豊臣秀次
~切腹前夜、金襴の直衣で舞う~
豊臣秀次の「切腹前夜、金襥の直衣で舞った」逸話は史実でなく、秀吉による一族粛清を正当化するプロパガンダ。秀次は冷静に死を受け入れ、辞世の句は無念を伝える。
関白、最後の舞―豊臣秀次「金襥直衣の虚飾譚」と切腹に至る八日間の真相
序章:華麗なる虚飾―「金襥の直衣で舞った」逸話の提起と検証
豊臣秀次、関白の座に就きながら、叔父である太閤秀吉によって追放され、非業の死を遂げた悲劇の人物。彼の最期をめぐる物語の中で、ひときわ鮮烈な印象を放つ逸話がある。それは「切腹の前夜、金襥(きんらん)の直衣(のうし)をまとい、華麗に舞った」というものである。死を目前にした若き関白が、豪華絢爛な装束で舞い納める。この情景は、破滅的な美しさと狂気をはらみ、秀次という人物の悲劇性を象徴する物語として、後世の人々の心を強く捉えてきた。
しかし、この劇的な逸話は、歴史の真実を映し出しているのだろうか。結論から言えば、この「最後の舞」は、史実の闇に浮かぶ幻影、すなわち「虚飾譚」である可能性が極めて高い。江戸時代初期に成立した軍記物である小瀬甫庵の『甫庵太閤記』や、比較的史料価値が高いとされる川角三郎右衛門の『川角太閤記』を精査しても、この逸話に関する記述は一切見当たらない 1 。ましてや、当時の公家の日記である『兼見卿記』や『言経卿記』といった一次史料には、そのような記録は皆無である 5 。
歴史とは、時に「語られたこと」だけでなく、「語られなかったこと」や「創作されたこと」を分析することで、より深い真相に迫ることができる。この逸話の「不在」こそが、秀次事件の本質を解き明かす鍵となる。なぜ、史実にはない「舞」という虚構が生まれ、語り継がれる必要があったのか。そして、この華麗なる虚飾譚が覆い隠してしまった、秀次の最期の真実の姿とは、一体どのようなものであったのか。
本レポートは、この「不在の逸話」を手がかりとして、文禄四年(1595年)七月、秀次が聚楽第を出てから高野山で自刃するに至るまでの運命の八日間に実際に何が起こったのかを、最新の研究成果を交えながら、可能な限りリアルタイムに近い形で再構築することを目的とする 6 。この逸話は、秀次事件の悲劇性を矮小化し、彼を「常軌を逸した人物」として印象操作するための装置として機能したのではないかという仮説のもと、虚構のベールを剥ぎ取り、その下に横たわる歴史の真実に光を当てるものである。
第一章:運命の八日間―高野山への道程(文禄四年七月八日~十四日)
関白豊臣秀次の運命が暗転し、死へと向かう歯車が回り始めたのは、文禄四年七月八日のことであった。この日から切腹当日の十五日に至るまでの八日間は、秀次本人の行動と、彼を取り巻く豊臣政権の対応が複雑に絡み合い、悲劇的な結末へと突き進んでいく緊迫の期間であった。事件の全体像を俯瞰するため、まずその詳細な時系列を以下に示す。
豊臣秀次事件 関連年表(文禄四年七月八日~八月二日)
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日付(文禄四年) |
場所 |
主要な出来事 |
関連人物・史料 |
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七月八日 |
聚楽第→伏見→玉水 |
秀次、秀吉との面会を求めるも叶わず、高野山へ出奔。「遁世」「出奔」と記録される 5 。 |
『言経卿記』、『兼見卿記』 |
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七月九日 |
奈良 |
奈良に逗留。 |
- |
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七月十日 |
高野山 |
青巌寺に到着 6 。 |
木食応其 |
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七月十一日 |
高野山・青巌寺 |
秀次、剃髪し出家する 9 。 |
- |
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七月十三日 |
京 |
秀次の家臣(木村重茲、白江成定、熊谷直之ら)が切腹・斬首される 10 。 |
『太閤さま軍記のうち』 |
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七月十四日 |
高野山・青巌寺 |
秀吉からの使者(福島正則ら)が高野山に到着 8 。 |
福島正則、池田秀雄ら |
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七月十五日 |
高野山・青巌寺 |
秀次、切腹。近習5名が殉死 10 。 |
雀部重政、山本主殿助ら |
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八月二日 |
京・三条河原 |
秀次の妻子・侍女ら39名が公開処刑される 6 。 |
一の台、駒姫ら |
七月八日:決裂と出奔
七月八日、秀次は何らかの「謀反の嫌疑」をかけられ、その弁明のために京都の聚楽第を発ち、伏見城にいる叔父・秀吉のもとへ向かった 2 。しかし、彼を待っていたのは冷酷な現実であった。秀吉との面会は許されず、天下人の居城である伏見城への入城すら叶わなかったのである 11 。この時点で、両者の関係が修復不可能な段階に至っていたことは明らかであった。
この日の秀次の行動について、同時代の公家たちは注目すべき記録を残している。山科言経は『言経卿記』に「秀吉と義絶し、夕刻に遁世して高野山に向かった」と記し、『大外記中原師生母記』は「関白が高野山へ元結を切って御出奔なさった」と記している 5 。これらの記述は、秀吉による一方的な「追放」というよりも、秀次が自らの意志で俗世との縁を断ち、高野山へ向かった「出奔」という側面が強かったことを示唆している。
近年の研究、特に矢部健太郎氏らが提唱する新説によれば、秀吉の当初の意図は、必ずしも秀次の殺害ではなかったとされる 5 。むしろ、関白職を解いた上で高野山に隠棲させる「高野住山」という形で、穏便に事態を収拾しようとしていた可能性が指摘されている 6 。もしそうであれば、秀次の「出奔」は秀吉の想定を超える行動であり、豊臣政権にとっての危機の始まりであった。この行動は、事態の沈静化どころか、さらなる混乱の連鎖を引き起こす最初の引き金となったのである。従来の「秀吉が邪魔な秀次を殺した」という単純な構図ではなく、「双方の誤算と対応の連鎖が生み出した悲劇」という新たな事件像がここから浮かび上がってくる。
七月十日~十四日:静寂と嵐の前の静けさ
伏見を発った秀次一行は、九日に奈良に逗留した後、十日の夕刻に高野山へ到着し、青巌寺に入った 6 。この青巌寺は、単なる寺院ではない。天正二十年(1592年)に秀吉が母・大政所の菩提を弔うために、木食応其に命じて建立させた、豊臣家にとって極めて重要な意味を持つ場所であった 2 。秀吉が、そのような聖域で秀次に切腹を命じるのは不自然であるという見方も、秀吉の殺意を当初から疑問視する根拠の一つとなっている 2 。
翌十一日、秀次は剃髪し、正式に出家の身となった 9 。この時点では、彼自身も高野山での隠棲生活を覚悟していた可能性が高い。しかし、彼が静かに仏門に入っていたその裏で、京の都では血の嵐が吹き荒れようとしていた。
七月十三日、秀吉政権は秀次を完全に孤立させるための強硬策に打って出る。秀次の側近であった木村重茲、熊谷直之、白江成定らが次々と切腹、あるいは斬首されたのである 10 。これは、秀次の支持基盤を物理的に破壊し、事態の完全な掌握を目指す政権の冷徹な意思表示であった。高野山の秀次に、この情報が正確に伝わっていたかは定かではないが、都の不穏な空気は、何らかの形で彼の耳にも届いていたであろう。
そして七月十四日、運命の日を翌日に控え、福島正則、池田秀雄、福原長堯の三名が、秀吉からの上使として高野山に到着した 8 。彼らが携えていた命令の内容については、歴史家の間でも見解が分かれている。『甫庵太閤記』には、この時すでに明確な「切腹命令書」が渡されたと記されている 2 。一方で、秀吉が発給した「秀次高野住山」を命じる朱印状が現存しており、上使が持参したのはこちらで、切腹は秀次自身の決断だったとする説もある 2 。いずれにせよ、この上使の到着が、秀次に残された時間が尽きたことを告げる合図となったことは間違いない。
第二章:静寂の終焉―切腹当日のリアルタイム再現(七月十五日)
「金襥の直衣で舞った」という虚飾譚が描こうとした切腹前夜、その史実の姿は、華麗な舞踏とは似ても似つかぬ、静謐かつ壮絶なものであった。文禄四年七月十五日、高野山青巌寺「柳の間」で繰り広げられた一連の出来事を、『川角太閤記』など比較的詳細な記録に基づき、リアルタイムで再構成する 8 。
午前:上使との対面と最後の覚悟
七月十五日の午前、高野山青巌寺の一室で、秀次は近習らと静かに時を過ごしていた。そこへ、前日に到着していた上使、福島正則らが訪れる。『川角太閤記』によれば、彼らは秀吉の最終的な意向として「御切腹なされ候へとの御意に候」と伝えたとされる 8 。この言葉が、秀吉からの直接的な命令であったか、あるいはもはや弁明の余地はなく自ら死を選ぶ以外に道はないという最終通告であったかについては議論が残る。しかし、いずれにせよ、秀次はこの通告を冷静に受け入れた。京での家臣たちの誅殺を知り、もはや自らの潔白を証明する術も、生き長らえる望みも完全に絶たれたと悟った彼の心は、武士として死を受け入れる覚悟で満たされていたのであろう。
最後の宴と殉死の絆
死を決意した秀次は、自らに殉じることを申し出た近習たちとの最後の時間を過ごす。その顔ぶれは、小姓の山本主殿助、山田三十郎、不破万作、そして傅役(もりやく)でもあった禅僧の虎岩玄隆らであった 10 。彼らは静かに最後の酒宴を催したと伝わる。ここには、逸話が語るような狂気をはらんだ舞や自己陶酔的な華やかさはない。ただ、死出の旅路を前にした主君と家臣が、互いの忠義と絆を確かめ合う、厳粛で濃密な時間が流れていた。秀次は、殉死する者たちに自身の愛刀を形見として分け与えたという。それは、彼らの揺るぎない忠誠心に対する、主君からの最後の恩賞であった。
壮絶なる切腹の儀
酒宴の後、いよいよ最期の儀式が始まる。その光景は、日本の武士の歴史の中でも類を見ないほど壮絶なものであった。
まず、小姓の山本主殿助、山田三十郎、不破万作の三名が、主君から賜った脇差で見事に腹を切り、殉死を遂げた。そして、驚くべきことに、その三名の介錯を秀次自らが務めたと記録されている 10 。主君が、自らに殉じる家臣の首をその手で落とす。これは、単なる主従関係を超えた、究極の信頼と責任の表れであった。虚飾譚における自己陶酔的な「舞」とは対極にある、他者との強固な関係性の中で死にゆく姿がここにある。この「介錯」という行為は、事件の本質が個人的な狂気ではなく、主従の倫理という武家社会の根幹に基づいた悲劇であったことを何よりも雄弁に物語っている。
三名の殉死を見届けた後、禅僧の虎岩玄隆も太刀で自らの腹を切り、果てた。そして五番目、ついに秀次の番となる。彼はかねてより介錯を依頼していた雀部重政(淡路守)に対し、静かにその時を告げた。雀部の太刀が一閃し、関白豊臣秀次は、その波乱の生涯に幕を下ろした。享年28 10 。
この一連の出来事は、青巌寺の柳の間で、静寂の中で粛々と、しかし凄絶に行われた。そこにあったのは、舞に興じる狂人の姿ではなく、己の運命を受け入れ、家臣への責任を果たし、武士としての死を全うした一人の青年の姿であった。
第三章:なぜ「舞」は創作されたのか―「殺生関白」像の形成と逸話の機能
秀次の最期が、静謐かつ壮絶なものであったとすれば、なぜ「金襥の直衣で舞う」という、史実とはかけ離れた虚飾譚が生まれ、広く受け入れられるに至ったのか。その背景には、秀次事件の後に豊臣政権が直面した政治的要請と、江戸時代を通じて形成されていった「殺生関白」という人物像が深く関わっている。
「殺生関白」というレッテル
秀次の悪行に関する最初の記録は、織田信長、豊臣秀吉に仕えた太田牛一が記した『太閤さま軍記のうち』(別名『大かうさまくんきのうち』)に遡る 19 。その中で、秀吉の養母である大政所の舅にあたる正親町上皇が崩御し、世間が喪に服している最中に、秀次が鹿狩りを行ったことが不謹慎であるとして、京の町で落首が立てられたと記されている。「院の御所にたむけのための狩りなればこれをせっしょう関白といふ」―この「摂政」と「殺生」をかけた揶揄が、「殺生関白」という悪名の原点となった 21 。
この逸話は、江戸時代に入り、小瀬甫庵が著したベストセラー『甫庵太閤記』によって、さらに増幅・脚色される。鹿狩りの話に加え、盲目の芸人(座頭)を斬り殺す場面などが追加され、「殺生」の意味合いが鳥獣から人間へと拡大解釈されていった 1 。そして、辻斬りを繰り返した、妊婦の腹を裂いて胎児を取り出した、といった常軌を逸した残虐非道な逸話が次々と付け加えられ、秀次は暴君の代名詞である「殺生関白」として歴史に刻み込まれることになった 19 。
しかし、現代の歴史研究では、これらの悪行の多くは同時代の信頼できる一次史料では確認できず、後世の創作や誇張である可能性が極めて高いと考えられている 5 。実際、秀次は近江八幡で善政を敷き、領民から慕われた領主としての一面や、古典籍を収集し和歌や茶の湯を嗜む当代一流の文化人としての一面も持っていた 19 。
一族粛清を正当化する物語
では、なぜこれほどまでに秀次の人物像は歪められなければならなかったのか。その最大の理由は、秀次の死後に起こった、前代未聞の一族粛清事件を正当化する必要があったからである。
文禄四年八月二日、秀吉の命令により、京の三条河原で秀次の妻子・侍女ら39名が公開処刑された 6 。まだ幼い若君や姫君までもが含まれるこの惨劇は、当時の人々にも大きな衝撃を与えた。もし、秀次が冤罪によって死に追いやられたのだとすれば、この一族の処刑は単なる大量虐殺であり、豊臣政権の正統性を根底から揺るがしかねない大失政となる 6 。
したがって、政権としては、秀次がこの残虐な処置を受けてもなお余りあるほどの「悪逆非道」な大罪人であったと、世間に広く喧伝する必要があった。「殺生関白」の物語は、まさにこの政治的要請に応える形で形成され、流布されたプロパガンダだったのである 5 。
「舞」の逸話が持つ機能
この「殺生関白」像を補強し、人々の記憶に定着させる上で、「金襥の直衣で舞う」という逸話は、極めて効果的な機能を果たした。
第一に、それは秀次の 非現実性と狂気性を演出する 。死を目前にして、悲嘆にくれるでもなく、覚悟を決めるでもなく、華麗に舞い踊る姿は、常人には到底理解しがたい狂気を帯びている。これにより、秀次を理性的な判断能力を欠いた危険人物として印象付けることができる。
第二に、金襥の直衣という豪華な衣装は、彼の デカダンス(退廃)と暴君としての側面を象徴する 。善政を敷いた名君としての一面を覆い隠し、贅沢三昧にふける享楽的な人物というイメージを植え付ける。
第三に、この逸話は、史実の最期が持つ 悲劇性を無化する 効果を持つ。静謐な中で家臣との絆を確かめ合いながら迎えた死は、人々の同情を強く誘う。しかし、派手な舞というパフォーマンスに置き換えることで、その悲劇性は薄められ、秀次の死を「自業自得の末路」として受け入れさせやすくする。
さらに、こうした物語は、豊臣政権のプロパガンダという側面だけでなく、江戸時代の庶民の娯楽への渇望という需要にも応えるものであった。勧善懲悪の分かりやすい構図を持つ「暴君の末路」という物語は、講談や草双紙の格好の題材となり、大衆文化の中で消費されるうちに、より過激で劇的な話へと脚色されていったと考えられる。政治的プロパガンダとして生まれ、大衆娯楽として育ったのが、「殺生関白」と「最後の舞」という虚飾の物語だったのである。
終章:舞に非ず、歌にこそ―辞世の句に込められた真情
豊臣秀次が、その最期に自らを表現する手段として選んだのは、身体的なパフォーマンスである「舞」ではなかった。関白という最高位の公卿であり、当代一流の文化人でもあった彼が、最後の心情を託したのは、洗練された知性の結晶である「和歌」であった。虚飾譚が描く狂乱の舞と、史実として残された辞世の句。この二つを対比させるとき、事件の真相はより一層鮮明に浮かび上がってくる。
秀次の辞世の句
高野山で自刃する直前、秀次が残したとされる代表的な辞世の句は、以下の通りである。
「月花を 心のままに 見尽くしぬ なにか浮き世に 思ひ残さむ」 25
(意訳:月も花も、この世の美しいものは心の赴くままに全て見尽くした。もはや、この無常の世に思い残すことなど何もない。)
この歌は、表面的には世俗への未練を断ち切り、死を受け入れたかのような静かな諦観を詠んでいる。しかし、わずか28歳の若さで、無実の罪を着せられ非業の死を遂げようとしている青年の胸中に、本当に一片の悔いもなかったであろうか。むしろ、その平静さを装った言葉の裏には、口に出すことのできない無念や憤り、そして豊臣家の将来を憂う複雑な思いが渦巻いていたと想像するのは、決して難しくない。彼が最後の表現手段として、感情の直接的な発露である舞ではなく、抑制の効いた定型詩である和歌を選んだという事実そのものが、彼の理知的な人柄を物語っている。
一族の悲痛な叫び
秀次本人の歌以上に、この事件の悲劇性を雄弁に物語るのが、彼の死から半月後の八月二日、三条河原の露と消えた妻妾たちが残した辞世の句である 28 。彼女たちの歌は、理不尽な運命に翻弄された生身の人間の、血の通った叫びそのものであった。
正室である一の台は、夫の無実と世の非情を鏡に託して詠んだ。
「故もなき 罪にあふみの かがみ山 くもれる御代の しるしなりけり」 28
(意訳:理由もない罪に問われた私。近江の鏡山が雲で曇っているのは、まさに道理が曇ってしまったこの時代の象徴なのでしょう。)
側室のお辰の前は、先に逝った夫と子の後を追う、悲しい覚悟を歌にした。
「夫(つま)や子に 誘われて 行く道なれば 何をか後に 思ひ残さん」 28
(意訳:先に旅立った夫や子供たちに誘われて逝く死出の道なのですから、この世に何を思い残すことがありましょうか。)
そして、出羽の大名・最上義光の娘であり、まだ若かった駒姫は、自らの潔白と仏への帰依を絶唱した。
「罪をきる弥陀のつるぎにかかる身の なにかいつつの障りあるへき」 30
(意訳:あらゆる罪を断ち切るという阿弥陀様の慈悲の剣にかかるこの身です。どうして成仏を妨げる五つの障りなどありましょうか。)
これらの和歌は、処刑された女性たちが単なる「謀反人の眷族」ではなく、豊かな教養と深い感情を持ち、それぞれの人生を生きていた個人であったことを、痛切に伝えている。
結論:虚飾と真実の彼方に
「金襥の直衣で舞った」という華麗な虚飾譚は、秀次一族の粛清という残虐な事実を正当化しようとする政治的意図と、物語としての面白さを求める後世の人々の想像力によって生み出された幻影に過ぎない。
その幻影の裏側には、武士としての矜持を胸に静かに死を受け入れた関白の覚悟と、和歌という洗練された言葉にしか託すことのできなかった一族の無念と悲しみという、あまりにも人間的な真実が隠されていた。虚飾譚が、秀次を「感情的で理解不能な狂人」へと変質させたのに対し、史実は彼が最後まで「理性的で教養ある統治者」として振る舞ったことを示している。
豊臣秀次事件の本質は、狂人の舞踏にあるのではない。それは、理不尽な権力によって未来を断たれた一族が、その最期に和歌という形で遺した、悲痛にして気高い叫びの中にこそ、見出されるべきなのである。
引用文献
- 年半年後に秀次が謀反の企てをしたとして本人 - 見本 http://umenoyaissei.com/kanpakutoyotomihidetugu.html
- 無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相 https://mag.japaaan.com/archives/246041
- 太閤記|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1871
- 川角太閤記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%A7%92%E5%A4%AA%E9%96%A4%E8%A8%98
- 「豊臣秀次切腹事件」には大きなウソがある! 歴史を動かした大事件 ... https://toyokeizai.net/articles/-/128078?display=b
- 事件の背景について - 夢ナビ https://yumenavi.info/douga/2019/doc/201923112.pdf
- 第3回 「豊臣秀次の切腹事件と刀・脇指」 | 全日本剣道連盟 AJKF https://www.kendo.or.jp/knowledge/books/column_03/
- 関 白 秀 次 失 脚 自 刃 事 件 と 木 食 応 其 上 人 - 奈良工業高等専門学校 https://www.nara-k.ac.jp/nnct-library/publication/pdf/h27kiyo7.pdf
- 青巌寺 - SHINDEN - 神殿大観 https://shinden.boo.jp/wiki/%E9%9D%92%E5%B7%8C%E5%AF%BA
- 豊臣秀次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
- 豊臣秀吉の「残酷すぎる所業」 妻子まで処刑された秀次は、本当に「悪人」だったのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/32030
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- 新説!豊臣家を滅ぼした「組織運営」の大失敗 「秀次切腹事件」がターニングポイントだった https://toyokeizai.net/articles/-/117781
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- 青巌寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B7%8C%E5%AF%BA
- 寺内のご案内 - 高野山真言宗 総本山金剛峯寺 https://www.koyasan.or.jp/kongobuji/jinai.html
- 豊臣秀次とは?悲劇の関白、その生涯と秀次事件の真相に迫る - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/toyotomihidetsugu2/
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- 豊臣秀次事件の謎…なぜ秀吉は秀次に切腹を命じたのか?諸説を探る - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2789
- 「豊臣秀次」とはどんな人物? 「殺生関白」と呼ばれ切腹に至るまでの生涯を詳しく解説【親子で歴史を学ぶ】 - HugKum https://hugkum.sho.jp/612055
- 豊臣秀次の辞世 戦国百人一首52|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/n0ac39d222740
- 異説秀次 - ZTV https://www.zc.ztv.ne.jp/exazkg5j/isetuhidetugu.htm
- 一の台(豊臣秀次室)の辞世 戦国百人一首53|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/nbea823ed7b2f
- 関白 秀次公側室の辞世の句について - toukou20 http://ryugen3.sakura.ne.jp/toukou2/toukou61.htm
- 関白 豊臣秀次公側室の辞世の和歌 - toukou20 https://ryugen3.sakura.ne.jp/toukou2/jiseinowaka.htm
- 瑞泉寺裂 - 京都・慈舟山瑞泉寺 https://zuisenji-temple.net/treasure/kire/