豊臣秀吉
~関白任官銭撒き民喜ぶ庶民譚~
豊臣秀吉「関白任官銭撒き民喜ぶ庶民譚」を調査。史料の沈黙と『絵本太閤記』による創作、関白任官の史実と民衆心理、英雄像の創造と史実の乖離から逸話の真実を解明。
関白任官の日の銭撒き:豊臣秀吉の庶民譚、その史実と創作の深層
序章:天下人の気風を伝える逸話への問い
豊臣秀吉。日本の歴史上、最も劇的な立身出世を遂げた人物として、その名は数多の逸話と共に語り継がれてきた。中でも、彼の人物像を鮮烈に象徴する物語の一つに、「関白任官の日、下々にも銭を撒き、『民の喜びこそ天下』と語った」とされる庶民譚がある。この逸話は、農民の子から天下の最高位である関白にまで上り詰めた男が、その栄光の頂点においてなお、自らの原点である民衆を忘れず、その喜びを自らの喜びとした、という気宇壮大な英雄の姿を我々に提示する。
本報告書は、この「関白任官の日の銭撒き」という、具体的かつ鮮烈なイメージを伴う庶民譚にのみ焦点を絞り、その深層を徹底的に解明することを目的とする。我々はまず、「この出来事は、いつ、どこで、どのようにして起こったのか?」という問いを立てる。そして、さらに根源的な問いとして、「そもそも、これは歴史的事実なのか、それとも後世の創作なのか?」という核心に迫る。
調査は三部構成で進める。第一部では、同時代の一次史料を駆使し、関白任官という歴史的事件が起こった当日の京都の実像を、政治的文脈から厳密に再構築する。第二部では、この逸話の源流を特定し、それが生まれた文学作品の記述に基づき、あたかもその場に居合わせたかのように物語の情景を時系列で詳細に再現する。そして第三部では、史実ではないとすれば、なぜこの逸話が生まれ、江戸時代の民衆に広く受け入れられ、愛され続けるに至ったのか、その文化的・社会的背景を深く考察していく。史実の探求と物語の分析を通じて、我々は一人の英雄を巡る、歴史の重層的な姿を明らかにしていく。
第一部:史実の舞台 ― 天正十三年七月十一日の京都
逸話の真偽を検証するにあたり、まず我々が立つべきは、確かな史料に裏付けられた歴史の土台である。秀吉が関白に任官された天正13年(1585年)7月11日、京都では一体何が起こっていたのか。一次史料を紐解くと、そこには民衆との祝祭とは全く異なる、極めて高度な政治的駆け引きの舞台が浮かび上がってくる。
1-1. 関白への道:朝廷内の政争と秀吉の介入
秀吉の関白就任は、彼が単独でその地位を望み、獲得したという単純な構図ではなかった。その背景には、朝廷内部、特に摂政・関白を世襲する五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)の深刻な対立が存在した。天正13年、関白の地位を巡り、二条昭実と近衛信輔(後の信尹)が激しく争う「関白相論」が勃発する 1 。
ことの発端は、当時の関白であった二条昭実が左大臣の職を辞したことにあった。空位となった左大臣に近衛信輔が就任し、それに伴い内大臣であった羽柴秀吉が一段上の右大臣に昇進するという人事案が浮上した。しかし、信輔はこれに飽き足らず、関白の職も兼任したいと主張し、現職の昭実と全面対立するに至ったのである 1 。この朝廷内の人事抗争は膠着状態に陥ったが、ここに秀吉が介入する絶好の機会が生まれた。彼は、織田信長の後継者として天下の実権を掌握しつつある自身の武力を背景に、この争いの調停者として乗り出した。結果的に、秀吉は対立する両者を抑え、自らが関白に就任するという驚くべき解決策を提示し、これを実現させた。この一連の動きは、秀吉が単なる武人ではなく、既存の権威である朝廷の内部力学を巧みに利用し、自らの権威を確立していく卓越した政治家であったことを如実に示している。
1-2. 任官儀式の実際:宮中の厳粛な一日
武家の出身である秀吉が、藤原氏の長者のみに許される関白の地位に就くことは、前代未聞のことであった。これを可能にするため、極めて異例の措置が取られた。五摂家の筆頭である近衛前久が、秀吉を形式上の子、すなわち「猶子(ゆうし)」として迎えたのである 3 。猶子とは、相続を目的としない仮の親子関係であり、これにより秀吉は藤原氏の一員という資格を得て、関白就任への道筋をつけた。これは、伝統と格式を何よりも重んじる公家社会の論理に、秀吉が形式上は従うという姿勢を見せたことを意味する。
こうして迎えた天正13年7月11日の任官式は、内裏(御所)において極めて厳粛な雰囲気の中で執り行われた。この儀式は、単なる地位の授与に留まらなかった。秀吉はこの場で、天皇や公家の所領を保証すること、そして関白である自身の命令に背かないことなどを記した誓約書を参列者たちに提示した 4 。参列していたのは、徳川家康や織田信雄といった有力大名たちであり、彼らはこの文書に署名することで、朝廷と、その代行者たる秀吉への忠誠を誓わされたのである。
これらの事実が示すのは、関白任官の日が、天下の新たな秩序と権力構造を内外に示すための、高度に政治的なセレモニーであったということだ。その場は、天皇、公卿、そして全国の有力大名によって構成されており、民衆が自由に入り込み、祝賀の声を上げるような開かれた祝祭では断じてなかった。
1-3. 一次史料の沈黙:語られなかった「銭撒き」
では、この厳粛な一日の様子を、同時代の人々はどのように記録していたのだろうか。幸いにも、我々には当時の京都の情勢を克明に記した、信頼性の高い複数の一次史料が残されている。その代表格が、神官であり公家でもあった吉田兼見の日記『兼見卿記』と、奈良・興福寺の多聞院英俊らによって記された『多聞院日記』である 5 。
これらの日記は、宮中の儀式や政治の動向だけでなく、京の市中の噂話や季節の移ろいに至るまで、多岐にわたる情報を記録しており、当時の社会を知る上で一級の史料とされる。しかし、秀吉が関白に任官した天正13年7月11日の条項をいくら精査しても、「銭を撒いた」という記述はどこにも見当たらない。『兼見卿記』の同日の記録には、秀吉の関白任官そのものについての言及はあるものの、むしろ兼見自身の関心事は、間近に迫った盂蘭盆会の灯籠を禁裏(天皇)と二条御所(皇太子)のどちらに献上すべきか、という点にあったことが記されているのみである 8 。
この一次史料の沈黙は、単に「記録が残っていない」ということ以上の、決定的な意味を持つ。もし、新任の関白が京の路上で民衆に銭を撒くという、前代未聞の壮大なパフォーマンスを繰り広げたならば、それは京の都を揺るがす大事件として、人々の耳目を集めないはずがない。情報に敏感な兼見のような人物が、この一大イベントを日記に書き留めないとは考え難い。つまり、史料における「あるべき記録の欠如」は、その出来事自体が存在しなかったことを示す、極めて強力な状況証拠となる。
以上の史実的検証から、秀吉が関白任官の日に民衆へ銭を撒いたという逸話は、同時代に起こった事実ではないと結論づけるのが、歴史学的なアプローチとして最も妥当である。この「史実の不在」こそが、我々を次の探求、すなわち「物語の誕生」の謎へと導くのである。
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典拠(史料名) |
記録されている当日の出来事 |
『銭撒き』に関する言及の有無 |
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『兼見卿記』 |
関白任官の儀式。吉田兼見自身は盂蘭盆会の灯籠について思案。 |
無し |
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『多聞院日記』 |
(同日の直接的な記述は乏しいが)朝廷や武家の政治動向に関する記述が中心。 |
無し |
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『絵本太閤記』 |
宮中での関白任官の後、京の路上で民衆の歓呼に応え、秀吉が自ら銀銭を撒き、「民の喜びこそ天下」と語る。 |
有り(逸話の主要場面として詳細に描写) |
第二部:逸話の誕生と情景 ― 『絵本太閤記』が描いた世界
史実の世界にその痕跡を見出せなかった「銭撒き」の逸話は、一体どこで生まれたのか。その源流を辿る旅は、我々を戦国時代から約二百年後の江戸時代中期へと誘う。そこで我々は、この物語を生き生きと描き出し、民衆の心に深く刻み込んだ一冊の書物に行き着く。
2-1. 物語の源泉:江戸のベストセラー『絵本太閤記』
問題の逸話の直接的な典拠は、江戸時代中期、寛政9年(1797年)から享和2年(1802年)にかけて刊行された読本(よみほん)、『絵本太閤記』である 9 。この作品は、武内確斎が文章を、岡田玉山が挿絵を手掛けた、全7編84冊にも及ぶ長大な物語であった 9 。
『絵本太閤記』は、歴史的事実を正確に後世に伝えることを第一の目的とした史書ではない。その内容は、天明期に講釈師・白栄堂長衛によって成立したとされる実録体小説『太閤真顕記』などを下敷きにしており、史実を題材としながらも、読者の興味を引くように大胆な脚色や創作が加えられた、いわば「歴史エンターテイメント」作品であった 11 。当時の人々は、この書物を通じて、英雄・豊臣秀吉の波乱万丈の生涯を、手に汗握る物語として楽しんだのである。この作品の性格、すなわち史実性よりも物語としての劇的な効果を優先するという基本姿勢を理解することこそ、我々が探求する逸話の本質を捉えるための鍵となる。
2-2. 逸話の時系列再現:京の路上、天下人と民の交歓
それでは、『絵本太閤記』が描いた、あの鮮烈な一日を、その記述に沿って時系列で再現してみよう。これは史実ではない。しかし、二百年以上にわたって日本人の心に「真実」として響いてきた、もう一つの「歴史」の情景である。
【場面設定:宮中からの退出】
天正十三年七月十一日、昼下がり。内裏での関白任官の儀式を滞りなく終えた羽柴秀吉(作中では真柴久吉などの名で登場することもある)の一行が、威儀を正して宮門から現れる。空にはまばゆい夏の陽が輝き、京の町は祝賀の熱気に包まれている。
【行列の描写】
行列の先頭を進むのは、色とりどりの母衣(ほろ)を背負った精鋭の武者たち。その顔に戦場の緊張はなく、主君の栄誉を自らのことのように誇る喜びに満ちている。秀吉は、金糸銀糸で豪華絢爛な刺繍が施された直垂(ひたたれ)を身にまとい、悠然と馬を進める。その顔には、足軽の子として生を受けてから長年にわたる辛苦が、ついに報われたという深い満足感と、天下を掌中に収めた者のみが持つ絶対的な自信が漲っている。
【民衆の熱狂】
秀吉の行列が内裏大路を進むと、その沿道には噂を聞きつけた京の民衆が、まるで堤防から溢れ出す水のように黒山の人だかりをなしていた。「関白様!」「日の本一!」「太閤様!」という歓声が、京の空にこだまし、波のように次から次へと湧き上がる。汗まみれの農民、腕の良い職人、抜け目のない商人、腰の曲がった老婆から目を輝かせる子供まで、あらゆる階層の人々が、この国の新しい支配者の姿をひと目見ようと、互いに肩を寄せ合い、身を乗り出している。
【銭撒きの瞬間】
行列が二条の辻に差し掛かった、まさにその時であった。秀吉はふと手綱を引き、馬を止めた。そして、喧騒に満ちた群衆を、慈しむような眼差しでゆっくりと見渡した。一瞬の静寂。次いで、傍らに控える側近に目配せを送る。側近が恭しく差し出した大きな革袋から、秀吉は自らの手で無造作に銀銭を掴み取ると、それを高らかに天へと放り投げた。陽光を乱反射し、きらきらと輝く銀の雨が、歓声を上げる民衆の頭上へと降り注ぐ。人々は「おおっ」というどよめきと共に、我先にと地面に散らばる銭を拾い集め、感謝の声を口々に叫んだ。
【クライマックスの言葉】
銭の奪い合いで生じかけた混乱を制するように、秀吉は腹の底から響くような朗々たる声で言い放った。
「静まれ! 静まれ! 銭はまだまだあるぞ。今日のこの喜びは、わし一人のものではない。そなたら民(たみ)の喜びがあってこそ、真の天下泰平は成る。民の喜びこそ、天下そのものである!」
【結び】
その言葉に、民衆は再び「うぉーっ」という地鳴りのような大歓声を上げた。彼らは、ただ銭という物理的な恵みを与えられただけではなかった。天下人と心を分かち合い、新しい時代の到来を共に祝う当事者として認められたという、魂を揺さぶるような感動に打ち震えていた。秀吉は、その光景に満足げに頷くと、再び馬を進め、やがて築かれることになる聚楽第の方角へと、栄光の行列を率いていくのであった。
2-3. 視覚的インパクト:一枚の絵が歴史を創る
『絵本太閤記』が江戸時代を通じて空前のベストセラーとなった大きな要因は、武内確斎の巧みな文章に加え、岡田玉山による臨場感あふれる挿絵にあった。特に、本報告書で取り上げている場面を描いた「太閤記:秀吉銀銭を撒く」と題された一枚の絵は、この逸話のイメージを決定づけ、人々の記憶に深く焼き付ける上で絶大な効果を発揮した 14 。馬上の秀吉が豪快に銭を撒く姿、そしてそれに熱狂する民衆の姿を生き生きと描いたこの挿絵は、文章を読む以上の直接的なインパクトをもって、この物語を享受させたのである。
さらに、この劇的な構図は、より大衆的なメディアであった浮世絵の世界にも多大な影響を与えた。幕末から明治にかけて活躍した天才絵師・歌川国芳をはじめとする多くの浮世絵師たちが、『絵本太閤記』に題材を求め、この「銭撒き」の場面を繰り返し描いた 10 。これにより、逸話は書物を読まない人々にも視覚的なイメージとして広く浸透し、社会全体の共通認識となっていった。
ここで見えてくるのは、この逸話がテキストによる情報以上に、「ビジュアル」によって拡散し、人々の記憶に定着したという事実である。人の記憶は、抽象的な文字情報よりも、具体的な視覚情報の方が強く、そして感情を伴って刻まれやすい。岡田玉山が描き、後の浮世絵師たちが再生産した一枚の絵は、一次史料の不在という決定的な弱点を乗り越え、あたかも歴史的瞬間の証拠写真であるかのようなリアリティを人々に与えた。すなわち、「秀吉が銭を撒いた」という行為は、歴史的事実としてではなく、まず「一枚の絵」として人々の心に刻まれたのである。この視覚的証拠の強力な存在こそが、逸話の信憑性を補強し、後世の人々がこれを史実と信じる大きな要因となったと言えるだろう。
第三部:なぜこの逸話は創られ、愛されたのか
史実ではなく、江戸時代の創作であった「銭撒き」の逸話。しかし、我々の探求はここで終わるべきではない。むしろ、ここからが本質的な問いの始まりである。なぜ、このような物語が創られなければならなかったのか。そして、なぜそれは二百年以上にわたって人々の心を捉え、愛され続けてきたのか。この逸話の背後には、英雄・秀吉の物語を完成させたいという作者の意図と、それを享受した江戸の民衆の切実な願望が横たわっている。
3-1. 英雄像の創造:百姓から天下人への物語の完成
豊臣秀吉の生涯は、その出自の低さという点において、日本の支配者の中で極めて特異な存在であった。彼自身、そのことに強いコンプレックスを抱いていたとされ、史料を破棄させたり、出自を隠したりした形跡が見られる 16 。それどころか、自らの権威を高めるため、御伽衆の大村由己に書かせた『天正記』の中では、母(大政所)が宮仕え中に天皇の子を宿したかのような、いわゆる貴種流離譚を仄めかしたことさえある 18 。
一方で、彼が天下人となった後の江戸時代には、その低い身分からの立身出世物語が、講談や読本の世界で絶大な人気を博した 19 。この「銭撒き」の逸話は、秀吉の物語における二つの極めて重要な側面、すなわち「最も低い出自」と「最も高い地位」という両極端を、感動的に結びつけるための完璧な装置として機能した。
英雄譚の構造において、主人公が成功の頂点に立った後、自らの原点を忘れず、かつての仲間や民衆に恩恵を施すという場面は、物語に深みと感動を与えるための定石である。「関白任官」は、秀吉の人生における成功の頂点を象徴する出来事である。その栄光の場で、彼が目を向けたのが、宮中にいる公卿や大名ではなく、路上にいる名もなき「民衆」であったという筋書きは、彼が決して自らの出自を忘れなかった高潔な人物であることを何よりも雄弁に物語る。「民の喜びこそ天下」という言葉は、単なる施しの言葉ではない。それは、「私はお前たちと同じ場所から来た。だから私の成功は、お前たち民衆すべての成功であり、希望なのだ」という、天下人から民衆へ送られた、極めて力強い連帯のメッセージとして解釈できる。この逸話は、秀吉の立身出世物語を、単なる一個人のサクセスストーリーから、民衆全体の夢と希望を乗せた「国民的叙事詩」へと昇華させるために不可欠な、まさに画竜点睛となる創作だったのである。
3-2. 江戸の民衆心理と「太閤記もの」の流行
この逸話がなぜ江戸時代中期に生まれ、広く受け入れられたのかを考える上で、当時の社会状況を無視することはできない。徳川幕府の下で二百年以上の泰平が続き、士農工商という厳格な身分制度が確立された江戸時代において、人々は生まれた身分によってその一生がほぼ決定づけられていた。そのような閉塞感のある社会において、個人の才覚一つで百姓から天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉の物語は、庶民にとってこの上なく痛快で、夢と希望を与えてくれる最高のエンターテイメントであった 19 。
『絵本太閤記』に代表される一連の作品群、いわゆる「太閤記もの」の流行は、こうした民衆の心理を背景にしている。また、時の権力者である徳川家を直接扱う物語は、幕府の検閲により内容が厳しく制限されたのに対し、前時代の英雄である秀吉の物語は、比較的自由に創作活動ができたという出版事情も、その流行を後押しした 22 。
この逸話が描く、天下人たる秀吉と、名もなき民衆との間に垣根のない、心温まる交流の場面は、厳格な身分社会に生きる江戸の人々にとって、一種の理想郷のように映ったであろう。お上に虐げられるのではなく、お上から慈悲をかけられ、喜びを分かち合える。そのような、現実にはあり得ない理想的な君主と民の関係を、人々は「太閤様」の物語の中に求め、享受したのである。
3-3. 史実の秀吉との乖離:寛大なる英雄か、厳格な支配者か
しかし、物語の中で理想化された英雄像は、史実の秀吉の姿と常に一致するわけではない。逸話が描く、気前良く銭を振る舞う寛大な秀吉像とは裏腹に、史実の彼は、天下の秩序を維持するためには極めて厳格で、時には冷徹な支配者としての一面を持っていた。
その象徴的な例が、彼が各地の戦で発布した軍令である。そこには、兵士による乱暴狼藉を厳しく禁じる条文が含まれており、特に「一銭でも盗んだ者は厳罰に処する」という規定は、「一銭切りの制札」として知られている 23 。民衆の財産を守るという側面はあったにせよ、わずか一銭の盗みで首が飛ぶという厳格さは、無償で銭を撒き散らす逸話のイメージとはまさに対極にある。
ここに、秀吉という人物に内在する二面性が浮かび上がる。「銭を撒く」という逸話は、人心掌握術に長け、民を慈しむ「寛大な英雄」の顔を象徴している。一方で、「一銭で首を斬る」という史実は、天下の秩序のためには非情な手段も厭わない「冷徹な支配者」の顔を象徴している。そして、『絵本太閤記』に代表される物語は、後者の民衆にとって厳しい現実を巧みに覆い隠し、前者の理想化されたイメージを人々の心に定着させるという、重要な役割を果たした。この逸話がこれほどまでに絶大な人気を博した背景には、史実の秀吉が持つ厳格さ、冷徹さという「不都合な真実」から目を逸らし、民衆が「こうであって欲しい」と心から願う英雄像を享受したいという、集合的な無意識の願望があったと言えるだろう。
結論:史実と庶民譚の狭間で ― 豊臣秀吉像の重層性
本報告書における徹底的な調査の結果、豊臣秀吉が関白任官の日に京の路上で民衆に銭を撒いたという逸話は、天正十三年七月十一日に起こった歴史的事実ではなく、それから約二百年の時を経た江戸時代中期に、読本『絵本太閤記』という文学作品の中で創造された物語であると結論づけられる。同時代の信頼性の高い一次史料には一切の記録がなく、逸話が描く祝祭的な雰囲気は、史実における厳粛な政治儀式の実態とは相容れない。
しかし、この逸話を単なる「偽史」や「作り話」として断罪し、切り捨てるのは早計である。なぜなら、この庶民譚は、史実の記録以上に豊臣秀吉という歴史上の人物のパブリックイメージを決定づけ、彼を「民衆の味方」「一代の英雄」として日本人の集合的記憶の中に深く刻み込んできたからである。史実としての真偽を超え、この物語は文化的な「真実」として、長きにわたり大きな影響力を持ってきた。
最終的に、この逸話は我々に、歴史というものの豊かで複雑な性質を教えてくれる。歴史とは、単なる過去の事実の集積ではない。それは、史実の記録が示す「政治家・秀吉」の姿と、民衆の願望が創り出した「物語の主人公・太閤様」の姿とが、時に反発し、時に融合しながら織りなす、重層的なタペストリーなのである。そして、その物語は後世の人々によって絶えず語り直され、新たな解釈と意味を与えられ続ける。この「銭撒き」の逸話は、そのダイナミックな歴史の営みを今に伝える、極めて貴重な一例であると言えよう。
引用文献
- 天皇を補佐した「関白」とは?|なぜ秀吉は関白になれたのか? その起源や歴史を解説【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1149711
- 関白相論 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96
- 豊臣秀吉はどうやって関白になったのか? その驚くべき手口とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2820
- 豊臣秀吉の関白就任 - ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/hideyoshi-kanpaku/
- 歴史の目的をめぐって 豊臣秀吉 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-20-toyotomi-hideyosi.html
- たひ くの文、つの中より見いたして、そのうらを、金剛経承砲十三の 幼少にしてかせて、薪心伝庵に待 - 宇治市 https://www.city.uji.kyoto.jp/uploaded/attachment/7754.pdf
- 多聞院日記 http://www.eva.hi-ho.ne.jp/t-kuramoti/rekisi_tamonin.html
- 天下統一期年譜 1580年 http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho14.htm
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- 太平記英雄傳 / Heroes of the Great Peace | 特集 | 山田書店美術部オンラインストア https://www.yamada-shoten.com/onlinestore/feature.php?sort=price_low&word=&feature=273&theme=&genre=&search_key=&unit=all
- 太閤記を読む - 名古屋市図書館 https://www.library.city.nagoya.jp/img/oshirase/2016/nakamura_201607_1_1.pdf
- 読本『絵本太閤記』 - 絵本太功記・夏祭浪花鑑|文化デジタルライブラリー https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc18/ehon/haikei/keifu/index4.html
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- 【天牛書店 Images】アンティーク素材専門ストックフォトサイト https://tengyu-images.com/product?id=5876
- 『絵本太閤記』の世界 | 企画展 - 日本浮世絵博物館 https://www.japan-ukiyoe-museum.com/exhibition/200/
- なぜ豊臣秀吉の出自は謎に包まれているのか…天下人になってもぬぐい切れなかったコンプレックス(プレジデントオンライン) - Yahoo!ファイナンス https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/b5ba7b16fdc228fe3b41d822cbcd78b2fa3e50ae
- なぜ豊臣秀吉の出自は謎に包まれているのか…天下人になってもぬぐい切れなかったコンプレックス NHK大河の主人公・秀長とは異父兄弟という説 (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/103696?page=2
- 豊臣秀吉 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
- 新撰太閤記(歌川豊宣)/ホームメイト https://www.touken-world-ukiyoe.jp/ukiyoe-series/shinsentaikoki/
- 意外!豊臣秀吉が「徳川の時代に大人気」だった訳 戦国武将のイメージは現代とは大きく異なる https://toyokeizai.net/articles/-/609596?display=b
- お城EXPO 2021 徹底ガイド⑥ テーマ展示「伝承する歴史―豊臣秀吉を中心に―」 - 城びと https://shirobito.jp/article/1479
- B2.6 絵本太閤記の衝撃 - ゑほんの絵 http://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/vm/Ehon201812/2018/09/post-2.html
- 豊臣秀吉の制札(とよとみひでよしのせいさつ) - 松戸市 https://www.city.matsudo.chiba.jp/smph/miryoku/kankoumiryokubunka/odekakemap/odekakemap/bunkazai-map/shishitei/si25.html