最終更新日 2025-10-15

足利義昭
 ~信長無礼なじる短冊風聞~

足利義昭が信長の無礼を短冊でなじった逸話は後世の創作だが、旧秩序と新勢力の対立、そして歴史の記憶形成を象徴する寓話として機能した。

足利義昭と織田信長:短冊風聞の深層 ― ある逸話の徹底解剖

序論:語り継がれる一場面、その真偽への探求

日本の戦国史において、足利義昭と織田信長の関係は、時代の転換を象徴する劇的な物語として語り継がれています。その中でも特に鮮烈な印象を残すのが、「将軍就任の礼の日、信長の無礼をなじる短冊を義昭が回した」という逸話です。この一場面は、伝統的権威の化身である将軍の矜持と、旧来の秩序を破壊する新興勢力の傲慢さが火花を散らす、緊張感に満ちた情景を我々の脳裏に描き出します。義昭が鋭い筆勢で信長を諌めたとされるこの物語は、武力だけではない、文化と教養の力をも描き出し、多くの人々の記憶に刻まれてきました。

しかし、この劇的な逸話は、果たして歴史の真実を映し出しているのでしょうか。それとも、後の世の人々によって巧みに創り上げられた、史実とは異なる物語なのでしょうか。歴史の探求は、語り継がれる物語の魅力に酔いしれるだけでなく、その根拠を冷静に問い直す知的な営為でもあります。この根源的な問いこそが、本報告書の出発点となります。

本報告書は、この「短冊風聞」という一つの逸話に焦点を絞り、その真偽と歴史的背景を徹底的に解明することを目的とします。そのために、まず逸話の舞台となった永禄十一年(1568年)十月十八日の将軍宣下の儀という歴史的瞬間を、信頼性の高い史料を駆使して精密に再現します。次に、逸話を構成する「信長の無礼」「短冊」「筆勢」といった要素を一つひとつ解剖し、その信憑性を文化史的、政治史的観点から多角的に検証します。そして最終的に、この「風聞」がもし史実でないとすれば、なぜそのような物語が生まれ、語り継がれるに至ったのか、その歴史的土壌、すなわち義昭と信長の関係性が蜜月から破局へと至る劇的な変化という真実に光を当てていきます。これは、単なる逸話の真偽判定に留まらず、歴史がどのように記憶され、物語として形成されていくのかという、より深い問いへの挑戦でもあります。


第一部:栄光の頂点 ― 永禄十一年十月十八日、将軍宣下の儀

逸話の真偽を問う前に、まずその舞台となった「将軍宣下の日」が、実際にはどのような状況であったのかを正確に理解する必要があります。史料を丹念に読み解くと、その日の義昭と信長の関係は、逸話が示唆するような険悪なものとは全く異なり、むしろ協力と信頼に満ちた蜜月期の頂点にあったことが明らかになります。

第一章:京への凱旋 ― 幕府再興の夜明け

第十三代将軍・足利義輝が永禄の変で横死して以来、室町幕府の権威は地に堕ち、京は三好三人衆らが支配する混乱の只中にありました。義輝の弟である義昭は、仏門から還俗し、越前の朝倉義景などを頼りながら流浪の日々を送っていましたが、事態はなかなか好転しませんでした 1 。この膠着状態を打破するきっかけとなったのが、明智光秀らの仲介による織田信長との邂逅でした 1

永禄十一年(1568年)七月、美濃で義昭と会見した信長は、将軍家再興という大義名分を掲げ、破竹の勢いで上洛作戦を開始します。九月には近江の六角氏を瞬く間に制圧し、京へと進軍しました 3 。信長に擁立された義昭が京に入ると、長らく将軍不在であった都の空気は一変します。公家であった山科言継の日記『言継卿記』などからは、強大な武家の後ろ盾を得て秩序が回復することへの、公家社会の安堵と期待が読み取れます 4 。民衆もまた、幕府の再興を歓迎したことでしょう。

この時点での人々の認識において、主役はあくまで足利義昭であり、信長はその将軍を擁立する功臣の一人に過ぎませんでした。当時の記録によれば、信長は義昭に従う「御供衆の一人」として認識されており、信長自身もその立場をわきまえて振る舞っていたと考えられています 5 。尾張・美濃の一大名に過ぎなかった信長にとって、幕府再興という大義は、自らの行動を正当化し、畿内における影響力を確立するための不可欠な要素だったのです 6 。この力関係の認識は、逸話が描くような、信長が将軍に対して傲慢に振る舞うという構図とは、根本的に乖離していることを理解する上で極めて重要です。

第二章:儀式の再現 ― あるべき秩序の回復

永禄十一年十月十八日、義昭はついに朝廷から将軍宣下を受け、室町幕府第十五代征夷大将軍に就任します 5 。この儀式は、義昭の宿所であった京の本圀寺にて、朝廷からの使者を迎えて厳粛に執り行われました。参列者には、菊亭晴季や山科言継といった高位の公家たち、そしてもちろん、最大の功労者である織田信長をはじめとする武将たちが名を連ねていました 5

その場の光景は、まさに失われた秩序の回復を象徴するものでした。将軍宣下のような公式の儀礼において、参列者の服装や席次は、その身分や家格に応じて厳格に定められています。義昭は将軍の正装である束帯、あるいはそれに準ずる直垂などを着用し、公家たちもそれぞれの官位にふさわしい装束で臨んだことでしょう 8 。信長ら武家もまた、大紋や素襖といった武家の礼装に身を包み、定められた席次についていたはずです 9 。こうした視覚的な序列は、戦乱によって曖昧になっていた身分秩序を再確認し、将軍を頂点とするヒエラルキーが再建されたことを内外に示す、極めて重要な政治的パフォーマンスでした。儀式は、勅使によって宣旨(天皇の命令書)が読み上げられ、義昭がこれを受けるという流れで進行したと推察されます 11

そして、この日の両者の関係が蜜月であったことを示す決定的な証拠が存在します。儀式から間もない十月二十四日付で、義昭は信長に対して感状(感謝状)を送っています。その中で義昭は、信長の功績を「今度国々凶徒等、不歴日不移時、悉令退治之条、武勇天下第一也、当家再興不可過之(この度の働きにより、日を経ず時を移さず国々の凶徒をことごとく退治したことは、その武勇が天下第一であることを示すものであり、当家の再興はこれ以上のものはない)」と、最大級の賛辞で称えています 12

さらに驚くべきことに、この感状の中で義昭は、わずか三歳年上の信長を「御父織田弾正忠殿」と呼び、敬意を表しているのです 2 。これは、単なる儀礼的な表現を超えた、深い信頼と感謝の念の表れと見るべきでしょう。将軍が特定の家臣を「父」と呼ぶなど、前代未聞のことでした。この一つの事実だけでも、「将軍宣下の日に義昭が信長の無礼をなじった」とする逸話が、史実とは相容れないものであることが明確にわかります。栄光の頂点にあったこの日、二人の間には亀裂どころか、強固な協力関係が築かれていたのです。


第二部:短冊に秘められた謎 ― 逸話の徹底解剖

将軍宣下の儀が、実際には両者の蜜月関係を象徴する場であったことを確認した上で、改めて「短冊の逸話」そのものを解剖していきます。この逸話は、史実ではないとすれば、なぜこれほどまでに説得力のある物語として成立し得たのでしょうか。その構成要素である「信長の無礼」「短冊と和歌」「筆勢」を文化史的、政治史的文脈の中に置いて分析することで、物語に秘められた象徴的な意味が浮かび上がってきます。

第一章:「信長の無礼」は存在したか

まず、信長が儀式の場で「無礼」を働いた可能性について考察します。信長は尾張出身の武将であり、京の洗練された公家社会の複雑な作法には不慣れであったかもしれません。そのため、何らかの些細な失態を犯した可能性は皆無とは言えません。しかし、それが将軍から直々に短冊でなじられるほどの大事であったという記録は、信頼できる同時代の史料には一切見当たりません。

むしろ、太田牛一が記した信頼性の高い記録『信長公記』には、少し性質の異なる両者の考え方の違いを示すエピソードが記されています。それによれば、将軍就任直後の祝賀ムードの中で、義昭が十三番もの盛大な能楽の興行を命じたのに対し、信長は「まだ隣国の平定が終わっていない」という極めて現実的な理由から、これを五番に短縮させたとあります 13 。これは、幕府再興の達成感に浸る義昭と、次なる目標を見据える信長の冷静さの対比を示すものであり、義昭からすれば興を削がれた形になったかもしれません。しかし、これを儀礼上の「無礼」と断じるのは早計です。この種の現実主義的な信長の言動が、後の時代に「旧来の権威を軽んじる無礼な振る舞い」として増幅され、物語化されていった可能性は十分に考えられます。

第二章:一葉の紙が持つ力 ― 短冊と和歌の政治性

次に、逸話の小道具として登場する「短冊」と、そこに記されたであろう「和歌」が持つ意味について考えます。戦国時代において、和歌や連歌は単なる風雅な趣味ではありませんでした。それは、公家との交際を円滑にし、大名間の外交交渉を有利に進め、家臣団の結束を高め、そして自らの教養と権威を内外に示すための、極めて重要な政治的・社会的ツールだったのです 14

短冊は、そうした和歌を記すための洗練されたメディアであり、そこに込められたメッセージは、直接的な言葉以上に重い意味を持つことがありました。特に、足利将軍家のような名門の出身者である義昭が、その権威を示す武器として「筆(書)」や「歌」を用いるという構図は、非常に説得力があります。武力では信長に及ばない義昭が、自らが優位に立つ文化の土俵で相手を牽制するという物語は、多くの人々にとって理解しやすいものでした。

さらに、逸話が「筆勢の鋭さで威光を示した」と語る点も重要です。「書は人なり」という言葉が示す通り、力強く格調高い筆跡は、その人物の威厳や教養、ひいては支配者としての正統性を示すものと見なされていました 18 。この逸話は、義昭が武力という物理的な力ではなく、伝統と文化に裏打ちされた精神的な力によって、成り上がりの実力者である信長を圧倒しようとした、という非常に象徴的な物語構造を持っているのです。

第三章:逸話の源流を求めて ― 軍記物の世界

では、この逸話は具体的にどこから来たのでしょうか。まず確認すべきは、太田牛一の『信長公記』のような、同時代に近く、史料的価値が高いとされる記録の中に、この短冊の逸話が全く見られないという事実です 19 。もし将軍宣下の場でこのような重大な事件が起きていれば、何らかの形で記録に残る可能性が高いはずですが、一次史料は沈黙しています。

この種の逸話の多くは、歴史的事実から時間が経過した江戸時代以降に編纂された、様々な軍記物や逸話集にその源流を見出すことができます。例えば、『武将感状記』のような書物は、歴史の正確な記録よりも、読者に対する教訓や物語としての面白さを重視する傾向があり、こうした逸話が生まれやすい土壌となりました 20

また、『足利季世記』は、室町時代末期の畿内の動乱を扱い、信長の上洛までを描いた軍記物です 21 。このような書物の中に逸話の原型となる記述が存在した可能性も考えられますが、注意すべきは、これらの軍記物は同時代の記録ではなく、後世の視点から脚色された部分を多く含むため、現代の歴史学においては史料としての評価は決して高くないという点です 23

結論として、短冊の逸話は、史実として確認できるものではなく、後世に創られた物語である可能性が極めて高いと言えます。しかし、重要なのは、この物語がなぜ創られ、受け入れられたのかという点です。この逸話は、義昭と信長という二人の個人の対立を、「筆(文化・伝統・旧秩序)」と「剣(武力・革新・新秩序)」という、より普遍的で象徴的な対立構造へと昇華させています。人々がこの物語に惹かれたのは、単なるゴシップとしてではなく、室町幕府の終焉と新たな時代の到来という、大きな歴史の転換点を描く優れた寓話として機能したからに他なりません。


第三部:風聞が映し出す真実 ― 蜜月から破局への道

短冊の逸話が、たとえ後世の創作であったとしても、それは全くの真空から生まれたわけではありません。物語が人々の共感を呼ぶのは、それが何らかの「真実」を内包しているからです。この逸話の場合、それは「将軍宣下の日」という一点に圧縮されていますが、その背景には、実際に数年をかけて進行した義昭と信長の関係破綻という、紛れもない歴史の真実が存在します。この章では、逸話が生まれる土壌となった、両者の関係が蜜月から破局へと至る過程を時系列で追い、逸話が「圧縮された歴史」であることを論証します。

第一章:亀裂の萌芽 ― 理想と現実の齟齬

上洛当初の協力関係の裏で、両者の思惑は根本的にすれ違っていました。義昭にとって、信長はあくまで失われた将軍の権威を回復し、室町幕府を再興するための強力な家臣、いわば「駒」でした 24 。一方、信長にとって義昭は、自らが天下に号令するための「天下布武」を正当化し、旧来の権力構造を乗り越えるための「権威」という名の道具でした 24 。当初はこの目的のズレが表面化しませんでしたが、幕府再興という共通目標が達成された瞬間から、両者の目指す方向の違いが徐々に明らかになっていきます 13

義昭の心理に大きな変化が訪れた瞬間として、信長が上洛後の処理を終えて本拠地である岐阜へ帰国する際の出来事が挙げられます。その長大で威風堂々とした行列を目の当たりにした義昭は、権力の実体が誰の元にあるのかを痛感したと言われています。自分は信長によって立てられた「形だけの将軍」に過ぎないのではないか。信長に利用され、踏み台にされたのではないかという疑念と屈辱感が、この頃から義昭の心に芽生え始めたとしても不思議ではありません 2

第二章:筆から法へ ― 「本当の文書」による対立

両者の亀裂が公然のものとなる過程で、武器となったのは短冊に記された風刺歌ではなく、より直接的で法的な効力を持つ「文書」でした。ここに、史実における本当の「紙の上の戦い」が存在します。

その第一弾が、永禄十二年(1569年)一月に信長が義昭に対して提示した『殿中御掟』九箇条と追加七箇条です 25 。これは、将軍の行動や幕府の運営に関するルールを定めたものですが、その実態は義昭の権力を具体的に制限し、信長の管理下に置こうとするものでした。特に、「諸国へ御内書を以て仰せ出され候子細これあるにおいては、信長に仰せ聞かされ、書状を添え申すべき事(諸国の武将へ将軍の私的な命令書である御内書を出す際には、必ず信長に報告し、信長の添え状を付けること)」という条項は、将軍の重要な権限である外交権を事実上奪うに等しい、極めて厳しい内容でした 25

そして、両者の対立が決定的な段階に入った元亀三年(1572年)九月、信長は義昭に最後通牒とも言える文書を送りつけます。それが『異見十七ヶ条』です 27 。この文書で信長は、義昭の将軍としての資質や行動を痛烈に批判しました。その内容は、信長の許可なく御内書を発給しているといった政治的な問題に留まらず、「将軍の器量がない」「献上金を貯め込んでいる」「女中のえこひいきがひどい」といった、人格攻撃に近い項目まで含まれていました 24 。さらに信長は、この文書を義昭本人に渡すだけでなく、世間に広く流布させることで、義昭の権威を徹底的に失墜させようと図りました 24 。これは、短冊による風刺などとは比較にならない、直接的で破壊的な政治攻撃でした。

もちろん、義昭もただ黙って従っていたわけではありません。彼は信長の監視の目をかいくぐり、武田信玄や毛利輝元、上杉謙信といった各地の実力者たちに密かに御内書を送り続け、信長包囲網の形成を画策することで、必死の抵抗を試みたのです 2

第三章:歴史的記憶としての逸話

ここで、序論で提示した「短冊の逸話」に再び立ち返ってみましょう。この逸話は、永禄十二年から天正元年にかけて実際に起こった、数年間にわたる権力闘争の真実を、驚くほど巧みに象徴していることがわかります。両者の対立が「文書」を介して行われたこと、義昭が信長に対して屈辱と反感を抱いたこと、そして義昭が自らの権威を示そうとしたこと。これらの歴史的要素が、「将軍宣下の日」という一つの劇的な場面に凝縮され、象徴的に表現されたのが、この逸話の本質なのではないでしょうか。

史実では、義昭は信長から一方的かつ公然と、法的な文書によってその権威を否定されました。しかし、逸話の中では、義昭は機知と教養に富んだ短冊によって、信長の無礼を鋭く突き、精神的な勝利を収めます。これは、歴史の敗者となった義昭や、彼に与した旧幕府勢力の側に立ち、彼らの失われた矜持を物語の中で回復させるための「カウンター・ナラティブ(対抗言説)」として機能した可能性が考えられます。人々は、無力なまま追放された将軍ではなく、文化の力で一矢報いた気高い将軍の姿を記憶に留めたかったのかもしれません。

以下の表は、逸話が描く世界と、史実における両者の関係性の変遷を対比したものです。逸話がいかにして数年間の複雑な歴史的プロセスを「一日」の出来事に圧縮しているかが、一目で理解できるでしょう。

表1:足利義昭と織田信長の関係性の変遷 ― 逸話と史実の対比

年月

逸話(風聞)上の出来事

史実上の主要な出来事

両者の関係性

永禄11年10月

将軍宣下の儀式で、信長の無礼を義昭が短冊でなじる。

義昭、将軍宣下を受ける。信長を「父」と呼ぶ感状を与える。

蜜月期: 協力者、庇護者と被庇護者

永禄12年1月

-

信長、『殿中御掟』を提示。義昭の権限を制限し始める。

管理・被管理: 亀裂の始まり

元亀3年9月

-

信長、『異見十七ヶ条』を提示。義昭の失政を公然と糾弾。

公然たる敵対: 関係破綻の決定打

天正元年2月

-

義昭、反信長の兵を挙げる。

武力衝突: 完全な敵対関係

天正元年7月

-

義昭、槇島城で降伏。京より追放される(室町幕府の事実上の滅亡)。

追放: 関係の終焉

この表が示すように、短冊の逸話は、歴史の複雑な真実を、単純で記憶に残りやすい一つの物語に変換する、物語ならではの強力な機能を持っています。人々は、複雑な政治過程そのものよりも、その「意味」を凝縮した物語を記憶し、語り継ぐ傾向があるのです。


結論:逸話の向こう側に見えるもの

本報告書における徹底的な調査と分析の結果、「足利義昭~信長無礼なじる短冊風聞~」という逸話が、歴史的事実として確認することは極めて困難であり、その可能性は限りなく低いと結論付けられます。将軍宣下の儀が行われた永禄十一年十月十八日、両者の関係は対立どころか、義昭が信長を「父」と呼ぶほどの蜜月期にありました。逸話の根幹を成す状況設定そのものが、史実とは正反対なのです。

しかし、この逸話を単なる「偽史」や「作り話」として切り捨ててしまうのは、歴史の多層的な理解を放棄することに他なりません。この逸話は、史実ではないからこそ、別の次元での重要な歴史的価値を持っています。それは、歴史がどのように人々の間で記憶され、解釈され、物語として再生産されていくのかを示す、格好の事例だからです。

この「短冊風聞」は、一つの「歴史的寓話」として、少なくとも三つの重要な役割を果たしてきました。

第一に、 時代の本質を象徴する役割 です。この物語は、旧来の血筋と伝統的権威を代表する足利義昭と、実力でのし上がり旧弊を破壊する新たな権力を代表する織田信長との衝突という、戦国時代末期の最も本質的な対立構造を見事に描き出しています。

第二に、 歴史を圧縮し伝達する役割 です。『殿中御掟』から『異見十七ヶ条』、そして信長包囲網の画策に至るまで、数年間にわたって繰り広げられた複雑な政治的対立を、「将軍宣下の日の短冊」という一つの鮮烈なイメージに凝縮することで、難解な歴史的プロセスを誰もが理解し、記憶できる物語へと変換しています。

第三に、 敗者のための記憶を形成する役割 です。史実において信長の圧倒的な力の前に敗れ去った義昭に対し、この逸話は「筆の力」で一矢報いるという精神的勝利を与え、その矜持を慰撫します。これは、歴史の公式記録からはこぼれ落ちる、敗者の側に立った「もう一つの記憶」を形成する機能を持っています。

我々はこの逸話を通じて、単に出来事の真偽を問うだけでなく、その向こう側にある人々の思いや、歴史を物語として語り継いでいこうとする人間の営みにまで、思索を深めることができます。短冊に記されたとされる一首の歌は、歴史の記録には残らなかったかもしれません。しかしそれは、二百年以上にわたって続いた室町幕府の終焉を悼み、時代の移ろいを嘆いた人々の心の中に確かに刻まれた、一つの挽歌そのものであったのかもしれないのです。

引用文献

  1. 歴史・人物伝~信長飛躍編⑩~⑮「足利義昭を奉じて上洛へ」 https://rekishi-jinbutu.hatenablog.com/entry/2021/03/30/084659
  2. 足利義昭ってどんな人?織田信長が殺せなかった室町幕府のラスボスって本当? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/90307/
  3. 義昭の越前逗留と上洛 - 『福井県史』通史編2 中世 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-4-01-04-04-01.htm
  4. 山科言継(やましな ときつぐ) 拙者の履歴書 Vol.332~朝廷と戦国の狭間に生きて - note https://note.com/digitaljokers/n/n0f5b77fc1519
  5. 足利義昭 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
  6. 将軍足利義昭と織田信長の不可思議な関係。信長はなぜ管領にも副将軍にもならなかったのか?【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1010121
  7. 【信長入京、旬日にして畿内を平定】 - ADEAC https://adeac.jp/takarazuka-city/text-list/d100020/ht200750
  8. 江戸城の式典と武家装束 - 大江戸歴史散歩を楽しむ会 https://wako226.exblog.jp/241053040/
  9. 【(一)衣服】 - ADEAC https://adeac.jp/hirosaki-lib/text-list/d100030/ht030010
  10. 「白直垂」の装いからみる武家の意識 https://teapot.lib.ocha.ac.jp/record/33918/files/099-141_yamagishi.pdf
  11. 江戸城/大広間/控之間/松之廊下 - 大江戸歴史散歩を楽しむ会 https://wako226.exblog.jp/16483689/
  12. 信長公記・1巻その3 「足利義昭の感状」 - 歴史ハック https://rekishi-hack.com/shincho_1_3/
  13. なぜ織田信長は足利義昭を推戴して上洛し、室町幕府を再興したのか? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2885
  14. 『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』(KADOKAWA/角川学芸出版) - 著者:小川 剛生 - 五味 文彦による書評 - All Reviews https://allreviews.jp/review/5300
  15. 角川選書 武士はなぜ歌を詠むか―鎌倉将軍から戦国大名まで - 紀伊國屋書店 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784047035898
  16. 「武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで」小川剛生 [角川選書] - KADOKAWA https://www.kadokawa.co.jp/product/321601000715/
  17. 通好みの戦国武将の和歌10選 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=qu7_9BBSBEY
  18. 山田康弘『足利義輝・義昭 天下諸侍、御主に候』(ミネルヴァ書房)の感想 https://monsterspace.hateblo.jp/entry/ashikagayoshiteruyoshiaki-m
  19. 『信長公記』にみる信長像③ 元亀争乱編|Sakura - note https://note.com/sakura_c_blossom/n/n764e95bf2d43
  20. 武将感状記/近代正説碎玉話 - 国書データベース https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300053434
  21. 足利季世之記 - 国書データベース - 国文学研究資料館 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100223336
  22. 足利季世記(あしかがきせいき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AD%A3%E4%B8%96%E8%A8%98-1142575
  23. 足利季世記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AD%A3%E4%B8%96%E8%A8%98
  24. 良好な関係だった織田信長と15代将軍義昭はどうして不仲になったのか? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/815
  25. 殿中御掟- Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%AE%BF%E4%B8%AD%E5%BE%A1%E6%8E%9F
  26. 利用されてもいいじゃない! 織田信長も殺さなかった足利義昭の「生き残り術」 | コラム 京都「人生がラク」になるイイ話 | PR会社 - TMオフィス https://www.tm-office.co.jp/column/20161114.html
  27. 織田信長が足利義昭へ送った『十七条の意見書』をわかりやすく解説! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=BvLIHFrU9Gc
  28. 足利義昭は何をした人?「信長包囲網で対抗したが室町幕府さいごの将軍になった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshiaki-ashikaga
  29. 足利義昭は「織田信長に屈した軟弱な将軍」ではなく「信長・秀吉を手玉に取った最後の足利将軍」【イメチェン!シン・戦国武将像】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/36660