最終更新日 2025-10-19

豊臣秀吉
 ~聚楽第完成時金箔障子を自ら描く~

豊臣秀吉が聚楽第の金箔障子に自ら絵を描いた逸話は、史実ではないが、彼の型破りな性格と絶対的な権力を示す物語として、その栄華と悲劇的な運命を象徴している。

天下人の一筆――豊臣秀吉、聚楽第金箔障子に描いた夢の深層分析

序章:語り継がれる一瞬

天正15年(1587年)、京の都に未曾有の宮殿がその威容を現した。聚楽第。天下人・豊臣秀吉が築いた、栄華の象徴である。その完成を祝うある日、絢爛豪華な一室で、歴史の舞台裏を語る一つの逸話が生まれたとされる。当代随一の絵師、狩野永徳率いる狩野派が心血を注いで仕上げた金箔の障壁画を前に、主君たる秀吉が、こともあろうに自ら筆を執り、一気に絵を描き上げた、と。

この逸話は、秀吉の「黄金好き」を象徴するエピソードとして、また、型破りな天下人の気質を示す物語として、長らく語り継がれてきた。しかし、この一瞬の出来事は、単なる気まぐれや自己顕示欲の産物だったのだろうか。それは史実なのか、それとも後世に創られた伝説なのか。

本報告書は、この「豊臣秀吉、聚楽第金箔障子に自ら描く」という逸話の核心に迫ることを目的とする。単に逸話の真偽を問うに留まらず、それが生まれたであろう「舞台」の壮麗さと政治的意図、「登場人物」たちの芸術観と力学、そして逸話そのものが持つ歴史的意味と深層心理を、現存する史料の断片を繋ぎ合わせ、徹底的に分析・再構築する試みである。

第一部では、逸話の舞台となった聚楽第が、単なる邸宅ではなく、秀吉の権威を可視化するために計算され尽くした巨大な装置であったことを明らかにする。第二部では、当代最高のプロフェッショナルたる絵師・狩野永徳と、そのパトロンである秀吉の芸術観を解明し、両者の関係性を掘り下げる。第三部では、これらの分析を基に、史料的制約の中で最大限の歴史的想像力を駆使し、逸話の瞬間を時系列で再現する。そして第四部では、逸話の史実性を冷静に検証するとともに、たとえ創作であったとしても、なぜこの物語が生まれ、語り継がれてきたのか、その歴史的・文化的意味を考察する。

これは、天下人が金箔の上に残したとされる一筆を巡る、知の探求である。

第一部:舞台の完成――聚楽第、天下一の邸宅

逸話の真実に迫るためには、まずその舞台となった聚楽第が、いかなる意図をもって、いかにして築かれたのかを理解せねばならない。それは単なる豪華な建物ではなく、秀吉の新たな国家構想を体現する、巨大な象徴的空間であった。

第一章:権威の殿堂

聚楽第の建設は、秀吉のキャリアにおける重大な転換点と密接に結びついている。天正13年(1585年)に関白に任官した秀吉は、その翌年から聚楽第の造営に着手した 1 。これは、彼がもはや単なる武力による支配者ではなく、朝廷の権威を背景に持つ公儀の最高責任者として日本を統治するという、明確な政治的意思表示であった。大坂城が秀吉個人の武威と富を象徴する「私」の城であるならば、聚楽第は天皇を庇護し、天下の政務を執る「公」の政庁としての役割を担っていた 2

その建設地として選ばれたのは、平安京の大内裏跡地、すなわち「内野」と呼ばれる場所であった 1 。かつて日本の政治と文化の中心であった場所に、自らの政庁を構える。この選択自体が、秀吉が日本の伝統的権威の正統な後継者であることを天下に宣言する、極めて強力な政治的メッセージであったことは論を俟たない。

その威容は、訪れる者を圧倒するに十分であった。周囲は堅固な堀と、乱石積みの高い石垣で囲まれ、城郭としての防御機能も備えていた 4 。そして、その屋根という屋根は、陽光を浴びて黄金に輝く金箔瓦で葺かれていたという 5 。この壮麗な外観は、当時の日本を訪れていたイエズス会宣教師ルイス・フロイスをして、「疑いもなく壮大かつ華麗で、見事に構築されており、木造建築としてはこれ以上望めないように思われた」と『日本史』に記さしめるほどであった 8

「聚楽」という名称にも、秀吉の深い意図が込められている。「長生不老の楽しみを聚(あつ)める」という意味を持つこの言葉は 1 、戦乱の時代を終わらせ、恒久的な平和と繁栄の時代を築くのはこの自分であるという、秀吉の自己規定そのものであった。それは、民衆に向けられた強力なプロパガンダであり、自らの治世の正当性を謳い上げる高らかな宣言でもあった。

第二章:黄金の内部世界

聚楽第の真価は、その内部空間にこそあった。毛利輝元の家臣が残した『輝元公上洛日記』などの記録や、後世に描かれた『聚楽第図屏風』といった絵画史料から、内部には謁見のための広間、御座の間、茶室、そして趣向を凝らした庭園などが計画的に配置されていたことが窺える 9 。これらの空間は、単に生活や政務のためだけのものではない。訪れる大名や公家、さらには遠きインドからの使節といった賓客を、その絢爛さで圧倒し、豊臣政権の序列と権威を肌で感じさせるための、計算され尽くした舞台装置だったのである。

その装飾の豪華さは、フロイスの記録によれば想像を絶するものであった。彼は、聚楽第の台所を見学した際の驚きを記しており、そこでは調理のための道具類に至るまで、ことごとく金で覆われていたという 9 。この記述には宣教師特有の誇張が含まれている可能性を差し引いても、聚楽第の内部空間が、文字通り「黄金」をテーマに徹底的に演出されていたことを雄弁に物語っている。

そして、本稿の主題である逸話に登場する「金箔障子」の実態について、ここで明確にしておく必要がある。現代我々が「障子」と聞いて思い浮かべるのは、採光のための薄い和紙を張った明かり障子であろう。しかし、桃山時代の豪壮な建築における「障子」とは、多くの場合、部屋を仕切る「襖(ふすま)」や、壁面に貼り付けられた装飾画、すなわち「障壁画(しょうへきが)」を指す。聚楽第の金箔障子もまた、この障壁画であったと解釈するのが最も妥当である。金箔や金泥で下地をこしらえた「金地(きんじ)」の上に、極彩色の顔料で壮大な絵画が描かれたこれらの障壁画は、桃山美術の精華であった 10 。聚楽第の内部は、無数の障壁画によって、黄金と色彩が乱舞する、現実離れした異次元空間と化していたのである。

このように、聚楽第はその立地、名称、外観、そして内装の細部に至るまで、すべてが連動し、一つの壮大な物語を紡ぎ出していた。それは、秀吉が「日本の伝統的権威の後継者」であり、かつ「新たな時代の創造主」であることを宣言するための、統一されたコンセプトに基づく総合芸術であり、巨大なプロパガンダ装置であった。

しかし、ここに一つの大きな問いが生まれる。これほどまでに完璧に計算され、当代最高のプロフェッショナル集団によって寸分の隙もなく作り上げられた芸術空間に、なぜその主君である秀吉自らが、いわば「素人」として筆を入れるという行為が必要だったのか。この問いこそが、逸話の核心に迫る鍵となるのである。

第二部:描かれた者たち――狩野永徳と天下人の趣味

逸話の背景を深く理解するためには、そこに登場する二人の人物、すなわち当代最高のプロの絵師と、そのパトロンであるアマチュアの権力者の関係性を解き明かす必要がある。両者の間に存在した、芸術制作における特異な力学が、逸話の真相を読み解く上で不可欠な視点を提供する。

第一章:天下一の絵師、永徳

狩野永徳(1543-1590)は、室町時代から日本の画壇に絶対的な権威として君臨してきた絵師集団・狩野派の四代目を継ぐべき棟梁であった 12 。祖父であり、狩野派の様式を大成させた狩野元信から直々に英才教育を施された永徳は、織田信長、そして豊臣秀吉という、時代を象徴する二人の天下人に仕え、その才能を遺憾なく発揮した、まさに「天下一の絵師」であった 13

永徳の画風は、後世「大画様式(たいがようしき)」と称される。金箔をふんだんに用いた背景に、画面からはみ出さんばかりの巨木や、猛々しい獅子、勇壮な鷹などを、大胆な構図と力強い筆致で描き出すそのスタイルは、安土城や大坂城、そして聚楽第といった巨大建築の広大な空間を飾るにふさわしい、豪壮華麗なものであった 14 。それは、旧来の秩序が崩壊し、新たな実力者が世を制する時代の到来を告げる、力強い芸術であり、信長や秀吉といった天下人の気風と完全に共鳴するものであった。

聚楽第の内部を彩った無数の障壁画の制作は、永徳が狩野一門の総力を結集して総指揮を執った、国家的ともいえる大事業であった 11 。しかし、その栄華の結晶ともいえる作品群は、後に聚楽第そのものが徹底的に破却されたことにより、そのすべてが地上から姿を消した 12 。我々は今、他の現存作品から、その失われた壮麗さを想像するしかない。

この大事業を成し遂げた永徳であったが、聚楽第完成のわずか3年後、天正18年(1590年)に東福寺法堂の天井画制作中に病に倒れ、48歳の若さで急逝する 12 。安土城以来、息つく間もなく続いた巨大建築の障壁画制作が彼の心身を蝕んだ結果であり、現代でいう過労死であったとも言われている 13 。彼はまさに、時代の要求にその身命を賭して応えた絵師であった。

第二章:秀吉の美意識

一方、パトロンである豊臣秀吉の美意識は、しばしば一面的な言葉で語られがちである。組立式で持ち運び可能であったと伝わる「黄金の茶室」に代表されるように、彼の趣味はただ派手で、絢爛豪華な「黄金好き」であったと 16 。聚楽第や大坂城に用いられた金箔瓦 5 、あるいは各地に伝わる莫大な埋蔵金伝説 19 も、そのイメージを強力に補強している。

しかし、秀吉の美意識をその一言で断じるのは早計に過ぎる。彼には、伝えられる「この黄金の輝きも茶の一服に勝るものかな」という言葉がある 21 。これは、彼が千利休によって大成された、静寂と質素の中に美を見出す「わび」の精神をも深く理解していたことを示唆している。彼の美意識は、万人の目を奪う祝祭的な「ハレ」の演出(黄金)と、自己の内面と向き合う内省的な「ケ」の美学(わび茶)を、状況に応じて自在に使い分ける、極めて高度な戦略性を持っていたのである。

秀吉にとって、茶の湯や絵画は、単なる個人的な趣味や慰めではなかった。それは、権力を維持し、強化するための極めて有効な「政治的道具」であった。全国の大名を茶会に招き、その席次によって厳格な序列を再確認させ、あるいは天下の名物と謳われる茶器を与えることで、絶対的な忠誠を誓わせる。文化は、彼の政権運営において、軍事力や経済力と並ぶ重要な柱だったのである 17

秀吉自身に絵画の才能があったことを示す直接的な記録は乏しい 22 。しかし、彼は狩野永徳率いる狩野派を重用する一方で、そのライバルであった長谷川等伯といった絵師にも重要な制作を依頼するなど 24 、当代一流の芸術に対して深い理解と関心を持ち、パトロンとして極めて積極的に関与していたことは間違いない。

この権力者と芸術家の関係性は、単なる「発注者」と「制作者」という言葉では捉えきれない。永徳の芸術は、秀吉の権力を可視化し、その正当性を人々の心に刻み込むために不可欠なものであった。両者は、新しい時代のイメージを共に創り上げる、いわば「共犯関係」にあったと言える。しかし、忘れてはならないのは、その主導権は絶対的にパトロンである秀吉が握っていたという事実である。どのような芸術を「良し」とし、どのような美意識を時代の「正統」とするかを最終的に決定するのは、常に秀吉であった。

この力学を念頭に置くとき、秀吉が永徳の完成させた作品に自ら「手を入れる」という逸話は、単なる気まぐれではなく、この権力関係の究極的な発露として解釈できる可能性が浮かび上がってくる。それは、当代最高のプロフェッショナルの仕事に対し、最終的な「魂」を吹き込み、それを完成させるのは、他の誰でもない自分自身であるという、創造主としての強烈な自負の表れではなかったか。彼は、芸術の単なる享受者や庇護者であることに飽き足らず、自らが芸術そのものを定義する絶対的な存在であろうとしたのかもしれない。

第三部:逸話の再構築――その時、秀吉は何を想ったか

ここまでの分析に基づき、逸話が生まれたであろう瞬間を、歴史的想像力を駆使して時系列で再現する。これは史実の確定ではない。しかし、史料の断片から読み取れる状況証拠を組み合わせることで、ユーザーが求める「リアルタイムな情景」に、可能な限り迫る試みである。

第一章:【時系列再現】聚楽第、落成の瞬間

日時と状況:

天正15年(1587年)秋。聚楽第の主要な殿舎が完成し、内部の障壁画もほぼ仕上がった頃。翌年春に予定されている後陽成天皇の行幸という国家的な一大イベントを前に 26、城主である関白・豊臣秀吉が、障壁画制作の総責任者である狩野永徳を自ら伴い、その出来栄えを検分している。周囲には、石田三成や増田長盛といった腹心の吏僚たちが、息を殺して控えている。

情景描写:

一行が足を踏み入れた殿中には、まだ真新しい檜の香りと、漆や顔料の匂いが混じり合って漂っている。磨き上げられた板張りの廊下を進むと、次から次へと広大な空間が出現する。その壁という壁、襖という襖は、すべてが金地でまばゆい輝きを放ち、その黄金のキャンバスの上には、永徳率いる狩野一門が心血を注いだ花鳥風月、威厳に満ちた唐獅子、あるいは中国の故事に由来する山水人物などが、生命感豊かに躍動している。障子窓から差し込む光は金箔に乱反射し、部屋全体がまるで黄金の洞窟のようである。秀吉は満足げに頷きながら、ゆっくりと歩を進める。

想定される会話(一):

秀吉は、ある大広間で足を止め、天井を仰ぎ見る。

秀吉: 「永徳、見事なものよ。これならば帝(みかど)をお迎えするに、何の不足もない。安土の右府(織田信長)殿も、これを見ればさぞかし腰を抜かしたであろうな」

永徳: (深く平伏し、床に額をこすりつけんばかりに)「もったいのうございます。これもひとえに関白殿下の御威光のなせる業。我ら絵師一同はただ、その輝きを絵筆にて写し取ったにございますれば」

この想像上の会話には、聚楽第造営の最大の目的が天皇行幸の成功にあること 27 、そして秀吉がその生涯を通じて、常に亡き主君・信長の存在を強烈に意識していたであろうという心理的背景が反映されている。彼は、信長が夢見た壮大なビジョンを、自分が超えたのだと実感したかったに違いない。

第二章:【時系列再現】天下人の一筆

舞台設定:

一行は、数ある部屋の中でも特に格式の高い対面所、あるいは秀吉の私的な御座の間として設えられた一室へと至る。部屋全体は、他の部屋と同様、息をのむほどに豪華な障壁画で埋め尽くされている。しかし、その一角に、意図的に空白として残されたのか、あるいは構成上の都合か、まだ簡素な下絵が描かれただけか、あるいは全くの白紙ならぬ「金地」のままの襖が一枚、静かに佇んでいる。

秀吉の行動:

秀吉は、部屋全体の完璧な出来栄えに満足げに幾度も頷きながらも、その一枚の襖の前で、ふと足を止める。彼の視線は、何も描かれていない黄金の面に注がれる。しばしの沈黙。満足げであったはずの秀吉の表情から笑みが消え、一座に緊張が走る。

想定される会話(二):

秀吉: 「……永徳。すべてが良い。見事な出来栄えじゃ。だが、この一枚だけが、まだわしのものになっておらぬ」

側近(三成): 「はっ。すぐさま永徳に命じ、殿のお気に召す絵を、これに描かせまする」

秀吉: (その言葉を手で制し、再び口の端に mischievous な笑みを浮かべ)「いや、そうではない。それでは永徳のものじゃ。この一枚は、このわしが描く。筆と硯(すずり)を、ここへ持って参れ」

筆を執る瞬間:

「殿が、自ら?」――永徳を含む一座が、驚愕に目を見開く。天下人による、前代未聞の行動である。しかし、その命に否やを唱える者などいるはずもない。すぐさま上質の筆と硯、そして墨が用意される。側近が恭しく差し出した筆を手に取った秀吉は、しばし金地の襖を睨みつけるように見つめる。それは、尾張の貧しい農民から身を起こし、日の本一の権力者へと駆け上がった男が、自らの手で、自らの城を完成させるための、最後の儀式であった。

描かれたものとその意味:

秀吉が一体何を描いたのか、それを伝える信頼に足る史料は存在しない。しかし、彼の出自と権威の象徴から推測するならば、いくつかの可能性が考えられる。

  1. 瓢箪(ひょうたん): 美濃攻め以来、彼の馬印として知られるシンボル。自らの立身出世の原点であり、その奇跡的な成功物語そのものを、この栄華の頂点たる場所に刻み込む行為。
  2. 桐紋: 天皇から下賜された、彼の権威の源泉たる紋章 6 。この聚楽第が、朝廷の勅許を得た公的な政庁であることを、自らの手で最終的に証明する行為。
  3. 松: 常緑樹であり、長寿と永遠の繁栄を象徴する。まさしく「長生不老の楽しみを聚める」という聚楽第の名にふさわしい画題。

その筆致は、永徳のような洗練の極みに達したものではなかったであろう。あるいは武人らしい、力強くも荒々しい線であったかもしれない。あるいは、百姓上がりの無骨さを感じさせる、素朴なものであったかもしれない。しかし、その技術的な巧拙は問題ではなかった。その一筆こそが、この壮麗な芸術空間に、絶対的な「主」の印を刻みつけ、狩野永徳の作品を、真の意味で「豊臣秀吉の聚楽第」へと変貌させたのである。

この「一筆」という行為は、単なる自己満足や気まぐれとして片付けられるべきではない。それは多層的な意味を持つ、高度に計算されたパフォーマンスであった可能性を秘めている。第一に、これは明確な**【所有の宣言】 である。この空間は、金で雇った当代最高の絵師のものではなく、紛れもなく自分のものであると示す行為。第二に、 【創造への参与】 である。自分は文化の単なる消費者やパトロンではなく、自ら筆を執り、時代を創造する主体であると示す行為。そして第三に、 【神聖化の儀式】**である。天下人たる自らの「手」を直接加えることで、単なる豪華な建物を、絶対的な権威が宿る「天下人の宮殿」へと聖別する、儀式的な意味合いを持っていたのではないだろうか。

第四部:逸話の深層――なぜこの物語は生まれたか

再構築された逸話の情景は、いかにも秀吉らしい、劇的な瞬間を我々に提示する。しかし、歴史研究家としては、この物語の史実性について冷静な検証を行い、それが持つ歴史的・文化的意味を深く考察する責務がある。

第一章:史実性の検証

この逸話が、同時代に生きた人々の記録にどのように現れているか。その検証作業は、残念ながら否定的な結論へと我々を導く。

まず、天正16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸の様子を、秀吉の命により詳細に記録した公式記録、大村由己の『聚楽行幸記』には、この逸話に関する記述は一切見当たらない 7 。大村由己は、秀吉の偉大さを強調し、豊臣政権の正統性を訴えるスポークスマンとしての役割を担っていた人物である 27 。もし、秀吉が自ら障壁画を描くという、その文化的側面と型破りな魅力を示す絶好の美談が事実であったならば、彼がこれを書き漏らすとは到底考えられない。むしろ、最大限に粉飾して記録したはずである。

同様に、聚楽第を実際に訪れ、その壮麗さを賞賛したルイス・フロイスの『日本史』にも、この逸話は登場しない 7 。また、当時の政治・社会の動向を日々記録していた公家たちの日記、例えば吉田兼見の『兼見卿記』や山科言経の『言経卿記』などにも、この件に関する言及は見出せない 7 。これらの信頼性の高い一次史料がことごとく沈黙しているという事実は、この逸話が天正15年の落成時に実際に起こった出来事である可能性が、極めて低いことを示唆している。

では、この物語はどこから来たのか。その源流は、秀吉の死後、江戸時代に入ってから編纂された様々な逸話集にあると考えるのが自然である。小瀬甫庵らによって書かれ、大衆の人気を博した『太閤記』 29 や、諸大名の言行をまとめた『常山紀談』のような書物 32 、あるいは大名に仕え、その機嫌を取るために面白い話をした御伽衆(おとぎしゅう)によって語られた物語 33 が、口伝や書物を通じて広まっていく過程で、このような象徴的なエピソードが形成され、定着していった可能性が非常に高い。

第二章:物語が象徴するもの

この逸話は、歴史学的な意味での「史実」ではない可能性が高い。しかし、そうであったとしても、この物語の価値が失われるわけではない。なぜなら、この逸話は、史実であるか否かという次元を超えて、後世の人々が「太閤秀吉」という稀代の人物に抱いたイメージを結晶化させた、一つの「文化的真実」を内包しているからである。

この物語は、秀吉という人物を構成する複数の要素を、見事に一つのシーンに凝縮している。

第一に、常識の枠に収まらない**【型破りな発想】。

第二に、底知れぬ【黄金への欲望】とその具現化。

第三に、当代最高の芸術家さえも道具として使う【絶対的な権力】。

そして第四に、洗練された貴族文化とは対極にある、百姓から成り上がった男の【エネルギッシュな生命力】**。

これらすべての要素が、「金箔の障壁画に自ら絵を描く」という一つの行為の中に象徴的に表現されている。

この物語は、「秀吉ならば、さもありなん」と、時代を超えて誰もが納得するだけの「物語的真実」を備えているのである。人々は、複雑で多面的な秀吉の人物像を、この分かりやすく、鮮烈なイメージを通して理解し、記憶してきたと言えるだろう。

さらに、この逸話が語る輝かしい落成の瞬間は、その後の聚楽第が辿る悲劇的な運命と、鮮やかな光と影の対比をなす。秀吉は、自らの後継者として関白職を譲った甥・豊臣秀次に対し、後に謀反の疑いをかけ、高野山で切腹に追い込んだ。その怒りは収まらず、秀次の幼い子供たちや妻、側室ら三十数名を京の三条河原で公開処刑するという、常軌を逸した凶行に及ぶ 34 。そして、自らが心血を注いで築き上げたこの聚楽第を、完成からわずか8年で跡形もなく、徹底的に破壊し尽くしたのである 27 。栄華の頂点を飾ったはずの、あの金箔の障壁画も、この時にすべて灰燼に帰した。

このあまりにも残酷で、儚い結末があるからこそ、落成時の輝かしい一瞬を切り取ったこの逸話は、単なる成功譚に終わらない、深い哀愁と無常観を帯びて、より一層、人々の心に強く刻み込まれるのかもしれない。

この逸話の分析は、歴史学が追求する「事実」そのものと、人々が歴史をどのように「記憶」し、「物語」として受容し、語り継いでいくかの違いを浮き彫りにする。この逸話は、厳密な意味での歴史的事実ではないかもしれない。しかし、民衆の記憶の中に生き続ける「文化的真実」として、豊臣秀吉という人物を理解する上で、極めて重要な価値を持つのである。

結論:金箔に刻まれた自己像

「豊臣秀吉、聚楽第完成時金箔障子を自ら描く」という逸話は、その史料的根拠の乏しさから、高い確率で江戸時代以降に創られた物語であると結論付けられる。しかし、その物語は、いかなる歴史書よりも雄弁に、豊臣秀吉という人物の本質を我々に語りかけてくる。

秀吉が、狩野永徳という当代最高のプロフェッショナルが完成させた完璧な芸術空間に、あえて自らの「素人」の一筆を加えるという行為。このイメージは、彼が単なる武人や政治家であることを超え、当代の文化や美意識そのものを規定し、創造する絶対者(クリエイター)であろうとした、その究極の自己演出の姿を映し出している。彼は、永徳が作り上げた完璧な芸術作品に、自らの「不完全」で、しかしそれ故に強烈に「人間的」な一筆を加えることで、その空間を真に「自分のもの」として完成させようとした。その姿は、後世の人々の目に、まさしく天下人として映ったのである。

金箔の上に描かれたとされる一筆は、もはや単なる墨の痕跡ではない。それは、歴史という巨大な黄金のキャンバスに、尾張の農民の子が、自らの姿を永遠に刻みつけた、その奇跡的な生涯そのものの象徴なのである。

史実か伝説かを問う学術的探求は重要である。しかし、それ以上に、この逸話がなぜこれほどまでに我々の心を捉え、時代を超えて語り継がれてきたのかを理解することこそが、豊臣秀吉という、日本史上類を見ない巨人の実像に迫るための一つの確かな道筋と言えるだろう。

引用文献

  1. 都市史18 聚楽第と御土居 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi18.html
  2. 121】聚楽第跡出土金箔押瓦 関白の政庁という名前だけども天守もあった見た目は「城」 http://tokugawa-shiro.com/1107
  3. 第7号 - pauch.com http://www.pauch.com/kss/g007.html
  4. 深掘り! 聚楽第 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza333.pdf
  5. 遺物_No.019 - 京都府埋蔵文化財調査研究センター https://www.kyotofu-maibun.or.jp/gallery/ibutsu/gallery_file/g-n019.html
  6. 特集展示「再発見!秀吉の大坂城―金箔瓦と家紋瓦―」 - 大阪歴史博物館 https://www.osakamushis.jp/news/2023/saihakken_hideyoshi.html
  7. 聚楽第 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%9A%E6%A5%BD%E7%AC%AC
  8. 石田三成の実像943 ルイス・フロイスの「日本史」における聚楽第に関する記述・三成に対する見方 https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/201212article_28.html
  9. 聚楽第の記録と地名に残っている建物 http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/tatemono.htm
  10. 絵画|檜図屏風(狩野永徳)[東京国立博物館] | WANDER 国宝 https://wanderkokuho.com/201-00140/
  11. 【聚楽第障壁画とは?】ビジプリ美術用語辞典 https://visipri.com/art-dictionary/2449-Jurakudaisyouhekiga.php
  12. 狩野永徳 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%B0%B8%E5%BE%B3
  13. 【狩野永徳】乱世を生き抜いた絵師の人生とは? - イロハニアート https://irohani.art/study/8054/
  14. 伝 狩野永徳 | 作品を知る | 東京富士美術館(Tokyo Fuji Art Museum, FAM) https://www.fujibi.or.jp/collection/artwork-artist/a149/
  15. 永徳の檜図屏風は秀吉が描かせた?【2017年】 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/1725/
  16. 黄金の茶室 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E3%81%AE%E8%8C%B6%E5%AE%A4
  17. 秀吉の成金趣味 - アートと文藝のCafe https://campingcarboy.hatenablog.com/entry/2020/04/16/041456
  18. 【理文先生のお城がっこう】歴史編 第53回 秀吉の城5(黄金の茶室) - 城びと https://shirobito.jp/article/1642
  19. 徳川埋蔵金だけじゃない!戦国武将の埋蔵金伝説/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/18235/
  20. 日本最大の埋蔵金!?太閤秀吉の黄金 - 東スポnote https://note.tokyo-sports.co.jp/n/na2143f4fdc6d
  21. 「この黄金の輝きも茶の一服に勝るものかな」 | ALG https://alg.jp/blog/proverbs2020-10/
  22. 絵画 | 逸翁美術館 | 阪急文化財団 https://www.hankyu-bunka.or.jp/itsuo-museum/about/collection/pictures/
  23. 大切な写真が スマホPCに 眠っていませんか 写真による肖像画制作をご依頼下さい。 鮮明な色がご子孫の代まで褪せません。 https://www.shouzou.com/mag/mag11.html
  24. 狩野永徳 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/kano-eitoku/
  25. “成り上がり”の天才 長谷川等伯の本質 https://wedge.ismedia.jp/articles/-/794?page=2
  26. 令和4年度 逸品展示 御所参内・聚楽第行幸図屏風 - 上越市 https://www.city.joetsu.niigata.jp/site/museum/2022-1-kikakuten.html
  27. 学芸ノート 【第9回】 高岡御車山のルーツ!?『聚楽行幸記』 https://www.e-tmm.info/gakugei-9.htm
  28. 聚楽行幸記(じゅらくぎょうこうき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%81%9A%E6%A5%BD%E8%A1%8C%E5%B9%B8%E8%A8%98-78321
  29. 事件の背景について - 夢ナビ https://yumenavi.info/douga/2019/doc/201923112.pdf
  30. 最上義光歴史館/最上家をめぐる人々#6 【駒姫/こまひめ】 https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=103062
  31. 13カ月で誕生?大出世した男はスケールが違う!豊臣秀吉のぶっ飛び出生伝説 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/119350/
  32. 天下も狙えた! 秀吉も恐れた文武両道のオールマイティ武将・蒲生氏郷【知っているようで知らない戦国武将】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/37595
  33. 御伽衆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BC%BD%E8%A1%86
  34. 関 白 秀 次 失 脚 自 刃 事 件 と 木 食 応 其 上 人 - 奈良工業高等専門学校 https://www.nara-k.ac.jp/nnct-library/publication/pdf/h27kiyo7.pdf
  35. 豊臣秀次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
  36. 古城の歴史 聚楽第 https://takayama.tonosama.jp/html/juraku.html
  37. 京都 聚楽第 秀吉の栄光と斜陽の豪邸 | 久太郎の戦国城めぐり - FC2 http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-76.html