で約8,000から1万の兵を率いて伊賀への侵攻を開始した 5 。これは、織田家の統制を無視した、若さゆえの傲慢さと功名心の暴走であった。
地の利とゲリラ戦術の前に喫した惨敗
信雄率いる織田軍は、伊賀の地へ三方から侵攻した。しかし、彼らを待ち受けていたのは、伊賀特有の山がちな地形を熟知し、「伊賀惣国一揆」という強固な自治共同体で結ばれた伊賀衆の巧妙なゲリラ戦術であった 2 。伊賀衆は平地での決戦を巧みに避け、山中からの奇襲や夜襲を繰り返し、織田軍を翻弄した 2 。
結果は、織田軍の惨敗であった。信雄軍は重臣の柘植保重を失うなど甚大な被害を出し、伊賀の地から伊勢へと敗走を余儀なくされた 2 。数の上で圧倒的に優位であったはずの織田軍が、小国のゲリラ戦法の前に為すすべなく敗れたという事実は、信雄にとって屈辱以外の何物でもなかった。
父の激怒 ― 親子の縁を切るという叱責
この敗報は、畿内の平定を推し進めていた信長の耳にも届いた。息子の独断専行と、織田家の威信を著しく傷つける敗戦に対し、信長の怒りは頂点に達した。信長の家臣・太田牛一が記した『信長公記』には、信長が信雄に送ったとされる書状の内容が記されており、その文面は痛烈極まりないものであった 8 。
信長は書状の中で、まず「此度の伊賀国での働き、言語道断の次第」と断じ、この敗戦は信雄の日頃の行いが招いた因果応報であると切り捨てた 8 。さらに、信雄が伊賀を攻めた真の動機を、「父が遠方(石山本願寺など)で戦っているのに参加したくないため、手近な伊賀を攻めることで遠征不参加の口実にしたかっただけだろう」と喝破している 8 。家臣の意見に安易に流されるな、という戒めに続き、書状は「親子の縁を切る」という、武家社会において最も厳しい言葉で結ばれていたと伝わる 4 。
この一件は、単なる一回の敗戦ではなかった。信雄の武将としての未熟さと政治的判断力の欠如を天下に晒し、父からの信頼を完全に失墜させたのである。この屈辱と、断絶寸前にまで至った父との関係は、信雄の心に深いトラウマを刻み込んだ。二年後の第二次侵攻は、彼にとって失われた名誉と信頼を回復するための、まさに雪辱戦であった。この「何としても成功させねばならぬ」という強烈なプレッシャーが、彼の行動原理を支配していたことは想像に難くない。後の「放火失策譚」が生まれる土壌には、この第一次侵攻における深刻な失敗体験が、心理的背景として深く根ざしているのである。
第二章:伊賀殲滅 ― 信長が投じた圧倒的物量と非情なる焦土作戦
第一次侵攻の失敗から二年後の天正9年(1581年)9月、伊賀の地は再び戦火に包まれた。しかし、その様相は二年前とは全く異なっていた。これはもはや信雄個人の雪辱戦ではなく、織田信長がその威信をかけて、伊賀という独立共同体を地上から抹殺するために発動した、国家規模の殲滅戦であった。
織田軍団の総力戦
信長は石山本願寺との長い戦いを終結させると、満を持して伊賀平定に乗り出した 4 。信長がこの戦いに投じた兵力は、諸史料によれば総勢4万4千から5万にも及んだ 9 。これは、数千人規模であった伊賀の抵抗勢力を遥かに凌駕する、圧倒的な物量である 9 。
総大将には、雪辱を期す織田信雄が据えられた。しかし、その脇を固めるのは、丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷、筒井順慶といった、織田家が誇る歴戦の宿将たちであった 5 。この陣容は、信長が二度目の失敗を絶対に許さないという強い意志の表れであり、信雄は名目上の総大将ではあったものの、作戦の遂行はこれらのベテラン武将たちによる集団指導体制の下で行われたと見るのが妥当である。信雄個人の判断で戦局全体を左右するような行動を起こせる余地は、極めて限定的であった。
伊賀を閉ざす包囲殲滅網
織田軍の侵攻計画は、伊賀の地理的特性を完全に無力化するものであった。伊賀盆地を取り囲むように、伊勢、柘植、玉滝、笠間、初瀬、多羅尾といった少なくとも6つの方面から、大軍が同時に侵攻を開始した 11 。これは、伊賀衆得意のゲリラ戦術を封じ、逃げ場を一切与えずに包囲殲滅するための、周到に計画されたローラー作戦であった 6 。
かつて信雄軍を苦しめた山々の隘路も、今回は織田軍の圧倒的な兵力によって次々と突破された。この侵攻作戦の冷徹さと計画性は、信雄一人の裁量で行われた第一次侵攻とは全く次元の異なる、信長自身の戦略思想が色濃く反映されたものであった。
焦土戦術という名の虐殺
この戦いにおいて、織田軍は「焦土戦術」を基本方針としていた。これは単なる軍事施設の破壊に留まらず、伊賀の社会基盤そのものを根絶やしにすることを目的とした非情な作戦であった。『信長公記』や奈良興福寺の僧侶による日記『多聞院日記』には、その凄惨な実態が生々しく記録されている。
『信長公記』は、9月10日の条で「国中の伽藍、一之宮社頭初として悉く放火」と記し 14 、『多聞院日記』も9月4日の時点で「国中大焼ケブリ見」とその煙が奈良から見えたことを伝えている 14 。織田軍は進路上にある村々や寺社仏閣をことごとく焼き払い、抵抗する者はもちろん、女子供や僧侶といった非戦闘員までも無差別に殺害した 9 。伊賀の総人口9万のうち、3万余りが殺害されたという記録も存在する 1 。
この事実は極めて重要である。「火を放つ」という行為は、信雄個人の焦りや失策による偶発的なものではなく、侵攻開始前から織田軍全体に与えられていた、計画的かつ組織的な作戦行動の一環であった。伊賀の地を覆った炎と煙は、信長の伊賀衆に対する徹底的な憎悪と、反抗する者を根絶やしにするという断固たる意志の象徴だったのである。この文脈を理解すれば、「信雄が焦って火を放った」という逸話が、第二次侵攻の全体像といかに乖離しているかが明らかになる。火は作戦の前提であり、目的遂行のための主要な手段であったのだ。
第三章:主戦場・比自山城 ― 史料が語る「放火」の真実
第二次天正伊賀の乱における最大の激戦地が、伊賀北部に位置する比自山城(砦)であった 5 。この山城での攻防こそ、信雄の「放火失策譚」が生まれた可能性のある具体的な舞台である。しかし、史料を詳細に分析すると、そこに見えるのは失策ではなく、冷徹な戦術としての放火であった。
伊賀衆最後の拠点
比自山城は、元は観音寺という山寺を要塞化したもので、伊賀北部における抵抗勢力の最大拠点であった 5 。織田軍の圧倒的な侵攻の前に各地で敗れた伊賀の国人や地侍、そして百姓や女子供を含む約3,500人(一説には1万人)がここに立てこもり、最後の抵抗を試みた 9 。
蒲生氏郷や筒井順慶らが率いる織田軍は、この比自山城を幾重にも包囲した 9 。伊賀衆は得意の夜襲を仕掛けて一時的に蒲生隊を敗走させるなど、激しい抵抗を見せ、織田軍に多大な損害を与えた 9 。しかし、大軍による包囲網はじりじりと狭まり、伊賀衆は追い詰められていった。
戦術としての放火
この比自山城攻防戦において、織田軍は火を戦術的に使用した。ある軍記によれば、織田軍は伊賀衆の偽りの退却に誘い出される形で、意図的に比自山の麓にあった伊賀衆の家々に火を放ったとされている 16 。この放火の目的は、敵を混乱させることだけではない。煙によって視界を奪い、炎によって退路を断つことで、山に立てこもる伊賀衆を完全に孤立させ、包囲を完成させるための計算された行動であった 16 。
これは、敵を窮地に追い込むための効果的な戦術であり、決して指揮官の焦りから生じた「失策」ではない。むしろ、敵の抵抗力を削ぎ、攻城戦を有利に進めるための冷徹な一手であった。この戦略的な放火によって生じたであろう大量の煙と混乱が、後世に物語として語り継がれる中で、「味方の進路を妨げた」という解釈に捻じ曲げられていった可能性が考えられる。
もぬけの殻の城
激しい攻防の末、伊賀衆はこれ以上の抵抗は不可能と判断した。彼らは織田軍による総攻撃が開始される前夜、夜陰に紛れて比自山城を脱出し、南方の柏原城へと撤退した 11 。翌朝、織田軍が城内に突入した時、そこはもはやもぬけの殻であったという 12 。
最終的に伊賀衆は柏原城で籠城するも、兵糧攻めと降伏勧告の末に開城し、第二次天正伊賀の乱は終結した 4 。比自山での放火は、伊賀衆をこの最終的な降伏へと追い込むプロセスの一環として、戦術的には成功したと評価できる。
史料比較にみる「失策」の不在
信雄の失策を検証する上で、当時の主要な史料がこの出来事をどう記述しているか比較することは不可欠である。以下の表は、『信長公記』、『多聞院日記』、そして後の軍記物語である『伊乱記』の記述をまとめたものである。
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史料 |
著者・背景 |
織田信雄の役割 |
放火に関する記述 |
「失策」や友軍妨害への言及 |
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信長公記 |
太田牛一(織田家臣) |
総大将として記載。佐那具に入るなど動向が記される 14 。 |
9月10日に「国中の伽藍」などを焼き払ったと、組織的・戦略的な放火を記録 14 。 |
一切なし。 作戦の一環として成功裏に行われたものとして描かれている。 |
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多聞院日記 |
英俊(奈良の僧侶) |
9月3日に伊賀へ侵攻したと記録 14 。 |
9月4日に「国中大焼ケブリ」が見えたと記述。寺社の破壊を嘆いている 14 。 |
一切なし。 侵攻の破壊的な様相を示す現象として客観的に記述されている。 |
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伊乱記 |
伊賀の郷土史家か(後世の軍記) |
総大将として描かれる。 |
村々や寺社の焼き討ちを詳細に記述 10 。比自山麓での放火を戦術として描写している可能性が高い 16 。 |
一切なし。 比自山での放火は伊賀衆を追い詰めるための戦術として描かれ、失策とはされていない。 |
この表が示す通り、信頼性の高い同時代の史料である『信長公記』や『多聞院日記』、さらには物語性の強い『伊乱記』でさえも、信雄の放火が「失策」であった、あるいは「味方を妨害した」という記述は一切存在しない。史料が語るのは、あくまで織田軍の計画的な焦土作戦と、その一環として行われた比自山での戦術的放火という事実のみである。ここから、我々は逸話の起源を、実際の戦いの記録そのものではなく、別の場所に求めなければならないことが明らかになる。
第四章:失策譚の誕生 ― なぜ「愚将の物語」は語り継がれたのか
史料には見られない「信雄の放火失策譚」は、一体どのようにして生まれ、なぜこれほどまでに広く語り継がれるようになったのか。その背景には、単一の理由ではなく、複数の要因が複雑に絡み合っていると考えられる。ここでは、逸話誕生のメカニズムを3つの仮説から解き明かす。
仮説1:事実の誇張と伝聞による変容
第一に、実際の出来事が口伝によって伝えられる過程で、誇張・変容した可能性である。比自山城攻防戦で、織田軍が戦術として麓に火を放ったことは事実である 16 。この火災は大規模なものであり、大量の煙が発生し、戦場に大きな混乱をもたらしたであろうことは想像に難くない。
この混乱の中で、一部の部隊が一時的に視界を失ったり、進軍に支障をきたしたりした可能性は十分に考えられる。戦場における局所的なアクシデントが、兵士たちの間で「総大将様の火攻めのせいで、前が見えずに攻めあぐねた」といった噂話として広まる。そして、その話が人から人へと伝わるうちに、「一部隊の支障」が「全軍の頓挫」へと誇張され、最終的に「総大将・信雄の焦りが招いた大失策」という劇的な物語として定着していった、というプロセスである。これは、歴史上の多くの逸話に見られる典型的な形成パターンの一つと言える。
仮説2:人物像が物語を創造する ― 「うつけ」の烙印
第二の仮説は、より説得力が高い。それは、「出来事が物語を作った」のではなく、「信雄の人物像が物語を引き寄せ、創造した」というものである。
織田信雄には、第一次天正伊賀の乱での惨敗という、動かぬ「愚将」としての実績があった 8 。父・信長から「言語道断」とまで罵られ、親子の縁を切られかけたこの一件は、彼の評価に決定的な烙印を押した。さらに、本能寺の変後に起きた安土城の焼失についても、イエズス会宣教師ルイス・フロイスがその著書『日本史』の中で「信雄は愚か者であったため、自ら安土城に火をかけた」という趣旨の記述を残しており、彼の無能さや判断力の欠如を裏付ける逸話として知られている 1 。
このように、「信雄は思慮が浅く、衝動的な行動で失敗を招く人物である」というパブリックイメージが、彼の生涯を通じて強固に形成されていた。このため、人々が第二次伊賀侵攻における大規模な放火の事実を知った時、それを信長の冷徹な戦略としてではなく、信雄の「いつもの」失敗として解釈してしまった可能性が極めて高い。物語は、事実そのものから生まれるとは限らない。むしろ、人々が既に持っている人物像(バイアス)を裏付ける形で、事実が再解釈され、新たな物語が生まれることがある。「信雄ならやりかねない」という人々の共通認識が、この失策譚を「いかにもありそうな話」として受け入れさせ、定着させる強力な土壌となったのである。
仮説3:敗者の抵抗 ― 民衆が生んだカウンターナラティブ
第三の仮説は、敗者である伊賀の人々の視点に立つものである。第二次天正伊賀の乱は、伊賀にとって一方的な虐殺であり、共同体の完全な破壊という悲劇であった 1 。圧倒的な武力の前に蹂躙され、数万の同胞を失った人々にとって、織田軍とその指揮官は憎悪の対象以外の何物でもなかった。
武力で抵抗することが不可能になった時、人々は物語によって精神的な抵抗を試みることがある。無慈悲で無敵に見えた征服者を、実は「焦って自軍の邪魔をするような間抜けな指揮官」として描き、嘲笑することは、奪われた誇りを少しでも取り戻すための心理的な防衛機制となりうる。この失策譚は、伊賀の地で、あるいは伊賀に同情的な人々の間で、征服者・織田信雄の権威を貶めるためのカウンターナラティブ(対抗言説)として生まれ、語り継がれたのかもしれない。それは、灰燼に帰した故郷で、せめてもの一矢を報いようとする敗者のささやかな復讐であったとも言える。
これらの仮説は互いに排他的なものではなく、相互に影響し合って「信雄の放火失策譚」という記憶の結晶を形成したと考えられる。戦場の混乱という事実の核があり、信雄の「愚将」という強力な磁場がそれを引き寄せ、敗者の屈辱と抵抗の念が物語に命を吹き込んだ。この逸話は、歴史の事実そのものよりも、人々の記憶が歴史をどのように解釈し、再構築していくかという、より深い真実を我々に示しているのである。
終章:歴史の記憶に刻まれたもの ― 事実と評価の狭間で
第二次天正伊賀の乱は、柏原城の開城をもって終結した 9 。伊賀惣国一揆は完全に解体され、伊賀の独立した歴史は幕を閉じた。戦後、信長自らが伊賀の地を視察し、その統治を信雄と信包に委ねた 4 。信雄は伊賀の主要部分を与えられ、形式上は第一次侵攻の雪辱を果たし、父からの信頼を回復したかに見えた。
しかし、彼の評価を決定づけたのは、この戦功ではなく、彼にまつわる数々の失策のイメージであった。「伊賀での放火失策譚」は、その代表例である。本報告書で検証した通り、この逸話が文字通りの歴史的事実である可能性は極めて低い。それは、織田軍の計画的な焦土作戦という事実が、信雄個人の「うつけ」という強固な人物像と、敗者である伊賀の人々の記憶を通して屈折し、再構築された物語である。比自山を覆った煙は、戦略的に計算されたものであったが、後世の記憶の中では、それは愚将の失策を象徴する煙へと姿を変えた。
興味深いのは、その後の信雄の人生である。彼は本能寺の変後も、小牧・長久手の戦いでの軽率な行動など、評価を落とす場面は多々あった。しかし、最終的には徳川家康の庇護下に入り、大大名としての地位は失いながらも、その血筋を江戸時代の大名家として存続させることに成功した。彼は、戦国乱世を生き抜いた、ある種の「生存の達人」でもあったのだ。
結論として、「織田信雄~伊賀再侵攻で火放ち失策譚~」は、歴史的事実を正確に伝えたものではない。むしろ、それは織田信雄という武将の複雑な評価、伊賀侵攻の凄惨な実態、そして歴史が人々の記憶の中でいかに物語化されていくかという現象、それらすべてを内包した「記憶の結晶」と呼ぶべきものである。我々はこの逸話を通して、史実の探求がいかに重要であるかと同時に、人々がなぜ、そしてどのようにして歴史を物語として記憶していくのかという、人間的な営みそのものに触れることができるのである。
引用文献
- 織田信雄 - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/person/nobukatsu-oda
- 天正伊賀の乱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/52412/
- 名張ノスタルジー|天正伊賀の乱について 第一次天正伊賀の乱 http://kunio.raindrop.jp/nabari31.htm
- 天正伊賀の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E4%BC%8A%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 天正伊賀の乱/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-kosenjo/tensyoiganoran-kosenjo/
- 天正伊賀乱(信長の伊賀攻め)について | 帰って来た甲賀者の棲み家 https://returntokoka.com/2024/09/12/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E4%BC%8A%E8%B3%80%E4%B9%B1%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E4%BC%8A%E8%B3%80%E6%94%BB%E3%82%81%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
- 伊賀忍者 と 伊賀忍軍 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/iganin.htm
- 天下人の息子『織田信雄』戦国乱世を生き抜いた異能生存体。家系図も紹介! https://sengokubanashi.net/person/odanobukatsu/
- 伊賀北部の国人(地侍)たちは,侵入してきた約2万人の織田軍に苦 - 名張市 https://www.city.nabari.lg.jp/s059/030/060/030/020/239004900-nabarigaku035.pdf
- 第47回 天正伊賀の乱 https://www.igaportal.co.jp/ninja/21951
- 天正伊賀の乱 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E4%BC%8A%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 天正伊賀の乱古戦場:三重県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tenshoiga/
- 第二次天正伊賀の乱 https://www.ninja-museum.com/tensyoiganoran/tensyoiga02.html
- 天正伊賀の乱 http://www.e-net.or.jp/user/taimatsu/iganoran/ran_02.html
- 【比自山城跡】 - ADEAC https://adeac.jp/iga-city/text-list/d500010/ht300070
- 天正伊賀ノ乱/血戦編 http://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui2/chap1/02-02tensho.html