最終更新日 2025-10-30

豊臣秀吉
 ~猿も老いれば月掴めず老い譚~

豊臣秀吉の「猿も老いれば月掴めず」は、史実ではないが、仏教寓話「猿猴捉月」を背景に、彼の晩年の野望と挫折を象徴する物語として語り継がれる。

豊臣秀吉の老い譚「猿も老いれば月を掴めず」に関する徹底的考察

序章:落日の巨星が見た月

慶長三年(1598年)夏、京都伏見城。かつて日輪の子とまで称され、天下をその掌中に収めた巨星、豊臣秀吉は、死の淵を静かに彷徨っていた。彼の肉体は老いと病に蝕まれ、かつての面影はない。かつては意のままに動かせたはずの諸大名も、今は彼の病床を囲みながら、その視線の先にある次代の権力を見据えている。

秀吉の脳裏には、目まぐるしい人生の光景が明滅していたであろう。尾張の貧しい農家に生まれ、主君織田信長の草履取りから身を起こした日。機知と行動力だけを武器に戦場を駆け巡り、信長の天下布武を支えた日々。本能寺に主君が倒れた後、驚異的な「中国大返し」で好機を掴み、瞬く間に天下人へと駆け上がった栄光。黄金の茶室、聚楽第への後陽成天皇の行幸、北野大茶湯。その権勢は、まさに昇り詰めた太陽の如く、日本の隅々までを照らし出した。

しかし、病床から見える夜空の月は、静謐で、あまりにも遠い。その光は、彼の栄華を映し出すと同時に、手の届かない永遠性を冷ややかに示している。大陸を征服するという壮大な夢は、朝鮮の地で泥沼化し、多くの将兵の血を流すだけの結果に終わろうとしていた 1 。後継者と定めた甥・秀次とその一族を惨殺し、ようやく手に入れた実子・秀頼はまだ幼く、彼の死後、この乱世を生き抜ける保証はどこにもない 3 。彼は死の床にあっても、諸大名から秀頼への忠誠を誓う起請文を繰り返し取らせることで、かろうじて未来への綱を繋ぎ止めようと足掻いていた 4

栄光と権力の頂点に立ちながら、彼が本当に欲した「永続性」という月は、掴もうとすればするほど、その指の間からすり抜けていく。過去の成功も、築き上げた富も、老いと死の前には無力であった。この絶対的な無力感と、生涯を懸けて追い求めた野望の挫折が、彼の心の中で渦巻いていた。

その時、庭の池に映る月か、あるいは遥か天空に浮かぶ月に視線を向けたまま、秀吉の口から、万感の思いを込めた嘆きの言葉が漏れたと伝えられる。「猿も老いれば、月は掴めずか…」。

この言葉は、豊臣秀吉の晩年を象徴する逸話として、後世に広く語り継がれてきた。しかし、このあまりにも詩的で、自己の本質を突いた言葉は、果たして史実なのであろうか。それとも、後世の人々が彼の生涯を総括するために生み出した、巧みな創作なのであろうか。本報告書は、この「猿も老いれば月を掴めず」という逸話に焦点を絞り、その起源、形成過程、そして歴史的意味を、あらゆる角度から徹底的に調査・分析するものである。

第一部:史実の探求 — 記録は語るか

第一章:一次史料の沈黙

ある歴史的逸話の信憑性を検証する上で、最も重要な基準となるのは、その出来事と同時代に書かれた一次史料に記録が存在するか否かである。豊臣秀吉の晩年に関しては、彼の側近や諸大名による日記、書状、公的記録など、比較的多くの資料が現存している。

これらの史料からは、晩年の秀吉の姿が断片的ながら浮かび上がってくる。例えば、健康への強い執着から、消化の良い「割粥」を好み、常に十人ほどの医者を当番制で側に置いていたこと 5 。一度は後継者と定めた甥の秀次とその妻子三十数名を無慈悲に処刑し、その狂気とも言える猜疑心の強さを見せたこと 3 。そして何よりも、幼い秀頼の将来を案じ、「かへすがへす秀頼事頼み申候」と繰り返し遺言するなど、死の直前まで後継者問題に心を砕いていたこと 4 などが記録されている。

これらの記録は、秀吉が老いによる肉体的な衰えと、権力の維持、そして豊臣家の将来に対する深刻な不安という、精神的な苦悩の中にあったことを明確に示している。しかし、これらの信頼性の高い一次史料のどこを探しても、「猿も老いれば月を掴めず」という象徴的な発言、あるいはそれに類する嘆きを記したものは、一切見出すことができない。

この「沈黙」が意味するところは大きい。もし秀吉が、側近たちの前でこのような印象的な言葉を口にしていたならば、誰かしらがそれを記録に留めていた可能性は高い。特に、人物の言行録や逸話を後世に伝えようとする文化があった当時において、天下人の最期を飾るにふさわしいこの言葉が見過ごされたとは考えにくい。この一次史料における完全な不在は、この逸話が秀吉の生前に起きた事実ではなく、彼の死後に創作されたものである可能性を極めて強く示唆する状況証拠となる。

歴史上の人物の「名言」とされるものの多くは、実は後世の脚色や創作であることが少なくない。特に、その人物の生涯や本質を詩的・哲学的に要約するような言葉は、その人物の死後、歴史家や物語作者がその生涯を振り返る過程で生み出される傾向がある。具体的な指示や政治的なやり取りといった「事実」は記録されやすいが、個人の内面から発せられる文学的な嘆きは、意図的に書き留められない限り、歴史の網の目からこぼれ落ちてしまう。この「猿も老いれば月を掴めず」という、あまりにも秀吉の生涯を的確に表現した「出来すぎた」言葉は、史実の発言そのものというより、後世の人々が「天下人・秀吉ならば、最期にこう嘆いたに違いない」と考えた末に生み出した「物語的真実」の産物であると考えるのが、歴史学的アプローチとしては最も自然な解釈と言えよう。

第二章:もう一つの最期の言葉 — 辞世の句との比較

秀吉の最期の言葉として、史実である可能性が極めて高いものが、別に存在する。それは、彼の辞世の句として広く知られる和歌である。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな

浪速のことも 夢のまた夢

この和歌は、『甫庵太閤記』をはじめとする江戸時代の編纂物だけでなく、秀吉自筆とされるものが大阪府の法人に現存し、国の重要文化財にも指定されている 4 。これは、秀吉が自身の死を悟った際に詠んだ、公式な「最期の言葉」と見なすことができる。

この辞世の句と、「猿も老いれば月を掴めず」という逸話を比較分析することは、後者の本質を理解する上で極めて有益である。

表1:豊臣秀吉の「最期の言葉」比較分析

項目

辞世の句「露と落ち…」

逸話「猿も老いれば…」

出典

『甫庵太閤記』など、文化財としても現存 6

不明(江戸時代以降の創作と推定)

思想的背景

仏教的無常観、諦観 9

仏教寓話「猿猴捉月」、個人の無念・自嘲 11

表現の主体

天下人としての普遍的な感慨

「猿」と呼ばれた男の個人的な述懐

象徴するもの

人生と栄華の儚さ(露、夢)

達成できなかった野望(月)

歴史的信憑性

高い(史実とされる)

極めて低い(創作)

この表が示すように、両者はその性質において対極的である。辞世の句は、仏教的な無常観に貫かれている。自身の人生を、朝日に消える「露」や、覚めれば消え去る「夢」にたとえ、あれほど栄華を極めた大坂(浪速)での日々さえも、すべては儚い幻であったと静かに受け入れている 6 。これは、死にゆく武将が詠む辞世の句の様式に則った、普遍的で達観した境地を示している。

一方、「猿も老いれば月を掴めず」という言葉には、諦観よりも、むしろ「掴もうとした」という強烈な意志と、それが叶わなかったことへの「無念」や「自嘲」が色濃く滲み出ている。そこには、仏教的な普遍性よりも、豊臣秀吉という一個人の、具体的な野心と挫折の物語が色濃く投影されている。

この対比から、一つの興味深い解釈が導き出される。史実である辞世の句が、社会や後世に向けて残された「天下人・豊臣秀吉」としての公式な最期の言葉、すなわち「公の顔」であるとすれば、創作された逸話は、その仮面の下にある「人間・藤吉郎」としての個人的な本音、すなわち「私の顔」を代弁するために生み出されたのではないか。

人々は、公式な記録や体裁を整えた言葉だけでは満足しない。その人物の偽らざる「本心」を知りたいと渇望する。この逸話は、辞世の句が描ききれなかった秀吉の生々しい執着と、天下人でありながらも最後まで満たされなかった渇望を補完し、彼の人物像に、より人間的な深みと悲劇性を与える役割を果たしている。したがって、史実である辞世の句と、創作である逸話は、互いに矛盾するのではなく、後世の人々の心の中で補完し合い、一体となって「豊臣秀吉の最期」という重層的なイメージを形成しているのである。

第二部:伝説の源流 — 「猿猴捉月」の寓話

秀吉の逸話が史実でないとすれば、それはどこから来たのか。その直接的な源流は、古代インドにまで遡る仏教の寓話の中に見出すことができる。

第一章:仏典に記された愚かな猿

「猿猴捉月(えんこうそくげつ)」、あるいは「猿猴が月を取る」として知られる言葉がある。これは、仏教の戒律をまとめた経典の一つである『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』に記された故事に由来するものである 11

その物語は、次のような内容である。ある時、森に住む五百匹の猿の群れが、一本の大きな木の下にある井戸を通りかかった。猿の王が井戸を覗き込むと、水面には煌々と輝く月が映っていた。これを見た王は、月が井戸に落ちて死んでしまったと勘違いし、仲間の猿たちにこう告げた。「大変だ、月が井戸に落ちてしまった。このままでは世界が永遠の闇に包まれてしまう。我々で力を合わせ、月を助け出すのだ」と 14

そこで猿たちは、王を先頭に、木の枝から互いの尾を掴んで長く連なり、井戸の水面に映る月影に手を伸ばした。しかし、猿たちの重みに耐えきれず、枝は無残にも折れてしまい、五百匹の猿は皆、井戸に落ちて溺れ死んでしまった 11

この寓話が示す教訓は二つある。一つは、身の程をわきまえず、実現不可能な大望を抱くことの愚かさであり、その結果として破滅を招くことへの戒めである 11 。もう一つは、より仏教哲学的な意味合いで、水面に映る月影という実体のない幻(仏教で言うところの「空」)を、実体のある本物の月と勘違いして追い求めることの愚かさを説いている 15

この「猿猴捉月」の寓話の構造、すなわち「猿が、手の届かない目標である月を、虚像とは知らずに掴もうとして失敗し、破滅する」という筋立ては、豊臣秀吉の「猿も老いれば月を掴めず」という逸話と完全に一致している。これは偶然の一致ではなく、秀吉の逸話が、この仏教説話を直接的な下敷きとして創作されたことを明白に示している。

第二章:水墨画に描かれた猿 — 桃山文化との共鳴

では、この仏教説話は、秀吉が生きた安土桃山時代において、どの程度知られていたのだろうか。その答えは、当時の美術作品の中に明確に見出すことができる。

「猿猴捉月」は、特に禅宗において好まれた画題であった。そして、この時代を代表する巨匠絵師であり、秀吉とほぼ同時代を生きた長谷川等伯(1539-1610)が、このテーマで複数の傑作を残している 17 。中でも最も有名なのが、京都の南禅寺の塔頭(たっちゅう)である金地院(こんちいん)の襖絵『紙本墨画猿猴捉月図』である 17 。この重要文化財に指定された水墨画には、水面に映る月影に手を伸ばす、毛並みまで柔らかに描かれた猿の姿が見事に表現されている。

長谷川等伯は、豊臣家やその周辺の有力大名とも深い関わりを持った当代随一の絵師であった。彼が、金地院という重要な寺院の襖絵という形でこの画題を取り上げている事実は、「猿猴捉月」のモチーフが、当時の武士や知識人階級にとって決して無名ではなく、むしろ重要な哲学的・芸術的テーマとして認識され、享受されていたことの証左である。

この文化的背景は、秀吉の逸話の創作者像を推定する上で重要な手がかりを与える。この逸話は、単なる民衆の口承文芸として自然発生したものではない可能性が高い。むしろ、漢訳仏典である『摩訶僧祇律』の内容や、禅画の画題として描かれるその寓意を理解している、比較的教養の高い階層の人物によって創作されたと考えるべきであろう。

大衆に広く浸透していた秀吉の「猿」というイメージと、知的階層に受容されていた高尚な「猿猴捉月」の寓話を結びつけるという行為は、両方の文化領域に精通していなければ不可能な、高度な知的作業である。江戸時代には、『常山紀談』や『武将感状記』のように、戦国武将の逸話を集めて後世への教訓を引き出すことを目的とした書物が数多く出版された 21 。こうした書物の編纂に携わった儒学者、僧侶、あるいはそれを読んだ武士階級の知識人たちこそ、この逸話を生み出し、その深い意味を享受するのに最もふさわしい層であった。したがって、この逸話の起源は、江戸時代の教養人による知的遊戯、あるいは豊臣秀吉という人物の生涯に対する、仏教哲学に基づいた批評精神の中に求められるのである。

第三部:物語の誕生 — なぜ秀吉だったのか

「猿猴捉月」の寓話が、なぜ数多いる戦国武将の中から、特に豊臣秀吉と結びつけられたのか。その理由は、彼の特異な出自と呼称、そして彼の晩年が、奇しくもこの寓話と完璧に重なり合っていたからに他ならない。

第一章:「猿」と呼ばれた男 — 呼称の真実と伝説化

豊臣秀吉のあだ名として、最も有名なのが「猿」である。しかし、この呼称が同時代にどれほど一般的に使われていたかは、慎重な検討を要する。

信頼性の高い一次史料として、織田信長が秀吉の正室・ねねに宛てた手紙が現存している。その中で信長は、秀吉の浮気をなじるねねを慰めつつ、夫のことを「あの禿げ鼠(はげねずみ)」と呼んでおり、これが信長による秀吉の呼称を伝える確実な記録となっている 23 。また、秀吉に謁見した朝鮮の使節は、その容貌を「猿にそっくり」あるいは「目は鼠のごとし」と本国に報告しており、彼の風貌が猿や鼠を彷彿とさせるものであったことは事実のようである 24

一方で、信長が日常的に秀吉を「猿」と呼んでいたことを直接示す一次史料は、実は乏しい 25 。秀吉の幼名を「猿」であったとする説も、江戸時代に書かれた伝記小説『太閤素生記』の影響が大きいとされ、史実とは断定できない 26 。むしろ、「猿」という呼称は、江戸時代以降に彼の伝記や物語が広く読まれる中で、彼のキャラクターを象徴するアイコンとして強調され、定着していったと考えるべきであろう。特に、吉川英治の『新書太閤記』や司馬遼太郎の『新史太閤記』といった近代の国民的歴史小説が、このイメージを決定的なものにした 27

この「猿」という呼称は、時代と共にその意味合いを巧みに変化させてきた。当初は、彼の異様な容貌に対する蔑称、あるいは身分の低さを示す言葉であったかもしれない。しかし、物語の中で彼は、信長の草履を懐で温めるような機転と忠誠心を持つ、賢く、どこか愛嬌のある「猿」として描かれるようになる 31 。そして最終的に、「猿も老いれば月を掴めず」という逸話が登場することによって、この呼称は新たな段階へと昇華される。仏教説話の「愚かな猿」と重ね合わせられることで、彼の生涯そのものが壮大な「猿猴捉月」であったと解釈され、「猿」は、大いなる野望の果てに挫折する悲劇的な英雄の象徴となった。この逸話は、「猿」という呼称に哲学的・悲劇的な深みを与え、豊臣秀吉の物語を完成させる、最後の重要なピースとなったのである。

第二章:江戸時代に創られた「太閤」像

平和が訪れた江戸時代において、戦国時代の英雄たちの物語は、講談や書物を通じて大衆的な人気を博した。その中でも豊臣秀吉は、最下層から身を起こして天下人となった、まさに「立身出世物語」の主人公として、庶民から絶大な支持を得た。

この需要に応える形で、『太閤記』と総称される秀吉の一代記や、『名将言行録』『常山紀談』『武将感状記』といった武将たちの逸話を集めた書物が次々と出版された 21 。今日我々がよく知る、鷹狩りの帰りに立ち寄った寺で、後の石田三成となる少年から三度にわたって温度の違う茶を出される「三献の茶」の逸話 34 や、雪の日に信長の草履を懐で温めた話 31 などは、その多くがこれらの江戸時代の書物の中で創作されたものと考えられている。

しかし、徳川幕府の治世下で豊臣秀吉の物語を語ることには、微妙な政治性が伴った。彼の成功物語は人々の夢を刺激する安全な娯楽であったが、同時に、彼は徳川家によって滅ぼされた「敗者」の祖でもある。そのため、秀吉を無条件に礼賛することは、現体制への批判と受け取られかねない危険性を孕んでいた。

したがって、秀吉の物語は、「偉大な英雄であったが、その野心には限界があり、最後は失敗した」という枠組みで語られるのが最も安全かつ効果的であった。彼の晩年の失政、特に無謀な朝鮮出兵の失敗 2 や、秀次一族の粛清 3 といった負の側面は、彼の限界を示すものとして、また権力者の奢りがもたらす悲劇の教訓として語られやすかった。

「猿も老いれば月を掴めず」という逸話は、まさにこの文脈の中で生まれた、極めて洗練された物語装置であると言える。この言葉は、秀吉の野望そのものが、仏教的な観点から見れば水面に映る月影を追うような「愚か」なものであったと示唆する。これにより、彼の失敗は個人の能力の限界だけでなく、ある種の宿命であったかのように描き出される。これは結果として、豊臣の治世が永続せず、徳川の世が到来したことの歴史的必然性を補強し、現体制の安定性を間接的に肯定する機能さえ果たしていた可能性がある。この逸話は単なる面白い話ではなく、江戸という時代の政治的・思想的要請の中で生まれた、高度な批評性を持つ物語なのである。

第三章:掴めなかった「月」の正体

この逸話が、史実ではないにもかかわらず、なぜこれほどまでに秀吉の晩年を的確に表現していると広く受け入れられているのか。その最大の理由は、「月」という象徴が、彼が晩年に追い求めながらも、ついに手にすることのできなかった複数の目標を見事に一つのイメージに集約しているからである。

秀吉が掴めなかった「月」とは、具体的に何だったのか。それは、少なくとも三つ挙げることができる。

第一の月は、「大陸支配の夢」である。天下統一を成し遂げた秀吉は、その野心を国内に留めず、明の征服という壮大な目標を掲げた。しかし、その足掛かりとして始めた朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、現地の激しい抵抗と明の援軍によって泥沼化し、彼の存命中には何一つとして具体的な成果を上げることができなかった 1 。これは、彼の生涯における最大かつ最も明確な失敗であった。

第二の月は、「盤石な後継体制」である。晩年にようやく授かった実子・秀頼の将来は、秀吉にとって最大の懸案事項であった。彼は五大老・五奉行という制度を設け、有力大名たちに幾度となく秀頼への忠誠を誓わせたが、その不安が拭えることはなかった 4 。そして彼の死後、その危惧は現実のものとなり、豊臣家は関ヶ原の戦いを経て、大坂の陣で徳川家康によって滅ぼされる。彼が築き上げた権力と富を、血筋によって永続させるという望みは、水面の月のように儚く消えた。

第三の月は、「彼自身の生命と健康」である。天下人としてあらゆるものを手に入れた秀吉であったが、老いと病という人間としての宿命には抗えなかった。多くの医者を侍らせ、健康に執着したものの 5 、その肉体は衰弱の一途をたどり、天下統一後の栄華を長く享受することは許されなかった。永遠の若さや生命という、誰もが願う究極の月もまた、彼の手の届かない場所にあった。

このように、「月」は、秀吉が晩年に抱いた具体的な複数の野望と挫折(朝鮮出兵、後継者問題、老い)を象徴する、完璧なメタファーとなっている。史実ではないこの言葉が、秀吉の人生の悲劇的本質を、これほどまでに鋭く、そして詩的に描き出したからこそ、人々の心に深く響き、語り継がれてきたのである。

結論:史実を超えた真実

本報告書における調査と分析の結果、豊臣秀吉の晩年の逸話「猿も老いれば月を掴めず」について、以下の結論を導き出すことができる。

第一に、この逸話は同時代の一次史料には一切見られず、秀吉の死後に創作された物語である。史実として確認される彼の最期の言葉は、辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」である。

第二に、この逸話の直接的な起源は、仏教経典『摩訶僧祇律』に記された寓話「猿猴捉月」にある。このモチーフは、長谷川等伯の作品に見られるように、秀吉が生きた桃山時代の文化人・知識人階級には馴染み深いものであった。

第三に、この寓話が秀吉と結びつけられたのは、江戸時代以降に定着した彼の「猿」という象徴的なイメージと、大陸支配の夢の頓挫、後継者問題、そして老いという、彼の晩年における具体的な挫折が、「猿猴捉月」の物語構造と完璧に合致したからである。それはまた、徳川の治世下で秀吉の生涯を教訓として語るという、時代の要請にも応えるものであった。

結論として、この逸話は歴史的事実(ファクト)ではない。しかし、それは単なる偽史や作り話として片付けられるべきものではない。農民の子から天下人へと駆け上がった稀代の英雄が、その生涯の最後に直面した、人間であるがゆえの限界。彼が抱いた巨大な野心と、その達成の先にある虚無。栄光と悲哀という、彼の人生の両極を一つの言葉のうちに凝縮して描き出した、極めて優れた「物語的真実(トゥルース)」として、非常に高い価値を持つ。

記録に残された辞世の句が、天下人としての達観した「公」の最期を伝える一方で、この逸話は、人間・藤吉郎の執着と無念に満ちた「私」の最期を我々に想像させる。史実の探求は、時に、史実を超えた物語がなぜ生まれ、なぜこれほど力強く語り継がれるのかを解き明かすことにも繋がる。この逸話は、記録には残らない人々の思いが、歴史上の人物像をいかに豊かに、そして深く形作っていくかを示す、好個の事例と言えるだろう。

引用文献

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  3. 晩年の豊臣秀吉の狂気がよくわかる…一度は跡継ぎと認めた甥の秀次とその家族に対する酷すぎる仕打ち 秀次の妻子約30名を一列に並べ、その首を次々とはねる - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/83415?page=1
  4. 露と落ち露と消えにしわが身かななにはのことも夢のまた夢 - おいどんブログ https://oidon5.hatenablog.com/entry/2019/08/04/213132
  5. 戦国武将と食~豊臣秀吉/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90452/
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  12. 「猿猴捉月(えんこうそくげつ)」という四字熟語の出典は「摩訶僧祇律」の寓言らしいが、所蔵しているか?... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000226318&page=ref_view
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  18. 無理しないで… -教訓画題 猿猴捉月図 - かとうゆずか マンガblog https://yuzu-art-history.com/archives/1232
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  31. 豊臣秀吉の名言・逸話30選 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/391
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  35. 石田三成|戦国を攻略せよ〜豊臣秀吉・秀長兄弟ゆかりの地 滋賀県長浜市 https://www.nagahama-sengoku.jp/story/mitsunari/
  36. 豊臣秀吉〜一世一代で成り上がった日本一の出世人〜 | GOOD LUCK TRIP https://www.gltjp.com/ja/directory/item/13096/