最終更新日 2025-10-20

豊臣秀吉
 ~本能寺変報受け十日で畿内へ戻る~

本能寺の変の報を、軍師官兵衛の助言で好機と捉え毛利氏と即座に和睦。備中から京への驚異的強行軍「中国大返し」で明智光秀を討ち天下を掴んだ。

天正十年、運命の十日間:羽柴秀吉「中国大返し」の真相

序章:湖上の城、膠着する戦線

天正10年(1582年)5月、初夏の長雨が大地を潤す頃、備中国(現在の岡山県)は、天下統一を目前にする織田信長と、西国の雄・毛利輝元という二大勢力が激突する最前線と化していた。織田軍の中国方面軍司令官、羽柴秀吉は、毛利氏が国境防衛の要と定めた「境目七城」を次々と攻略し、その最後の、そして最大の拠点である備中高松城に迫っていた 1

この備中高松城は、尋常な城ではなかった。三方を深い沼、残る一方を広大な水堀に囲まれた低湿地帯に築かれた、天然の要害「沼城」である 1 。大軍の展開は困難で、鉄砲や騎馬の威力も湿地とぬかるみに殺がれる。城主は、毛利家に厚い忠誠を誓う勇将・清水宗治。彼はわずか5,000の兵で、秀吉率いる3万の大軍を迎え撃った 3 。緒戦において秀吉軍は、宗治の巧みな防衛戦術と地の利の前に苦戦を強いられ、数百の兵を失うという手痛い敗北を喫していた 4

力攻めは不可能と判断した秀吉陣営で、この膠着した戦況を打破する奇策を進言したのが、軍師・黒田官兵衛であった。彼は、城攻めを困難にする低湿地という地形そのものを、逆に味方につけることを発想する。すなわち「水攻め」である 1 。城の近くを流れる足守川の水を、巨大な堤防を築いて堰き止め、城ごと水没させるという壮大な計画であった。時は梅雨、増水しやすい川の水を利用する、まさに天の時と地の利を読み切った策であった 1 。秀吉はこの進言を即座に採用。驚くべきは、その実行力である。土嚢一つにつき米一升、あるいは銭百文という当時としては破格の報酬を提示し、周辺の農民たちを動員。わずか12日間で、全長約3キロメートル、高さ約7メートルにも及ぶ巨大な堤防を完成させたのである 1

降り続く雨は足守川をみるみる増水させ、堤防の内側は巨大な湖と化した。備中高松城は水に浮かぶ孤島となり、城内の兵糧は水に浸かり、兵士たちは寝る場所にも窮する惨状を呈した 1 。しかし、これは戦の終わりを意味しなかった。5月21日、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景の毛利首脳部が率いる4万の援軍が、城を望む山々に布陣したのである 2 。湖と化した平野を前に、毛利軍は城を救う手立てがなく、かといって秀吉軍も背後の毛利本隊を前に動くことができない。両軍合わせて10万近くの軍勢が、湖上の城を挟んで睨み合うという、巨大な膠着状態が完成した。この時点で秀吉は、主君・信長に援軍を要請しており、信長自身も明智光秀を先遣隊として派遣し、自らも6月4日に出陣する準備を整えていた 2

この状況こそが、歴史の歯車が大きく回転する舞台装置であった。もし高松城が力攻めで短期に落ちる城であったなら、あるいは秀吉が別の戦術を選んでいれば、彼はこの場所に、このタイミングで留まってはいなかったであろう。水攻めという、時間を要する持久戦を選択したこと自体が、京都で巻き起こる未曾有の激震を、この備中の地で受け止めるという運命を必然的に引き寄せたのである。高松城の特異な地形が、羽柴秀吉を天下の岐路に立たせたと言っても過言ではなかった。

第一章:凶報、震撼する本陣

天正10年6月2日未明、京都・本能寺。日本史を揺るがす大事件が勃発した。織田信長が、最も信頼していたはずの家臣・明智光秀の謀反によって横死したのである。

その報せが、約200キロメートル離れた備中高松の秀吉の本陣に届いたのは、翌3日の夜半であったと伝えられる。事件発生からわずか1日半。電話も電信もない時代において、これは驚異的な情報伝達速度である。誰が、いかにしてこの凶報を伝えたのか、その正確なルートは歴史の謎に包まれている。一説には、光秀が毛利方に己の謀反を伝え、味方になるよう促すために送った密使を、秀吉の情報網が偶然捕らえたとも言われる 6 。また、京の情勢に明るい茶人・長谷川宗仁の使者が伝えたという説もある 7 。いずれにせよ、この情報収集能力の高さこそが、秀吉が他の織田家重臣たちに先んじて行動を起こすことを可能にした第一の要因であった。

書状を手に取った秀吉の最初の反応は、後世に伝わるような冷静沈着なものではなかった。史料は、彼が「茫然として居給ふ」、すなわち茫然自失の状態に陥ったと記している 4 。ある逸話によれば、彼はわなわなと震える手で書状を握りしめ、「まさか、上様が…信じられん!」と呟いたという 9

この衝撃は、単なる主君への悲嘆だけではなかった。それは、自らの存在基盤そのものが崩壊したことへの恐怖と絶望であった 9 。百姓の子から身を起こし、信長という絶対的な庇護者の下で異例の出世を遂げてきた秀吉にとって、信長の死は、天が落ちてくるにも等しい事態であった。そして、彼の置かれた状況は絶望的というほかなかった。目の前には、水攻めに苦しみながらも未だ健在の高松城。背後には、吉川元春、小早川隆景という百戦錬磨の将が率いる4万の毛利本隊。そして遠く畿内には、主君を討ち取って勢いに乗る明智光秀の大軍がいる。信長という絶対権力者が消え去った今、織田家中の誰が光秀に寝返るか分からず、毛利がこの機に乗じて一気に攻めかかってくる可能性も高い。秀吉は、敵地の真っただ中で完全に孤立したのである。天下取りの野望どころか、自身の命運さえ風前の灯火であった。

第二章:軍師の一言、好機への転換

主君の死と自らの絶体絶命の窮地に、秀吉はただ打ちひしがれていた。本陣に重苦しい沈黙が支配する中、その静寂を破ったのは、傍らに控える軍師・黒田官兵衛であった。彼は、涙に暮れる秀吉の耳元に、冷静極まりない声で囁いたと伝えられる。

「御運が開けましたな」 9

常人ならば耳を疑うであろうこの一言。主君の横死を「好機」と断じるこの言葉にこそ、後に秀吉自身に「この男に大きな所領を与えれば、我が地位が危うくなる」とまで警戒された官兵衛の、底知れぬ野心と非凡な戦略眼が凝縮されていた 9

茫然とする秀吉に対し、官兵衛は彼の思考を根底から覆す論理を展開する。『黒田家譜』などの史料によれば、その進言の骨子は次のようなものであった。「信長公の御事は言葉に尽くせぬほど残念なことでございます。しかしながら、今こそ貴公が天下の権を握るべき時が到来したと存じます。明智を討つことは、さほど難しいことではありますまい。信長公の御子息方(信忠は既に討たれ、信雄、信孝らがいた)は、天下を治める器量をお持ちではございません。いずれ家中は乱れ、謀反や騒乱が頻発するでしょう。その都度、貴公がそれらを鎮圧していけば、自ずと貴公の威勢は高まり、天下は貴公の掌中に収まることになりましょう」 8

この言葉は、秀吉の脳裏に稲妻のごとく突き刺さった。それは、絶望的な「危機」を、千載一遇の「好機」へと再定義する、まさに思考のコペルニクス的転回であった。官兵衛のロジックは、秀吉の思考回路を「信長の忠実な家臣」から「天下を争う覇者」へと、強制的に切り替えさせたのである。

官兵衛の進言がこれほどまでに劇的な効果をもたらした背景には、秀吉自身が心の奥底で密かに抱いていた野心があったからに他ならない。秀吉は、信長の苛烈な恐怖政治に疑問を抱き、「自分であれば、もっと上手く家臣団をまとめられる」と考えていた節がある 10 。官兵衛は、主君のその潜在的な野心と器量を見抜いていた。そして、その野心を解放するための「鍵」を提示したのである。その鍵とは、「主君の仇討ち」という、誰もが反論できない絶対的な大義名分であった。官兵衛は、秀吉の野望を正当化する大義と、それを実現するための具体的な道筋(まず毛利と和睦し、光秀を討つ)を同時に示した。これにより、秀吉は罪悪感や迷いを振り払い、自らの野望に向かって全速力で突き進むことが可能になった。

茫然自失から覚醒した秀吉は、もはや別人であった。彼は即座に、この未曾有の国難を自らの天下への階梯とすべく、超人的な行動を開始するのである。

第三章:密計、迅速なる和睦交渉

好機を見出した秀吉の次なる行動は、迅速かつ緻密であった。全ての作戦の成否は、背後に控える毛利の大軍をいかにして無力化するかにかかっていた。そのためには、主君・信長の死を徹底的に秘匿したまま、毛利方との和睦を電光石火で成立させる必要があった。

秀吉は直ちに陣中に厳戒態勢を敷き、いかなる情報も外部に漏れぬよう鉄の統制を行った。兵士たちには普段通りに振る舞うよう命じ、陣中では篝火を盛んに焚かせ、軍楽を奏でさせるなど、むしろ戦意が高まっているかのように偽装した。

この緊迫した外交戦の鍵を握ったのは、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊であった 13 。恵瓊は、毛利家に仕える身でありながら、早くから秀吉の非凡な才能と将来性を見抜き、信長の没落と秀吉の台頭を予見していたとさえ言われる人物である 14 。秀吉はこの恵瓊を交渉の窓口とし、和睦を急がせた。

ここからの秀吉の交渉術は、まさに神懸かり的であった。本能寺の変が起こる前、秀吉は毛利方に対し、備中・備後・美作・伯耆・出雲の五か国割譲という、極めて強硬な条件を突きつけていた 5 。しかし、変報に接した秀吉は、この条件をあっさりと撤回。新たに「備中・美作・伯耆の三国割譲」へと大幅に譲歩したのである(最終的には、高松城の明け渡しと備中一国の割譲で決着する)。このあまりに急な態度の軟化に、鋭い洞察力を持つ恵瓊は「おや、何かあったな」と直感したと伝えられている 17

しかし、秀吉は譲歩する一方で、たった一つの条件だけは決して譲らなかった。それは、「城主・清水宗治の切腹」である 5 。この一点に固執したことには、複数の戦略的意図があった。第一に、戦のけじめとして敵将の首を取ることで、毛利方の戦意を完全に断ち切ること。第二に、自軍の兵士たちに対して「我々は勝利したのだ」という明確な形を示すこと。そして第三に、領土問題のような複雑で時間のかかる交渉を避け、宗治の命という象徴的な条件に絞ることで、和睦交渉を最大限に迅速化することであった。

この交渉の局面は、「情報の非対称性」がもたらす圧倒的な優位を、秀吉が最大限に活用した典型例であった。秀吉は「信長は死んだ」という、戦局の前提を根底から覆す決定的な情報を独占している。一方、毛利方は、秀吉の背後には依然として信長本体と、援軍として向かっているはずの明智光秀の大軍が控えていると信じ込まされている。この致命的な情報格差が、秀吉に絶対的な交渉上のアドバンテージをもたらした。毛利首脳部は、恵瓊が感じた不審の念を確証に変える術を持たず、織田本隊との全面衝突という最悪の事態を避けるため、城主一人の命と引き換えに和睦を受け入れるという、苦渋の決断を下さざるを得なかったのである。秀吉は、自らが絶体絶命の窮地にありながら、あたかも強者の立場から慈悲を垂れるかのように振る舞い、情報戦に完勝したのだった。

第四章:武士の鑑、清水宗治の最期

和睦の条件は、清水宗治の自刃と決まった。毛利家からの説得を受けた宗治は、少しも取り乱すことなく、その運命を受け入れた。彼はこう述べたとされる。「我が首一つで、主君である毛利家が安泰となり、城に残る5,000の兵たちの命が助かるのであれば、これほど安いものはない」 4 。その言葉には、武士としての忠義と、将としての責任感、そして自らの死を泰然と受け入れる覚悟が満ちていた。

運命の日は、天正10年6月4日。秀吉による水攻めで生まれた湖の上は、静まり返っていた。宗治は数名の供回りと共に小舟に乗り込み、両軍の兵士たちが見守る中、湖心へとゆっくりと漕ぎ出した 5 。舟の上で、彼は最後の宴を開き、酒を酌み交わした。そして、静かに立ち上がると、能の「誓願寺」の一節を舞ったという。

舞を終えた宗治は、辞世の句を詠んだ。

「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」

(この儚い世を、今こそ渡っていこう。武士としての我が名は、この高松の苔むす土の上に、永く残して)

美しい辞世の句を詠み終えると、宗治は従容として小刀を腹に突き立て、見事に掻き切り、その生涯を閉じた。その壮絶にして気高い最期を、秀吉は対岸の本陣から固唾をのんで見届けていた。敵将の潔い振る舞いに深く心を打たれた秀吉は、後に「古今の武士の鑑である」と宗治を最大級に称賛し、その首を丁重に葬ったと伝えられる 4

清水宗治という一人の武将の自己犠牲は、単に一つの戦いを終わらせただけではなかった。彼の死は、数万の兵の命を救い、織田と毛利という二大勢力の全面衝突を回避させ、そして何よりも、羽柴秀吉の天下取りへの道を切り開いたのである。

首実検を終えた秀吉は、直ちに和睦を履行し、軍の撤退準備を開始した。毛利方も、宗治の死をもってこれ以上の戦闘は無意味と判断し、翌6月5日から順次、陣を引き払い始めた 4 。彼らが本能寺の変の確報を得たのは、秀吉軍が備中の地を去った、その翌日のことであった 18 。もし宗治の決断が一日でも遅れていれば、もし毛利方が変報を先に掴んでいれば、歴史は全く異なる様相を呈していたであろう。このわずか一日の差が、全てを決定づけた。

ここに、歴史の強烈な皮肉が存在する。秀吉の「中国大返し」という、生命力と野望に満ちた「生」の躍動は、敵将・清水宗治の壮絶にして気高い「死」によって、その第一歩を踏み出すことが可能となったのである。秀吉は、敵将の死を心から悼み、称賛しつつも、その死がもたらした絶好の戦略的機会を最大限に利用して、自らの未来を切り開いた。戦国武将の非情さと合理性が、この湖上の儀式には凝縮されていた。

第五章:神速、中国大返し

清水宗治の自刃を見届け、毛利軍の撤退を確認した秀吉は、6月6日、ついに反転の狼煙を上げた。ここから、日本史上類を見ない驚異の強行軍、世に言う「中国大返し」が始まる。その目的はただ一つ、主君・信長の仇である明智光秀を討つこと。備中高松から決戦の地・山崎までの約200キロメートルを、わずか7日間で踏破する、時間との壮絶な競争であった。

この行軍は、単なる精神論や兵士の健脚さだけで成し遂げられた奇跡ではない。それは、極めて高度で近代的な兵站管理(ロジスティクス)能力に裏打ちされた、緻密な計算の産物であった。この作戦を兵站面で支えたのが、後に豊臣政権の五奉行として辣腕を振るう石田三成をはじめとする、有能な文官(官僚)たちであった 19

彼らが実行した準備は、周到を極めていた。

第一に、兵糧の確保。進軍ルート上にある村々に対し、事前に使者を送って協力を要請。破格の代金を支払うことと引き換えに、兵士たちが走りながらでも食べられる握り飯や、夜間行軍のための松明などを大量に準備させた 20。

第二に、輸送手段の確保。道中の宿場町や豪族と連携し、兵士の疲労を軽減するための替え馬や、増水した河川を渡るための渡船をあらかじめ手配していた 21。

第三に、装備の軽量化。一刻も早く京へ戻るため、秀吉は兵士たちに鎧の一部や余分な荷物を捨てるよう命じ、部隊の機動力を最大限に高めた 22。

行軍は過酷を極めた。季節は梅雨の真っ只中であり、連日の豪雨で街道はぬかるみ、河川は氾濫寸前であった 23 。兵士たちは約50キログラムにも及ぶ武具を身に着け、泥水に足を取られながら、昼夜を問わず歩き続けた 12

6月6日、備中高松を発った軍勢は、まず播磨国の姫路城を目指した。姫路城は秀吉の拠点であり、ここには彼の軍資金と兵糧が備蓄されていた。高松から姫路までの約90キロメートルを、彼らはわずか2日で走破した 12 。6月7日の夜に姫路城に到着した秀吉は、ここで兵士たちに一日の休息を与えると同時に、城に蓄えられていた金銀米銭を惜しげもなく分け与えた。これは、兵士たちの疲労を回復させ、士気を極限まで高めるための巧みな心理作戦であった。「光秀を討てば、これ以上の恩賞が待っているぞ」という無言のメッセージが、全軍に浸透した。

姫路城を出発した軍は、明石、兵庫を経て、6月11日には摂津尼崎に到着。ここで、後述する畿内の諸将が次々と合流し、軍勢は雪だるま式に膨れ上がっていく。そして6月12日、決戦の地・山崎を目前にした摂津富田に布陣。備中を発ってから、わずか7日目のことであった。

この強行軍の成功は、秀吉軍団が単なる戦闘集団ではなく、有能な官僚機構を擁する高度な統治組織へと進化していたことの何よりの証明であった。兵站、財務、交渉、情報管理といった総合的な行政能力が試されるこの一大事業を完璧に成し遂げたことこそ、秀吉が他の織田家臣を出し抜き、天下人へと駆け上がる組織的な基盤が既に完成していたことを示している。

以下の表は、この運命の十日間における秀吉軍と明智光秀軍の動向を対比したものである。両者の行動速度と時間感覚の決定的な差は、勝敗が戦う前に既に決していたことを雄弁に物語っている。

日付 (天正10年)

曜日

天候 (畿内)

羽柴秀吉の動向 (場所・行動)

明智光秀の動向 (場所・行動)

6月2日

備中高松 :毛利軍と対陣中。未明、京都で本能寺の変が勃発。

京都 :本能寺・二条御所を襲撃、信長・信忠父子を討つ。安土城へ向かうも瀬田の唐橋を焼かれ足止め 25

6月3日

大雨

備中高松 :夜、本能寺の変の報に接し、茫然自失。黒田官兵衛の進言で決起 8

坂本城 周辺:近江の平定に着手。

6月4日

備中高松 :毛利方と和睦成立。清水宗治が自刃 5

安土城 :入城し、城内の金銀財宝を接収。諸大名へ協力要請の書状を送る 25

6月5日

大雨

備中高松 :毛利軍の撤退を確認。自軍の撤退準備を開始 4

安土城 :近江諸城の接収を進める。

6月6日

備中高松 :撤退開始。約35kmを行軍 26

安土城 坂本城 :本拠地へ移動。

6月7日

姫路城 :約70kmを走破し、姫路城に到着 26

坂本城 :朝廷への献金など政治工作を行う。

6月8日

姫路城 :軍勢に休息を与え、金銀を分配し士気を高める。軍議を開く。

坂本城 :安土城の守りを明智秀満に任せる 25

6月9日

大雨

姫路城 明石 :暴風雨の中、約35kmを行軍 24

坂本城 :細川藤孝、筒井順慶からの返答を待つが、芳しくない。

6月10日

明石 兵庫 :約20kmを行軍。畿内の味方と連絡を取り始める 27

下鳥羽 :秀吉接近の報を受け、ようやく迎撃準備のため洞ヶ峠へ向かう 25

6月11日

大雨

兵庫 尼崎 :約25kmを行軍。池田恒興、中川清秀、高山右近らが合流し、軍勢が4万近くに膨れ上がる 23

洞ヶ峠 下鳥羽 :筒井順慶が来ず、日和見を決め込まれ、布陣を変更 25

6月12日

尼崎 富田 :約20kmを行軍し、決戦に備え布陣。先遣隊が天王山を占拠 27

下鳥羽 勝龍寺城 :秀吉軍の布陣に対抗し、本陣を移動。決戦態勢を整える 28

6月13日

富田 山崎 :山崎に着陣。午後、山崎の合戦が勃発 27

勝龍寺城 山崎 :秀吉軍と激突。兵力差の前に敗走 25

第六章:光秀の誤算、畿内の情勢

秀吉が驚異的な速度で西国街道を東進していた頃、事変の張本人である明智光秀は、畿内において致命的な蹉跌を繰り返していた。彼の敗因は、軍事的な能力の欠如ではなく、クーデター後の政治構想の甘さと、自身の求心力の致命的な過信にあった。

本能寺の変の直後、光秀の行動は迅速であった。信長・信忠父子を葬ると、直ちに安土城を占拠して織田政権の中枢を掌握。城内の金銀財宝を味方に分け与え、近江一帯の諸城を次々と制圧するなど、当初は順調に地盤を固めているように見えた 25 。彼は、信長の恐怖政治に不満を抱く多くの大名が、雪崩を打って自分に味方するだろうと楽観していた。

しかし、これは光秀最大の誤算であった。彼が最も頼みとしていた与力大名たちが、次々と彼に背を向けたのである。長年の親友であり、共に室町幕府の再興に尽力した細川藤孝(幽斎)は、光秀からの味方の要請に対し、即座に剃髪して信長への弔意を示し、中立を宣言した 30 。娘が光秀の嫡男の妻であったにもかかわらず、彼は友情よりも細川家の存続を選んだ。大和の大名・筒井順慶もまた、光秀との関係が深かったが、どちらに付くか曖昧な態度をとり続け(有名な「洞ヶ峠の日和見」)、最終的には圧倒的な勢いで迫る秀吉軍に合流した 32

なぜ、誰も光秀に味方しなかったのか。その根源には、「主君殺し」という謀反人が背負う、拭い去れない汚名があった。権謀術数が渦巻く戦国時代においても、主君への裏切りは最も重い罪であり、諸大名は光秀に与する政治的リスクを恐れた 31 。また、光秀が信長の遺体を発見できず、その首を晒すことができなかったことも、彼の権威を大きく失墜させた可能性がある。「信長は生きているのではないか」という流言が飛び交い、諸大名の疑心暗鬼を増幅させたのである 33

光秀の敗北は、彼が平時から築き上げてきた「信頼資本」の決定的な欠如に起因する。彼は、計略や実務能力には長けていたが、いざという時に命を預けてくれる真の同志を、織田家中に作ることができていなかった 31 。一方の秀吉は、「人たらし」と評されるように、日頃から気配りや恩賞を通じて多くの武将と個人的な信頼関係を築いていた。本能寺の変という異常事態に直面した時、諸大名は「大義なき謀反人・光秀」よりも、「恩義があり、かつ主君の仇討ちという大義を掲げる秀吉」を選んだ。

6月10日頃、秀吉軍が予想を遥かに超える速度で畿内に迫っているという報が、ようやく光秀の元に届く。彼は狼狽し、急いで淀城や勝龍寺城の防備を固めるが、もはや態勢を立て直すには時間がなさすぎた 28 。秀吉が時間を支配し、味方を増やしながら突き進んだのに対し、光秀は時間に追われ、味方を失いながら孤立していった。この対照的な動きこそが、来るべき決戦の行方を暗示していた。

終章:決戦前夜、天王山へ

6月11日、秀吉軍が摂津尼崎に到着すると、畿内の情勢は一気に動いた。これまで日和見を決め込んでいた諸将が、その圧倒的な軍勢と神速の進軍を目の当たりにし、勝ち馬に乗るべく続々と馳せ参じたのである。摂津の池田恒興、中川清秀、高山右近らが次々と合流し、備中を発った時には2万であった軍勢は、この時点で一気に4万近くにまで膨れ上がっていた 28

翌12日、秀吉は決戦の地を山城国・山崎と定め、摂津富田に本陣を置いた。山崎は、天王山と淀川に挟まれた隘路であり、京へ至る交通の要衝である。秀吉は、決戦に先立って中川清秀らの先遣隊を派遣し、戦場の趨勢を決定づける戦略的要衝・天王山を完全に占拠させた 27 。戦いの主導権は、この時点で完全に秀吉の手に握られた。

対する明智光秀の軍勢は、与力大名の離反により、わずか1万6,000。秀吉軍との兵力差は2倍以上となり、もはや勝敗は火を見るより明らかであった 24

こうして迎えた6月13日。降りしきる雨の中、両軍は山崎の地で激突する。しかし、この「山崎の合戦」は、もはや勝敗を決する戦いではなかった。それは、この十日間の全ての帰結を確認するための、儀式に過ぎなかったのである。

羽柴秀吉の「中国大返し」は、単なる長距離の高速移動ではなかった。それは、

  1. 情報戦の勝利 :誰よりも早く正確に情報を掴み、初動で他を圧倒した。
  2. 外交戦の勝利 :信長の死を秘匿し、情報の非対称性を利用して毛利家との和睦を迅速に成立させた。
  3. 兵站戦の勝利 :周到な準備と優れた官僚組織により、不可能とも思える強行軍を完遂した。
  4. 政治戦の勝利 :「主君の仇討ち」という絶対的な大義名分を掲げ、道中で味方を雪だるま式に増やし、圧倒的な兵力を形成した。

これら全てを内包した、一つの完璧な戦略的・政治的キャンペーンであった。秀吉はこの十日間で、「時間」という最も重要な戦略資源を完全に制圧した。彼は、情報、交渉、行軍の全てにおいて時間を味方につけ、敵である光秀から思考と準備の時間を根こそぎ奪い去った。光秀が状況を認識し、有効な手を打つ前に、秀吉は常に次の段階へと駒を進めていたのである。

備中の湖上の城から始まったこの十日間は、羽柴秀吉という一人の男が、織田信長の一武将から、天下人へと劇的な変貌を遂げた、まさに運命の十日間だったのである。

引用文献

  1. 備中高松城の戦い〜黒田官兵衛の水攻めをわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/770/
  2. 備中高松城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E4%B8%AD%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  3. 備中高松城水攻め - 清水宗治。 - おかやまレキタビ https://rekitabi.jp/story/story-400
  4. 「備中高松城の戦い(1582年)」秀吉が水攻めで毛利軍の防衛ラインを破壊! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/410
  5. 高松城水攻め | 【公式】岡山市の観光情報サイト OKAYAMA KANKO .net https://okayama-kanko.net/sightseeing/info_special/special_10/
  6. 【読者投稿欄】「本能寺の変」は誰が真犯人だと思いますか - 攻城団 https://kojodan.jp/enq/ReadersColumn/18
  7. 秀吉の中国大返しは偶然ではない…驚異の段取り力で信長が討たれるストーリーを想定し情報網を張っていた説 「確度の高い情報収集力」は令和の世でこそ必要 - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/83065?page=1
  8. 秀吉の中国大返し、一考察 https://kdskenkyu.saloon.jp/pdf/ts-oogaeshi2012.pdf
  9. 本能寺の変には黒幕がいた? 秀吉の野望編 - Kyoto Love. Kyoto 伝えたい京都 https://kyotolove.kyoto/I0000296/
  10. 本能寺の変、羽柴秀吉と黒田官兵衛の関与はあったのか? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2037
  11. 竹中半兵衛と黒田官兵衛―伝説の軍師「羽柴の二兵衛」とは | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1753
  12. 秀吉の中国大返し、一考察 - 神戸・兵庫の郷土史Web研究館 https://kdskenkyu.saloon.jp/tale38oog.htm
  13. 安国寺恵瓊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9B%BD%E5%AF%BA%E6%81%B5%E7%93%8A
  14. 第48話「安国寺恵瓊」 - RKB毎日放送 https://rkb.jp/article/15068/
  15. 秀吉を魅了した天才外交官…安国寺恵瓊が辿った栄光と転落の生涯 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/237
  16. 清水宗治- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AE%97%E6%B2%BB
  17. 寄稿 『安国寺恵瓊と靹幕府』 文・斎藤秀夫 - 米沢日報デジタル https://www.yonezawa-np.jp/html/feature/2018/history27-ankokuji/ankokujiekei.html
  18. ja.wikipedia.org https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E8%BF%94%E3%81%97#:~:text=%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%81%B4%E3%82%82%E3%80%81%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AE%97%E6%B2%BB,%E6%92%A4%E9%80%80%E3%81%97%E3%81%9F%E7%BF%8C%E6%97%A5%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
  19. 7月2日。秀吉が300億円を投じて中国大返しを成功させた。 - 大河ドラマ税理士 山本やすぞうが https://www.kochikuro.com/blog/1385
  20. 「本能寺の変」後、豊臣秀吉が驚異的なスピードで行軍したという“中国大返し”ができた理由 https://mag.japaaan.com/archives/119614
  21. 黒田官兵衛-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44327/
  22. 備中高松城の水攻め古戦場:岡山県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/bichutakamatu/
  23. 中国大返し http://www.eva.hi-ho.ne.jp/t-kuramoti/rekisi_ogaesi.html
  24. 山崎の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/10365/
  25. History2 歴史上最大の下克上「本能寺の変」とは - 亀岡市公式ホームページ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/1267.html
  26. 戦国時代の一大スペクタクル「中国大返し」の真相とは?光秀と秀吉の共通点も見えてきた https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/73480/
  27. 中国大返し - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E8%BF%94%E3%81%97
  28. 山崎の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  29. 本能寺の変後の織田重臣たちと明智光秀の動き #どうする家康 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Lc9ZsKQGAJI
  30. 明智光秀が直面した「本能寺の変」後の誤算 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20871
  31. 中途入社で異例の大出世を果たした光秀の誤算|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-033.html
  32. 明智光秀の敗死にあった最大の誤算。光秀の誘いを断った2人の戦国大名【後編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/135222
  33. 明智光秀の『最大の誤算]は本能寺の変後、織田信長父子の遺体を発見できなかったこと⁉ https://www.rekishijin.com/37210
  34. 豊臣秀吉と明智光秀のタイムラインに柴田勝家が乱入!?秀吉がナンバーワンになれたわけ【本能寺の変から山崎の戦い、そして清州会議へ】 | from AERAdot. | ダイヤモンド・オンライン https://diamond.jp/articles/-/340935