最終更新日 2025-10-22

豊臣秀頼
 ~鐘銘曲解、両家決裂の導火線~

豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘銘に家康が難癖をつけ、両家関係は悪化。家康の謀略と豊臣家の失策が大坂の陣へと繋がる導火線となった事件。

豊臣秀頼と方広寺鐘銘事件 ― 曲解された銘文、両家決裂の導火線

序章:大仏殿再建に宿る二つの思惑

慶長19年(1614年)、京都・方広寺の梵鐘に刻まれた銘文が、天下に再び大乱を呼び起こす火種となった。後に「方広寺鐘銘事件」として知られるこの一件は、徳川家康が豊臣家を滅亡へと追い込む大坂の陣の直接的な引き金とされている。しかし、この事件は単なる家康の難癖や偶発的な衝突ではなかった。その根源は、関ヶ原の戦い以降、微妙な緊張関係を保ち続けてきた徳川と豊臣、両家の構造的な対立に深く根差している。事件の舞台となった方広寺大仏殿の再建事業そのものが、平和の象徴という表の顔の裏で、両家の政治的思惑が渦巻く「冷戦」の最前線だったのである。

第一節:関ヶ原後の天下と豊臣家の立ち位置

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、日本の権力構造は劇的に変化した。豊臣家は、かつて全国に有した220万石の蔵入地(直轄地)の大部分を失い、摂津・河内・和泉の約65万石を領する一大名へとその地位を大きく落とした 1 。慶長8年(1603年)、徳川家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開府。これにより、豊臣家は名実ともに関ヶ原の勝者である徳川家が構築した新たな公儀の秩序の中に組み込まれる存在となった。

しかし、豊臣家の威光が完全に失われたわけではなかった。大坂城には、父・秀吉が遺した莫大な金銀が依然として蓄えられており、その財力は潜在的な軍事力として家康にとって無視できない脅威であった 2 。さらに、西国の諸大名の中には、今なお「太閤殿下」への恩顧を感じる者が少なくなく、秀吉の子である秀頼を特別な存在と見なす風潮も根強く残っていた。家康にとって、豊臣家は天下泰平を盤石にする上で、取り除かねばならない最後の障害と映っていたのである。

第二節:父・秀吉の威光の象徴、方広寺大仏殿

事件の舞台となる方広寺は、豊臣秀吉がその権勢を天下に示すために建立した、特別な意味を持つ寺院であった。天正14年(1586年)に建立が開始された大仏殿は、奈良・東大寺を凌駕する当時世界最大の木造建築であり、秀吉の権威の象徴そのものであった 4 。秀吉は、大仏殿への寄進を名目として刀狩令を発布し、民衆の武装解除と国家鎮護を結びつけるという、巧みな政治的意図をもってこの巨大プロジェクトを推進した 4

しかし、この壮大な建築物は災難に見舞われる。慶長元年(1596年)の伏見大地震によって大仏が大きく損壊。さらに慶長7年(1602年)には、再建中の大仏鋳造作業中の事故から出火し、大仏殿もろとも焼失してしまった 1 。かつての栄華を誇った太閤の象徴は、見るも無残な姿を京都の地に晒していたのである。

第三節:家康が勧めた再建事業 ― その真意を巡る両論

この焼失した大仏殿の再建を、豊臣秀頼に強く勧めたのが、他ならぬ徳川家康であった 4 。この家康の勧奨には、二つの異なる、しかし両立しうる政治的意図が指摘されている。

第一は、通説として広く知られる「財力削ぎの謀略」である。家康の真意は、大坂城に眠る豊臣家の莫大な財産を、この巨大な公共事業に投じさせることで消耗させ、有事の際の軍事力を削ぐことにあったとする見方だ 2 。豊臣家の経済的基盤を揺るがすための、深謀遠慮であったという解釈である。

しかし、もう一つの見方も存在する。それは、この再建事業を徳川の権威を示す「天下普請」の一環と位置づける、より高度な政治戦略である。事実、この事業には幕府も技術的・財政的に相当な支援を行っており、現場の総指揮を執ったのは幕府大工頭の中井正清であった 4 。この説によれば、家康の狙いは単なる財力の消耗に留まらない。豊臣家が主導する事業を幕府の管理下に置き、その完成を徳川の威光として天下に示すことで、豊臣家を完全に幕府の支配下に組み込まれた一勢力として内外に知らしめる意図があったとされる 7 。これは、後に大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後、秀吉の大坂城の遺構を徹底的に埋め立て、その上にさらに巨大な徳川の城を築くことで「もはや徳川の時代である」と宣言した手法と根を同じくする、権威の上書き戦略であった。

この再建事業が進む中、慶長16年(1611年)には、家康と秀頼が二条城で会見を行う 8 。この会見は表向き非常に穏やかな雰囲気で進み、天下泰平を世に印象付けた 9 。秀頼はこの会見の帰路、再建中の方広寺を視察しており、この時点では大仏殿再建が両家の融和の象徴として機能しているように見えた 8 。だが、その水面下では、次なる対立の火種が静かに燻っていたのである。

第一章:鐘銘の誕生 ― 慶びの梵鐘に潜む影

大仏殿の落慶を目前に控え、京都も大坂も祝賀ムードに包まれる中、問題の梵鐘が鋳造され、その銘文が刻まれた。この銘文に、豊臣方は徳川家への呪詛という明確な悪意を込めていたのだろうか。それとも、新しい時代の政治的力学に対する、あまりにも無防備な失策だったのであろうか。その誕生の経緯は、事件の核心に迫る上で極めて重要である。

第一節:当代の名僧・文英清韓による銘文の撰述

梵鐘に刻む銘文の撰述者として白羽の矢が立ったのは、南禅寺の長老であり、当代随一の漢学者として名高かった臨済宗の僧、文英清韓(ぶんえいせいかん)であった 2 。豊臣秀頼からの正式な依頼を受けた清韓は、その学識と、唐様の書にも優れた能筆家として知られており、この国家的な事業の格を示す上で、彼以上の適任者はいなかった 11

清韓が起草した銘文は、洛陽(京都)の東山に壮大な伽藍が再建され、その鐘の音が鳴り響くことで、世に平和と繁栄がもたらされることを願う、格調高い四言詩であった 3 。その文面は、仏教的な功徳と天下泰平への祈りに満ちていた。

第二節:本来の意図 ― 吉祥句とされた「国家安康」「君臣豊楽」

後に徳川方が最大の問題とした「国家安康(こっかあんこう)」と「君臣豊楽(くんしんほうらく)」の二つの句は、本来、仏教の経典や漢籍において頻繁に用いられる、ありふれた吉祥句(縁起の良い言葉)であった 13 。「国家安康」は文字通り「国が安らかで泰平であること」を、「君臣豊楽」は「君主も臣下も豊かで安楽であること」を意味する。

後の弁明で清韓自身が述べたところによれば、これらの句に「家康」や「豊臣」の名を詠み込むことは、和歌における「隠し題(かくしだい)」という文芸的な技法を用いたものであり、徳川家康と豊臣家の双方の繁栄を願う祝意を込めたものに他ならなかったという 1 。悪意や呪詛の意図は毛頭なく、むしろ最大限の慶賀の意を表すための工夫であったと主張している。

第三節:開眼供養を前に、高まる祝賀ムード

慶長19年(1614年)夏、大仏殿と大仏はほぼ完成し、問題の梵鐘も鋳上がった。豊臣家は、同年8月にも盛大な大仏開眼供養を執り行うべく、準備を着々と進めていた 2 。この事業全体の作事奉行を務めていたのは、豊臣家の家老であり、徳川家との重要な交渉窓口でもあった片桐且元(かたぎりかつもと)である 17

且元は、徳川方への配慮を怠らなかった。彼は、開眼供養の日取りなどについて事前に駿府の家康に報告し、その了承を得る手続きを踏んでいた 19 。この時点では、豊臣方にも徳川方にも、この一大事業が滞りなく完成へと向かっているという認識が共有されており、誰もがその完成を祝うばかりであった。しかし、この銘文には、豊臣方の政治的認識の甘さが露呈した、致命的な「失策」が潜んでいた。

当時の武家社会の常識として、主君や格上の人物の実名(諱)を文章中で直接使用することは、極めて無礼な行為とされていた 6 。官職名などで呼ぶのが礼儀であった。にもかかわらず、銘文は「家康」という諱を明確に刻み込み、さらに「国家安康」の句では、その二文字を「安」の字で分断する形になっていた。たとえ祝意であったとしても、これは天下人となった徳川家康の権威に対し、あまりにも配慮を欠いた表現であった。清韓という学僧の文芸へのこだわりが、政治的現実を軽視したのかもしれない。あるいは、豊臣家自身が、いまだ自らを徳川家と対等、もしくはそれ以上の存在と無意識に捉えており、「家康公への配聞」という発想そのものが希薄だったことの現れとも考えられる。この「無意識の対等意識」こそが、家康が最も根絶したかったものであり、事件の真の火種となったのである。

第二章:駿府の激震 ― 家康、怒りの発露

京都と大坂が祝賀ムードに沸く中、駿府城では一本の報告が静かな、しかし激しい怒りの嵐を巻き起こしていた。完成間近の梵鐘に刻まれた銘文を知った徳川家康は、これを豊臣家による悪質な呪詛と断じた。これは家康個人の感情的な激昂だったのか、それとも彼の練達のブレーンたちによって周到に仕組まれた、豊臣家殲滅に向けた政治キャンペーンの幕開けだったのか。

第一節:慶長19年7月21日 ― 運命の日

徳川家の公式記録ともいえる『駿府記』には、運命の日付が記されている。慶長19年7月21日、家康は側近である金地院崇伝と板倉重昌を呼び寄せると、方広寺の鐘銘に「関東にとって不吉な語句がある」と述べ、激しい怒りを露わにしたという 20 。家康は銘文の文言のみならず、豊臣方が定めた大仏殿の上棟式の日取りまでもが吉日ではないと指摘し、予定されていた開眼供養の一切を延期するよう厳命した 19 。これは、単なる言葉尻の問題ではなく、豊臣家が主導する儀式全体に対する、家康の断固たる不信と不快感の表明であった。

第二節:ブレーンたちの集結 ― 「曲解」の構築

家康の怒りを起点として、彼の懐刀たるブレーンたちが鐘銘の問題点を体系化し、豊臣家を断罪するための理論武装を固めていく。

中心となったのは、臨済宗の僧でありながら家康の政治顧問として絶大な影響力を持った「黒衣の宰相」、金地院崇伝であった 17 。彼が、銘文に隠された「呪詛の意図」を読み解くという、この政治劇の脚本を描いたとされる 22

その解釈に学問的な権威を与えたのが、家康に仕える儒学者の林羅山である 17 。羅山は、崇伝らが構築した論理を追認し、銘文が「呪詛の意図を持つことは明白である」と断定した 2

そして、この問題を豊臣家を追い詰めるための具体的な政治戦略へと昇華させたのが、徳川の謀臣として知られる本多正信・正純親子であった 23 。特に父・正信は、これを豊臣家攻撃の絶好の口実として利用するよう家康に進言したと伝えられている 24

彼らはさらに、京都五山の高僧たちにも意見を求め、少なくとも「貴人の諱を用いるのは非礼である」という点での同意を取り付けることで、自らの主張の正当性を補強し、豊臣方を包囲する外堀を巧みに埋めていった 6

第三節:政治問題化する言葉 ― 呪詛のレトリック

家康とそのブレーンたちの手によって、ありふれた吉祥句は、豊臣家の邪悪な意図を証明する動かぬ証拠へと作り替えられていった。その論理は、現代の視点から見れば明白なこじつけ、すなわち「曲解」であったが、当時の価値観においては絶大な政治的破壊力を持っていた。

表1:方広寺鐘銘における徳川方の問題視箇所と曲解の論理

問題とされた文言

国家安康

君臣豊楽 子孫殷昌

右僕射源朝臣

東迎素月 西送斜陽

この一連の動きは、単なる「難癖」という言葉では片付けられない。それは、周到に計画された「プロパガンダ」であった。関ヶ原から14年が経過し、世は泰平に慣れつつあった。その中で再び大戦を起こすには、徳川方に圧倒的な「正義」がなければならない。単なる政治的対立を理由にすれば、豊臣恩顧の大名が参陣を躊躇する可能性があった。しかし、「主君への呪詛」という、当時の武家の倫理観において最も許されざる大罪を豊臣家が犯したと喧伝すれば、誰も豊臣に味方することはできなくなる。これは、来るべき大坂攻めを「私戦」ではなく、幕府による「天下の公戦」として位置づけるための、極めて高度な政治的・心理的戦略だったのである。

第三章:苦難の使節 ― 片桐且元の奔走と蹉跌

駿府で巻き起こった怒りの渦は、やがて大坂城に衝撃波となって到達した。事態の深刻さを悟った豊臣方は、徳川方の怒りを鎮めるべく、一人の男を駿府へと送る。豊臣家家老、片桐且元。これまで徳川家との交渉役を一手に担ってきた彼の双肩に、豊臣家存続の最後の望みが託された。しかし、彼を待ち受けていたのは、交渉の席ではなく、家康が仕掛けた巧妙かつ冷徹な罠であった。

第一節:大坂城の動揺と、豊臣家の命運を背負った且元

開眼供養の延期という駿府からの通達は、大坂城内を大きく揺るがした。事態を収拾するため、弁明の使者として且元が選ばれたのは必然であった 19 。彼は豊臣家中にあって、徳川家との協調を重んじる穏健派の筆頭であり、家康からも一定の信頼を得ていると見なされていた 24 。豊臣家の命運は、彼の交渉手腕に委ねられたのである。

第二節:駿府での冷遇 ― 焦燥する且元と、徳川方の神経戦

慶長19年8月、且元は駿府に到着した。しかし、彼を待っていたのは、あまりにも厳しい現実であった。家康は且元との面会を拒絶。それどころか、駿府城下へ入ることさえ許さず、郊外の誓願寺という寺での待機を命じたのである 30 。豊臣家の全権使節に対するこの扱いは、意図的な侮辱であり、交渉の主導権を完全に掌握しようとする徳川方の強い意志の表れであった。

且元がようやく駿府入りを許された後も、家康との直接対話は最後まで実現しなかった。彼の交渉相手として指定されたのは、本多正純と金地院崇伝であった 29 。彼らは且元に対し、銘文の問題点のみならず、大坂城に素性の知れぬ浪人たちが集まり始めていることについても、詰問口調で厳しく追及した 30 。且元は弁明の機会すら十分に与えられず、精神的に追い詰められていった。

第三節:家康の二枚舌外交 ― 大蔵卿局への厚遇と、且元孤立化の罠

且元が駿府で冷遇される一方で、豊臣方はもう一人の使者を派遣していた。淀殿の乳母であり、強硬派の中心人物である大野治長の母、大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)である。驚くべきことに、家康は彼女との謁見は快く許可し、非常に丁重にもてなした 12

家康は彼女に対し、穏やかな口調でこう語ったという。「銘文の件は些細なこと。真の問題は、秀頼公の周辺に不穏な浪人たちが集まっていることだ。それが心配でならぬ」。この言葉は、一見すると豊臣家を気遣う温情あるものに聞こえる。しかし、その真意は全く異なっていた。

この且元と大蔵卿局への対応の著しい落差こそ、家康が仕掛けた最も巧妙な罠であった。家康の真の狙いは、交渉そのものではなく、豊臣家内部の分裂を誘発することにあった。穏健派の交渉責任者である且元の権威を徹底的に失墜させ、彼を孤立させる。そして、大坂城内に「且元は徳川に内通し、我々を陥れようとしているのではないか」という猜疑心の種を蒔く。大蔵卿局が持ち帰るであろう「家康は穏やかだった」という報告と、且元が持ち帰らざるを得ない「徳川は極めて強硬だった」という報告の矛盾。この矛盾こそが、豊臣家内の不信感を爆発させる時限爆弾となることを、家康は正確に計算していたのである。

第四章:最後通牒 ― 破局への三箇条

駿府で精神的に追い詰められた片桐且元に対し、徳川方は豊臣家が赦しを得るための、事実上の最後通牒を突きつけた。それは、豊臣家の存続そのものを根底から揺るがす、三つの絶望的な選択肢であった。これが徳川方の公式な要求であったのか、それとも戦争回避を願う且元が、徳川方の意向を最大限に忖度してひねり出した苦肉の策だったのか。その出所を巡っては議論があるが、いずれにせよ、これらの条件が豊臣家を破局へと導く決定的な一撃となったことは間違いない。

第一節:且元に示された豊臣家存続の「条件」

本多正純らとの交渉の末、且元は豊臣家が生き残る道として、以下の三つの案の中から一つを選ぶよう迫られたとされる 1

  1. 豊臣秀頼が江戸に参勤すること。
  2. 淀殿を人質として江戸に置くこと。
  3. 秀頼が大坂城を退去し、他の領地へ国替えとなること。

第二節:事実上の臣従か、滅亡か ― 各条件が持つ政治的意味

これらの三箇条は、いずれも豊臣家がこれまでの特別な地位を完全に放棄し、徳川家の絶対的な支配下に入ることを意味する、極めて屈辱的な内容であった 12

第一の「江戸参勤」は、秀頼が徳川将軍に仕える一介の大名であることを天下に公言するに等しい行為である。これは、秀吉以来の豊臣家の特別な地位を自ら放棄することを意味した。

第二の「人質」は、豊臣家の事実上の家長である淀殿を江戸に送ることで、豊臣家が完全に徳川の監視下に置かれることを受け入れるものであり、事実上の降伏に他ならなかった。

そして第三の「大坂城退去」は、豊臣家の力の源泉である難攻不落の大坂城と、そこに蓄えられた莫大な財産を自ら手放すことを意味する。これは軍事的・経済的基盤の完全な喪失であり、もはや徳川に抗う術がなくなることを示していた。

いずれの選択肢も、淀殿や大坂城の首脳部にとっては到底受け入れがたいものであった。それは、豊臣家のプライドを根底から打ち砕くものであり、実質的な滅亡宣告に等しかった。

第三節:提案の出所を巡る考察 ― 徳川の公式要求か、且元の苦肉の策か

この三箇条が徳川方の公式な要求であったというのが、一般的な見方である 12 。豊臣方が絶対に受け入れられない条件を意図的に突きつけることで交渉を決裂させ、「豊臣方が徳川の温情を拒否した」という形で、戦争開始の責任を豊臣側に転嫁しようとしたという解釈だ。

しかし、近年の研究では、これらの厳しい条件が徳川方の公式な史料には見当たらないことから、別の可能性も指摘されている。それは、戦争だけは避けたいと願う且元が、徳川方の強硬な意志を肌で感じ取り、豊臣家が受け入れうるギリギリの譲歩案として自ら考案した「私案」であったのではないか、という説である 1 。もしこれが事実であれば、且元は「これくらいの譲歩をしなければ豊臣家は滅びる」という絶望的な現実認識のもと、主家を救うためにあえて厳しい提案をまとめたことになる。だが、彼の忠誠心は、結果的に最悪の形で裏目に出ることになる。

この三箇条が徳川の公式要求であろうと、且元の私案であろうと、本質は変わらない。この時点で豊臣家に残された道は「完全な臣従」か「戦争による滅亡」の二択しかなくなっていた。そして、駿府で且元が感じ取ったこの絶望的な切迫感と、大坂城にいる淀殿や大野治長ら首脳部との間の「温度差」こそが、破局を決定づけたのである。

第五章:決裂 ― 大坂城、主戦論の抬頭

数々の屈辱と絶望的な最後通牒を胸に、片桐且元は大坂城へと帰還した。しかし、彼を待ち受けていたのは、その労をねぎらう言葉ではなく、裏切り者に対する剥き出しの猜疑と怒りであった。徳川家康が周到に仕掛けた心理戦は完璧に功を奏し、豊臣・徳川間に残された最後の交渉パイプは、豊臣家自身の手によって無残にも断ち切られることになる。

第一節:且元の帰還と絶望的な報告

慶長19年9月、大坂城に戻った且元は、淀殿と秀頼、そして大野治長ら首脳部に対し、駿府での交渉結果を報告した 32 。徳川方の強硬な姿勢、そして豊臣家が生き残るために示された三つの屈辱的な条件。その報告は、豊臣家の誇りを著しく傷つけるものであり、城内、特に淀殿と彼女が最も信頼を寄せる大野治長ら強硬派を激怒させた 32

第二節:「且元、内通せり」― 強硬派の猜疑と怒り

ここで、家康の仕掛けた罠が決定的な効果を発揮する。且元より先に帰坂していた大蔵卿局が持ち帰った「家康公は穏やかで、我らを気遣っておられた」という報告と、且元がもたらした絶望的な報告は、あまりにも食い違っていた。この矛盾を前に、大野治長ら強硬派は、自分たちの疑念が正しかったと確信する。「且元は家康に懐柔され、我らを売り渡そうとしている裏切り者に違いない」と 24

且元が主家を救うための最後の手段として提示した三箇条は、もはやそのようには受け取られなかった。それは徳川に利するための売国的行為であり、断じて受け入れられない裏切りと見なされたのである 24 。豊臣家内部の不信感は、ついに沸点に達した。

第三節:暗殺の危機、そして且元兄弟の大坂城退去

城内の空気は急速に険悪化し、穏健派の且元を排除しようとする動きが公然と始まった。ついには且元の暗殺計画までが浮上する事態となる 30 。身の危険を察知した且元は、秀頼からの出仕命令を拒否し、弟の貞隆と共に兵を集め、自邸に立てこもった 32

もはや、豊臣家のために働くことは不可能である。そう判断した且元は、慶長19年10月1日、一族郎党を引き連れて、ついに大坂城を退去した 30 。この行動は、徳川方にとって、豊臣家が穏健派の重臣を追放し、対話による解決を完全に拒絶した明確な証拠となった。

これは、秀吉亡き後の豊臣家の脆弱な統治体制が招いた悲劇であった。絶対的な権力者であった秀吉が不在の中、淀殿という感情的なトップと、大野治長ら側近たちの意見が、冷静な政治判断を凌駕してしまった。且元は「豊臣家」という組織全体の存続を考えて行動したが、淀殿らは「自分たちのプライド」を守ることを優先した。この内部対立と意思決定プロセスの欠陥が、家康に付け入る隙を与え、豊臣家は自ら滅亡への引き金を引いてしまったのである。

終章:導火線への点火

片桐且元の大坂城退去は、鐘銘事件という名の長い導火線の終着点であった。その火花は、ついに大坂の陣という巨大な爆薬に点火し、戦国の世の最後を飾る大戦乱を現出させた。この一連の事件は、豊臣家滅亡のプロセスにおいて、決定的な役割を果たしたのである。

第一節:穏健派の追放が意味したもの

且元の退去により、大坂城内は完全に大野治長ら主戦派がその実権を掌握した。徳川との和平交渉の道は完全に閉ざされ、もはや武力による徹底抗戦以外の選択肢はなくなった 30 。豊臣家は、秀吉が遺した莫大な金銀を使い、関ヶ原の戦いなどで主家を失った浪人たちを全国から召し抱え、籠城の準備を本格化させていく 29 。しかし、この行動こそが、徳川方にとって「豊臣家、謀反の準備あり」という、大坂攻めを正当化する絶好の口実を与えることになった。

第二節:家康による大坂攻め決意と大義名分

且元が大坂を追われたという報告は、家康に大坂攻めを決意させる最後のダメ押しとなった 30 。家康は今や、豊臣家を討つための、天下の誰もが納得せざるを得ない三つの大義名分を手にした。

第一に、「鐘銘による主君への呪詛」という大逆非道。

第二に、「幕府との交渉使節への不当な扱いと追放」という公儀への反逆。

第三に、「浪人の召し抱えによる天下への騒乱の企て」という泰平への挑戦。

これらの名分を掲げ、家康は全国の諸大名に対し、豊臣家討伐の動員を号令した。もはや豊臣家に味方する大名はどこにもいなかった。

第三節:鐘銘事件の歴史的意義 ― 必然の衝突か、回避可能だった悲劇か

通説では、鐘銘事件は家康が豊臣家を滅ぼすために周到に仕掛けた、避けられない罠であったとされる 2 。家康がその意志を固めている以上、豊臣家にどのような選択肢も残されていなかったという見方である。

しかし、別の視点から見れば、もし豊臣方が徳川の真意と圧倒的な力の差を正確に認識し、プライドよりも現実を優先する、より柔軟な外交対応をとっていれば、少なくとも滅亡という最悪の事態は避けられたかもしれない、という議論も成り立つ 33

最終的に、この事件は関ヶ原の戦いでは決着がつかなかった豊臣と徳川の最終戦争への引き金であり、戦国の遺物である豊臣家が、徳川による新たな支配秩序(江戸幕府)によって完全に淘汰される、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。事件のきっかけとなった巨大な梵鐘は、幾多の戦火や災厄を乗り越え、今も方広寺にその姿をとどめている 6 。その鐘の音は鳴ることはないが、豊臣家滅亡の悲劇と、時代の非情な移り変わりを、現代に静かに語り継いでいるのである。

引用文献

  1. 方広寺鐘銘事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
  2. 京都方広寺の鐘銘事件 - 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/2022/06/17/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA%E3%81%AE%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6/
  3. 方廣寺鐘銘事件- 書史小齋 - Udn部落格 https://classic-blog.udn.com/ts88lai/131699182
  4. 方広寺大仏殿の復元 - 大林組 https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/057_IDEA.pdf
  5. 方広寺の概要と歴史 方広寺は日本で建てられた建築物の中でも最も壮観な建物のひとつがあっ https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001554749.pdf
  6. 方広寺鐘銘事件/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97921/
  7. どうした家康 方広寺大仏殿といえば何も大仏様と鐘だけではありません。 - 3D京都 https://3dkyoto.blog.fc2.com/blog-entry-521.html
  8. 二条城会見 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E%E4%BC%9A%E8%A6%8B
  9. 徳川家康と二条城/【中編】大坂の陣への導火線「二条城の会見」 - Kyoto Love. Kyoto 伝えたい京都 https://kyotolove.kyoto/I0000568/
  10. 方広寺鐘銘草稿 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/235791
  11. しずおか文化財ナビ 方広寺大仏鐘銘<清韓筆/>|静岡県公式ホームページ https://www.pref.shizuoka.jp/kankosports/bunkageijutsu/bunkazai/1002825/1041003/1041884/1004983/1021367.html
  12. 方廣寺鐘銘事件 - 書史小齋 https://davidlai1988.wordpress.com/2020/02/13/%E6%96%B9%E5%BB%A3%E5%AF%BA%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6/
  13. 跡書 https://www.ne.jp/asahi/kasyu/taku/atogaki.html
  14. 林羅山 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/111614/
  15. 方広寺鐘銘事件は、まったくの「言いがかり」とも言い切れない? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5027
  16. 真說方廣寺鐘銘事件—豐臣家的喪鐘敲響時 - 日本史專欄 http://sengokujapan.blogspot.com/2018/11/blog-post_2.html
  17. 大坂冬の陣のきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」とは?|豊臣と徳川の決裂を決定づけた出来事【日本史事件録】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1162823
  18. 片桐且元の生涯|方広寺鐘銘事件で茶々と家康の板挟みになる豊臣家直参【日本史人物伝】 https://serai.jp/hobby/1161950/2
  19. 方広寺鐘銘事件|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents5_03/
  20. 家康激怒「豊臣ゆかりの寺」に刻まれた侮辱の言葉 梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」が騒動に https://toyokeizai.net/articles/-/718346?display=b
  21. 京都:方広寺の梵鐘~徳川家康が疑義を唱えた銘鐘事件~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/hokoji/hokoji-kane.html
  22. 本多正純 - 首都圏秋田県人会連合会 https://akitakenjinkai.jp/news/%E3%81%82%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%B3vol28%EF%BD%9C%E2%97%90%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%AD%A3%E7%B4%94%E3%80%80%E6%97%85%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%89%98/
  23. 家康に愛され、秀忠から疎まれた本多正純の「自負」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/27690
  24. 方広寺鐘銘事件「国家安康」なにが問題?わかりやすくしたまとめ - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/hoko-ji-jiken
  25. 家康の参謀を全うした本多正信のバランス感覚|Biz Clip(ビズクリップ) - NTT西日本法人サイト https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-017.html
  26. 方廣寺鐘銘事件- 維基百科 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%96%B9%E5%BB%A3%E5%AF%BA%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
  27. 家康に大坂城「総攻撃」を進言していた秀忠 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/33450/2
  28. 大御所・家康公史跡めぐり https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/07_42.htm
  29. 第26話 片桐且元大坂城退去 - 豊臣秀頼と七人の武将ー大坂城をめぐる戦いー(木村長門) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054884619343/episodes/1177354054886093660
  30. 大坂の陣のきっかけ・方広寺鐘銘事件は家康の言いがかりだったのか - note https://note.com/toubunren/n/n2cb11cc94483