藤堂高虎
~主替え重ね忠節尽くす志処世譚~
藤堂高虎の生涯を、主君を何度も変えながらも「変わらぬ志」を貫いた武将として解説。その行動原理と、羽柴秀長、徳川家康への忠節の真意を探る。
藤堂高虎の処世譚『変わらぬは志』の徹底的解剖
序章:逸話の提示と本質への問い
戦国時代という激動の時代を駆け抜け、最終的に伊勢津藩32万石の藩祖となった武将、藤堂高虎。彼の生涯を語る上で、一つの象徴的な処世譚が伝えられている。『主替えを重ねても忠節を尽くし、「変わらぬは志」と語った』という逸話である。この言葉は、彼の生き様を凝縮したものとして、後世に語り継がれてきた。
しかし、この「変わらぬは志」という言葉が、高虎自身の直接的な発言として一次史料で確認することは極めて難しい。むしろ、これは彼の生涯を通じて見せた一貫した行動原理を、後世の人々が感銘をもって象徴的に表現した言葉である可能性が高い。
この逸話と鮮やかな対比をなすのが、高虎自身が語ったと伝えられる、より挑発的な言葉である。「武士たるもの、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」 1 。一見すれば、これは自己の変節を正当化する居直りとも聞こえる。しかし、この逆説的な発言こそが、彼の処世術の核心、そして「変わらぬは志」という言葉の真意に迫るための重要な鍵となる。
本報告書は、人口に膾炙した「変わらぬは志」という言葉の字面を追うのではなく、高虎が主君を変え続けた具体的な行動の軌跡と、彼が一度「この人」と定めた主君に捧げた絶対的な忠節の事例を徹底的に分析する。その過程を通じて、彼の行動原理を貫いていた「変わらぬ志」とは一体何であったのかを、時系列に沿って解明することを目的とする。変節と忠節という二つの極の間で、彼が守り続けたものとは何か。その探求は、戦国という時代の価値観そのものを問い直す旅となるだろう。
第一章:『志』を託す主君を求めた彷徨 ― 主替えの時系列とその実像
藤堂高虎が後世「変節漢」と評される最大の要因は、そのキャリア初期における目まぐるしい主君の変遷にある。しかし、その一つ一つの離反を当時の状況に照らし合わせて詳細に分析すると、そこに見えるのは単なる裏切りや気まぐれではない。むしろ、自らの能力を正当に評価し、それを最大限に活かすことのできる「場」を求める、戦国時代における極めて合理的かつ切実な行動であったことが浮かび上がる。
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主君 |
仕官期間(推定) |
当時の待遇・石高 |
離反・移動の理由 |
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浅井長政 |
〜天正元年(1573年) |
足軽 |
主家(浅井家)の滅亡 3 |
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阿閉貞征 |
天正元年(1573年)〜 |
不明 |
長続きせず(主君に恵まれず) 1 |
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磯野員昌 |
〜天正6年(1578年) |
80石 |
主君の失脚 3 |
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津田(織田)信澄 |
天正6年〜天正9年(1581年)頃 |
不明 |
戦功を立てるも加増(評価)がなかったため 6 |
各主君からの離反のリアルタイム分析
高虎の最初の主君は、近江の戦国大名・浅井長政であった。姉川の戦いでは初陣ながら戦功を挙げ、長政からも賞賛されたという 8 。しかし、彼の武才が花開く間もなく、天正元年(1573年)、主家である浅井家は織田信長によって攻め滅ぼされる 3 。高虎のキャリアにおける最初の「主替え」は、自らの意思とは無関係の、所属組織の消滅という不可抗力によってもたらされたものであった。これは裏切りではなく、職を失った武士が次の仕官先を探す、ごく自然な行動の始まりに過ぎなかった。
主家を失った高虎は、同じく浅井家の旧臣であった阿閉貞征、次いで磯野員昌に仕える 1 。この時期は、いわば主家という大樹を失った武士たちが、新たな寄る辺を求めて流転する、当時の典型的な姿であった。しかし、これらの主君にも長くは仕えなかった。特に注目すべきは、磯野員昌からの離反である。員昌は後に信長の勘気を被り、所領を没収され失脚している 3 。高虎が員昌のもとを去った直接的な理由は定かではないが、結果として彼は没落する主君と運命を共にすることを避けた。これは、彼の先見の明、あるいは時流を読む鋭敏な感覚の表れと解釈することも可能である。
次に高虎が仕えたのは、織田信長の甥である津田信澄(つだのぶずみ)であった 7 。織田一門という、当時最も将来性のある主君に仕えたにもかかわらず、ここも長続きはしなかった。その理由は極めて明確である。「加恩もなかったので長続きしなかった」 6 という記録が、彼の行動原理を雄弁に物語っている。高虎は戦功を立てたにもかかわらず、それに見合った禄(給与)の加増がなかったことに不満を抱き、自ら出奔したのである 7 。
この津田信澄からの離反は、高虎の処世術を理解する上で決定的に重要である。彼が求めていたのは、主君の家柄や権威ではなかった。彼が渇望していたのは、自らの働きに対する正当な「評価」であり、戦国時代においてその評価を客観的に示す唯一の指標が「石高(禄)」であった。働きが評価されない環境に留まることは、自身の価値の停滞、ひいては武士としての死を意味する。この実力主義と自己評価への渇望こそが、彼を突き動かす根源的な力であり、彼の「志」の原初的な形態であったと言える。彼の一連の行動は、現代の価値観で言う「転職」というよりは、むしろ所属企業の倒産や事業縮小に伴う、必死の「再就職活動」に近かった。彼の「志」は、この時点ではまだ天下国家を論じるような高尚なものではなく、「自らの武才と能力を正当に評価され、それに見合った待遇を得る」という、一人のプロフェッショナルとしての極めて現実的な渇望だったのである。この渇望こそが、彼を次なる運命の出会いへと導く原動力となった。
第二章:忠節の萌芽 ― 羽柴秀長という理想の主君との邂逅
数年にわたる彷徨の末、藤堂高虎はついに生涯の師と仰ぐべき理想の主君と巡り会う。豊臣秀吉の弟、羽柴秀長である。この出会いは、高虎のキャリアにおける最大の転機であった。それは単に安定した仕官先を得たというだけでなく、彼の内面に「忠節」という概念を深く根付かせ、その「志」をより高次なものへと昇華させる決定的な契機となったのである。
運命の仕官と絶対的忠誠
天正4年(1576年)、鬱屈した思いを抱えていた高虎は、その才覚を羽柴秀長に見出される 1 。それまでの主君たちと秀長が決定的に異なっていたのは、その篤実な人柄と、部下の能力を的確に見抜き、その働きを正当に評価する器量であった 1 。高虎は、秀長のもとで水を得た魚のようにその多才ぶりを発揮し始める。
単なる槍働きに留まらず、紀州征伐では湯川直晴を降伏させ、雑賀党の鈴木重意を謀略によって自害に追い込むなど、智将としての側面を開花させた 9 。これらの功績に対し、秀長は惜しみなく恩賞で応えた。賤ヶ岳の戦いの後には、秀吉から1,000石、秀長から300石の加増を受け、その石高は4,600石に達している 10 。第一章で論じた高虎の根源的な渇望、すなわち「正当な評価」が、秀長によって初めて完全に満たされた瞬間であった。
高虎は秀長を深く敬愛し、秀長もまた高虎に全幅の信頼を寄せた。この理想的な主従関係の中で、高虎の忠誠心は「評価への対価」という次元を超え、秀長という個人が目指すであろう天下の安定という理念に共感し、自らの「志」を重ね合わせる「理念の共有」へと質的な変化を遂げていった。
主君の死と高虎の慟哭 ― 高野山への出家
この蜜月とも言える主従関係は、しかし長くは続かなかった。天正19年(1591年)に秀長が病死し、さらにその養嗣子であった秀保も文禄4年(1595年)に早世してしまう 10 。高虎は、キャリアの初期と同様、再び主家を失うという事態に直面した。
しかし、この時の彼の行動は、以前とは全く異なっていた。彼は新たな仕官先を探すどころか、俗世を捨てて高野山に入り、亡き主君たちの菩提を弔うために出家してしまったのである 9 。この行動は、彼の忠節観の本質を何よりも雄弁に物語っている。もし彼の忠誠が「豊臣家」という組織そのものに向けられていたのであれば、秀長・秀保の死後、彼は速やかにその中枢である秀吉の下でさらなる出世を目指したはずである。しかし、彼が選んだのは世を捨てることであった。
これは、彼の忠誠の対象が「豊臣家」という看板や組織ではなく、あくまで「羽柴秀長」という個人、そしてその直系にのみ捧げられていたことの動かぬ証拠である。彼は一度「この人」と心に定めた主君に対しては、損得勘定を完全に超えた、深い情愛と絶対的な忠誠を抱く人物であった。この高虎の才能を惜しんだ秀吉が、生駒親正を使者として再三にわたり説得しなければ、彼はそのまま仏門に生涯を捧げていた可能性さえあった 9 。
この高野山への出家という象徴的な事件は、高虎の処世術の核心を解き明かす鍵となる。彼は、自分が心から信奉できる「個人」を見極め、その個人に対してすべてを捧げる。彼の主君が変わるのは、その信奉すべき「個人」が変わった(あるいは、この世からいなくなった)からに他ならない。秀長との出会いと別れを通じて、高虎の「志」は、自己の価値の実現という段階から、信奉する個人への絶対的忠節という、より純化された形へと昇華されたのであった。
第三章:『志』の体現 ― 徳川家康への絶対的忠誠
羽柴秀長という絶対的な忠誠の対象を失った藤堂高虎は、豊臣秀吉に直臣として仕えながらも、次なる時代を見据えていた。彼が新たに見出した「天下を泰平に導く者」、そして自らのすべてを捧げるに値する「個人」こそ、徳川家康であった。高虎が家康に示した忠節は、単なる臣従の礼を超え、時に常軌を逸するとも思えるほどの徹底したものであった。ここでは、その関係性を象徴する二つの逸話を、当時の緊迫した状況と、交わされたであろう会話の再現を交えて徹底的に解説する。
第一節:聚楽第屋敷の独断 ― 未来への投資としての忠義
状況設定(天正14年/1586年)
この年、小牧・長久手の戦いを経て、徳川家康はついに豊臣秀吉への臣従を示すべく上洛する。天下の趨勢がまさに決しようとする、極度の緊張感に満ちた政治的局面であった。当時、高虎は主君・羽柴秀長の家臣として、家康が滞在する宿舎の建設を作事奉行として命じられた 9。
高虎の洞察と決断
秀吉自らが設計したという屋敷の図面を一瞥した高虎は、その構造的な欠陥を瞬時に見抜いた。公家風の華美な造りは、防御という観点からはあまりにも脆弱であった。「これでは、あまりに危うい」 11。万が一、この京の地で家康の身に不測の事態が起これば、それは作事奉行である高虎自身の責任に留まらない。主君・秀長の監督不行き届きとなり、ひいては天下人である関白・秀吉の威信にまで傷がつく。高虎は、主君への累が及ぶことを避け、かつ家康の安全を万全にするため、驚くべき決断を下す。秀吉の図面を独断で変更し、より堅牢な城郭のような造りに改変したのである。そして、そのために必要となる追加の費用は、全て自らの私財で賄った 11。
家康との対峙(会話の再構成)
完成した屋敷に入った家康は、その城と見紛うほどの堅牢な造りに驚き、不審に思って作事奉行である高虎を呼び出した。
家康: 「作事奉行はそなたか。太閤殿下より拝見した縄張り図とは似ても似つかぬ。これは屋敷というより、まるで城ではないか。如何なる所存か、わけを伺いたい」 11
家康の鋭い問いに対し、高虎は平伏したまま、静かに、しかし明瞭な口調で答えた。
高虎: 「はっ。内府様(家康)は、もはや天下に並ぶ者なき御方。そのような御方がお休みになる館が、図面のままの脆弱なものでは、万一の際に取り返しがつきませぬ。そうなれば、我が主・秀長の不行き届き、ひいては太閤殿下の御名誉に傷がつきまする。すべては、それがしの一存にて作り替えましてございます。この普請にかかりました追加の費用も、我が私財にて賄いました。もし、この処置がお気に召さぬのであれば、どうぞこの場にてお手討ちに」 11
この言葉に、家康は深く感銘を受けたという。高虎の行動は、単なる親切心や気の利いた配慮ではない。それは、①主君(秀長・秀吉)の面目を守るという忠義、②家康こそが次代を担う器量人であるという将来性への確信、そして③自らの命と財産を懸けて責任を取るという覚悟、という三つの要素が込められた、高度な政治的パフォーマンスであった。高虎は、徳川家康という次代の覇者に対し、自らの類稀なる能力と先見性、そして何よりも深い忠誠心を、最も効果的かつ劇的な形で提示したのである。
第二節:枕頭の誓い ― 来世を懸けた忠節
状況設定(元和2年/1616年)
大坂の陣が終結し、天下が完全に徳川のものとして定まった翌年。駿府城にて、75歳の家康は病に倒れ、その生涯を終えようとしていた。外様大名でありながら、高虎は譜代の重臣たちと共に家康の枕元に侍ることを許されていた 9。部屋には薬の匂いが立ち込め、天下人の弱々しい息遣いだけが響く、厳粛な時間が流れていた。
家康の述懐と高虎の衝撃
これまでの高虎の数々の功労を労った家康は、ふと寂しげな表情で、ぽつりと呟いた。
家康: 「高虎よ、長きにわたり大儀であった。…ただ、一つ心残りなのは、そなたは日蓮宗、わしは天台宗。宗旨が違うゆえ、あの世では会うことができぬやもしれぬ。それが…寂しいのう」 9
この言葉は、高虎の心を激しく揺さぶった。それは、主君から臣下へ向けられた、これ以上ないほど個人的で、深い信頼と情愛のこもった言葉であった。
高虎の即断と誓い(会話の再構成)
高虎は涙を浮かべ、家康のか細い手を両手でしっかりと握りしめた。
高虎: 「何を仰せられますか、大御所様! それがし、あの世でも、来世でも、変わらず大御所様にお仕え申し上げる所存にございます! ただ今より、それがしは宗旨を改め、大御所様と同じ天台宗となりまする。私もまもなく後を追いますゆえ、どうか次の世でも、この高虎をお側にお置きくださいませ…!」 11
高虎はその場を辞すると、すぐさま天台宗の僧正・天海のもとを訪れ、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗する手続きを取った。そして再び家康の枕頭に戻り、「これで、来世も御奉公できまする」と報告した。これを聞いた家康は、嬉しさのあまり涙を流したと伝えられている 9 。
当時の人々にとって、宗旨(宗派)は自らのアイデンティティそのものであり、先祖代々受け継いできた信仰を変えることは、現代の我々が想像する以上に重い決断であった。高虎は、家康個人への忠誠を、現世に留まらず来世にまで貫くという、究極の形で証明してみせたのである。それは、彼が徳川家康という人物の中に、かつての主君・羽柴秀長をも超える、魂の「終の棲家」としての絶対的な「個人」を見出したことの、何よりの証左であった。彼の忠節は、主君の命令を忠実に実行する「受動的」なものではなく、常に相手の期待を超え、未来を予測し、自らのリスクにおいて最善手を打つ「能動的」かつ「創造的」なものであった。この姿勢こそが、数多の武将の中で彼が家康から絶大な信頼を得た本質的な理由なのである。
第四章:総括 ― 「変わらぬは志」の真意
藤堂高虎の生涯を、主君変遷の軌跡と、特定の個人に捧げた絶対的忠誠という二つの側面から詳細に分析してきた。一見すると矛盾に満ちたその行動は、しかし、一つの強靭な信念によって貫かれていることが明らかになる。ここに至り、我々は逸話の核心である「変わらぬは志」の真意を再定義することができる。
高虎の行動を終始一貫して支えていた「変わらぬ志」。それは、特定の主家や組織に対する盲目的な忠誠では断じてなかった。それは、**「その時代において、天下を最も良く治め、泰平の世をもたらすに足る器量と実力を持った『個人』を自らの目で見極め、その人物のために、自らが持つすべての能力――築城、軍略、交渉術、そして命さえも――を捧げ尽くす」**という、極めて高度なプロフェッショナリズムと、大局を見据えた政治的信念の融合体であった。
この定義に立つならば、彼の度重なる主替えは「変節」ではなく、むしろ「志」に忠実な行動であったと再解釈できる。彼は、「志」を託すに値しない、あるいはその資格を失った主君のもとを去り、よりその「志」の実現に相応しい主君へと乗り換えていった。つまり、 彼は主君を変えることによって、自らの「志」を決して変えなかった のである。浅井家が滅び、磯野員昌が失脚し、津田信澄が彼の功績を評価しなかった時、彼はその場に留まることなく、次なる可能性を求めた。そして羽柴秀長、徳川家康という、彼の「志」を託すに足る傑出した「個人」に出会った時、彼はその生涯を懸けて絶対的な忠節を尽くした。
価値観の変遷と誤解の構造
高虎の評価が後世において大きく分かれるのは、彼が生きた時代そのものが、価値観の大きな過渡期にあったためである。
高虎が武士として頭角を現した戦国時代は、実力主義と下剋上が当然の世界であった。家柄よりも個人の能力が重視され、より良い待遇と働き場所を求めて主君を変える「渡り奉公」は、決して珍しいことではなく、むしろ有能な武士の権利ですらあった 9 。高虎の行動は、この時代の価値観のまさに体現者であった。
しかし、彼が徳川家康の下で大名としてその地位を確立し、没する頃には、日本社会は大きく変貌していた。徳川幕府による安定した封建秩序が確立され、武士の価値観もまた変容を遂げる。「士は二君に見(まみ)えず」という儒教的な倫理観が武士の最高の美徳とされ、一度仕えた主君への絶対的で不変の忠誠こそが求められるようになった 14 。
高虎は、「戦国の価値観」を生き抜きながら、その生涯が「江戸の価値観」が形成される時代にまで及んだ。この時代の狭間に生きたがゆえに、彼のキャリアは、後の世の安定した主従関係を前提とする価値観から、「変節漢」「世渡り上手」という誤解を含んだ評価を受けやすかったのである。彼の生き様は、一つの時代が終わり、新たな時代が始まる、その境界線上にあったからこそ、複雑な光と影を投げかけている。
結論:変節の評価を超えて
藤堂高虎の『主替えを重ねても忠節を尽くし、「変わらぬは志」と語った』という処世譚は、その表層的な事実だけを追えば、矛盾と自己正当化に満ちているように見える。しかし、彼の行動の深層を、当時の価値観と彼が置かれた具体的な状況に沿って時系列で丹念に分析する時、そこには驚くほど一貫した、そして強靭な信念、すなわち「志」の存在が鮮やかに浮かび上がる。
彼の「志」とは、特定の家への忠誠ではなく、泰平の世を実現し得る最高の「個人」を見出し、その人物に自らの全てを捧げるという、究極のプロフェッショナリズムであった。その「志」を貫くため、彼は主君を変えることを厭わなかった。羽柴秀長への滅私奉公、そして徳川家康への来世をも誓った絶対的忠誠は、彼が一度「この人」と定めた対象に対して、いかに純粋で深い忠節を抱く人物であったかを証明している。
藤堂高虎の生涯は、単なる世渡り上手な武将の物語ではない。それは、激動の時代の中で、自らの価値を常に問い続け、大義を見出し、そして選び抜いた対象にすべてを捧げ尽くした、一人の卓越したプロフェッショナルの生涯の記録である。その姿は、所属する組織や環境が永遠ではない現代において、個人が如何にして自らの核となる「志」を貫き、キャリアを形成し、そして忠誠を捧げるべき対象を見出していくべきかという、時代を超えた普遍的な問いを我々に投げかけている。変節という汚名を着せられながらも、彼が守り抜いた「変わらぬ志」は、今なお多くの示唆に富んでいる。
引用文献
- 藤堂高虎 「7度主君を変えねば、武士とはいえぬ」の真意とは|歴史 ... https://rekishi-ch.jp/column/article.php?column_article_id=42
- 出世のために主君を変える強欲男、藤堂高虎「戦国武将名鑑」 - Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/57883
- 歴史の目的をめぐって 藤堂高虎 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-20-todo-takatora.html
- 藤堂高虎の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7563/
- 藤堂高虎(1/2)多数の主君に仕えた築城の名手 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/human/1/
- 藤堂高虎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E
- (藤堂高虎と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16986_tour_067/
- 主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将 ... https://mag.japaaan.com/archives/132662/2
- 「藤堂高虎」7回も主君を変えた戦国武将! 伊勢国津藩の祖 https://sengoku-his.com/797
- 藤堂高虎 略年譜 - 津市 https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/contents/1001000011146/index.html
- 藤堂高虎と徳川家康…譜代並の破格の扱いをされた高虎と家康の深い絆の物語 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/75
- 主君を7度も変えて出世した戦国武将・藤堂高虎 - BS11+トピックス https://bs11plus-topics.jp/ijin-sugaono-rirekisho_19/
- 藤堂高虎は何をした人?「築城名人はキャリアも積み重ねて転職 ... https://busho.fun/person/takatora-todo
- 主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将 ... https://mag.japaaan.com/archives/134120/3
- 板垣英憲のコラム「戦国武将・藤堂高虎にみるキャリアアップのヒント」 | 講演依頼.com新聞 https://www.kouenirai.com/kakeru/column/business/itagaki_rekishi/528