最終更新日 2025-10-23

豊臣秀長
 ~秀吉の怒りにも微笑み温情を示す~

豊臣秀長は、兄・秀吉の激情を「兄上も人なれば」の一言で鎮め、その暴走を食い止めた。温厚篤実な補佐役として豊臣政権を支え、その死が政権の不安定化を招いた。

徹底解剖:豊臣秀長「兄上も人なれば」—微笑の裏に秘められた諫言の真相

序章:伝説と化した一場面

「兄上も人なれば」

戦国時代の数多の逸話の中でも、豊臣秀長の人物像をこれほど鮮やかに、そして的確に象徴する言葉は少ない。天下人たる兄・豊臣秀吉が烈火の如く怒り、近親者を手討ちにせんとするその刹那、弟の秀長は静かな微笑をたたえ、この一言をもって兄の激情を鎮めたと伝えられる。この物語は、温厚篤実にして理性的、そして唯一人、兄の暴走を食い止めることができた理想の補佐役としての秀長の姿を、後世に強く印象付けた 1 。絶対的な権力者に対し、いかにして理と情をもって向き合うべきか。その普遍的な問いへの一つの答えとして、この逸話は時代を超えて人々の心を捉え続けてきた。

しかしながら、この劇的な一場面が、同時代に記された一次史料に具体的に記録されているわけではない点には留意が必要である。この種の逸話の多くは、江戸時代に入ってから編纂された『名将言行録』や、史料的価値に議論はあるものの人物描写に富む『武功夜話』といった二次的な編纂物を通じて形成され、語り継がれてきたものである 4 。これらの書物は、歴史上の人物の言動を、後世の価値観や道徳観に照らして理想化、あるいは類型化して描く傾向を持つ。

したがって、本報告の目的は、この逸話を単なる史実として追認することにあるのではない。むしろ、この「物語」が生まれるに至った「歴史的核」、すなわち、この逸話の背景となったであろう具体的な出来事を特定し、その上で、なぜこのような物語が生まれ、豊臣政権の盛衰を語る上で不可欠なエピソードとして後世に伝えられる必要があったのか、その深層を解き明かすことにある。秀長の死後、豊臣家が急激に安定を失い、千利休の切腹、無謀な朝鮮出兵、そしてかつて秀長が命を救ったはずの甥・秀次の粛清といった悲劇が続発したという歴史的結末を知る後世の人々にとって、「秀長こそが政権の理性の最後の砦であった」という解釈は、極めて説得力を持つものであった 1 。この逸話は、史実の断片的な記録というよりも、豊臣家滅亡という結末から逆算して秀長の役割を最も劇的に象徴するために創作され、洗練された「道徳的寓話」としての側面が強い。歴史がいかに記憶され、意味づけられていくかを示す好例として、この一場面を徹底的に解剖する。

第一章:怒りの発端-小牧・長久手の戦いと甥・秀次の惨敗

戦略的背景:天下分け目の対峙

天正12年(1584年)、本能寺の変後の織田家の主導権を巡り、羽柴秀吉と、織田信長の次男・信雄を担ぐ徳川家康との間で、天下の覇権を賭けた一大決戦の火蓋が切られた。世に言う「小牧・長久手の戦い」である。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田家臣団の筆頭に躍り出た秀吉にとって、この戦いは自らの支配を盤石にするための最後の、そして最大の軍事的・政治的障壁であった。対する家康もまた、巧みな外交と軍事行動で東海地方に一大勢力を築き上げており、両雄の対決は避けられないものとなっていた。

「岡崎中入り」作戦と秀次の抜擢

戦いは、家康が築いた小牧山城の堅固な防備を前に、秀吉軍が攻めあぐねる形で膠着状態に陥った。この状況を打破すべく、秀吉陣営で大胆不敵な奇策が持ち上がる。家康の本拠地である三河・岡崎城を直接奇襲し、敵の背後を突くことで戦局を一気に動かそうという「岡崎中入り」作戦である。この作戦の成否は、奇襲部隊の神速の機動にかかっており、極めて高いリスクを伴うものであった。

この重要な別働隊の総大将として、秀吉が白羽の矢を立てたのは、当時17歳の甥、三好信吉(後の豊臣秀次)であった 8 。秀次は秀吉の姉の子であり、実子のいなかった秀吉にとっては養子同様に扱われ、将来を嘱望される若者であった。しかし、方面軍を率いるにはあまりにも若く、実戦経験も乏しい。この人選には、池田恒興や森長可といった歴戦の宿老が後見役として付けられたものの、そこには実績よりも血縁を重んじる豊臣政権の草創期ならではの構造が色濃く反映されていた。一門衆を抜擢することで自らの権威を高めようとする秀吉の期待と、それに伴う計り知れないリスクが、この時点で既に内包されていたのである。

壊滅の刻:長久手における大敗

天正12年4月9日、秀次を総大将とする約2万の別働隊は、岡崎を目指して密かに出陣した。しかし、彼らの動きは徳川方の諜報網によって完全に筒抜けであった。家康は自ら主力を率いて小牧山を出陣し、秀次軍の進路上に巧みな伏兵を配置して待ち構えていた。

夜が明けきらぬ早朝、白山林(現在の名古屋市守山区・尾張旭市)付近で休息を取っていた秀次隊は、徳川軍の榊原康政、水野忠重らの部隊による完璧な奇襲を受ける 9 。完全に意表を突かれた秀次軍は、組織的な抵抗もできないまま大混乱に陥り、潰走を始めた。総大将である秀次自身も馬を失い、供回りの馬でかろうじて戦場を離脱するという無様な敗走を演じる 9

この混乱を収拾すべく、後方に控えていた池田恒興・元助親子と森長可の部隊が奮戦する。しかし、彼らは深追いの末に徳川本隊の罠にはまり、逆に包囲殲滅される。池田恒興と森長可という、織田家時代から秀吉を支えてきた重臣たちが討ち死にするという最悪の結果を招いた 8 。この一戦は、単なる戦術的な敗北に留まらなかった。経験豊富な宿老を失い、一門の将が大敗を喫したという事実は、天下人を目指す秀吉の威信を根底から揺るがす大失態となったのである。


表1:長久手の戦いにおける羽柴・徳川両軍の動き(天正12年4月9日)

時刻(推定)

羽柴方(秀次、池田、森)の動き

徳川方(家康、榊原、水野など)の動き

戦況

午前4時頃

白山林にて休息中。徳川軍の接近に気づかず。

榊原康政、大須賀康高、水野忠重らが秀次隊の側面・後方に忍び寄る。

徳川軍による奇襲が開始される。

午前4時30分頃

奇襲を受け、陣形を組む間もなく大混乱に陥る。秀次は敗走を開始。

奇襲成功。秀次隊を追撃し、壊滅させる。

秀次隊、ほぼ戦闘能力を喪失。

午前6時頃

後続の池田恒興・森長可隊が秀次隊の敗報に接し、反撃を開始。

追撃部隊が池田・森隊と交戦。家康本隊も前進。

局地的な戦闘が開始される。

午前10時頃

池田・森隊が奮戦するも、徳川本隊の巧みな用兵により次第に包囲される。

家康本隊が戦場に到着。池田・森隊を三方から包囲する。

池田・森隊が孤立し、壊滅の危機に瀕する。

正午頃

森長可、続いて池田恒興・元助親子が討ち死に。

決定的な勝利を収める。

羽柴別働隊は完全に壊滅。

午後1時頃

生存者が敗走。

秀吉本隊の接近を警戒し、小幡城へ兵を引く。

戦闘終結。徳川軍の圧勝。


この時系列が示す通り、徳川軍の奇襲がいかに迅速かつ効果的であり、秀次軍の崩壊がいかに瞬く間であったかは一目瞭然である。この「瞬く間の壊滅」という事実は、後に報告を受ける秀吉の怒りの激しさを理解するための重要な前提条件となる。

第二章:激震-秀吉の陣営に届いた敗報

楽田本陣の空気

その頃、秀吉が本陣を構える尾張・楽田(現在の愛知県犬山市)では、緊張と期待が入り混じった空気が支配していた。別働隊の成功を信じ、家康の主力をおびき出してこれを殲滅するという、次なる一手に向けて全軍が待機していた。秀吉自身、この作戦には主体的に関与し、成功を確信していたと見られる 10 。彼の構想の中では、今頃、秀次率いる精鋭が三河を席巻し、家康は狼狽して小牧山の防衛線を放棄せざるを得なくなっているはずであった。

敗報、そして激昂

しかし、4月9日の昼頃、楽田の本陣にもたらされたのは、勝利の報せではなく、想像を絶する惨敗の報であった 10 。伝令がもたらした報告――秀次隊の壊滅、そして池田恒興・森長可の討ち死に――は、秀吉の描いた勝利の絵図を根底から覆すものであった。

史料によれば、秀吉の第一反応は、烈火の如き怒りであったと伝えられる 11 。その怒りは、複合的な感情の爆発であった。第一に、天下人としての面目を敵前で完全に打ち砕かれたことへの屈辱。第二に、織田家時代からの苦楽を共にした宿老を一度に二人も失ったことへの痛恨。そして何よりも、自らの一門であり、将来を託したはずの甥・秀次が、敵に歴史的な大勝利を献上し、一族の名に泥を塗ったことへの、殺意すら含むほどの激しい憤りであった。

この秀吉の怒りは、単なる感情の爆発に留まらない。それは、彼自身のアイデンティティの危機に対する防衛反応でもあった。農民から天下人に成り上がった秀吉にとって、その権威の源泉は圧倒的な「勝利」の連続によってのみ担保されていた 12 。この戦いに先立ち、徳川方の榊原康政は、秀吉の出自をあげつらい、その正統性を公然と非難する檄文をばらまいていた 14 。敵は、秀吉の最も触れられたくない弱点を的確に突いてきていたのである。そのような状況下での一門の将による惨敗は、「勝利者・秀吉」という自己イメージを根底から破壊しかねない、致命的な打撃であった。したがって、秀吉が秀次に向けた怒りは、個人的な失望感以上に、「我が一門に泥を塗り、天下人たる私の権威を失墜させた」という、極めて政治的な理由に基づいていたのである。

この激しい怒りの渦中にありながらも、秀吉は指揮官としての冷静さを完全には失っていなかった。彼は敗報を聞くや否や、自ら大軍を率いて救援に出撃するという迅速な対応を見せる 10 。しかし、時すでに遅く、秀吉が戦場に到着した頃には、家康は勝利の果実を手に、巧みに兵を引いた後であった。敵を討ち漏らしたという事実が、秀吉の無力感と怒りをさらに増幅させたことは想像に難くない。

混乱と収拾:秀長の役割

この全軍が動揺する危機的状況において、一人冷静に現実と向き合っていたのが、秀吉の弟・豊臣秀長であった。彼は、兄が本陣で怒りに震え、救援に出撃する間、別の場所で極めて重要な役割を果たしていた。すなわち、敗走してくる友軍を収容し、勢いに乗って追撃してくる徳川軍を食い止めるため、青塚(現在の犬山市)に堅固な陣を構え、戦線の全面的な崩壊を防いでいたのである 11 。感情に支配される兄とは対照的に、弟は冷徹に戦場の現実を処理し、被害を最小限に食い止めることに注力していた。この時点で既に、豊臣政権における兄弟の役割分担――「情」の秀吉と「理」の秀長――が明確に示されていたと言える。

第三章:対峙の刻-微笑の諫言

死を覚悟した秀次

長久手での惨敗から数日後、秀吉の本陣に、命からがら逃げ延びた豊臣秀次が引き出された。鎧は泥に汚れ、顔は憔悴しきっている。17歳の若者は、叔父であり主君である天下人の前に、死を覚悟してうなだれていた。周囲には黒田官兵衛や蜂須賀正勝といった諸将が息を殺して整列し、陣営全体が張り詰めた空気に包まれていた。彼らは、これから繰り広げられるであろう凄惨な結末を、固唾をのんで見守っていた。

怒りの頂点と抜かれた刀

秀次の姿を認めた秀吉の怒りは、再び頂点に達した。「この大うつけ者めが!」「一族の面汚しよ!」「戦のなんたるかも知らぬ若造が、池田や森を犬死にさせおって!」。罵詈雑言が容赦なく浴びせられる。そしてついに、秀吉は腰の刀に手をかけ、その切っ先を秀次に向けた。自らの手でこの愚かな甥を斬り捨て、軍律の厳しさと一族の恥を雪ごうとしたのである。陣営の空気は氷点下に達し、誰もが秀吉を止めることができずにいた。

静かなる介入:秀長の微笑

その殺伐とした空気を切り裂くように、一人の男が静かに進み出た。豊臣秀長である。彼は、兄の燃え盛るような怒気をその全身で受け止めながらも、少しも臆する様子を見せなかった。それどころか、伝承によれば、その口元にはかすかな「微笑」さえ浮かんでいたという。それは同情でもなければ、嘲笑でもない。全てを理解し、全てを包み込むかのような、絶対的な理性の表象であった。この場違いなまでの落ち着きと微笑は、異常なまでの場の支配力を発揮し、秀吉の激情の奔流に、一瞬の澱みを生じさせた。

「兄上も人なれば」:言葉の多重性

秀吉と秀次の間に立った秀長は、静かに、しかし凛とした声で、かの有名な一言を口にした。

「兄上も人なれば」

この短い言葉には、驚くほど多重的で、深い意味が込められていた。それは、その場にいる全ての人間に対して、異なる響きをもって届いたはずである。

第一に、 兄・秀吉への直接的な諫言 として。それは、「天下人といえども、あなたは神ではない。今まさに、怒りという人間的な感情に支配されようとしている。その激情に任せて身内を斬るという過ちを犯してはなりません」という、冷静さを取り戻すことを促す強いメッセージであった。

第二に、 甥・秀次への温情ある擁護 として。それは、「この秀次もまた、戦場で過ちを犯す未熟な一人の人間に過ぎません。完璧ではない人間を、たった一度の失敗で切り捨てるべきではありません」という、寛容を求める必死の訴えであった。

そして第三に、 その場にいる諸将への示唆 として。それは、「ここにいる我々も皆、いつ過ちを犯すか分からない不完全な人間である。我らが仕える主君は、神の如き絶対者ではなく、我々と同じ人間的な感情を持つ御方であり、だからこそ我々が理をもって支えねばならないのだ」という、豊臣家臣団という共同体全体への静かな呼びかけでもあった。

この諫言は、単なる宥和策ではなかった。それは、豊臣政権における「公」と「私」の峻別を促す、高度な政治的パフォーマンスであった。秀吉の怒りは、「私」的な感情(甥への失望)と、「公」的な立場(天下人としての面子)が未分化に混じり合った、極めて危険な状態にあった。このまま秀次を処断すれば、それは「私憤による身内の粛清」と見なされ、政権の未熟さと公私の区別がつかない不安定さを内外に露呈してしまう。秀長の「兄上(私)も人なれば」という言葉は、まず秀吉を「天下人(公)」の立場から一旦「兄(私)」という個人の立場に引き戻し、その上で、「人」の過ちを許すという普遍的な理屈(公的な正当性)を提示することで、秀吉が怒りを収めるための「公」的な大義名分を与えたのである。秀長は、秀吉の「私憤」を「公的な温情」へと昇華させるための道筋を、この一言で見事に作り出したのだ。

鎮火のプロセス

秀長の揺るぎない態度と、含蓄の深い言葉は、燃え盛る秀吉の怒りの炎を徐々に鎮めていった 15 。刀を握りしめていた秀吉の指から力が抜け、荒かった息遣いも次第に落ち着きを取り戻していく。激情に駆られた天下人は、弟の絶対的な理性の前に、ようやく我に返った。秀長の理性が、秀吉の感情を包み込み、溶かしていくかのような、静かで劇的な瞬間であった。

第四章:温情の帰結と秀長の役割

名誉挽回の機会

秀長のとりなしによって、豊臣秀次は一命を取り留めた。しかし、秀長の真価は、ただ命を救っただけに留まらなかった点にある。彼は、その後の豊臣家の将来を見据え、秀次の名誉を回復させるための具体的な道筋をつけた。翌天正13年(1585年)の紀州征伐において、秀長は秀次を自身の配下で後見人として支え、実戦の経験を積ませることで、失墜した彼の信頼を取り戻す手助けをしたのである 16 。この一連の行動は、秀長の諫言がその場しのぎの感情論ではなく、豊臣家の安泰という長期的な視点に基づいた、計算された政治的判断であったことを明確に示している。

「ブレーキ役」にして「調整役」

この小牧・長久手の戦後処理の一件を通じて、豊臣政権内における秀長の特異な、そして不可欠な立ち位置が確立された。彼は、感情の振れ幅が大きく、時に暴走しがちな兄・秀吉の激情を堰き止める唯一の「ブレーキ役」であった 5 。同時に、秀吉と他の大名、あるいは秀吉と一門衆との間に生じる軋轢を巧みに緩和する「調整役」としての役割も担っていた 15

秀長自身が、とある大名に「内々の事(私的な相談事)は宗易(千利休)に、公儀の事(公的な政務)は私に相談なされよ」と語ったとされる逸話は、彼が政権の公式な相談役として自他ともに認める存在であったことを物語っている 18 。秀吉もまた、弟のこの能力を誰よりも高く評価し、黒田官兵衛を称賛する際に「あなたのことは弟の秀長と同じように信頼している」と書状に記すほど、秀長を自らの評価基準とするほどの絶対的な信頼を寄せていた 19

温情の裏の冷徹さ

しかし、秀長の人物像を単なる「温厚で心優しい弟」としてのみ捉えるのは、一面的に過ぎる。彼の「温情」や「調整能力」は、現実を冷徹に見据えるリアリズムに裏打ちされたものであった。天正13年に大和国(現在の奈良県)を与えられた秀長は、当時強大な力を持っていた東大寺や興福寺といった寺社勢力に対し、極めて強硬な姿勢で臨んだ。領内から武器を取り上げる「刀狩り」を断行し、寺社が独占していた商業上の特権(座)を解体して自由な経済活動を奨励するなど、抵抗勢力には一切の妥協を許さなかった 7

また、彼が蓄財に並々ならぬ執心を見せていたことも記録に残っている 16 。九州征伐の際に友軍に兵糧米を売りつけていたという逸話や、領地の材木の売上を着服した疑いで秀吉から叱責されたという記録もあり、一部では「守銭奴」と評されることもあった 7 。これらの逸話は、彼が理想論だけを語る人物ではなく、国家の運営には経済的基盤が不可欠であるという冷徹な現実認識を持つ、優れた実務家であったことを示している。このリアリズムと、時に非情ともいえる合理的な判断力があったからこそ、彼の示す「温情」は単なる甘さではなく、計算され尽くした高度な政治的判断として機能し得たのである。

結論:もし秀長がいなければ

本報告で検証してきた「兄上も人なれば」という逸話は、その一言一句が文字通りの史実であったか否かという次元を超えて、豊臣秀長という人物の歴史的本質を的確に捉えている。彼はまさしく、巨大な権力機構へと変貌していく豊臣政権における「理性の最後の砦」であった。

その事実を最も雄弁に物語るのは、彼の死が豊臣政権にもたらした、あまりにも劇的な変化である。天正19年(1591年)1月、秀長が病没すると、まるで堰を切ったかのように、政権のタガが外れていく。

まず、秀長の死からわずか1ヶ月後、同じく秀吉の相談役として政権を支えてきた千利休が、些細な理由で切腹を命じられる 3 。秀長という「調整役」を失ったことで、秀吉と利休の間に存在した亀裂は、もはや修復不可能なものとなっていた。

続いて秀吉は、国内の平定が完了したにもかかわらず、朝鮮出兵という無謀かつ壮大な対外戦争へと突き進む 7 。この暴挙を諫め、現実的な視点から制止できる重石は、もはや政権内に存在しなかった。

そして、その悲劇は頂点に達する。かつて長久手の戦いの後、秀長が命を賭して救ったはずの甥・豊臣秀次が、秀吉に実子・秀頼が誕生したことを契機に疎まれ、文禄4年(1595年)、「謀反の疑い」という曖昧な罪状で切腹を命じられたのである 1 。だが、秀吉の狂気はそれに留まらなかった。秀次の死後、彼の幼い子供たち、側室、侍女に至るまでの一族39名が、京都・三条河原で無残に処刑されるという、日本の歴史上でも類を見ない凄惨な粛清が断行された 20

長久手の戦いの後、怒り狂う秀吉の前で、秀長が静かな微笑をもって秀次の命を救った場面。そして、秀長の死後、秀吉が冷徹な猜疑心から秀次の一族を根絶やしにした場面。この二つの光景を対比する時、我々は豊臣秀長という「ブレーキ」がいかに巨大で、かけがえのない存在であったかを痛感せざるを得ない。彼の不在が、豊臣家の運命をいかに決定的に暗転させたかは、もはや疑う余地がない。

「兄上も人なれば」という一言は、単なる兄弟間の私的な会話ではなかった。それは、感情的な家父長制の支配から脱却し、法と理に基づく理性的な公権力へと飛躍する可能性を秘めていた、黎明期の豊臣政権の重要な一歩を象徴する言葉であった。秀長の死によってその歩みは無残にも止まり、巨大な権力は再び秀吉個人の感情と猜疑心に支配されることになった。あの一瞬の微笑と静かな諫言のうちに、実は豊臣家の栄光と、その後に待ち受ける悲劇の全ての分岐点が、凝縮されていたのである。

引用文献

  1. 豊臣秀長は何をした人?「あと10年生きていれば…有能な弟が秀吉を補佐していた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/hidenaga-toyotomi
  2. 人望の厚さはピカイチ!素晴らしき補佐役、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長についてご紹介 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/154608/2
  3. 2026年大河ドラマの主役【豊臣秀長】は兄・秀吉の天下統一を陰で支えた名補佐役だった - 歴史人 https://www.rekishijin.com/41744
  4. 豊臣秀吉の名言・逸話30選 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/391
  5. 【武将シリーズ】地味にして偉大なる稀代の調整役:豊臣秀長が示した「天下取り」のもう一つの道 https://note.com/glossy_stilt5248/n/n1f0c55f243a1
  6. 武功夜話 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%8A%9F%E5%A4%9C%E8%A9%B1
  7. 『羽柴秀長』兄・秀吉を支えた補佐役...実はお金の執着が凄かった? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/hidenaga-miser/
  8. 「どうする家康」第32回「小牧長久手の激闘」 徳川家の覚醒と数正の孤独な懸念の理由 - note https://note.com/tender_bee49/n/nc0cdce405aaf
  9. 小牧・長久手の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  10. 長久手古戦場物語/長久手市 https://www.city.nagakute.lg.jp/soshiki/kurashibunkabu/shogaigakushuka/4/nagakutenorekisibunnka/3915.html
  11. 長久手古戦場 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/nagakute.k/nagakute.k.html
  12. なぜ豊臣秀吉の出自は謎に包まれているのか…天下人になってもぬぐい切れなかったコンプレックス NHK大河の主人公・秀長とは異父兄弟という説 - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/103696?page=1
  13. 二人三脚で出世街道を歩んだ「豊臣兄弟」…秀長の"類まれな資質"を開花させた《地味な仕事》とは https://toyokeizai.net/articles/-/896788?display=b
  14. 小牧・長久手の戦い~羽柴秀吉 対 徳川家康~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/komaki-nagakute.html
  15. 「豊臣秀長」はどんな人物だった? 兄を支え続けた生涯や逸話について詳しく解説【親子で歴史を学ぶ】 - HugKum https://hugkum.sho.jp/602778
  16. 天下人を支えた縁の下の力持ち~豊臣秀長 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/toyotomi-hidenaga/
  17. 豊臣秀長は、兄・秀吉のブレーキ役だった? 天下統一を実現させた“真の功労者” https://rekishikaido.php.co.jp/detail/11037
  18. 戦国時代のデキるNo.2「豊臣秀長」の人生から学ぶ、現代のマネージャーに役立つ視座 - Wantedly https://www.wantedly.com/companies/hitokara-co/post_articles/26246
  19. 豊臣秀吉/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/toyotomi-kyoudai/toyotomi-hideyoshi/
  20. 豊臣秀次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
  21. 悪行三昧の逸話が残る豊臣秀次。”殺生関白”という不名誉なレッテルは本当だったのか? | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 3 https://mag.japaaan.com/archives/179619/3
  22. 豊臣秀吉の「残酷すぎる所業」 妻子まで処刑された秀次は、本当に「悪人」だったのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/32030