豊臣秀吉
~臨終家康に天下の事頼む策略譚~
豊臣秀吉の臨終の言葉「天下の事、頼む」が、家康への懇願か、秀頼を守るための政治的策略だったのかを考察。五大老・五奉行体制の真意と崩壊を描く。
太閤最後の賭け:秀吉の遺言「天下の事、頼む」は策略か、懇願か
序章:天下人の最期と「策略譚」の提起
日本の歴史における転換点の一つとして、慶長三年(1598年)の豊臣秀吉の死は決定的な重要性を持つ。その臨終に際し、徳川家康に対して発せられたとされる「天下の事、頼む」という言葉は、長らく、幼い我が子・秀頼の将来を案じる父親の悲痛な懇願として語られてきた。しかし、この一見単純な言葉の裏には、天下人・秀吉の生涯を締めくくるにふさわしい、深遠かつ緻密な政治的計算が隠されていたのではないか。本報告書は、この逸話を単なる感傷的な物語としてではなく、一個の「策略譚」—すなわち、死を目前にした政治家が放った最後にして最大の戦略的布石—として捉え、その多層的な意味を徹底的に分析・解明することを目的とする。
この分析の出発点となるのは、他ならぬ徳川幕府自身が編纂した公式史書『徳川実紀』の記述である。『徳川実紀』は、秀吉の遺言を「詐謀の一つ」であり、「奸智」の産物であると断じている 1 。歴史の勝者である徳川家の視点から、なぜ秀吉の最期の言葉が「策略」と見なされたのか。この問いこそが、表層的な物語の奥に潜む、計算され尽くした意図を探るための鍵となる。
本報告は、まず慶長三年八月の伏見城における情景を、一次史料を基に時系列で再構築することから始める。次に、問題の「天下の事、頼む」という言葉が持つ複数の解釈を、個人的な懇願から政治的な「呪縛」に至るまで多角的に検討する。さらに、言葉だけでなく、秀吉が遺した五大老・五奉行という統治システムそのものが、いかにして家康の力を抑制し、豊臣家の安泰を図るための制度的「遺言」であったかを論証する。当代の公家や僧侶の日記、イエズス会宣教師の報告書、そして後世の軍記物語といった多様な史料を比較検討することで、伝説と政治的バイアスに覆われた天下人最後の賭けの真相に迫る。
第一章:慶長三年八月、伏見城の情景 —「その時」の再構築
秀吉の最期の言葉を分析するにあたり、まずその言葉が発せられた「時」と「場所」の状況を正確に理解することが不可欠である。慶長三年八月、伏見城は、一人の人間の終焉の場であると同時に、次代の日本の運命を左右する政治的駆け引きの震源地であった。
1.1. 舞台:伏見城—終焉の地の政治的意味
秀吉晩年の政治的本拠地は、大坂城と並び伏見城であった。特に慶長元年(1596年)の大地震で一度倒壊した後、壮麗に再建された伏見城は、単なる居城ではなく、文字通り豊臣政権の中枢神経として機能していた 2 。秀吉は人生の最後の数年間をこの城で過ごし、政務を執り行った 4 。諸大名は伏見に屋敷を構えることを義務付けられ、政治の中心地に常時詰めることを要求されていた 6 。このため、秀吉の死が迫ったとき、徳川家康をはじめとする五大老、五奉行といった政権の主要人物たちは、物理的に極めて近い距離に存在していた。秀吉がこの場所を終焉の地に選んだこと自体が、彼の死が個人的な出来事ではなく、すべての有力大名を巻き込んだ高度に政治的な儀式であったことを物語っている。そして、彼の死後、五大老の筆頭である家康がこの伏見城に入り、政務を執ることが定められていた 2 。このことは、伏見城が権力の継承を象徴する舞台装置として、秀吉によって周到に準備されていたことを示唆している。
1.2. 容態の悪化:死に至る病の記録
慶長三年の春、秀吉は醍醐寺で盛大な花見を催すなど、なおも健在ぶりを誇示していたが、その体はすでに病魔に深く蝕まれていた 7 。夏に入ると、その容態は急速に悪化する。この時期の秀吉の健康状態については、醍醐寺座主・義演の日記『義演准后日記』などの一次史料に生々しい記録が残されている 8 。特に象徴的なのは、秀吉が京都に招来した信濃善光寺の阿弥陀如来像を、自身の病状悪化に伴い、八月になって急遽信濃へ送り返させた一件である 3 。これは、如来の祟りを恐れたとも、あるいは自らの死期を悟った上での措置とも解釈できるが、いずれにせよ、天下人の心身が限界に達していたことを示す出来事であった。肉体は衰え、死の影が日に日に色濃くなる中で、秀吉の精神は、残される幼い秀頼と豊臣家の未来をいかに守るかという一点に集中していく。この、衰弱する肉体と、なおも怜悧に回転し続ける精神との乖離こそが、彼の最期の緻密な計画の背景にある。
1.3. 最後の布石:慶長三年八月五日の遺言
秀吉が息を引き取ったのは八月十八日であるが、それより以前から、彼は死後の体制固めに向けた具体的な指示を次々と発していた。その集大成ともいえるのが、死の十三日前にあたる慶長三年八月五日付で五大老に宛てて書かれた遺言状である 12 。この文書の中で、秀吉は「返す返す、秀頼のこと、頼み申し候」と、ほとんど哀願に近い形で繰り返し秀頼の後事を託している 12 。
この遺言は、単なる感情的な訴えにとどまらない。秀吉は、家康を筆頭とする五大老と、石田三成ら五奉行による集団指導体制を正式に定め、彼ら全員に起請文(誓約書)を提出させ、豊臣家への忠誠を改めて誓わせた 14 。イエズス会の宣教師フランシスコ・パシオによる報告書も、死期を悟った秀吉が諸大名を招集し、秀頼への忠誠を誓わせ、後見人となる統治評議会(五大老・五奉行)を設立したと記録しており、この時期の秀吉が極めて体系的に権力移譲の準備を進めていたことを裏付けている 15 。秀吉の最期の意思表示は、死の床での一言に集約されるものではなく、数週間にわたる周到な法制度的準備の総仕上げであった。
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文書・史料 |
家康への主要な規定 |
前田利家への主要な規定 |
主要な制度的規則 |
典拠 |
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慶長三年八月五日付遺言状 |
秀頼が成人するまで後見すること。返す返す秀頼のことを頼む。 |
(本文書では特に言及なし) |
五人の衆(五大老)として秀頼を支えること。 |
12 |
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十一カ条の遺言状 |
伏見城にあって政務を執ること。秀頼を孫婿(千姫の婿)として盛り立てること。 |
大坂城にあって秀頼の傅役(教育係)を務めること。 |
五大老は法度に背かず、仲違いしないこと。五大老・五奉行は何事も家康と利家に諮り、その判断を仰ぐこと。 |
13 |
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豊臣秀吉遺言覚書 |
伏見城の総留守居役を務めること。三年間は在京すること。 |
(本文書では特に言及なし) |
五大老は互いに婚姻関係を結び紐帯を強めること。諸侍の妻子を大坂へ移すこと。 |
[17, 18, 19] |
1.4. 臨終の瞬間(八月十八日):誰が聞き、何が語られたか
慶長三年八月十八日、秀吉は伏見城でその波乱の生涯を閉じた 2 。彼の最期の言葉を、現代の我々が法廷記録のように一言一句正確に知ることはできない。しかし、当時の状況から、その場に誰が居合わせ、どのような文脈で言葉が交わされたかを推測することは可能である。伏見城には、政務の中心として家康が詰めていた 2 。他の大老や奉行たちも、伏見か近隣の大坂に滞在しており、秀吉の危篤の報を受け、城内に参集していたと考えられる。
「天下の事、頼む」「秀頼の事、頼む」といった言葉は、おそらく家康を筆頭とする、その場に居合わせた最高実力者たちに向けて発せられたものであろう。後世に成立した『甫庵太閤記』などの軍記物語は、この場面をより劇的に描き、秀吉と家康の間の個人的な対話として描写する傾向があるが 22 、その核心部分—秀頼と豊臣家の将来を、家康を中心とする重臣会議に託す—というメッセージは、先行する八月五日の遺言状の内容と完全に一致しており、秀吉の一貫した意思であったことは疑いようがない。
1.5. 死の秘匿と朝鮮撤兵:最初の死後戦略
秀吉の死は、一つの出来事の終わりではなく、管理された政治的移行プロセスの始まりであった。彼が八月十八日に死去したという事実は、当初、厳重に秘匿された。例えば、朝鮮に在陣する諸将に対して秀吉の死を伏せたまま撤退を指示する公式命令(朱印状)が発せられたのは、八月二十八日のことである 20 。この十日間の空白は、決して偶然ではない。これは、秀吉が生前に構築した五大老・五奉行の合議制が、彼の死の直後から、まさにその設計思想通りに機能し始めたことを示している。
当時の豊臣政権にとって最大の懸案事項は、朝鮮半島に展開する十数万の大軍をいかに秩序だって撤退させるかという問題であった。最高司令官である秀吉の死が即座に伝われば、軍の統制は崩壊し、壊滅的な打撃を被る危険性があった。そのため、家康ら重臣たちは、秀吉の死という事実を管理下に置き、まずは国家の安定、すなわち朝鮮からの安全な撤兵を最優先したのである。これは、秀吉が遺した統治システムが、豊臣国家の保全という至上命題を遂行するために、彼の死の瞬間から作動し始めたことを証明している。秀吉の「策略」は、彼の死後、情報統制という形で即座に実行に移されたのだ。
第二章:「天下の事、頼む」— 言葉の多角的分析
秀吉が臨終に際して発したとされる言葉は、単純な響きとは裏腹に、聞く者の立場や時代背景によって様々な意味を帯びる。ここでは、この言葉を三つの異なる解釈—父としての懇願、政治的「呪縛」、そして徳川史観による「策略」—から多角的に分析する。
2.1. 解釈一:父としての懇願
最も自然で人間的な解釈は、この言葉を一人の父親が我が子の将来を案じる切実な願いと捉えるものである。秀吉が晩年に得た嫡子・秀頼(当時六歳)を溺愛していたことは、数多くの史料から明らかである 12 。彼の辞世の句とされる「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」は、天下人として栄華を極めた男が、死を前にして感じる人生の儚さ、権力の無常観を色濃く反映している 24 。どれほどの権勢を誇ろうとも、死の前では無力であり、残される幼い息子の安泰さえも自分の力では保証できない。この絶望的な認識が、秀吉をして、国内随一の実力者である家康にすがりつかせた、と見ることは極めて自然である。この文脈において、「天下の事」とは「秀頼が天下人として安泰に暮らせる世の中のこと」を意味し、その実現を律儀者として知られる家康の人間性に託した、純粋な懇願であったと解釈できる。
2.2. 解釈二:政治的「呪縛」としての言葉
しかし、この言葉は、巧妙に仕掛けられた「毒杯」であった可能性を秘めている。それは、家康に正統性を与えることなく責任のみを押し付け、それによって彼の政敵に強力な道徳的武器を与えるための罠であった。この解釈の鍵は、「天下」という言葉の持つ重みにある。「天下」とは単に国土を指すのではなく、それを統治する正統な権威そのものを意味する。秀吉は、公衆の面前で(あるいはそれに準ずる状況で)家康に「天下」を「頼む」ことで、彼を後継者に指名したわけでは断じてない。むしろ、豊臣家の安泰と秀頼の保護という、極めて重い公的責任を家康一人の双肩に背負わせたのである。
主君からの臨終の願いを、家康がその場で拒絶することは、不忠義・不名誉の極みであり、事実上不可能であった。しかし、それを受け入れた瞬間から、家康は豊臣国家とその正統な後継者である秀頼の守護者としての立場を公的に引き受けさせられることになる。これにより、彼が自己の勢力拡大のために取るあらゆる行動は、石田三成のような豊臣恩顧の官僚たちによって、この神聖な遺言に対する裏切り行為として糾弾される格好の口実(大義名分)を与えることになった 22 。秀吉は、「義理」や「世評」といった無形の力を武器化し、家康をがんじがらめにする政治的呪縛をかけたのだ。権力の実務という「負担」は与えるが、統治の「正統性」はあくまで秀頼に留保する。この絶妙な仕掛けにより、家康が天下獲りに動けば動くほど、反家康連合が結成されるための道徳的土壌が醸成されるという、巧妙な罠が仕掛けられていたのである 27 。
2.3. 解釈三:徳川史観による「策略」の明文化
秀吉の遺言を最も明確に「策略」として記述しているのが、皮肉にも徳川幕府の公式史書『徳川実紀』である 1 。同書によれば、秀吉は片桐且元や小出秀政といった側近中の側近に対し、ひそかに本心を打ち明けていたという。その本心とは、「天下は自ずから徳川家に帰すであろう」という冷徹な現実認識であり、豊臣家が生き残るためには、家康と争うのではなく、むしろ「家康によく仕え」、家名を保つべきだというものであった。
この記述に基づけば、秀吉が公の場で五大老に秀頼の後事を託したのは、あくまで自身の死後に「秀吉は正直な人であった」と言わせるためのポーズ、すなわち「詐謀」であり、内心では徳川への政権移譲を予期し、容認していたことになる。この徳川史観による解釈は、一見、秀吉の先見性を称えているように見えるが、その真の狙いは家康の天下簒奪を正当化することにある。この物語は、家康の行動を、秀吉の遺言を裏切った不忠な行為ではなく、むしろ秀吉の「真意」を深く理解した上での、豊臣家存続のための現実的な措置であったと再定義する。秀吉を、豊臣家による統治の不可能性を悟っていた現実主義者として描くことで、『徳川実紀』は家康から不忠者の汚名をそそぎ、彼の天下取りを、いわば秀吉の暗黙の了解のもとで行われた必然的な歴史の帰結として位置づけようとしたのである。これは、勝者である徳川家が、自らの支配の正統性を確立するために歴史を再構築した「徳川史観」の典型例と言える 29 。すなわち、「策略」であったとする言説そのものが、徳川家によるもう一つの壮大な「策略」であったのだ。
第三章:制度という名の遺言 — 五大老・五奉行体制の真意
秀吉の真の策略は、臨終の言葉だけに留まるものではなかった。彼が遺した最大の「遺言」とは、五大老・五奉行という、それ自体が家康を抑制するために設計された統治システムそのものであった。
3.1. 権力の二元化:家康と利家による均衡
秀吉が構築した死後の権力構造は、家康を頂点とする単純なピラミッド構造ではなかった。彼は家康を五大老の筆頭とし、政務の中心地である伏見城を預け、絶大な権威を与えた 14 。しかし、それと同時に、長年の盟友であり、最も信頼を置く前田利家を、幼い秀頼の直接の後見人(傅役)に任命し、豊臣家の本拠地であり、莫大な財貨と軍事力を擁する大坂城を任せた 13 。
これにより、意図的に権力の中枢が二元化された。家康は「政務」を掌握するが、利家は「後継者」と「財源」を掌握する。地理的にも、京都・伏見の家康と、大坂の利家という形で権力が分散された。この体制下では、家康も利家も、互いの協力なしには決定的な行動を起こすことができない。秀吉は、家康の圧倒的な実力に対抗しうる唯一の存在として利家を立てることで、権力に拮抗と均衡をもたらし、一方の独走を防ごうとしたのである。
3.2. 意図された不和:大老と奉行の牽制構造
五大老と五奉行の関係は、調和ではなく、むしろ対立と牽制を生むように設計されていた。五大老が大大名による最高意思決定会議であったのに対し、石田三成を中心とする五奉行は、豊臣政権の実務を担う専門官僚集団であった。秀吉は、この二つの組織間に明確な上下関係を設定せず、意図的に権限を重複させ、曖昧にした。
このシステムは、秀頼が成人するまでの時間を稼ぐための、政治的膠着状態を作り出すことを目的としていた。効率的な統治を目指すならば、指揮系統は明確であるべきだ。しかし秀吉が目指したのは、非効率なまでの牽制構造であった。豊臣家の行政機構に忠実な五奉行は、日々の政務や財政を掌握し、手続き上の権限を握っていた 13 。一方、家康ら五大老は、強大な軍事力を背景に持つものの、重要事項の決定には合議を必要とし、奉行衆の協力を得なければ行政を動かすことができなかった 14 。この構造は、家康が政権の機構を私物化しようとしても、三成ら奉行衆が「手続きの壁」となってそれを阻止することを可能にする。実際に、三成ら奉行衆が自らを政権の家老を意味する「年寄共」と称し、家康ら大老を単なる「御奉行衆」と呼ぶなど、両者間には深刻な対立意識が存在したことが史料から確認できる 18 。これはシステムの欠陥ではなく、まさしく設計者の意図そのものであった。いかなる派閥も単独で優位に立つことを許さない徹底した権力分散と膠着状態こそが、秀頼の成長を待つための秀吉の深謀だったのである。
3.3. 構想の破綻:前田利家の死と権力闘争の激化
秀吉が築き上げた精緻な権力均衡システムには、しかし、致命的な弱点が存在した。それは、システムの要である前田利家の寿命という、秀吉自身にも制御不可能な要素に依存していた点である。利家は、秀吉との個人的な友情、家康への敬意、そして豊臣家への忠誠心を兼ね備え、家康と唯一対等に渡り合える重しとしての役割を期待された人物であった。
しかし、その利家が秀吉の死のわずか翌年、慶長四年(1599年)に病死すると、秀吉が築いた均衡はあっけなく崩壊した 20 。利家という最後の歯止めを失った豊臣政権内で、対立は即座に先鋭化する。加藤清正ら七将が石田三成を襲撃する事件が発生し、家康はこの仲裁役を務めることで、政敵である三成を中央政界から追放することに成功した 32 。
利家が世を去り、三成が佐和山に蟄居させられたことで、家康を掣肘しうる勢力は事実上消滅した。ここから家康は、秀吉の遺言で固く禁じられていた諸大名間の無断での婚姻政策を強行するなど 20 、公然と天下獲りへの布石を打ち始める。秀吉の壮大な構想は、一人の重要人物の死によって、その土台から崩れ去ったのである。その戦略は、構想自体に欠陥があったというよりも、あまりにも脆弱な人間関係の上に築かれた、脆い芸術品であったと言えよう。
結論:稀代の策略家、最後の賭け
豊臣秀吉が臨終に際し、徳川家康に託したとされる「天下の事、頼む」という言葉は、単一の意味を持つ単純な行為では断じてなかった。それは、稀代の策略家が、死の淵で放った多層的かつ複合的なメッセージであり、最後の賭けであった。この言葉とそれに付随する一連の行動は、同時に複数の次元で機能していた。
第一に、それは紛れもなく、愛する我が子の将来を案じる 父親としての真摯な懇願 であった。秀頼への深い愛情が、秀吉をして国内最大の実力者に頭を下げさせたのである。
第二に、それは家康の行動を縛るための**政治的な「呪縛」**であった。公的な責任を家康一人に負わせることで、彼の自由な行動を制限し、彼が野心を見せた際には、反家康勢力に「主君の遺命に背く逆賊」を討つという強力な大義名分を与えるための、巧妙な罠であった。
そして第三に、それは言葉という形を取った、より広範な 制度的戦略の総仕上げ であった。五大老・五奉行という、意図的に対立と牽制を生むように設計された統治システムは、いかなる権力者の独走も許さず、政治を膠着させることで、秀頼が成人するまでの貴重な時間を稼ぐことを目的としていた。
この壮大な戦略が、最終的に失敗に終わったという事実が、その構想の卓越性を損なうものではない。秀吉は、家康を豊臣家にとって最大の脅威と正確に見抜き、個人的な情義への訴え、公的な責務の賦課、そして制度的な抑制という、考えうる限りの手段を尽くして彼を封じ込めようとした。その戦略が破綻したのは、構想そのものの欠陥というよりは、システムの均衡を保つ唯一の重しであった前田利家の死という、太閤の計算を超えた不確定要素によるものであった。
結局のところ、「天下の事、頼む」という逸話は、まさに「策略譚」の極致である。それは、秀吉が豊臣家の未来を、人間同士の忠誠心と制度がもたらす摩擦という、不確実な要素の上に賭けた、最後にして最大のギャンブルであった。彼はその賭けに敗れ、彼が守ろうとした「天下」は、皮肉にも彼が最も警戒し、抑制しようとしたその男の手に渡った。その後の関ヶ原の戦い、そして徳川幕府の成立へと続く歴史の流れは、すべて、この天下人最後の精緻な策略が崩壊した地点から始まったのである。
引用文献
- 「どうする家康」豊臣秀吉が抱いていた豊臣家滅亡を回避する ”秘策” とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2111
- 都市史20 伏見城 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi20.html
- 方広寺跡 - 京都国立博物館構内遺跡発掘調査 現地説明会資料 2 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/gensetsu/97kyouhaku2.pdf
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- 伏見城の発掘調査 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza214.pdf
- 【伏見城普請】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096260
- 特集 1 醍醐の花見 -豊臣秀吉と義演准后 - 醍醐寺 https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/index.html
- 義演准后日記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E6%BC%94%E5%87%86%E5%90%8E%E6%97%A5%E8%A8%98
- 義演准后日記(ぎえんじゅごうにっき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%BE%A9%E6%BC%94%E5%87%86%E5%90%8E%E6%97%A5%E8%A8%98-49906
- 方広寺大仏殿跡 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/gensetsu/108houkouji.pdf
- 第4号 - pauch.com http://www.pauch.com/kss/g004.html
- 「豊臣秀頼は本当に秀吉の実子だったのか」女性に囲まれていた秀吉が50代になって急に子宝に恵まれる不思議 豊臣家最大の謎を解く鍵は直筆の手紙にある (4ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/73601?page=4
- 徳川家康 秀吉の死と家康の権力増大 - 歴史うぉ~く https://rekisi-walk.com/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%80%80%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%AE%E6%AD%BB%E3%81%A8%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%8A%9B%E5%A2%97%E5%A4%A7/
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- 秀吉の三つの遺言状 - 古上織蛍の日々の泡沫(うたかた) https://koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2016/08/13/120145
- 豊臣秀吉が死んだあと、徳川家康がはじめにやったこととは⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/32485
- 【関ヶ原合戦 年表①】慶長3年(1598年)8月~慶長4年12月 - note https://note.com/ryoroigawa/n/nf2dbfc18b1ae
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- 【朗読 新書太閤記】その五十一「秀吉家康訃報をきく編」 吉川英治のAudioBook ナレーター七味春五郎 発行元丸竹書房 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5Wp6z_LgNqg
- 豊臣秀吉、天下人の辞世~露と落ち露と消えにし我が身かな | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4220
- 関ヶ原の戦い|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents3_01/
- 「どうする家康」第39回「太閤、くたばる」 家康に天下人を覚悟させた二人の遺言 - note https://note.com/tender_bee49/n/nbc398925b6d4
- THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/retsuden/bknm/61.html
- 徳川家康の合戦年表 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/78008/
- 【開催終了】 信長・秀吉の真実(全2回) 第2回「秀吉の真実」 - 千代田区立図書館 https://www.library.chiyoda.tokyo.jp/information/20220121-_1_11/
- 消された秀吉の真実 | 柏書房株式会社 https://www.kashiwashobo.co.jp/book/9784760139941
- 豊臣秀吉の遺言書に書かれた「五大老・五奉行」制に徳川家康は反対だった!? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/32134
- 七将襲撃事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B0%86%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
- 1599年 家康が権力を強化 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1599/
- 「秀吉の遺言」に背いて炎上するも…徳川家康の“危機回避術”が流石すぎる https://diamond.jp/articles/-/330447?page=2