最終更新日 2025-10-22

豊臣秀吉
 ~関白任命夜、庶民と昔を語る~

豊臣秀吉が関白任命の夜、庶民の小屋を訪れ昔を語った逸話。史実ではないが、秀吉の人間的魅力と理想の為政者像を象徴する物語として、後世に語り継がれた真実を探る。

太閤、関白叙任の夜の幻影 ― ある庶民譚の徹底解剖

序章:語り継がれる一夜の物語

豊臣秀吉という人物を象徴する逸話は数多いが、その中でも特に人々の心を捉えて離さない物語がある。それは、彼が人臣の最高位である関白に任ぜられた、まさにその夜の出来事として語り継がれる物語である。「関白任命の夜、秀吉は居城を抜け出し、京の町裏にある一軒の貧しい庶民の小屋に立ち寄った。そして、そこで温かいもてなしを受け、『わしも昔はこうじゃった』と、万感の思いを込めて微笑んだ」という、簡潔にしてあまりにも劇的な庶民譚である。

この逸話の魅力は、その構成の見事さにある。尾張の貧しい百姓の子として生を受け、一兵卒から身を起こし、織田信長の草履取りを経て、ついには天下人へと駆け上がった秀吉の生涯。その立身出世物語の頂点、すなわち関白叙任という栄光の絶頂の瞬間に、彼は過去の最も低い場所、すなわち自らの原点である庶民の暮らしへと回帰する。この鮮やかな対比と、権力の頂点にありながらも己の出自を決して忘れぬ謙虚な姿勢は、秀吉という人物の人間的魅力を凝縮して描き出している。それは単なる昔話ではなく、一人の人間の生涯を一夜の出来事に昇華させた、完成された「物語」なのである。

しかし、この心温まる逸話は、果たして歴史的事実(史実)なのであろうか。それとも、後世の人々が理想の為政者像を託して紡ぎ出した、巧みな創作なのであろうか。本報告は、この問いを徹底的に探求することを目的とする。天正十三年七月十一日という特定の一日を史料に基づき冷徹に再構築し、逸話が成立しうる余地があったのかを検証する。そして、史実性の如何に関わらず、なぜこの物語が生まれ、我々の心をこれほどまでに惹きつけるのか、その歴史的・文化的背景を深く解剖していく。これは、一夜の幻影を追うことで、歴史と物語が織りなす複雑で豊かな関係性を解き明かす試みである。

第一部:舞台の検証 ― 天正十三年七月十一日の現実

物語の真偽を問う前に、まずその舞台となった「関白叙任の日」が、歴史的にどのような一日であったのかを、一次史料に基づいて客観的に再構築する必要がある。感傷的な物語が入り込む余地は、果たして存在したのだろうか。

第一節:関白叙任という政治的偉業

天正十三年(1585年)の秀吉の関白就任は、単なる栄誉の獲得ではなく、極めて高度な政治的計算の上に成り立った偉業であった。その背景には、公家社会の内部対立、すなわち「関白相論」が存在した 1

当時、関白の職は藤原氏の嫡流である五摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)のみが就任できる、古来の慣例があった 3 。この年、現職の関白であった二条昭実に対し、左大臣の近衛信輔(後の信尹)が自身も関白職を望むと主張し、両者の間に対立が生じていた 1 。朝廷はこの問題を自ら解決できず、当時すでに天下の実権を握っていた秀吉に裁定を委ねるに至った。

秀吉はこの状況を巧みに利用する。「いずれを是としても、いずれを非としても、一家の破滅となり朝廷のためにならない」というもっともらしい理由を掲げ、両者を争わせるのではなく、自らが関白に就任するという前代未聞の解決策を提示したのである 4 。もちろん、百姓出身の秀吉がそのまま関白になれるはずはなかった。そこで彼は、当時の関白経験者であり、公家社会の長老格であった近衛前久の猶子(ゆうし、一種の養子縁組)となるという法的な手続きを踏んだ 3 。これにより、彼は形式上「藤原秀吉」となり、関白に就任する資格を得たのである 6

この一連の動きは、秀吉の卓越した政治戦略を物語っている。彼は既存の権威である朝廷を武力で破壊するのではなく、その内部構造とルールを深く理解し、その対立を逆用して自らをその頂点に位置づけた。これは、武士の棟梁たる征夷大将軍の職を求めず(秀吉は朝廷から将軍任官を勧められたが断っている 8 )、公家社会のトップである関白を選んだ点にも表れている。源氏の血筋を必要とする将軍よりも、藤原氏の猶子となることで就任可能な関白の方が、彼の出自からして現実的かつ効率的に最高権威を手に入れる道筋であった。この手法は、後に天皇から源平藤橘に並ぶ新たな姓「豊臣」を賜る 4 ことにも繋がり、自らの権威を伝統の中に巧みに位置づけようとする、彼の深謀遠慮の現れであった。

第二節:当日の秀吉の動静と京の情勢

では、歴史の記録に残る天正十三年七月十一日(西暦1585年8月6日)、秀吉は具体的に何をしていたのだろうか。

公家の日記や公式文書を集成した『大日本史料』などによれば、この日、秀吉は内大臣から昇進し、従一位・関白に叙任された 6 。これは日本の臣下としては最高位であり、まさに栄光の絶頂であった。同時に、彼の正室であるねねも従三位に叙せられ、「北政所」の称号を与えられた 9 。さらに重要なのは、この秀吉個人の栄誉に留まらなかった点である。秀吉の関白就任に伴い、慣例に従って側近たちが諸大夫に任命され、石田三成、中村一氏、大谷吉継らが従五位下・治部少輔などに叙任されている 10

この日の叙任が、単なる個人的な祝賀行事でなかったことは、当時の政治・軍事状況からも明らかである。秀吉はこの時、紀州征伐を終えたばかりで、長宗我部元親を討つための四国征伐と、越中の佐々成政を討伐するための北国征討という、二つの大規模な軍事作戦を同時並行で指揮していた 11 。関白という朝廷の最高権威を手に入れることは、これらの天下統一事業を正当化し、諸大名に対する絶対的な優位性を確立するための、極めて重要な政治的布石であった。事実、秀吉は関白就任後、間髪入れずに親王間の席次争いの裁定を下すなど、早速その権威を行使して政務を執っている 11

このような状況下で、秀吉が夜間にお忍びで市中に出歩くことの物理的・政治的可能性は、限りなく低いと言わざるを得ない。当時、聚楽第はまだ完成しておらず、秀吉の京での宿所は妙覚寺などの寺院であったと推測される 12 。叙任式は宮中の内裏で執り行われ、夜には当然、公家や諸大名を招いての盛大な祝宴が催されたと考えるのが自然である。新たに天下の最高権力者となった人物の周囲は、厳重な警護で固められていたはずである。その警護を振り切り、一人、あるいはごく少数の供だけで夜の京に出ることは、身の安全を考えても極めて危険な行為である。

何よりも、この日は秀吉個人が感傷に浸る日ではなかった。側近たちを同時に昇進させたことからもわかるように、この日は「羽柴政権」が朝廷の公的秩序の中に正式に組み込まれ、新たな支配体制が確立されたことを内外に宣言する、極めて重要な政治的パフォーマンスの日であった。秀吉の全ての行動が公的な意味を持つこの日に、その役割を放棄して個人的な感傷のために「お忍び」という私的な行動をとることは、冷徹な現実主義者であり、優れた政治家であった秀吉の人物像とは著しく矛盾する。

第三節:物語の舞台 ― 戦国末期の京の夜

逸話のリアリティを検証するため、物語の舞台となったであろう当時の京都の庶民の暮らしにも目を向けてみよう。

長きにわたる応仁の乱で荒廃した京都は、秀吉の時代には復興の途上にあった。市街は二条通を境に、北の「上京」と南の「下京」に大別されていた 13 。上京が内裏や公家・武家の屋敷が建ち並ぶ政治の中心地であったのに対し、下京は商工業者が集まる活気ある庶民の町であった。逸話に登場する「庶民の小屋」とは、おそらくこの下京の町に軒を連ねていた「町家」の一つであったと想像される。

当時の町家は、現代の住宅とは大きく異なる構造を持っていた。通りに面した間口は狭く、奥に細長い、いわゆる「うなぎの寝床」と呼ばれる造りが特徴的であった 14 。これは、通りに面した間口の広さで税が課されたことの名残である。一階の入り口から奥へと続く土間は「通り庭」と呼ばれ、炊事場(勝手)を兼ねた作業スペースとなっていた 14 。居室は畳敷きで、家の中心には囲炉裏が設けられ、食事や団らんの場として家族の生活の中心となっていた 14 。二階部分は天井が低く、「厨子二階(つしにかい)」と呼ばれ、主に物置として使われていた 16

夜になれば、通りは行灯の乏しい光が頼りであり、ひとたび裏通りに入れば漆黒の闇が広がっていたであろう。治安も決して万全とは言えず、夜歩きは危険を伴う行為であった。逸話が描くような、灯りの漏れる一軒の家で家族が慎ましく暮らす光景は確かに存在しただろうが、それは同時に、天下人が気軽に訪れるにはあまりにも隔絶された世界でもあった。

第二部:逸話の再構築 ― もし物語が真実であったなら

史実性の検証を一旦保留し、この逸話を一つの完成された物語として、その情景を追体験してみよう。これは歴史の記録ではなく、物語としての「実況中継」である。

宵の口:喧騒の中の孤独

内裏での厳粛な叙任式を終え、宿所に戻った秀吉を待っていたのは、祝賀の言葉と人々の熱気であった。公家たちは媚びへつらい、武将たちは畏敬の眼差しを向ける。誰もが新しい関白殿下の威光を讃え、その栄誉を我がことのように喜んでいる。しかし、その喧騒の真ん中で、秀吉は奇妙な孤独を感じていた。誰もが「関白殿下」を見るが、かつての「藤吉郎」や「猿」を見てくれる者はいない。栄光の頂点に立った者だけが知る、絶対的な孤独。その静寂の中で、彼の心にふと、過去を振り返る衝動が芽生える。脳裏をよぎるのは、故郷である尾張中村の貧しい家の記憶、そして父の形見の銭を握りしめ、針を売り歩いて旅をした少年時代の自分自身の姿であった 17

深夜:微行(おしのび)の決意

祝宴が果て、人々が寝静まった頃、秀吉の衝動は抑えがたいものとなっていた。彼は、今日手に入れたこの途方もない高さを、最も低い場所から見上げて実感したかった。自分がどこから来たのかを、この肌で、この目で、再確認したかったのである。彼は、動きにくく慣れない公家の豪奢な衣を脱ぎ捨て、一介の浪人か商人が纏うような、粗末で目立たない着物に着替える。供をしたいと申し出る側近たちを固辞し、あるいは最も信頼の置ける石田三成のような若者一人だけを伴い、まるで影のように、闇に紛れて宿所を抜け出した。

邂逅:一軒の小屋にて

月明かりだけが頼りの京の町。上京のきらびやかな屋敷町を抜け、秀吉の足は自然と下京の裏通りへと向かっていた。そこで、彼の目に一軒の質素な町家から漏れる、ささやかな灯りが映る。戸の隙間からは、貧しいながらも温かい家族の話し声が聞こえてくる。まるで何かに吸い寄せられるように、秀吉はその家の戸を叩いた。夜更けの突然の来訪者に、中から現れた老夫婦は驚き、警戒の色を隠せない。

対話:「わしも昔はこうじゃ」

秀吉は素性を隠し、旅の者だが道に迷い、一杯の茶を恵んでほしいと頼む。家主の老人は訝しみながらも、その男の風体に不思議な威厳を感じ取り、囲炉裏端へと招き入れた。差し出されたのは、白湯と、粟か稗の入った粗末な粥であった。しかし、その素朴な温かさが秀吉の凍てついた心を溶かした瞬間、彼の口から万感の思いを込めた一言が漏れた。

「……わしも昔はこうじゃった」

その言葉を聞いた家人の驚き。目の前の男がただ者ではないと、彼らは次第に気づいていく。秀吉は、堰を切ったように昔語りを始めた。信長様の草履取りをしていた頃、冬の日に草履を懐で温めていたら、不届き者と叱られた話 18 。敵地に一夜で城を築くという無謀な命令を受け、仲間と共に泥と汗にまみれた墨俣での苦心 19 。その語り口は、懐かしむようであり、また少し誇らしげでもあった。それは、関白豊臣秀吉ではなく、一人の男、藤吉郎の言葉であった。

夜明け:天下人の帰還

東の空が白み始める頃、秀吉は家人に深く礼を述べ、懐から一握りの金子を取り出して礼だと言って無理に押し付け、静かにその家を立ち去った。宿所に戻り、再び関白の衣装を身に纏う。庶民の家の土間の匂いと、囲炉裏の煙の匂いがまだ体に染みついているような気がした。その匂いと、目の前にある絢爛豪華な現実との途方もない隔たり。この一夜の経験は、彼に天下人としての原点を再確認させ、驕ることなく民を治めるという、新たな決意を抱かせたのかもしれない。物語は、そんな余韻を残して幕を閉じる。

第三部:真相の探求 ― 史実と創作の境界線

ドラマティックな物語から、再び歴史研究の冷徹な視点へと戻ろう。この逸話は、史実とどれほど乖離しているのか。そして、なぜこのような物語が「創作」されなければならなかったのか。その背景には、後世の人々のどのような願いが込められていたのだろうか。

まず、第一部で検証した史実と、第二部で再構築した逸話の内容を比較し、その間の隔たりを明確にしておきたい。

項目

天正13年7月11日の史実

逸話における描写

比較考察

秀吉の身分

従一位・関白に叙任。公家社会の頂点に立つ 6

天下人、日本の最高権力者。

表面的な身分は一致している。

場所

京都・内裏(叙任式)、宿所(祝宴・政務) 12

京都の下京と思われる庶民の小屋(町家) 13

公的空間と私的・庶民的空間という、極めて対照的な場所設定である。

時間

昼:公式行事、夜:祝宴、政務 11

深夜。

史実の行動時間とは重ならない、記録の空白である時間帯を巧みに設定している。

行動

叙任、論功行賞、政務裁定など、極めて公的な行動 10

お忍びでの市中散策、庶民との私的な交流。

行動の性質が公と私で真逆であり、史実の文脈からは蓋然性が極めて低い。

記録

『兼見卿記』など複数の一次史料に公的記録が存在 11

口伝、後世の編纂物(『太閤記』など)、修身教科書 20

史料的裏付けが皆無であり、物語としての伝承のみが存在する。

第一節:史料の沈黙

この逸話の史実性を検証する上で、最も決定的かつ重要な事実は、 この出来事を直接的に記述した同時代の一次史料が一切存在しない ことである。

当時の公家である吉田兼見が記した『兼見卿記』や、興福寺の僧侶による『多聞院日記』といった、天正期の京都や畿内の動向を知る上で不可欠な記録にも、秀吉の関白叙任という公的行事の記述はあっても、このような私的な逸話に関する記述は全く見当たらない 9 。もし、新任の関白という国の最高権力者が、叙任当夜に単独で(あるいは極秘に)市中に出歩いたという事実があれば、それは極めて異例かつ重大な事件である。何らかの形で噂となり、誰か一人が日記や書簡に書き残していても不思議ではない。

歴史学には「Argument from silence(沈黙からの論証)」という考え方がある。ある事柄について、記録に残っているのが自然であるにもかかわらず、関連する全ての史料がそれについて沈黙している場合、その事柄は起こらなかった可能性が高いと推論する手法である。この逸話は、まさにその典型例と言える。史料の完全な沈黙は、この物語が史実ではないことを示す、極めて強力な状況証拠なのである。

第二節:物語の源流と成長

では、史実でないとすれば、この物語はいつ、どのようにして生まれたのだろうか。その源流は、江戸時代に遡ることができる。

江戸時代に入り世の中が安定すると、戦国時代の英雄たちの物語が講談や読み物として大衆の人気を博すようになった。その中でも、秀吉の立身出世物語は特に好まれ、『太閤記』として広く流布した。これらの物語は、史実を核としつつも、大衆受けするような脚色がふんだんに加えられていた。特に、秀吉の前半生を伝説的に描いた『太閤素生記』(別名『太閤秀吉出生記』)のような書物は、秀吉の「庶民性」を強調し、彼がいかに貧しい生まれから身を起こしたかを劇的に描いた 17 。こうした英雄譚が語られる中で、秀吉の庶民性を象徴する逸話として、関白叙任の夜の物語が形成されていった土壌があったと考えられる。

しかし、この逸話が国民的な物語として広く定着し、あたかも史実であるかのように信じられるようになった最大の要因は、明治時代以降の 修身(道徳)教育 の存在である 25 。明治政府は、欧米列強に伍する近代国民国家を建設するため、国民統合の象徴として、また国民が目指すべき理想像として、歴史上の「偉人」を教科書で積極的に取り上げた 26 。その中で、百姓から天下人へと上り詰めた豊臣秀吉は、「立身出世」を体現する最高の教材であった 27

この逸話は、明治政府が国民に教え込もうとした徳目を、完璧な形で体現していた。

第一に、「偉業を成し遂げても、決して驕らず、己の原点を忘れない謙遜の徳」21。

第二に、「庶民の暮らしに共感し、その苦しみを理解しようとする為政者としての仁慈や博愛の精神」21。

これらの徳目は、教育勅語の精神にも合致するものであり、この逸話は道徳的教訓を伝えるための絶好の物語として、修身の教科書などを通じて全国の子供たちに教えられた。その結果、この物語は個人の記憶に深く刻み込まれ、世代を超えて語り継がれる国民的記憶へと昇華していったのである。

つまり、この逸話は、天正十三年の京の夜に歴史的事実として発生したのではなく、特定の時代、特に近代日本の形成期という社会的な要請に応じて「発見」され、あるいは「創作」された物語である可能性が極めて高い。それは秀吉自身の真実の姿というよりも、後世の人々が秀吉という英雄に託した「理想の為政者像」の反映なのである。信長の草履取りのような立身出世の「過程」を示す逸話だけでは不十分であった。近代国家が国民に求めたのは、成功した後も国家や共同体に貢献し、謙虚であり続けるという「頂点に立った後の心構え」であり、この逸話はその道徳的メッセージを伝える上で、他のどの物語よりも効果的で、完成された脚本だったのである。

第三節:結論 ― 史実にあらざるも、真実を語る物語

ここまでの検証を総括すれば、豊臣秀吉が関白叙任の夜に庶民の小屋を訪れたという逸話が、歴史的事実である可能性は限りなく低いと結論付けざるを得ない。同時代の一次史料による裏付けは皆無であり、物語が成立するには状況的・物理的な蓋然性も極めて低い。その起源は江戸期の英雄譚に求められ、明治期の修身教育によって国民的物語として完成・普及したと考えられる。

しかし、この物語を単なる「偽史」や「嘘」として切り捨ててしまうのは早計である。なぜなら、この物語は史実ではないにせよ、豊臣秀吉という人物の本質的な一面を、非常に巧みに捉えた「象徴的真実」を含んでいるからである。

秀吉の生涯は、日本の歴史上、類を見ないほどの驚異的な社会的上昇の物語であった。彼がその生涯を通じて、自らの貧しい出自に対する強烈な意識、すなわち一種のコンプレックスとプライドを併せ持ち続けていたことは、想像に難くない 28 。黄金の茶室に象徴されるような絢爛豪華な文化を好んだ一方で、彼は常に人々の心を掴む術を心得ていた。この逸話は、そんな秀吉が抱えていたであろう、栄光と出自との間の内的葛藤や、原点への回帰願望を、一夜の出来事として見事に結晶化させている。史実ではないかもしれないが、秀吉という人物の心理の「真理」の一端を、確かに突いている。だからこそ、この物語は創作であると理解した上でなお、我々の心を強く打ち、魅了し続けるのである。

終章:なぜ我々はこの物語を必要とするのか

豊臣秀吉、関白叙任の夜の物語。その探求の旅は、この逸話が史実の記録ではなく、人々の願いが込めて紡がれた創作であるという結論に我々を導いた。では最後に問うべきは、なぜ我々は、そして後世の人々はこの物語を必要としたのか、という点である。

この物語には、時代や文化を超えて人々の心に響く、普遍的なテーマが内包されている。それは、成功の頂点における「原点回帰」への憧憬であり、絶対的な権力者が垣間見せる「孤独」への共感であり、そして富や地位を得てもなお失われることのない「謙虚さ」という価値への称賛である。我々は、強大な権力者の中に、かつての自分たちと同じ、あるいは現在の我々と同じ庶民の姿を見出すことで安堵し、そこに理想のリーダー像を投影する。この物語は、権力者と民衆との間にあるべき理想的な関係性を描き出す、一種の道徳的な寓話としての機能を持っているのである。

そしてこの逸話の分析は、歴史とは何か、という根源的な問いを我々に投げかける。歴史とは、確定した事実の無味乾燥な連なりだけを指すのではない。それはまた、人々によって語り継がれ、再解釈され、時には道徳的な教訓を込めて「創作」される物語の集合体でもある。史実としての秀吉と、物語としての秀吉。両者は時に乖離し、時に重なり合いながら、豊臣秀吉という複雑で多面的な歴史上の人物像を形成している。

関白叙任の夜、秀吉が実際にどこで何をしていたか、その正確な記録はない。しかし、彼の心の中に、あの逸話で描かれたような庶民への共感や過去への回顧が一片もなかったと、誰が断言できるだろうか。史実の闇に消えた一夜の真実。その空白を埋めるようにして生まれたこの美しい物語は、史実と物語が織りなす、豊かで奥深い歴史の世界そのものを象徴しているのかもしれない。

引用文献

  1. 天皇を補佐した「関白」とは?|なぜ秀吉は関白になれたのか? その起源や歴史を解説【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1149711
  2. 豊臣秀吉の関白任官をめぐる抗争【関白相論】とは? - - 発光大王堂 https://hakko-daiodo.com/toyotomi-hideyoshi-kanpaku-souron
  3. 豊臣秀吉(トヨトミヒデヨシ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89-19047
  4. 秀吉はなぜ「豊臣」になったのか?関白就任までの流れを解説! - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/history/toyotomi-kanpaku/
  5. 豊臣秀吉はどうやって関白になったのか? その驚くべき手口とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2820
  6. 関白相論 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96
  7. 豊臣家文書 激動の時代の証人 - 名古屋市博物館 https://www.museum.city.nagoya.jp/collection/data/data_94/index.html
  8. 豊臣秀吉 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
  9. 1585年 – 86年 家康が秀吉に臣従 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1585/
  10. 石田三成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
  11. 大日本史料第十一編之十七 - 東京大学史料編纂所 | Historiographical Institute The University of Tokyo https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/17/pub_shiryo-11-17/
  12. 織田信長が定宿にしていた妙覚寺 - 立華の京都探訪帖 https://rikkakyoto.hatenablog.jp/entry/20230627/1687824000
  13. 歴史的要因その1 https://www1.doshisha.ac.jp/~prj-0908/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%EF%BC%91.html
  14. 庶民の住宅『民家』の歴史と発展過程を画像で解説【民家の歴史とインテリア】 https://interior-no-nantalca.com/history-and-interior-of-a-private-house/
  15. 民家の歴史 ―庶民の住居変化―|LIQ - 株式会社 TAKAYASU https://www.liq-takayasu.com/blog/28
  16. 第四十四回 京の町家〈外観編〉|京都ツウのススメ - 京阪電車 https://www.keihan.co.jp/navi/kyoto_tsu/tsu201112.html
  17. 太閤素生記 - Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E7%B4%A0%E7%94%9F%E8%A8%98
  18. 戦国浪漫・面白エピソード/名言集・豊臣秀吉編 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sen-epht.html
  19. 豊臣秀吉〜一世一代で成り上がった日本一の出世人〜 | GOOD LUCK TRIP https://www.gltjp.com/ja/directory/item/13096/
  20. 太閤素生記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E7%B4%A0%E7%94%9F%E8%A8%98
  21. 戦後教育からの脱却は「道徳教育」の教科化から始まる ―戦後教育における教育勅語否定と修身教育否定の呪縛からの脱却 https://ippjapan.org/archives/173
  22. 歴史の目的をめぐって 施薬院全宗 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-36-yakuin-zenso.html
  23. 『落日の豊臣政権』ー秀吉の憂鬱、不穏な京都ー 河内将芳 - ありエるブログ http://ari-eru.sblo.jp/article/174374298.html
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