最終更新日 2025-10-18

脇坂安治
 ~敵陣突入し敵将捕らえ引き戻す~

脇坂安治が賤ヶ岳の戦いで敵将を捕らえ酒を与えた逸話の真相を解明。史実と創作が融合した英雄譚の背景と、彼の武勇と徳が伝える「本質的な真実」を考察。

脇坂安治、敵将捕縛の逸話 ― 賤ヶ岳の戦場に刻まれた武勇と徳の真相

序章:運命の刻、賤ヶ岳 ― 崩壊の序曲

天正十一年(1583年)四月二十一日、未明。近江国伊香郡、賤ヶ岳。夜の闇がまだ戦場を支配する中、羽柴秀吉と柴田勝家の雌雄を決するこの地は、凄まじい緊張と混沌の坩堝と化していた。織田信長亡き後の天下の覇権を賭けた戦いは、まさにその天秤が大きく傾く瞬間を迎えようとしていたのである。

戦況は数日前、柴田方の猛将・佐久間盛政の奇襲によって大きく動いた。秀吉が、再挙兵した織田信孝を討つべく美濃大垣城へ主力を移動させた隙を突き、盛政は賤ヶ岳周辺の羽柴方の砦を次々と攻略した 1 。柴田軍の士気は天を衝き、羽柴陣営には動揺が走る。しかし、戦の天才である秀吉は、常人の予測を遥かに超える行動に出た。大垣城から賤ヶ岳までの約52kmの道のりを、わずか5時間で踏破するという驚異的な強行軍、世に言う「美濃大返し」を敢行したのである 2

秀吉が夜陰に乗じて戦場に帰還したという報は、勝利に酔っていた佐久間盛政をはじめとする柴田軍の意表を完全に突いた。彼らが秀吉の到着を早くとも翌日と高を括っていたその時、羽柴軍の陣営からは夜明けを待たずして総攻撃を告げる法螺貝が鳴り響き、地を揺るがす陣太鼓が轟いた 4 。それは、羽柴軍の士気が最高潮に達した咆哮であり、同時に柴田軍の組織的抵抗が崩壊する序曲でもあった。

この戦場の急転と、それによって生まれた統制の取れない混乱状態こそが、一個人の武勇が戦局に影響を与えうる特異な空間を創出した。組織的な陣形が崩れ、個々の部隊が分断されながら敗走を始める「追撃戦」。この無秩序な状況下でこそ、「敵陣に突入し、敵将を捕らえ、引き戻す」という、脇坂安治の類稀なる武勇伝が生まれる土壌が整えられたのである。彼の逸話は、単なる偶然の産物ではなく、この歴史的な大混乱の中から必然的に生まれた物語であった。

第一章:追撃の先陣 ― 七本槍の疾駆と最年長の覚悟

夜明けとともに開始された羽柴秀吉の総攻撃は、敗走を始めた柴田軍への熾烈な追撃戦へと移行した。この機を逃さず、一番槍の功名を挙げんと、秀吉子飼いの若武者たちが我先にと敵陣へ殺到する。福島正則、加藤清正、加藤嘉明、片桐且元、平野長泰、糟屋武則、そして脇坂安治。後に「賤ヶ岳の七本槍」としてその名を天下に轟かせることになる者たちである 5

中でも福島正則や加藤清正といった血気盛んな若者たちは、柴田軍の勇将として知られた拝郷五左衛門 4 や、佐久間盛政配下の宿屋七左衛門 2 といった名のある敵将に狙いを定め、猛然と突き進んでいった。彼らの活躍は、秀吉麾下の武将たちの勇猛さを天下に示す格好の広告塔となった 4

この功名争いの渦中にあって、脇坂安治はやや異質な存在であった。合戦当時30歳であった彼は、七本槍の中では最年長であり 6 、その経歴も他の者たちとは一線を画していた。元は近江の浅井長政に仕え、浅井家滅亡後は明智光秀の与力となり、その後自ら願い出て秀吉の家臣となった経歴を持つ 2 。純粋な秀吉の「子飼い」とは異なり、複数の主君の下で戦場を渡り歩いてきた経験豊富な武将であった。

さらに、この時点での安治は未だ300石の小身に過ぎず 8 、この戦は彼の将来を切り開くための、まさに千載一遇の好機であった。しかし、彼の行動は若さゆえの猪突猛進ではなかった。和歌を嗜む教養人としても知られていた安治は 6 、単なる武辺者ではなく、戦場の機微を読み解く俯瞰的な視野を持っていたと考えられる。彼の冷静沈着な瞳は、単なる手柄ではなく、この混乱した戦場で得られる最大級の戦果を冷静に見定めていた。それは、経験に裏打ちされた計算された大胆さであり、最年長としての覚悟の表れであった。


表1:賤ヶ岳の七本槍と主な戦功

武将名

討ち取ったとされる主な敵将

戦後の加増石高

福島正則

拝郷家嘉(五左衛門)

5,000石

加藤清正

山路正国

3,000石

加藤嘉明

(不明)

3,000石

脇坂安治

柴田勝政

3,000石

平野長泰

(不明)

3,000石

糟屋武則

宿屋七左衛門

3,000石

片桐且元

(拝郷家嘉を討った説あり)

3,000石

出典: 2


この表が示すように、福島正則が破格の評価を受けた一方で、安治を含む他の将たちは横並びの評価であった。この熾烈な競争環境が、安治をしてより価値の高い標的へと向かわせた動機の一つであったことは想像に難くない。

第二章:混沌の戦場 ― 標的、柴田勝政との遭遇

羽柴軍の猛追を受け、柴田軍は総崩れの様相を呈していた。この混乱に拍車をかけたのが、柴田方の中核を担っていた前田利家、そして不破勝光、金森長近といった有力武将たちの戦線離脱であった 3 。彼らが突如として戦場から兵を引いたことで、柴田軍の指揮系統は完全に麻痺し、組織的な抵抗はもはや不可能な状態に陥った。兵士たちは蜘蛛の子を散らすように敗走し、戦場は敵味方が入り乱れる泥と血の修羅場と化した。

このような状況下で、経験豊富な武将である脇坂安治が狙うのは、雑兵の首ではなく、戦功として価値の高い「兜首」、すなわち敵の将帥であった。彼の目は、混乱の中でもなお、統制を保ち奮戦を続ける一団を捉えていた。それは、柴田勝家の養子であり、奇襲部隊の主将・佐久間盛政の実弟でもある柴田勝政の旗本隊であった可能性が極めて高い 2

複数の史料が、この戦いにおける安治の功績を「柴田勝政を討ち取った」ことであると記録している 2 。勝政は、その血筋と立場から、兄・盛政の部隊が無事に撤退できるよう、最も危険な殿(しんがり)に近い位置で味方を鼓舞し、追撃を食い止めるという重責を担っていたと考えられる。事実、柴田軍の殿部隊は羽柴軍の追撃に対して激しく抵抗し、追撃する側にとっても厳しい戦いであったと伝わっている 12

追撃の先鋒を進む安治と、敗走軍の殿を務める勝政。両者の遭遇は、単なる偶然ではなかった。それは、追撃戦という戦いの力学の中で生まれた、戦術的な必然であった。安治は、戦場の喧騒の中から、勝政が掲げるであろう distinctive な旗印や、ひときわ立派な武具を身に着けた武者の一団を見出し、自らの標的として定めたのである。これこそが、彼の戦場における卓越した状況判断能力の証左であった。

第三章:一騎当千の武勇 ― 敵将捕縛の瞬間

標的を柴田勝政と定めた脇坂安治は、手勢を率いてその旗本隊に猛然と突入した。その手には、後に脇坂家の家宝となり、龍野神社に神宝として伝わることになる十文字槍が握られていた 13 。かつて、単身で敵城に乗り込み、「丹波の赤鬼」と恐れられた猛将・赤井直正をも感嘆させたその豪胆さ 14 は、この修羅場において遺憾なく発揮された。安治の槍は閃光のように煌めき、勝政を守る親衛隊の兵士たちを次々と薙ぎ払っていく。

遂に、安治は勝政本人の眼前に迫り、両者は馬上で槍を交えることとなった。戦国の作法に則り、互いに高らかに名乗りを上げたであろう。その声は、武器の交わる金属音や兵士たちの怒号の中でも、凛として響き渡ったに違いない。

勝政:「我こそは、修理亮勝家が養子、柴田伊賀守勝政なり!何奴なるか、名を名乗れ!」

安治:「羽柴筑前守が家臣、脇坂甚内安治!その首、この槍の錆にしてくれるわ!」

激しい打ち合いが数合続いた後、安治の槍が勝政の体勢を崩した。多くの史料ではこの功績を「討ち取った」と記しているが、逸話の核心はここから始まる。安治は、勝政を馬から引きずり下ろし、組み伏せて無力化した。しかし、彼はとどめを刺さなかった。敵兵がまだ周囲にいる混戦の最中に、敵将を「討ち取る」のではなく、あえて「捕縛する」という選択をしたのである。

この行為は、単に敵将を殺害する以上の、高度な武勇と戦況判断能力を必要とする。相手を殺さずに制圧する圧倒的な武技、周囲の敵兵を寄せ付けない統率力、そして何よりも、捕虜を連れて自陣まで帰還できるという戦況への絶対的な自信がなければ不可能である。安治は、柴田勝政を生け捕りにするという離れ業によって、自らの武威を戦場の全ての者に見せつけ、この戦いが完全に羽柴方の勝利に帰したことを象徴的に示したのである。それは、単なる武功を超えた、戦場における一つのパフォーマンスであった。

第四章:自陣への帰還 ― 混沌を貫く意志

敵将・柴田勝政を生きたまま捕らえた脇坂安治であったが、彼の戦いはまだ終わっていなかった。捕虜を抱えながら、なおも散発的な抵抗を続ける敵兵や、主君を奪い返そうと躍起になる柴田の残党が蠢く戦場を突破し、秀吉の本陣まで帰還するという、至難の業が残されていた。

身動きの不自由な捕虜を連れての移動は、通常の戦闘行動以上に困難を極める。しかし、安治は冷静に手勢を指揮し、行く手を阻む敵を退けながら、着実に自陣への道を進んでいった。その姿は、まさに混沌を貫く一本の強靭な意志そのものであった。

やがて安治は、泥と血にまみれながらも、捕縛した柴田勝政を秀吉の本陣に突き出した。その光景を目の当たりにした将兵たちは、驚嘆の声を上げたに違いない。敵将の首級を挙げる者は数多くいても、これほどの大物を、しかも生きたまま連れ帰ってくる者は稀であったからだ。この瞬間、安治の武功は誰の目にも明らかな、確定的なものとなった。

戦国時代の武功は、証拠となる首級と証人があって初めて認められる。敵将を生きたまま主君の前に引き据えることは、その究極の形であった。「私はこれほどの大物を、生きたまま捕らえるほどの余裕をもって打ち破りました」という、何よりも雄弁な武功のアピールである。この比類なき手柄により、安治は戦後、山城国に3,000石の加増を受けることとなり、一介の小身から大名への道を大きく切り開いたのである 10

第五章:捕虜への一献 ― 武人の情けか、将の器か

脇坂安治の逸話において、敵将捕縛と並んで象徴的に語られるのが、「捕虜に酒を与えた」という行為である。自陣に引き立ててきた柴田勝政に対し、安治は縄を解かせ、一献を勧めたと伝えられる。この行動の背後には、どのような意図があったのだろうか。

まず留意すべきは、賤ヶ岳の戦いに関する一次史料の中に、安治が勝政に酒を与えたという直接的な記述は見当たらない点である。しかし、この逸話が安治の人物像を的確に表すものとして語り継がれてきたことには、相応の理由が存在する。その原型は、彼の別の有名なエピソードに見出すことができる。天正六年(1578年)、秀吉の命で丹波黒井城の攻略にあたった際、安治は単身で城に乗り込み、城主である「丹波の赤鬼」赤井直正に降伏を勧告した。直正は降伏こそしなかったものの、敵城に一人で乗り込んできた安治の勇気に深く感銘し、自家に伝わる家宝「貂(てん)の皮」を贈ってその胆力を称えたという 8

この赤井直正との逸話は、安治がただの猛将ではなく、敵将に対しても敬意を払い、対話することのできる器量を持った人物であったことを示している。この確立された人物像が、「賤ヶ岳の戦い」という史実と結びついた結果、「捕虜に酒を与える」という物語が生まれた可能性は極めて高い。

この行為は、多角的に解釈することができる。

第一に、「武人の情け」。敵ではあるが、最後まで勇敢に戦った勝政の武人としての誇りを尊重し、その労をねぎらう純粋な敬意の表れ。

第二に、「勝者の余裕」。圧倒的な勝利者としての度量の大きさを示すことで、自らの器量を周囲にアピールするパフォーマンス。

第三に、「冷静な計算」。酒で相手の警戒心を解き、柴田軍の内部情報や敗走した諸将の動向などを探ろうとする、情報収集の一環。

和歌を嗜む教養人であった安治ならば、これらのいずれか、あるいは全てを内包した行動を取ったとしても何ら不思議はない。彼は、単なる殺戮者ではなく、敵に対しても礼を尽くすという、洗練された武士道を実践する人物であった。

したがって、利用者様がご存知の「敵陣突入し敵将捕らえ引き戻す。捕虜に酒を与えた」という逸話は、 「賤ヶ岳での史実(柴田勝政の討伐)」という武功の核 に、 「赤井直正との逸話に見られる人格(大胆さと敵への敬意)」という要素が、後世の講談や物語の中で融合・昇華 して生まれた「ハイブリッドな英雄譚」であると結論付けられる。史実の骨格に、人物像を象徴するエピソードが肉付けされることで、よりドラマティックで魅力的な物語が形成されたのである。

終章:逸話の形成と歴史的意義

「脇坂安治、敵将を捕らえ酒を与える」という逸話は、その細部が文字通りの史実であったかを問う以上に、重要な意味を持っている。それは、脇坂安治という武将の持つ多面的な魅力を凝縮し、後世に伝えるために人々によって創造され、洗練されていった一つの文化的産物なのである。

この物語は、安治を単なる「賤ヶ岳の七本槍の一人」という勇猛な武将の一人としてだけでなく、知勇を兼ね備え、敵将にさえ情けをかける器の大きい名将として、人々の記憶に刻み込む上で決定的な役割を果たした。賤ヶ岳の戦場で示した彼の**「武」 (比類なき武勇)と、赤井直正との対峙で見せた彼の 「徳」**(敵をも敬う器量)。この二つの側面が、この一つの逸話の中に巧みに織り込まれている。

賤ヶ岳での功績を皮切りに、安治は淡路洲本城主となり、豊臣水軍の将として小田原征伐や朝鮮出兵で活躍する 2 。関ヶ原の戦いでは、当初西軍に属しながらも土壇場で東軍に寝返り、家名を保つという優れた先見性も見せた 10 。その子孫は後に播磨龍野藩主として幕末まで家名を存続させ 19 、初代藩主である安治の武具や伝承は、家宝として大切に守り継がれていった 19 。こうした家門の繁栄が、初代の英雄譚を語り継ぐための強固な土壌となったことは言うまでもない。

結論として、本逸話は厳密な意味での一次史料に基づく記録ではないかもしれない。しかし、それは決して虚構ではない。脇坂安治という武将が実際に持っていた二つの真実、すなわち「戦場での圧倒的な武勇」と「敵をも感服させる人間的器量」を内包した、**「本質的な真実」**を伝える物語なのである。我々はこの逸話を通じて、歴史の記録だけではうかがい知ることのできない、脇坂安治という一人の戦国武将の、人間的魅力の神髄に触れることができるのである。

引用文献

  1. 賤ヶ岳七本槍とは?7人の若い武将の功績と幻の2名の存在を解説 | 買取むすび https://re-musubi.jp/column/kottou/seven-spears-of-shizugatake
  2. 賤ヶ岳の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7258/
  3. 賤ヶ岳の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/shizugatake/
  4. なぜ賤ヶ岳の一番槍になれたのか? 〜福島左衛門大夫正則〜【後編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/13025
  5. マイナー武将列伝・拝郷家嘉 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/busho/oda_042.htm
  6. 【賤ヶ岳の七本槍】とは?7人の若武者についてご紹介します! - 日晃堂 https://nikkoudou-kottou.com/blog/touken/5504
  7. 賤ヶ岳の合戦4-6 http://www.ibukiyama1377.sakura.ne.jp/shizugatake/4-6.html
  8. すでに30歳であった脇坂安治は、なぜ七本槍の勇士になれたのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/13252
  9. 我ら「賤ヶ岳の七本槍」!そのメンバーの数奇かつ波乱に満ちた生涯:3ページ目 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/180025/3
  10. 脇坂安治 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E5%9D%82%E5%AE%89%E6%B2%BB
  11. 賤ヶ岳の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E3%83%B6%E5%B2%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  12. 賤ヶ岳の合戦における柴田方の敗因は、前田利家・利長父子の敵前逃亡だった!? - note https://note.com/battle_of_szgtkt/n/n908a38289051
  13. 脇坂安治 兵庫の武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/kansai-warlords/kansai-yasuharu/
  14. 脇坂安治 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/wakisaka-yasuharu/
  15. 「賤ヶ岳七本槍」から豊臣水軍の中心人物へ|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【脇坂安治編】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1028227
  16. 古城の歴史 黒井城 http://takayama.tonosama.jp/html/kuroi.html
  17. 武家家伝_脇坂氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/wakisa_k.html
  18. 脇坂安治 陣跡 | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/wakisakayasuharujinato.html
  19. 保存の良い安土桃山時代の鎧 - たつの市 https://www.city.tatsuno.lg.jp/soshiki/1041/gyomu/5/4/2925.html
  20. 関ケ原の戦いで東軍に寝返った「脇坂安治」の子孫は「龍野城」に安住の地を得る https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12413250393.html
  21. 龍野神社 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE