最終更新日 2025-11-04

藤堂高虎
 ~主替えを恥じず忠義を語る哲理~

藤堂高虎の「忠は人に、義は己に」という哲理譚を考証。主君を替えた生涯と行動原理を史料に基づき詳細に解説。後世に創作された背景と現代におけるその意義を考察。

藤堂高虎「忠は人に、義は己に」の哲理譚:その「リアルタイム」の考証と歴史的信憑性の徹底解剖

序論:藤堂高虎と「主替えの哲理」をめぐる謎

戦国武将・藤堂高虎は、その生涯において主君を7人、あるいは10人以上替えたとされ 1 、この特異な経歴から後世「変節の士」 1 、「強欲男」 3 といった否定的な評価に晒され続けてきた。

しかしその一方で、高虎は当代随一の築城の名手として知られ 6 、豊臣秀吉の死後は徳川家康の絶対的な信任を得て外様大名でありながら徳川の先鋒を務め 7 、秀忠、家光の三代にわたって将軍家の側近として重用された 4 こともまた、動かしがたい事実である。

この「稀代の渡り奉公人」という側面と、「三代の将軍に尽くした忠臣」という側面は、一見して強く矛盾する。この矛盾した高虎像の核心、すなわち彼の行動原理を解き明かす鍵として、ご依頼の『主替えを恥じぬとし、「忠は人に、義は己に」と語ったという哲理譚』は存在している。

本レポートは、藤堂高虎という人物全体の評伝ではなく、この特定の「哲理譚」一点にのみ焦点を絞る。そして、ご要望である「リアルタイムな会話内容」や「その時の状態」が史実として存在したのか、それともこの逸話は後世の創作なのかを、現存する史料と歴史的文脈から徹底的に考証し、その哲理の真の意味を解明することを目的とする。

第一部:逸話の「リアルタイム」検証:その情景は存在したか

ご要望の核心である「リアルタイムな会話内容」と「その時の状態」を再現するためには、まずこの逸話が歴史的事実(リアルタイム)として高虎の口から発せられたという前提が必要である。

想定される逸話の情景

もし、この発言が史実であったと仮定した場合、それはどのような状況下で語られた可能性が高いだろうか。想定される情景は、以下の二つに大別できる。

  1. 情景A(非難への反論):
    高虎が、家臣や他家の武将から、その頻繁な主替え 1 を指して「士は二君に見(まみ)えず」1 という当時の武士の道徳観(倫理観)に基づいて「不忠義」「変節」と非難された状況である。この場合、高虎は自らの行動の正当性を弁護するため、あるいは自らの哲学を毅然として開陳するために、「忠とは(組織や家ではなく)特定の人(主君個人)に尽くすものであり、義とは(他人の評価ではなく)己の信じる道(判断)に従うことである」と反論した可能性が考えられる。
  2. 情景B(家臣への訓戒):
    高虎が晩年、江戸屋敷などにおいて、自らの人生哲学や処世術を家臣団に遺訓として語り聞かせた状況である。あるいは、藤堂家に新たに仕官を求めてきた武士に対し、面談の場などで「当家に仕える上での心構え」として、自らの経験に基づき「主替え」の本質と「忠義」のあり方を説いた可能性も考えられる。

史料的検証(一次史料の不在)

これらの情景が「リアルタイム」の出来事であったかを検証するには、高虎自身の言葉を直接的に記した一次史料との照合が不可欠である。

その最たるものが、高虎が晩年に江戸屋敷で口述し、家臣に筆記させたとされる詳細な遺訓『高山公御遺訓』(または『高山公二百ケ条』)である 9 。これは高虎の肉声に最も近い、信頼性の高い一次史料群とされている。

この『高山公御遺訓』の内容を精査すると、そこには極めて実践的かつ詳細な訓戒が多数含まれている。例えば、「仮初にも人に物毎のかふばり(強情を張る)不可成」(第141条)、「他の家来なり共情らしくものいふへし」(第191条)といった対人関係の心得、「物毎に不知事ハ誰人にも可尋問(問うは一度の恥、問わずは末代の恥)」(第201条)といった学びの姿勢、「人間に生れ臆病なる者ハ有間敷也」(第45条)、「窮屈成所を好み楽成所を嫌ふべし」(第53条)といった武士としての自己規律が、執拗なほど具体的に記されている 9

しかし、この高虎の人生哲学が最も体系的に語られているはずの『高山公御遺訓』全204条(および追加4条)の中に、ご依頼の核心である「忠は人に、義は己に」という哲理的な発言、あるいは「主替えを恥じぬ」といった主替えそのものを直接的に正当化するような記述は、 一切見当たらない 9

第一部の結論:「リアルタイム」の不在

高虎が自らの人生観を最も色濃く反映させ、家臣に遺そうとしたはずの『御遺訓』に、この「哲理譚」の根幹をなす言葉が存在しないという事実は、極めて重い。

もし高虎が「主替え」や「忠義」に関する独自の哲学を、自らの処世術の核心として家臣に伝えたかったのであれば、最も重要な遺訓にそれを含めなかった理由が説明できない。

この史料的検証の結果、導き出される結論は明確である。ご要望の『主替えを恥じぬとし、「忠は人に、義は己に」と語ったという哲理譚』が、 高虎本人の口から「リアルタイムな会話」として発せられたとする史料的証拠は、現時点では存在しない

したがって、「その時の状態」を史実として時系列で再現することは、不可能であると言わざるを得ない。

第二部:「哲理譚」の成立背景:なぜこの言葉が高虎に帰せられたのか

では、この逸話は単なる作り話なのだろうか。問題はむしろここからである。史実としての裏付けがないにもかかわらず、なぜこの「哲理譚」が、あたかも高虎の肉声であるかのように、これほど広く流布し、説得力を持って受け入れられているのか。

類似の逸話(俗説)との比較分析

この謎を解くために、高虎にまつわる別の有名な「主替え」に関する逸話と比較分析する。それは、「武士たるもの、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という、高虎の発言として流布されている言葉である 3

この言葉は、高虎の「世渡り上手」 3 な側面を象徴する言葉として、しばしば引用される。しかし、この発言についても、「 実際には、高虎が言ったことばではないらしい 」という指摘が存在する 10

ここに、高虎の逸話に関する一つのパターンが見出せる。高虎の生涯の最大の特徴である「主替えの多さ」 1 という事実に対し、後世の人々が「高虎ならば、自らの行動をこう語るだろう」という、彼の生涯を端的に象徴するキャッチフレーズを「創作」し、それを高虎本人に帰した、というパターンである。

「忠は人に、義は己に」という哲理譚も、この「七度主君を変えねば」という俗説 10 と同一の成立基盤を持つ、**より洗練され、哲学的深度を与えられた「創作」**である可能性が極めて高い。

「哲理譚」の成立時期と動機

この「哲理譚」が創作された動機と背景には、高虎に対する後世の評価の変遷が深く関わっている。

  1. 動機(弁護):
    高虎の「主替え」という行動は、主君と家臣の関係が固定化し、「士は二君に見えず」1 が絶対的な武士の道徳(儒教的倫理観)となった江戸時代中期以降、特に強い批判(変節漢)の対象となった 1。こうした批判に対し、高虎の末裔や、彼の生き方を(何らかの意図で)弁護する人々が、彼の行動は単なる「変節」ではなく、深い「哲理」に基づいていたのだ、と説明するために、この言葉が必要とされた。
  2. 動機(再評価):
    さらに時代が下り、封建的な道徳観が相対化された近代以降、あるいは現代のビジネスシーン(転職)12 において、高虎の生き方は「現実主義」13、「適応力」13、あるいは「実力主義」13 の先駆けとして、肯定的に再評価されるようになった 11。
    この再評価の文脈において、「忠は人に、義は己に」という言葉は、旧来の「家」(組織)への盲目的な忠誠よりも、「個人」の能力と判断を重んじる近代的(あるいは戦国時代的)な価値観を体現するものとして、非常に魅力的に響いた。

結論として、この逸話は高虎本人の「リアルタイム」な発言(一次史料)ではなく、彼の特異な生涯 4 を、後世の人々が(批判的に、あるいは肯定的に)解釈し、その本質を抽出して生み出された「 高虎の生涯そのものを要約した哲理譚 」であると結論するのが、最も合理的かつ妥当である。

第三部:「哲理」の解読:もし高虎が語ったとしたら(その本質の分析)

この逸話が「創作」であったとしても、それは高虎の本質を的確に突いているからこそ、現代まで語り継がれている。この哲理譚がなぜ高虎の「本質」を捉えているのか。ここでは、この哲理譚の二つの側面を、高虎の「リアルタイム」な行動(史実)と照らし合わせ、その真意を解読する。

A. 「忠は人に」(Loyalty is for the person)の分析

これは、「忠誠」の対象は、仕える「家名」や「組織」、「領地」といった抽象的な概念ではなく、 「この人」と定めた生身の人間(主君)個人 にこそ捧げられるべきだ、という宣言である。

戦国時代の「忠」は、江戸時代の固定化された主従関係とは異なり、能力ある主君を自ら選び、その主君個人との間に結ばれる、極めて個人的な信頼関係を意味した 8 。主君がその信頼に応えられない(あるいは滅亡した)場合、その関係は解消され、新たな主君を求めることは「渡り奉公」 4 として、必ずしも不道徳とは見なされなかった(例:浅井長政の滅亡 4 )。

この「忠は人に」という哲学は、高虎の「リアルタイム」な行動によって、雄弁に証明されている。

実践例1:豊臣秀長への忠

高虎の才能を最初に見出し、一介の武将から技術官僚(テクノクラート)6 として重用し、大名への道を開いたのは、豊臣秀吉の弟・秀長であった。高虎の秀長個人への恩義と忠誠心は絶対的であり、秀長の死後、高野山には(徳川の治世になってからも)秀長の恩を末代まで忘れないという趣旨の碑を建立している。これは、秀長の死後、豊臣家(組織)ではなく、秀長(個人)への忠義を貫いた証左である。

実践例2:「二条城の設計図」の逸話(リアルタイムな会話)

この哲学を最も象N_S象徴する逸話が、「二条城改築」の際のエピソードである 12。これは、ご要望の「リアルタイムな会話内容」および「その時の状態」を具体的に示す、数少ない記録の一つである。

  • その時の状態:
    高虎は、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠から二条城の改築を命じられた際、城の設計図を2枚作成し、秀忠に献上した 14。
  • リアルタイムな会話内容(家臣との対話):
    後に家臣がその理由(なぜ1枚ではなく2枚なのか)を訊ねたところ、高虎は次のように答えたと伝えられている。
    「もし1枚しか作らなかったら、この二条城の設計はこの高虎が行ったと世間はみなすだろう。それでは秀忠様の立場がなくなる(将軍の権威が示せない)。2枚の設計図をお見せし、どちらか一方を秀忠様に選んでいただく。そうすることで、あくまでこの城は秀忠様が決定し、改築なさった城だと世間に知らしめることができる。主君に仕えるには、そうした心構えや主君を常に敬う気持ちが必要である」12。

この逸話は、高虎の「忠」が、幕府という「組織」や、築城家としての自らの「功績(手柄)」 14 に向けられたものではなく、あくまで「秀忠という人」の立場と権威を守る、という極めて個人的な忠誠(=忠は人に)であったことを、鮮やかに示している。

B. 「義は己に」(Righteousness is for oneself)の分析

これは、「義」、すなわち自らの行動規範や判断基準は、他人の評価や既存の道徳(例えば「士は二君に見えず」 1 )に委ねるのではなく、 自らの能力と判断基準に従って決定する 、という強烈な自己肯定と現実主義の宣言である。

高虎にとっての「義」とは、儒教的な道徳 13 である以上に、自らの「才覚」を最大限に発揮できる場所(主君)を、自らの「判断」で見極めることだった。

実践例1:時勢の判断(家康への合流)

高虎の最大の「主替え」は、豊臣秀吉の死後、豊臣家から徳川家康へと鞍替えしたことである。これは、豊臣政権の中枢に近い技術官僚 6 であった高虎だからこそ、豊臣政権の内部崩壊と、次代の天下人が家康であることを冷静に見抜き、自らの「義」(判断)に従った結果である。人を信じなかった家康が、この高虎の判断と、その後の忠誠心を高く評価した 7 ことは、高虎の「義」が正しかったことを示している。

実践例2:『御遺訓』に見る「己」への厳しさ

『高山公御遺訓』9 には、「忠は人に、義は己に」という直接的な言葉こそないが、その精神は随所に溢れている。

「窮屈成所を好み楽成所を嫌ふべし」(第53条)

「我役目ハ武芸也」(第54条)

「人間に生れ臆病なる者ハ有間敷也」(第45条)

これらの言葉は全て、他者に依存せず、自らを厳しく律し、己の役目(武芸や築城)と判断に誠実であれという、「義は己に」の精神そのものである。高虎は、満身創痍(そうい)の体 8 になるほど、自らの「義」を実践し続けたのである。

総論:藤堂高虎の「哲理」の再構築

ご依頼の『主替えを恥じぬとし、「忠は人に、義は己に」と語ったという哲理譚』について、その歴史的信憑性を徹底的に調査した結果、以下の結論に至る。

  1. 逸話の信憑性について
    この逸話は、藤堂高虎本人がその言葉通りに語ったということを示す一次史料(特に『高山公御遺訓』9)は存在しない。類似の逸話(「七度主君を変えねば」3)が俗説である可能性が高い 10 ことからも、本逸話もまた、高虎の特異な生涯 1 を後世の人間が解釈し、その本質を捉えるために生み出された、**極めて優れた「哲理譚(創作)」**であると結論するのが最も妥当である。
  2. 「リアルタイム」の再定義
    したがって、ご要望の「リアルタイムな会話内容」は、この哲学的な言葉が語られた瞬間としては存在しない。しかし、藤堂高虎の**「行動」**こそが、この哲理の「リアルタイムな実践」であった。
  • 「忠は人に」のリアルタイムな実践: それは、二条城の「2枚の設計図」を徳川秀忠に差し出し、主君の顔を立てた瞬間 12 である。
  • 「義は己に」のリアルタイムな実践: それは、秀吉の死後、大坂城を離れ、自らの判断で徳川家康の陣営に馳せ参じた、あの決断の瞬間 7 である。

藤堂高虎は、戦国時代という「渡り奉公」 4 が常識であった実力主義の時代に生まれ、その生涯の後半を、主従関係が固定化され「士は二君に見えず」 1 が美徳とされる江戸時代初期に生きた。

「忠は人に、義は己に」という言葉は、この二つの異なる時代の価値観の狭間で、自らの卓越した才能 6 と冷徹な現実主義 13 だけを頼りに、禄高わずか八〇石から最終的に三二万石の大大名 2 へと上り詰めた男の生き様を、これ以上なく的確に表現した後世の「キャッチコピー」である。

高虎は、この言葉を遺訓 9 には残さなかった。なぜなら、それは言葉で家臣に教える「哲学」ではなく、彼がその満身創痍の体 8 をもって、生涯をかけて 実践し続けた「生き様」そのもの であったからに他ならない。

引用文献

  1. 板垣英憲のコラム「戦国武将・藤堂高虎にみるキャリアアップのヒント」 | 講演依頼.com新聞 https://www.kouenirai.com/kakeru/column/business/itagaki_rekishi/528
  2. 『主を七人替え候 藤堂高虎の意地』小松哲史 - 幻冬舎 https://www.gentosha.co.jp/book/detail/9784344414907/
  3. https://discoverjapan-web.com/article/57883#:~:text=%E6%B5%AA%E4%BA%BA%E3%81%8B%E3%82%89%E5%87%BA%E4%B8%96%E3%81%97%E3%81%A6,%E3%81%AA%E4%B8%80%E9%9D%A2%E3%81%8C%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
  4. 「藤堂高虎」7回も主君を変えた戦国武将! 伊勢国津藩の祖 https://sengoku-his.com/797
  5. 出世のために主君を変える強欲男、藤堂高虎「戦国武将名鑑」 - Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/57883
  6. 変節漢か忠義の士か。藤堂高虎 - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/takatora
  7. 『主を七人替え候 藤堂高虎の復権』小松哲史 - 幻冬舎 https://www.gentosha.co.jp/book/detail/9784344013704/
  8. 藤堂高虎が仕えた武将は7人!その最後には家康の信頼を勝ち獲る - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=iSNUwWlzfUY
  9. 甲状腺外科草子 121 - 藤堂高虎の遺訓 https://www.tsuchiya-hp.jp/pdf/tty-geka-soushi-121.pdf
  10. 松永弘高『先駆けの勘兵衛』 - 小説丸 https://shosetsu-maru.com/yomimono/essay/sakigakeno
  11. 『主を七人替え候―藤堂高虎の復権』|感想・レビュー - 読書メーター https://bookmeter.com/books/308505
  12. 戦国の"転職王"に学ぶ成功の秘訣 | リコー経済社会研究所 https://blogs.ricoh.co.jp/RISB/society/post_337.html
  13. 戦国武将!藤堂高虎の名言額・格言額【仁義礼智信、一つでも欠ければ - メルカリ https://jp.mercari.com/shops/product/RkbvpmHoWRMWaiBzZ9n3F3
  14. 藤堂高虎の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7563/