藤堂高虎
~主を七度変えても忠節忘れず~
藤堂高虎の「主を七度変えても忠節忘れず」の真意は、恩義を忘れず理想の主君に尽くす「変わらぬ心」にあり、その流浪の生涯と処世術、そして哲学を考察する。
藤堂高虎「変わらぬは心」の真意――七度主君を変えた男の忠節と処世譚の徹底解明
序章:『主を七度変えし者』――逸話の淵源と通説
戦国武将・藤堂高虎の生涯を語る上で、常に枕詞のように付き従う言葉がある。「武士たるもの、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」 1 。この、あたかも変節を是とするかのような発言は、後世において彼に「風見鶏」「変節漢」という毀誉褒貶の激しい評価を刻みつける根源となった 1 。事実、彼の経歴は浅井長政に始まり、徳川家康に至るまで、数多の主君に仕えた軌跡そのものである。その生き様は、江戸時代に確立された儒教的な「忠臣は二君に仕えず」という価値観とは相容れず、特に幕末の鳥羽・伏見の戦いにおいて、旧幕府軍に寝返った津藩の兵士たちが「やはり藤堂か!」と罵声を浴びせられた逸話は、高虎の処世術が二百数十年の時を超えてなお、一種の負の烙印として記憶されていたことを物語っている 1 。
しかし、その一方で高虎自身は「変わらぬは心」と語ったとも伝えられる。主君を七度変えるという「変化」の行動と、決して「変わらぬ」と断言された心。この一見して矛盾する二つの言葉の間にこそ、藤堂高虎という稀代の武将の真実が秘められている。彼の生きた戦国乱世における「忠義」とは、決して不動の一点に尽くすことのみを意味するものではなかった。それは、自らの才覚と能力を資本とし、それを最も高く評価し、活かしてくれる主君を自らの意思で見極めて仕えるという、極めて現実的かつ実力主義的なプロフェッショナリズムの発露であった 3 。
本報告書は、この藤堂高虎にまつわる「主を七度変えても忠節を忘れず、『変わらぬは心』と語った」という処世譚に焦点を絞り、その言葉が発せられたであろう背景を、彼の生涯の具体的な局面を時系列に沿って辿ることで徹底的に解明するものである。特に、逸話が生まれた瞬間のリアルタイムな状況や会話を可能な限り再現し、彼の行動の裏に隠された一貫した哲学、すなわち「変わらぬ心」の正体を明らかにすることを目的とする。
第一章:雌伏の時代――「心」の原風景
藤堂高虎の「心」の在り方を理解するためには、まず彼が理想の主君を求めて彷徨った青年期、すなわち雌伏の時代に目を向けなければならない。この時期の苦難と経験こそが、後の彼の処世術の根幹をなす「恩義」と「自己の価値への渇望」を育んだ原風景であった。
1. 主君変遷の実態:流浪の始まり
高虎の武士としてのキャリアは、弘治2年(1556年)に近江の土豪の子として生を受け、14歳の時に主君・浅井長政に仕官したことから始まる 1 。元亀元年(1570年)の姉川の戦いで初陣を飾り、武功を立てるも 6 、わずか3年後の天正元年(1573年)、主家である浅井家は織田信長によって滅亡。高虎は若くして最初の「主君の喪失」を経験することとなる 7 。
ここから彼の「渡り奉公」が始まる。浅井旧臣の阿閉貞征、次いで磯野員昌、そして信長の甥である織田(津田)信澄と、主君を次々と変えていった 9 。この頻繁な主君替えの背景には、単なる気まぐれではない、切実な理由が存在した。一つは、功績を上げてもそれに見合うだけの正当な評価や待遇が得られなかったことへの不満である 8 。そしてもう一つは、後年の冷静沈着な姿からは想像し難い、若き日の血気盛んな性格に起因する人間関係の軋轢であったと伝えられている 7 。彼の意思とは無関係に主家が滅亡し、自らの能力を正当に評価してくれる安定した環境にも恵まれない。この経験は、彼に「仕えるべき主君は自らの目で見極めねばならぬ」という、乱世を生き抜くための厳しい現実主義を叩き込んだ。
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主君名 |
仕官年(西暦) |
離反年(西暦) |
当時の高虎の身分/石高 |
離反・変更の理由 |
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浅井長政 |
1570年頃 |
1573年 |
足軽 |
主家の滅亡 |
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阿閉貞征 |
1573年 |
不明 |
不明 |
人間関係の軋轢、待遇への不満 |
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磯野員昌 |
不明 |
不明 |
不明 |
人間関係の軋轢、待遇への不満 |
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織田信澄 |
不明 |
1576年 |
80石 |
待遇への不満(加増がなかったため) |
(出典: 12 、 8 、 1 、 9 、 6 、 7 、 7 、 11 に基づき作成)
2. 三河吉田宿の餅屋――「恩義」の原体験
織田信澄の下を出奔し、次なる仕官先を求めて東国へ向かう高虎の旅路は、困窮を極めていた。そんな折、三河国吉田宿(現在の愛知県豊橋市)で、彼の生涯を貫く「心」の在り方を決定づける出来事が起こる 8 。
街道沿いの餅屋から漂う香ばしい匂いに、飢餓状態にあった若き高虎は抗うことができなかった。所持金がないことを承知の上で、店先に並べられた二十個ほどの餅を夢中で平らげてしまったのである 13 。食べ終えた後、彼は意を決して店主の前に進み出た。武士としての恥辱と、生きるための背に腹は代えられぬ思いが交錯する中、彼は正直に無銭飲食であることを告白し、深々と頭を下げた。
しかし、店主の反応は高虎の予想を完全に裏切るものであった。店主は怒るどころか、その見事な食べっぷりに感心した様子で、こう言ったと伝えられる。「これほど見事に餅を平らげた者は見たことがない。銭がないとあらば仕方あるまい」 13 。そればかりか、店主は「これで故郷の近江に帰り、親孝行なされよ」と言って、追加の餅と路銀まで手渡してくれたのである 8 。自分が最も無力であった時に受けた、この予期せぬ無償の温情は、高虎の心に生涯消えることのない深い感銘を刻みつけた。
この逸話は、単なる美談や講談の類ではない。津藩の家老であった中川蔵人の日記『中川蔵人日記』の天保10年(1839年)5月24日の条に、この出来事が藩の「吉例」として語り継がれていることが記されており、歴史的な裏付けを持つものである 10 。
そして、この物語には後日談がある。数十年後、伊予今治七万石の城主に出世した高虎は、参勤交代の道中で再び吉田宿を訪れた。そして、すっかり白髪となったあの時の店主を探し出し、「あの時、情けをかけていただいた者です。これは餅のお代です」と、幾倍もの大金を渡して丁重に恩に報いたのである 13 。さらに、この時の恩義を生涯忘れない証として、藤堂家の旗印を三つの白い丸餅をかたどったものにしたと伝えられる 13 。これは「白餅」に、自らが「城持ち」の大名になったことをかけたものとも言われ、彼の人生におけるこの出来事の重要性を物語っている 6 。
この「餅屋の逸話」は、藤堂高虎の処世術の根幹をなす「恩義の記憶」というテーマを何よりも雄弁に物語っている。「変わらぬは心」という言葉の第一の意味は、まさしく、いかなる状況下で受けた恩も決して忘れず、必ずそれに報いるという、人間関係の原点とも言うべき誓いであった。この強固な信念が、後の主君への忠節の質を理解する上で不可欠な鍵となるのである。
第二章:生涯の主君との邂逅――豊臣秀長への「変わらぬ心」
流浪の末、藤堂高虎はついに自らの才覚を認め、その後の人生を決定づける人物と出会う。豊臣秀吉の弟、羽柴秀長である。秀長との関係性は、高虎の「主を変える」という行動が停止した事実をもって、彼の忠誠が特定の個人に向けられた時にいかに強固なものであったかを何よりも明確に示している。
1. 運命の出会い:羽柴秀長への仕官
天正4年(1576年)、高虎は羽柴秀長に300石という禄高で召し抱えられた 6 。これまでの不安定な奉公とは一線を画すこの仕官は、彼の人生の大きな転換点であった 1 。温厚篤実にして、兄・秀吉の天下取りを補佐した稀代の調整役であった秀長は、高虎の内に秘められた非凡な才能を見抜いた。秀長は、高虎の武勇を評価するに留まらず、兵術や算術といった学問の重要性を説き、やがて彼に築城という新たな専門分野の才能があることを見出したのである 17 。
秀長の薫陶の下、高虎の能力は飛躍的に開花する。但馬攻略戦での功績により3000石へと加増され、鉄砲大将に抜擢されるなど 1 、彼の働きは正当に評価され、具体的な地位と報酬となって返ってきた。高虎にとって秀長は、まさに理想の上司であり、自らの能力を存分に発揮できる場所を与えてくれた恩人であった。
2. 不動の忠誠:大和豊臣家への粉骨砕身
秀長に仕えて以降、高虎が一度も主君を変えようとしなかったという事実は、彼の忠誠の在り方を考える上で極めて重要である 1 。彼は紀州征伐や四国攻めなどで次々と武功を挙げ、ついには二万石の大名へと出世を遂げ、秀長の家老として重きをなすに至った 14 。高虎の「転職活動」は、豊臣秀長という理想の主君に出会ったことで、完全に終わりを告げたのである。
天正19年(1591年)にその秀長が病没すると、高虎はその養子・秀保の後見人として、引き続き大和豊臣家の屋台骨を支え続けた 14 。彼の忠誠は、秀長個人へのものであったと同時に、秀長が築いた「家」そのものへと向けられていた。
3. 主家の断絶と高虎の絶望
しかし、運命は非情であった。文禄4年(1595年)、後継者の秀保がわずか17歳で急死し、秀長以来の大和豊臣家は無嗣断絶という悲劇的な結末を迎える 7 。
大恩ある主家を守りきれなかったことに、高虎は深い絶望を覚えた。彼の取った行動は、次の権力者にすり寄ることではなかった。彼は武士としてのキャリアを全て捨て、高野山に登り仏門に入ることを決意したのである 7 。この出家という行為は、彼に付きまとう「変節漢」というイメージを根底から覆す、彼の義理堅さと忠誠心の深さを物語る最も劇的な証左である。もし彼が単なる世渡り上手な日和見主義者であったならば、主家の断絶を好機と捉え、すぐさま新たな仕官先を探したであろう。しかし、彼は自らの武士としての人生そのものを終わらせようとした。彼にとって秀長・秀保への奉公は、単なる「仕事」ではなく、心を捧げた「忠義」そのものであったのだ。
この高虎の才能を惜しんだ豊臣秀吉は、再三にわたって使者を送り、彼を説得。ついに高虎は還俗し、秀吉の直臣として伊予宇和島七万石の大名として取り立てられることとなる 7 。高虎の忠誠の対象であった大和豊臣家が不可抗力によって消滅したことで、彼の忠義は一旦「リセット」された。この概念こそが、後の徳川家康への仕官を「裏切り」ではなく、新たな忠誠の始まりとして理解するための鍵となるのである。
第三章:天下人への忠節――徳川家康に捧げた「心」
大和豊臣家への忠節を尽くし、その断絶という悲劇を経て再び歴史の表舞台に立った藤堂高虎は、次なる「忠誠を捧げるに値する個人」を自らの目で見定め始める。豊臣秀吉の死後、彼が選んだのは徳川家康であった。高虎と家康の間に築かれた特異なまでの信頼関係は、二つの象徴的な逸話を通じて、彼の「変わらぬ心」が新たな主君の下でいかに発揮されたかを鮮やかに示している。
1. 次代の見極め:家康への接近
慶長3年(1598年)の秀吉の死は、豊臣政権内に大きな権力の空白を生んだ。高虎はこの機を冷静に見極め、急速に徳川家康へと接近していく 10 。これは、豊臣政権の先行きに不安を感じ、乱世を終結させ真の天下泰平を実現しうる人物は家康であるという、彼の卓越した大局観に基づく戦略的な判断であった 5 。
彼の接近は、単なる内通や追従ではなかった。石田三成ら反家康派による家康暗殺計画の情報をいち早く察知すると、彼はすぐさま家康にこれを密告し、危機を未然に防いでいる 18 。言葉だけでなく、具体的な行動をもって家康への忠誠を先んじて示したこの一件は、二人の関係の端緒をなす重要な出来事であった。
2. 聚楽第屋敷普請――「心」の先渡し
高虎と家康の信頼関係を決定づけたとされるのが、京都・聚楽第における家康の屋敷建設にまつわる逸話である。当時、秀長の家臣であった高虎は、秀吉の命によりこの屋敷の作事奉行を務めていた 13 。
高虎は、秀吉から下賜された屋敷の設計図を一目見て、その構造に重大な欠陥があることを見抜いた。それは、公家風の華奢な造りで、警備の面であまりにも脆弱であったのだ 2 。将来、天下人となるであろう家康の身に万一のことがあってはならない。そう直感した高虎は、驚くべき決断を下す。独断で設計を大幅に変更し、まるで城郭のように堅固な防御機能を持つ屋敷へと作り変えることにしたのである。当然、これには莫大な追加費用がかかる。しかし、これを秀吉や主君・秀長に願い出れば、家康を過剰に警戒していると受け取られかねない。そこで高虎は、全ての追加費用を自らの私財で賄うという、自己犠牲的な選択をした 11 。
後日、完成した屋敷を検分した家康は、図面とのあまりの違いに驚き、高虎を呼び出してその理由を質した。その時の二人のやり取りは、次のように伝えられている。
家康: 「太閤殿下より拝見した図面とは大いに違うようだが。これは屋敷というより、まるで城のようだ。いかなる理由か、わけを伺いたい」 18
家康の問いに対し、高虎は臆することなく、覚悟を決めて答えた。
高虎: 「元の図面では、内府(家康)様の警護に難がございます。万が一、この屋敷が手薄だったばかりに内府様に御不慮あれば、我が主君・秀長の不行き届きとなり、ひいては関白殿下のご面目にも関わること。そのため、すべてそれがしの一存にて作り替えましてございます。もし、この処置がお気に召さぬようでしたら、どうぞこの場でお手討ちになさってくださいませ」 11
自らの命を懸けてまで、まだ主君でもない家康の身を案じた高虎の深い配慮と覚悟に、家康は深く感銘を受けた。そして、その労をねぎらい名刀・備前長光を贈ったという 18 。この一件は、単なる建築工事のエピソードではない。高虎が自らの未来を賭け、家康に対して忠誠心を「先渡し」した、極めて高度な政治的行動であった。彼はこの行動一つで、他の誰よりも早く、家康の最も深い信頼を勝ち得たのである。
3. 臨終の改宗――来世までも共にと
高虎と家康の絆が、単なる主従関係や政治的計算を超えた、人間的な深い結びつきであったことを示すのが、家康の臨終に際しての逸話である。元和2年(1616年)、駿府城で死の床に就いた家康は、外様大名としては異例なことに、高虎を枕元に呼び寄せた 25 。
衰弱した家康は、親しい友人に語りかけるように、ぽつりと心残りを漏らした。
家康: 「そなたは日蓮宗で、わしは天台宗。宗派が違うゆえ、あの世で会うことができぬやもしれぬ。それがつらい」 13
これを聞いた高虎の行動は、迅速かつ真心のこもったものであった。彼は涙を浮かべると、家康の手を固く握り、こう答えたという。
高虎: 「恐れながら、あの世でも来世でも、大御所様のもとでお仕えしとうございます。ただ今よりすぐに、私は宗旨替えをして、大御所様と同じ天台宗となりまする。私もまもなく後を追いますゆえ、どうぞ、次の世でも変わらずお引き立てくださいませ」 25
高虎はその言葉通り、その場で家康の側近であった天海僧正に頼み、長年信仰してきた日蓮宗から天台宗へと改宗を果たしたのである 25 。家康はこの高虎の真心に触れ、涙を流して喜んだと伝えられる 13 。もはや実利的なメリットなど何もないこの行動は、高虎の忠誠が最終的に「制度」や「家」を完全に超越した、家康という一人の人間との魂レベルの結びつきにまで昇華されたことを示している。
この絶大な信頼の証として、家康は「今後、国に大事が起こったときは、先手を藤堂高虎とせよ」という遺言を残した 18 。譜代の井伊家に先んじて、外様である藤堂の名が挙げられたことは、二人の絆がいかに特別なものであったかを物語っている。高虎の処世術は、最終的に人の「心」を完全に掴むことで完成したのである。
第四章:『変わらぬは心』――逸話の真意と高虎の哲学
これまで見てきた具体的なエピソード群は、藤堂高虎の「主を七度変えても忠節を忘れず、『変わらぬは心』」という言葉が、単なる自己弁護や美辞麗句ではなく、彼の生涯を貫く一貫した哲学であったことを示している。彼の言う「変わらぬ心」とは、決して単一の意味ではなく、複数の要素が重なり合った、多層的な概念であった。
1. 「変わらぬ心」の構成要素
高虎の「変わらぬ心」は、主に四つの要素から成り立っていると分析できる。
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第一の心:恩義を忘れない心
三河吉田宿の餅屋の逸話は、この心の最も純粋な発露である 13。自分が最も困窮し、無力であった時に受けた恩を、大名として栄達した後も決して忘れず、必ずそれに報いる。この、身分や時間の経過に左右されない強固な恩義の念こそが、彼の全ての人間関係、ひいては主君への忠節の基礎をなしていた。 -
第二の心:主君個人への忠誠心
豊臣秀長とその家、そして徳川家康に対して見せた奉仕の在り方は、彼の忠誠が「家」や「組織」といった抽象的な概念ではなく、彼が「この人こそ」と見定めた特定の「個人」にのみ捧げられる、極めてパーソナルなものであったことを示している 1。彼は主君の才能を信じ、そのビジョンに共感し、その恩義に報いるために、時には私財を投げ打ち、時には自らの命や来世までも懸けたのである。 -
第三の心:大局を見据える信念の心
高虎は、目先の待遇や地位だけで仕える相手を選んだわけではない。秀吉の死後、豊臣家ではなく家康を選んだのは、誰がこの乱世を終焉させ、天下に泰平をもたらすことができるかという、冷静な大局観に基づいていた 5。彼の主君選びは、私利私欲を超え、より大きな秩序と安定の実現という大義への共感に裏打ちされていた。これもまた、彼の「変わらぬ心」、すなわち泰平の世を希求する信念であった。 -
第四の心:家臣や他者への情の心
自らが流浪と困窮を経験した苦労人であったからこそ、高虎は配下の家臣に対して非常に寛容で情け深い人物であった。彼が残したとされる『遺訓二百ヶ条』には、「家来には情をかけ、多少の失敗は見逃すことが重要である」といった、現代の組織論にも通じる訓示が数多く見られる 2。他家に仕官したいと申し出た家臣を快く送り出し、「もし仕官先が思わしくなければ、いつでも戻ってまいれ」と声をかけたという逸話は 10、彼の処世術が、他者の立場や心情を深く理解する共感の心に基づいていたことを示している。
2. 「主を七度変える」ことの再評価
これらの「変わらぬ心」の要素を統合して考えるとき、「主を七度変える」という行動の意味合いは、大きくその姿を変える。彼の主君変遷は、決して「裏切り」や「不忠」の歴史ではなかった。それは、自らの持つ能力という商品を、最も高く評価し、最も有効に活用してくれる「最高の買い手」すなわち理想の主君を探し求める旅路であった。彼は、戦国乱世という巨大な人材市場を渡り歩いた、稀代のプロフェッショナルだったのである。
そうであるならば、「七度主君を変えねば、武士とはいえぬ」という言葉は、後世の武士たち、ひいては現代に生きる我々に対し、彼の生き様を凝縮した厳しい、しかし示唆に富んだエールとして響いてくる。「安易に一つの場所に安住するな。常に自らの価値を問い、自らが最も輝ける場所を探し続けよ。ただし、一度仕えると決めたならば、その恩義を忘れず、全身全霊の『変わらぬ心』をもって尽くせ」と。
藤堂高虎の処世譚の核心は、忠誠を捧げる「対象」は変わりうるが、忠誠の「在り方」そのものは決して変わらないという、峻別された哲学にある。彼は仕える相手を現実的に、そして戦略的に変えた。しかし、一度仕えると決めた相手には、恩義、忠誠、信念、そして情愛という一貫した「心」をもって、徹底的に尽くし抜いた。この「対象の可変性」と「あり方の不変性」の絶妙な両立こそが、彼の処世術の本質であり、一介の土豪の子から三十二万石の大名へと成り上がった最大の要因であったと言えるだろう。
終章:逸話が後世に語るもの
藤堂高虎の「主を七度変え、変わらぬは心」という処世譚は、戦国時代という特定の時代の物語に留まるものではない。それは、変化の激しい時代をいかに生き抜くかという、普遍的な問いに対する一つの回答を提示している。
彼の生涯は、自らの専門性(武勇、そして築城術)を絶えず磨き上げ、それを最大限に活かせる環境を自らの意思で選び取っていく、主体的なキャリア形成の重要性を示している。同時に、一度所属した組織やリーダーに対しては、単なる契約関係を超えた深い信頼と貢献をもって尽くすことの価値を教えてくれる。
「忠義」や「忠誠」という言葉が、時に旧弊な価値観として捉えられがちな現代社会において、藤堂高虎の生き方は、それらの言葉の本質を問い直すきっかけを与える。彼にとっての忠誠とは、盲目的な服従ではなく、自らが認めた人物のビジョンに共感し、その実現のために自らの全てを賭けるという、極めて能動的で人間的な営みであった。
対象を見極める冷静な「知」と、一度決めた対象に尽くし抜く「情」。この二つを両立させた藤堂高虎の処世術は、組織と個人の関係性が多様化する現代において、リーダーシップ論やキャリア論を考える上で、時代を超えた豊かな示唆を与え続けているのである。
引用文献
- 藤堂高虎 「7度主君を変えねば、武士とはいえぬ」の真意とは - 歴史チャンネル https://rekishi-ch.jp/column/article.php?column_article_id=42
- 主君を7度も変えて出世した戦国武将・藤堂高虎 - BS11+トピックス https://bs11plus-topics.jp/ijin-sugaono-rirekisho_19/
- 戦国時代の名参謀の「仕事」と「資質」 - 株式会社エル・ローズ https://www.elle-rose.co.jp/contents/bizthinker2202/
- 「推し武将」は誰? 戦国時代の生存戦略に学ぶマーケティングの本質 - Web担当者Forum https://webtan.impress.co.jp/e/2022/03/03/42287
- 戦国時代の転職王、藤堂高虎が家康の信頼を得るまで - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=xo16DuvmhQw
- 出世のために主君を変える強欲男、藤堂高虎「戦国武将名鑑」 - Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/57883
- 「藤堂高虎」7回も主君を変えた戦国武将! 伊勢国津藩の祖 | 戦国 ... https://sengoku-his.com/797
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- 藤堂高虎 三重の武将/ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-historian/mie-toudou/
- 声と映像でたどる人間往来『藤堂高虎③/④ 失意から独立大名へ』文 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=c3gszXujhSo
- 津藩祖 藤堂高虎 https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/contents/1001000011267/index.html
- 処世術に優れた武将 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sen-04.html
- 藤堂高虎と徳川家康…譜代並の破格の扱いをされた高虎と家康の深い絆の物語 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/75
- 東軍 藤堂高虎/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41107/
- 武将に学ぶキャリア戦略~藤堂高虎編 - Tech Team Journal https://ttj.paiza.jp/archives/2023/03/12/3986/
- 徳川家康が最も信頼した晩年の腹心 7度主君を変えた男・藤堂高虎の波乱万丈の人生 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/10827
- 家康と築城名人 藤堂高虎 - 大江戸歴史散歩を楽しむ会 - エキサイトブログ https://wako226.exblog.jp/243262140/
- 甲状腺外科草子 113 - 藤堂高虎の遺訓:高山公二百ケ条① https://www.tsuchiya-hp.jp/pdf/tty-geka-soushi-113.pdf
- 藤堂高虎とその家臣 | 家臣団 | 採用 処遇 - Wix.com https://sasakigengo.wixsite.com/takatora/blank-27